第五話
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やわらかい雨が降っていた。三、四日ぶりの雨で、表のシュロの葉を叩く雨音が耳にやさしい。ガラス窓をつたう水滴を見ながら翔子は音楽に耳を傾けていた。薄い雲の合間から射す薄い陽光が嬉しくて明かりを消した薄暗い部屋の中、彼女は窓辺に座って大きなクッションにもたれている。丈のたっぷりしたやわらかいスカートから白い素足がのぞき、ウッドカーペットを敷いた床の上で感傷を誘うようだ。青紫に光る素材のスカートにあわせて身体を包むのは大きな金色の胸飾りの付いたブラウスと、刺繍の入った黒に近いブルーのハーフジャケットだった。およそ家の中でじっとしているときの様相ではない。しかし出かける予定があるわけでもなかった。
細い腕を膝に置き、面を窓に沿って外へ向けた彼女には初々しい若木の香りがあった。しかし、それが弾けそうに見えないのは何故だったろうか。切り揃えられたショートカットは彼女の真っ直ぐな細い髪の艶やかさを一層引き立たせるのに格好だったし、透明感溢れる肌も滑るように申し分なかった筈だ。彼女の視線は窓の向こうの一点にじっと向けられていたが、何を見ているわけでもなかった。翔子は聴こえて来る音楽を一音も漏らさずに受け止めようと神経の全てを傾けていた。彼女はそれがまるで自己を維持するのに絶対必要なものだと感じているまでに真摯だった。それは小さなステレオの奏でる音の数々が彼女の中にある異形のものをはっきりとかたち付ける力になり得たからだとでもいうのかもしれない。翔子は泣いていた。気持ちのいい涙でないことは傍目にも明らかだった。彼女の表情が言わずもがなそれをものがたっている。彼女を苦しめているのは悲しみだった
だろうか。それとも恐怖だっただろうか。ただ言えることは、それが今に始まったことではないに違いないということだ。十七、八の少女にしては彼女が家の内外で使い分けている顔にはあまりに差がありすぎた。雨はいつか上がる。雲は晴れ、いずれは陽が差す。そんなことすら信じられないほど、彼女の抱えた翳りは奥深かった。そうして翔子を苦しめたかもしれない強い感受性が助けを求めたのが音楽だったのだろう。
小一時間もそうしていただろうか。十分を感じた翔子はそうっと手を伸ばした。衣擦れの音がやけにうるさく響いて、落ち着いた心をいたずらにかき乱してしまうかのように感じられたからだ。小さな手はスザンヌ・ヴェガをフェイドアウトして、いつも一枚のディスクが入れっ放しになっているCDトレーに切り替えるリモコンのボタンを押し込む。この一曲で立ち直れる。翔子はそう決めていた。
ギターの歪みを下としたフィンガーピッキングで始まるメジャーキイのイントロ。問いかけて来るのはマイク・トランプのハスキーなヴォーカルだ。ホワイトライオンの名曲、リトルファイターだった。
翔子は白いハンカチを押し当てて涙を拭う。奇麗な服も飾りも音楽にはかなわない。気持ちに同調した音楽を選んでそれからマイクのヴォーカルに励まされれば、いつだって歩いて行ける。そう思った。
マイクが力強く歌いかける。絡んでいくのはヴィト・ブラッタのスタインバーガーだった。
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同じ空を多騎郁弥は小さなガレージの奥から見上げていた。雨は当分止みそうになかった。夏休みを目の前にした日曜だったがそれでも恨めしい天気に違いはなかった。どこかへ引っ込んでしまったかのような昨日までの焼け付く暑さが夢だったかのようだ。風はなく、雨粒はただきりなく落ちてきた。郁弥は頭から突っ込んである車の横を通って外まで出て行き、もう一度曇り空に視線を投げた。激しい降りではないが今日は朝から止み間がない。傍らでガレージからはみ出した親父のマークXのテールが雨だれに叩かれている。郁弥はその白いボディに軽く触れて踵を返した。
彼が持って帰ったバイクは奥にあった。VΓのように車の脇に置けなかったのでそうせざるをえなかったのだ。だからいずれにしろマークXにどいてもらわなければ出すことはできなかった。出せたところで問題の多い車だったが。
郁弥は津々木には見せたいと思って電話したのだったが、生憎彼は留守にしていた。郁弥はがっかりしていたが、いずれ見せる機会もあるだろう。郁弥はバイクの大きなカバーを外してガレージの隅に丸めて置いた。車庫の中でカバーをかける必要はなかったが、父にこのバイクのことを説明するのが面倒くさくてなんとなく隠しておきたかったのだ。跨がってみる。拘りもあったし妙な気分でもあったが、彼は確かに嬉しかったのだ。寝つけない夜の明けた今日は朝からこんなことばかりしている。
