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第四話





医師は激昂して郁弥の頬に平手を見舞った。一時間以上もの長丁場をレーシングマシンで全開走行するなど、無茶もいいところだった。順調に回復が進み、これから大事にしていかねばならない時期に、彼の右足はまたも大きなダメージを被ってしまったのだ。郁弥はオートバイを甘く見ていたのかもしれなかった。

島田という女医は言った。

「プレートがずれて近くの血管を引き千切ってしまったわ。まだ骨が弱いんだからあれほど注意しなさいって云ったのに。何を気をつけてたの、あなたは。オートバイには転倒がつきものでしょう?ましてやレースだなんて。開いた口が塞がらないわ」

郁弥には返す言葉がなかった。ベッドにひっくり返ったまま脂汗を流して医師の顔を見るのが精一杯だった。身体は震えが止まらず、激しい発熱と悪寒でぐらぐらする頭は目茶苦茶になってしまった身体への恐怖と、自分を見てくれていた人に対して自分が何をしたのか、後悔の呼ぶ悲しみに沈んでいる。それを感じるのが恐ろしくて郁弥は呆然としていた。

「先生…、今度こそ、ちゃんとするよ、俺。…治るかな、俺、…俺の足」

「さあね、私は精一杯努力したわ。後は何とも言えないわね、自分で努力することね、今度こそ」

口調に気弱を感じ取った医師は、わざと意地悪い言い方をしたような風だった。郁弥は素直に滅入ってしまいそうになる。生来気の小さいところのある郁弥だった。

女医が出て行った後の病室の天井を郁弥は見上げた。自分が壊れてしまうなんて骨身にしみて実感することは、本当に痛手を被ってみなければありえないことだ。郁弥は春に体験したばかりだった。治りきっていない同じ箇所を再び痛めてしまうことがどんなに危険なことか、郁弥にはずっしりと重く感じられた。再三のクラッシュや故障にめげず限界への飽くなき挑戦を続けるレーシングライダー達の世界など今の郁弥には気違い沙汰としか思えなかった。かの名ライダー、バリー・シーンなどは一体何度死にかけたことか。あげくに彼は世界タイトルを手中にしたのだ。まさに英雄だ!郁弥には、そんな勇気はなかった。

 郁弥は病室で恐ろしさに震えながらじっくりと考えた。バイクで死ぬということ。VΓのときも、ビモータを潰したときも、考えたこともないことだった。成瀬が目の前で死んだときでさえもだ。郁弥は死が恐ろしいと思う。普段から他人よりずっとそのことを意識していると思っていた。だがそれはいろいろな美辞麗句で飾れる死の虚像に過ぎなかったことを彼は実感している。そして死がどこにでも転がっている事実だと考えられるようになったのは、長引いた発熱でうなされたいくつもの夜がようやっと過ぎ去った後だった。


十日ぶりに学校へ戻った郁弥にかけられる冗談に半ばオブラートされた心遣いは、大方にして彼には気持ちのいいものだった。それは日常としてこれまでと同じ時間が流れ始める安心という快感だった。サーキットで失ったものをあるいは取り返せるかもしれない、そう思った彼の前に、待ちかねていたようにやって来たのは有坂だった。


「具合はどうなんだ、多騎」

「良かないね。来ると思ってたぜ、有坂。それにしてもずいぶんと早いじゃんか」

短い休み時間だった。有坂は津々木と話していた郁弥のところへやって来たのだ。津々木は一歩身を引いて黙っていた。彼には郁弥の決心が何となくではあったが見えていたのだった。

「大事にしてろよ、多騎。高峰さんが絶賛してたぜ」

郁弥は切り出そうと有坂が黙るのを待った。

「その話なんだけどさ、・・・有坂、俺はもう止めるよ。バイクが好きなのは変わらないけど、もうレースはしない。当分はバイクにも乗らない。TZの分はなんとかして弁償する。何年かかるか分かんないけど、ビモータの金もきっと払う。高峰さんにそう言っといてくれ」