世界に一台しかないバイクを所有している快感といってもよかった。それは大仰で厳しくはあったが、美しいオートバイだった。暗い車庫の奥で分厚い筋肉に盛り上がった獰猛な獣の背のようなタンクが艶めかしい曲線を描き終わるその先に連なって、車のボンネットを思わせる巨大なカウリングのノーズが広がり、またハンドル位置からかなりの距離を置いて歪みの殆どないスクリーンがあった。そのスペースの割りに極端に簡素に見えるハンドルまわりはごく当たり前の構成だったが、複雑に隆起して操舵系を取り囲みマシンを完全に密閉するボディ一体のカウルが異様に力強く感じられる。立ちの強いサイドスタンドをかけたままでステップに足を乗せると大きさに反してポジションは手頃だった。自然に手を伸ばしたところにグリップがあるという感じだ。前傾もそんなにきつくはない。シャーシを完全に覆って隙間なく車全体を包み込むマッシブなフェアリングは足もとまでも網羅している。そしてライダーの背後で再びボディ面から盛り上がり、数カ所に小さなインテークを持って跳ね上がる大きなテールラインを形作っていくのだ。郁弥は自分がバイクの一部に組み込まれるような錯覚を覚える。まるで胴のくびれた小さな鯨に跨がっているようなボリュームを感じているその郁弥と、そこから更に遥か後方に位置している後輪との間に動力ユニットがあるらしい。あるらしいというのは外からまるで見えないからだ。長いテールカウルの後端に設けられたパンチングメタルの内側には、三本の太いサイレンサーが覗けた。エンジンの発熱から護るためか、スイングアームには大きすぎるほどのタイヤガードが据えられ、気違いのように太い後輪の殆どを覆い隠している。隆起したカウルにはいくつもの継ぎ目や窓の跡があったが、ネジ類の一本はおろかその形跡もなく、その多くが丁寧に溶接されたそれらは開くものではなかった。製作段階で必要とされた作業口か何かなのだろう。カウルがそうそう取り外せるようにはできていないことを見ればそう考えるのが妥当だった。バイクのボディをつくる造形物は全て厚手の鋼板をプレスしたものだったのだ。重い筈だった。エンジンパワーと重量比が運動性の殆どを物語るオートバイにとって、外装の軽量化は当然であり、量販車のカウルはプラスチック、特に高価な車やレーシングマシンのそれはガラス繊維やカーボン繊維で組成するFRPだ。何故こんなことをする必要があったのか理解に苦しむところだが、高峰の拘りに過ぎないと思うのが、正しいし一つしかない結論だった。ハンドルグリップを握ると巨大なタンクを抱え込む姿勢になるが、そのタンクはダミーだった。ダミータンク手前に蓋があり、これを開けるとボディ奥に仕舞い込まれた燃料槽の給油口が見えた。給油口は二重蓋で、燃料コックがその上蓋の奥に配されていたのも異様な構成だった。はっきりって便利とは程遠いつくりだ。
郁弥はマシンを降りて屈み込んだ。フロントのサスペンション機構はスイングアーム式になっていた。操舵機構をフロントホイールのハブに置くハブステアだ。マシンの挙動によりアライメントが変わってしまうという従来のテレスコピック方式の致命的とも言える欠点を解消し超越する目的で生まれたのがこのハブ・ステアなのだが、テレスコピック・フォークの進化もありいまだその優位性を活かしきれておらず、一部の高級車に採用されているに過ぎない。勿論郁弥にとって初めての体験だった。基本的にはどうもビモータのテージを模したものらしいが、滅茶苦茶にゴツイつくりだ。大きく異なるのは何とトレール量と軸間距離が可変になっている点だ。それも初期設定という形で変更するものではない。走行状態に応じて常時変化するのだ。全長が五メートルにも及ぼうかというこの二輪車がまともに走れたのはこの機構があってこそというものだろう。郁弥が感じた違和感の正体だ。
それがフロントのタイヤガードを兼ねるフェンダーの内側で、郁弥がやっと発見したものだった。リヤホイールと違って舵角を付けねばならないフロントのフェンダーは前後のツーピースになっていて、ダクトの設けられた車体側がスイングアームに乗っている。これは前側のフェンダーとの関係を常に一定に保つために軸間距離の変化に応じて前後にスライドするのだ。つまりタイヤだけではなくこうしたハブ回りを保護する意味合いが強いらしい。アームの中へ入って行くケーブルはフロントの設定をコントロールするセンサーの類かもしれない。トレールや軸距を変更するのに必要な筈の動力源が本体側にあるのならばだ。それらがこの極太のスイングアームの中にあるのだとすれば、これらのケーブルは逆に本体からの情報を伝えるためのものなのだろう。到底郁弥の理解できる範疇にはない。彼に分かるのはただ乗りやすいかどうかということだけだった。そして彼にとってこの車は乗りやすくはなかった。