「多騎、」有坂は絶句した。

「チャンスなんだぜ。おまえには才能があるって高峰さんも言ってる、あの人はおまえに提供してやろうって今環境を整えるのに奔走してるんだ」

「礼を言っといてくれよ。後で詫びに行くからって」

「おまえ何言ってんのか分かってんのか?」

「勿論」

落ち着き払った郁弥にはつけ込む隙がなかった。

「多騎・・・」

「俺はもう乗らない」

「・・・分かったよ、一度引っ繰り返ったくらいで弱気になっちまうようじゃ、これから何年やったってダメさ。それくらいの度胸じゃレーサーは勤まらんね」

「そうだな」郁弥は動じなかった。

「そうやって一生人のケツについて走るんだな。どうせリッキにも叶いっこないんだ」

焚き付けようとしている有坂の意図が良く分かる郁弥には、それは違うと反論する気もなかった。郁弥は大きくため息を吐いてこう言った。

「なんにせよ、俺はもうレースはしない。俺は一生をバイクに捧げる気はないんだ」

有坂は口を閉ざした。何と言っていいのか分からない。津々木もびっくりしたように黙っていた。彼が口をはさむ場面ではなかったが。

やがて有坂はポツリと言った。

「じゃあ、高峰さんのところには行くんだな」

「一、二週間先のことになると思うけど」

「分かった。そう伝えとく」

首を振りながら帰ろうとする彼に郁弥はもう一言声をかけた。

「有坂、サンキュー。結構、面白かった」

少し振り返った有坂は力なく唸って教室を出て行った。結局彼がどうしてこれほどに郁弥に拘ったのかは分からずじまいだった。高峰に会いに行かねばならないことを除けば、郁弥の心はすっきりと澄みわたっていた。

それにしても、と郁弥は考えた。VΓ以来自分の乗ったバイクは全て潰れてしまったことになる。その度に恐ろしい思いをし、成瀬が死ぬのまで見ておきながら、何故自分はバイクが好きだなんて言うんだろう。あんなに不安な気持ちで乗ったTZが、どうしてこんなに心に引っかかっているのか・・・。

 その答は成瀬が知っているような気がした。




「多騎君、」

少しハスキーでやわらかい声だった。声をかけてから彼女は一瞬しまったという表情をした。だが郁弥にはそれを認める余裕などなかったのだからどうでもいいことだ。

「桜沢、・・・さん」

意外に思いながらも嬉しくて、郁弥は戸惑いながら彼女の名を口に出した。キラキラ光る瞳が郁弥を映している。桜沢翔子だった。下校時間、昇降口のざわめきの中で彼女の周りだけ空気が止まって見えた。

「怪我はもういいの?」

郁弥の二度目の入院を伝え聞いていたのか、鞄を胸の前に抱えながら問いかける彼女に対して郁弥はいたずらにドキドキするのを禁じ得ない。郁弥はもうそれを癪だとさえ思わなかった。

「ありがとう。無理をしなければもう殆ど大丈夫なんだ。少しずつまたリハビリもしてるし」

「そう、よかったね」

郁弥は今日高峰のところへ行くつもりでいた。気は進まなかったが行かねばならなかった。彼女が何で声をかけてくれたのか知りようもなかったが、夏休みを目前に控えた土曜だというのに朝から優れなかった彼の気分を一転させるのに、それは十分すぎるできごとだった。

 翔子は白いスニーカーに履き替えると郁弥に小さく手を振り、友達と連れ立って出ていった。郁弥には彼女たちがふざけながら遠ざかっていくその姿が、眩しい日差しの中に溶けていくように見えた。


外に出ると光の洪水だった。その感覚は傍らのゆったりとしたウェイビーヘアの少女が振る話題に、意味もなく頬の熱い火照りを誘う。人のいい神崎安古は楽しげに翔子に絡んだ。

「翔子ぉ、もっと話しててもいいのにぃ」

彼女に照れかくしのように背中を叩かれて、翔子は笑いながら少しむせて見せる。

「何さ、そんなんじゃないよ」

「まあたまたぁ、それにしちゃ、ここんとこご熱心に見てるじゃないのさ。多騎くんていうんでしょ。あいつ」

「安古、ホントにちがうって。そりゃ悪くはないけどさ、ちょっと緊張感がありすぎる感じなんだもの。むずかしいよ、ああいうのは」

「おっ、翔子先生はそう見ますか。あたし悪くないと思うけどな」

そう言って安古はつんと尖った鼻を年頃の少女特有の愛らしさでピクピクさせた。

「じゃあ、チャレンジしてみたら?」

「あははは、でも近付きにくいっての否定しない」

「でしょ?」

二人は声を上げて笑った。

「でもあいつはきっと翔子のこと好きだよ。さっき見てて思っちゃった」

「まぁさかぁ・・・」

翔子は心なしか呆けたように歩をゆるめた。振り向くと昇降口の雑踏に混じって、郁弥が誰かと話しているのが見えた。


翔子が出て行った後、郁弥は誰かに背中をどやしつけられるまで、バッシュを持ったままそこに突っ立っていた。津々木だった。悪友は白い歯を見せて意味ありげに笑っていた。

「郁弥ぃ、そーかそーか。おまえあーいうのが好みだったのか」

「ちぇっ」

恥ずかしいところを見られてしまった。でも津々木で良かったと郁弥は思った。YB6の件以来、郁弥と津々木はかなりいい仲になっていたからだ。津々木ならば郁弥はかなり大胆なことも言えた。