当然だと郁弥は思っていた。いかに高峰が天才的なビルダーだったとしても、これだけ未知の要素を盛り込んだ塊が今の量販車ほどの高い完成度を持っているわけがない。しかし、このバイクは面白かった。それは何よりも大事なことだと彼は思う。誰がこんな車で蕎屋の出前をするだろうか。そういうことだ。総勢五〇〇キロを軽く越すに違いないバイクはとても押して歩けたものではないほど重かったが、エンジンをかけて走り出してさえしまえば、高峰のTZがそうだったようになんとか重量級のナナハン並の感覚で操ることができた。どんなタネがあるのか知れないが高峰はマシンの重量を消してしまう天才に違いなかった。それは絶妙なバランスの取り方かもしれなかったし、あるいは郁弥がTZで感じたように革命的なデバイスによるものかもしれなかった。兎に角、走る、曲がる、止まる、どれをとっても重量車であることを意識に入れてさえおけば、それなりにコツがいるという以外、決して不得手な車だとは言えなかったのだ。そしてそれをコントロールする醍醐味が、一種複雑な感覚で、あった。複雑だというのは先の操舵系のシステムからも推測されるように、バイク自身が状況に応じてそうあろうと、言葉が適切でないかもしれないが、努力しようとするからだ。ライダーが曲がろうと意識すればバイクも曲がろうと働きかける、止まろうと思えばバイクもそれに適した姿勢をつくり出そうとする。その感覚の交換がたまらなく郁弥には面白く感じられたのだった。
彼は昨日の夜のライディングを思い出す。ハブ・ステアのためか肩すかしを食うほど不安定要素の少ない挙動。前後長を意識する感覚を要求するドッシリとした乗り味は、むしろ四輪に似たものだったかもしれない。勿論あの高峰のマシンのことだ、それなりに二輪車らしくキビキビとした面もあったのだろうが、日野からここへ帰って来るまでの道のりでは、時折エンジンの回転を十分に保てた僅かな距離でその片鱗を垣間見ることができたにすぎなかった。その車幅のために、路肩をすり抜けて走行することなどできなかったからだ。
郁弥はひやりとするカウルの外板に触れた。光の加減で赤から青紫に輝く深い黒の塗膜が、濡れるような光沢をもってボディの曲面を表現している。これだけのものをプレス加工するのに高峰は一体いくらかけたのだろうか。一つの金型をつくるのに何千万もかかることなど知りもしない郁弥だった。フロントノーズの先に設けられた、光の散乱を抑えレンズを護るブラインド状のルーバーの奥にライトが三つ組み合わさって並んでいた。ナトリウムランプが二つにハロゲンが一つだ。その間にもいくつかレンズのようなものが納まっている。しっかりした枠に入っているウインドシールドは二重になっていた。取り付けが上下に僅かにずらされていて走行風が間を流れるようになっている。曇り止めの効果を期待できると何かで読んだことがある。
ハンドル幅よりも一まわりも大きいカウルは、クリアランスを考えると殆どギリギリまでホイールに近付けられた吸気ダクトを抱えてボディへ流れて行く。このフロント部に合わせてデザインされているのだから、大きくなる筈だ。見るほどに圧倒される質量だった。美しく虹色に縁取られた漆黒の巨体に、ショッキングピンクとダフネブルーのストライプが控えめながら鮮やかに映えた。
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ボーダーシャツに濃紺のスリムジーンズ。上に蛍光色のフードの付いたウインドブレーカーをはおって翔子は外へ出た。手を回してポケットの後ろに入れたヘッドホンステレオを落ちないように押し込むと、水溜まりを避けながら駅の方へ歩いていく。広げた傘のオレンジに雨粒が跳ねた。白いスニーカーはまだおろしたてだったので汚したくなかったが、もう一足のスニーカーは昨日洗ったばかりでこの天気ではまだ乾いていよう筈もなかった。かといっていつも学校へ履いていく革靴は合わないと判断した翔子だった。跳ねをあげないよう注意深く歩く様子は小さな子供が遊びながら出かける様にそっくりだ。すらりと伸びた足がそんな仕草まで上手に演出するから不思議だった。実際彼女はなんとか気分を楽しくしようと努力していたのかもしれない。彼女にはまだジーンズのポケットにいるホワイトライオンの助けが必要だったのだ。