「いーだろ、おまえの愛しの葉月ちゃんじゃないんだから」

「おっとぉ!」

後ろから郁弥の肩に身をあずけていた津々木は変な照れ笑いをして真っ赤になった。図星だったようで、郁弥は当然だという顔をしていた。

津々木は耳元で言った。

「余計なこと言うなよ、彼女によ」

「当たり前だろ」

「約束だ」

二人はステージでミュージシャンがするように上下して互いの手のひらを叩きあった。

 津々木は笑いながら郁弥の背を叩く。人生は楽しいぜ、津々木は妙に楽しい気持ちでそう思った。郁弥に紹介しろと言われたときから葉月を意識している自分に気づいていた。郁弥の気持ちも気になっていた。郁弥が間に入ってこなくたって思いどおりに行くとはけっして限らないのも事実だったが、生きる醍醐味はスポーツと恋と友情だと考えて津々木は一人で照れた。

津々木が下駄箱から引っ張り出したのは柔らかい牛革のブーツだった。

「郁弥、今日はどっか行くのか?」

「高峰さんとこへ寄るよ。ほら有坂が言ってたあの人」

「ふーん、謝りに行くわけ」

「そう」

「もったいないと思うぜ、俺もよ、実際」

「なにがさ」

「レースができるチャンスなんだろう?」

「そうかもしんないけど、もういいんだ。俺はレーサーには向いてないよ」

「バイクがすべてじゃない、か。お前が自分で決めたんならそれが正しいんだろうさ。どこまで行くんだ?」

津々木は足を止めた。バイクを置いているのは校舎の裏だったから、ここで郁弥とは別れなければならなかった。

「日野だよ」

「げーっ、なんか遠そう。歩いて行く気?」

「駅からバスがあるだろ」

「乗せてってやろうか?俺今日は空いてるんだ」

「いいよ。今日は一人で行きたいんだ。片を付けに行くんだからな」

「そうか。じゃな」

「バイ」

津々木はちょっと寂しそうだったが、友達のすることに水を差すような真似はしたくなかったのでそのまま踵を返した。郁弥がいまさら自分に遠慮などするわけのないことは分かっていたから迷うことなどなかった。


もし・・・・・・・・

このとき津々木がついて行っていたなら、郁弥の、そして津々木達也の人生は彼らの望むままにあたたかい日の光の下で花開くものになっていたかもしれない。だが神ならぬ身の彼らには本当に知る由もなかったのだ。


10


ポケット地図を片手にバス停に降り立った郁弥は、あまりに開けた風景に半ば途方に暮れた。本式になった暑さに額を汗が滑り落ちる。日差しをしのげるものがなかった。街道の両脇に遠く広がる畑の向こうに土手があり、その上を国道が走っている。蒼い空には雲一つなかった。

郁弥は滴る汗をワイシャツの袖で拭いながら、バス通りと交わる高架線を目安に歩き始めた。痛めた足をかばう歩き方をしてはいるが、彼も言ったとおり無茶さえしなければもう大丈夫といわれている足だった。少しぐらい歩いたってリハビリだと思えばいい。問題は体力の回復の方だったが、若者の回復は早い。郁弥はもう気にもしていなかった。

誰も見かけなかったので道を訊くわけにもいかず、一人とぼとぼと猛暑の中を歩き続けた郁弥は三〇分余りもかかってようやっとそれらしいシャッターの前に立った。

フラッシュライトを浴びているような表に比べてガレージの奥はまるで真っ暗だ。入っていった郁弥は開いたシャッターの脇に冷たい空気の吹き出し口があり、丁度デパートのそれのように内外の温度差を保つバリアーになっているのを知って驚いた。エアカーテンというやつだ。歩き続けてきた彼には少し眩暈を感じるほど中は涼しかった。郁弥は目を細める。ストリップ状態のバイクが二台並んだ陰から顔を出した男は高峰だった。

「よお!、多騎君。よく来たな、」

立ち上がった手にラチェットレンチが光っている。郁弥は彼の方から声をかけてくれたことに感謝しながらおずおずと挨拶した。

「まあコーヒーでも飲めよ、待ってろ」そう言って高峰は背にしていた仕切りの裏側へ入っていった。手近にあった三本足の小さな腰掛けに腰を下ろし抱えた鞄を足下に置いて、郁弥はあらためてガレージの中を見回した。