黒く濡れた坂道を下りると駅前の商店街だ。久々の雨に午後の買い物客の出足もにぶったようで、休日だというのにどの店にも人影が少ない。広場へ出る一つ手前の小道を入ると、翔子は「Ellies」の看板が下がった喫茶店に入った。木枠の窓の大きな、ピアノ曲の流れる落ち着いた店だった。大きな観葉植物の鉢の向こうに、彼女は自分の相手を見つけた。
短く刈り込んだ頭をまわると、知的に光る目が銀縁の奥から翔子を認めた。男は立ち上がって彼女を向かいの席に迎えた。翔子は小さく会釈してすとんと腰を下ろしてから、身体に当たったヘッドホンステレオの位置を少しずらした。ジーンズでも穴が開いたり弛んだりするのはごめんだった。小さなテーブルをはさんだ二人は、傍目にちょっと奇妙に映ったかもしれない。男は父親というには若過ぎ、ボーイフレンドというには空気が違いすぎるような印象を与えた。それに二人の顔には笑顔らしいそれが殆ど見受けられなかった。三十代も後半にさしかかろうかという様相の男はくつろいだ服装をしていたが、それでもグレーのブレザーを引っ掛けていた。煙草を揉み消したのは話をするためというよりも目の前の少女に対する配慮のようだった。
男は傍らに置いてあった紙袋を手に取った。紐で封のできる大判の茶封筒だった。封を開こうとしている節くれだったごつい指を翔子は見つめる。その指は今彼女に非常に必要なものだった。彼は封筒から手書きのままの書類を取り出す。男は無口だった。少し進展があった、それだけ言って書類を翔子の方へ向けて差し出す。受け取った翔子は素早く、しかし注意深く目を通した。六枚あった。
「新しい事実があったわけじゃないのね」
「そんなところ。社内で行われていることは洩れにくいんだよ」
「お願いしますね。でも何でもっと公にできないんですか 」
「プロジェクトの規模が見当もつかないからだよ。そもそも目的が分からない。目的がね」
男はウエイトレスが来たので話を中断した。彼女がレモンソーダのグラスを翔子の前に置いて立ち去ったのを目で追って確認すると、彼はもう一度周りを見回した。
「捜査の障害になっているのはそれなんだ。証拠と言ったって揃えられるのはせいぜい状況証拠に過ぎない。一押しができる力がないんだよ」
「でも現物が出て来たらそれでけりはつくじゃないですか」
「そうもいかないね。それがそうだと決めつけることができるかどうか疑問だよ」
「じゃあどうすれば 」
鼻であしらわれたようで神経を逆撫でされるのを覚え、少し声を荒げた翔子だったが、男は動じなかった。人差し指を立てて口の前に持っていき、注意を促したにすぎない。
「動くのを待つことさ。マークする相手は分かっている。できれば動くまでにその力の大きさを知っておきたい、そんなところだね」
「楽天的すぎません? 」
「君にはそう聞こえるかもしれないね、でもできる限りの努力はしてる。個人的にもね」
翔子は目を伏せ小さく頭を下げた。
「すみません」
「いや、偶然とはいえ、僕も助かってるんだ。目的は一緒なんだから上手くやっつけてしまいたいね。ああ、それからこの間電話をくれたろう?一週間前」
「ええ、」
「気を付けなくちゃ駄目だ。電話はよした方がいい、急でなければ」
「でも公衆電話からでしたよ」と不満そうな彼女に男は再度云った。
「マークされているのはこっちも同じかもしれないんだ。注意はしているけど万全なんてことはありえない。だからこそこうやって出向いて来てるんだよ。急いで話したければ会いたいとだけ云うようにして。僕がすぐに行くから」
翔子はため息を吐きながら了解というふうにうなづいた。
勧められて彼女はソーダに口をつける。氷が少し溶けかかっていた。
「で、そっちは変わったことない 」
「特にありません」
「そう、とりあえず人数の割ける限り僕たちの方も手配するから、よろしく頼むよ。もうすぐ夏休みだ。そうしたら受験勉強に専念できるから。勘弁してくれな」
いいようなことを言うな、と翔子は内心ちょっと逆らってみたくなる。今年に入ってから成績はがた落ちで勉強に専念できるかなど自信の持てるところではなかった。いっそのこと早くその「やばい何か」に始まってほしいとさえ思った。自分だけがこうして知っていて思い悩んでいるなど不公平に感じられてならなかった。
男は席を立った。立ち上がった彼は意外に体格が良かった。勘定書きを取ると翔子に小さく手を振って出て行った。表はまだ雨が降っている。これから家族サービスかなあ、
翔子はぼんやりその様子を思い浮かべていた。