 オイルとガソリンの臭いがした。デザイナーの趣向らしく建材が剥き出しになった天井の四隅に掛けられたボーズのスピーカーから遠慮がちに流れているのはレッドツェッペリンだ。ジャッキの付いた作業台の上に乗っているストリップはTZではなかった。前傾した大きなインライン4を抱えている。高峰が手をかけていたもう一台はドゥカティらしい。コグドベルトが剥き出しになった厳ついエンジン周りに郁弥は憧れの目を向け、唾を呑み込んだ。首をめぐらすと右手の壁一面に掛けられた穴開きボードに、丁寧なメッキの深い光沢を放つ工具が整然と掛けられ、きら星のように輝いている。部屋の隅には大きなボンベが二本並んでいる。溶接機のボンベだ。そして壁際の別の作業台上にはオイルに濡れて光っている小型旋盤がある。

 オイルの臭いは主にこの旋盤と、脇の缶の中に見える切り粉から来るのに違いなかった。十六畳もあるような広いスペースだったが、床のあちこちに敷いたプラダンの上に所狭しと広げられたギアやらクランクやらのパーツの数々のために、郁弥は一足動かすのにも注意を払わなければならないほどだった。

 振り向いた視線を上へ向けると天井に吊られているのはボーズばかりではなかった。何のパーツなのか分からないが、複雑な形の塗装済プレス鋼板がいくつもぶら下がっているのだ。色とりどりのカラーリングで大きさもまちまちのそれらが、思い思いの曲面に沿って光を受け流しながら静かに傾いでいるのは異様な眺めだった。

ひんやりと動く空気に鼻をくすぐる匂いが混じったと気が付くと、高峰がコーヒー茶碗を二つ差し上げて戻って来るところだった。郁弥は立ち上がってそれを受け取り、高峰にならって右手の作業台の端に載せた。

「話は有坂に聞いたよ」

心地よい香りを放つ黒い液体に口をつけながら高峰は言った。しかし郁弥に向けられた目元は別に腹を立てているふうでもなかった。

「どうもすみませんでした。いろいろとご配慮頂いたのに」

「いいさ。君にその気がなくなったんならしょうがない。残念だけどね。有坂が見つけてきたにしちゃ君は大した爆弾だった」

「どうも…」別に褒められたような気もしなかったが郁弥は小さく会釈した。

「その…、金はなんとかして払いますから、はっきりした額を言って下さい。いますぐ、とは、いかないですけれども…」

高峰はふと口まで持っていった手を止めた。

「なんだ。君はそんなこと気にしてたのか」

意外そうな口ぶりだったが、それは郁弥にこそ意外な言葉だった。どう考えたってもう高峰にはこれっぱかしの益もないのだ。びっくりして見開いた郁弥の目を高峰はその反応が面白いとでも言うような目で見やった。

「いいよ、そんなこと気にしなくて」

「でも…」

「額が大きいって言うのかい。たかだか三〇〇万のバイクと型遅れのTZじゃないか。確かにそれ自体安くはないが、それは僕が道楽で使っている金だ。君とリッキのあの素晴らしいバトルが見られただけで僕は満足してるんだ」

郁弥は黙っていた。何も言えなかったのだ。高峰はさも可笑しそうに笑った。これこそが楽しみだとでも言うように。

「世の中にはさ、税金対策のためにドラ息子に法外な小遣いを使わせている奴等がゴマンといるんだ。くだらない話さ。だけど僕にはこんな素敵な楽しみがあるんだよ、多騎君。自分の楽しみのために使う金を惜しんでたんじゃ、それこそ楽しみにならないだろう?」

楽しみだって?郁弥には知りようもない世界だった。三〇〇万円もするバイクをみすみす潰してしまうことや、苦労して仕上げたレーシングウエポンを失ってしまったりすることが、単なる遊びという言葉で片づけられるのだなんて。

「ましてや、君のような若者を苦しめて楽しむような趣味は僕にはないんだよ。分かってくれるかい?」

「はあ…」

逆にお願いされてしまって郁弥は開いた口が塞がらなかったが、あまりに桁違いな価値観の相違というのは理解しようと努力してみても無駄だと気付いたので、素直に高峰に感謝することにした。本当はどんなことであっても他人の価値観など理解できよう筈もないのだが。むしろそれは哲学の問題だった。

考えてみれば彼にとってこれほどありがたい結末はなかった。コーヒーをもらいながら郁弥は急に軽くなった胸のつかえが桜沢翔子の呼んだ幸運のように思えてきた。今彼女がここにいたら、郁弥はその前にひざまづいたかもしれない。

カップを飲み干す間、高峰との会話に郁弥が緊張する必要は全くなかった。年齢の親子ほども違う郁弥を相手に話を途切らせない高峰を有り難いと思いながら、ようやっと手の中のコーヒーを空にした郁弥だったが、帰り口上を切り出すタイミングを得るのに一時間もかかったのにはちょっと閉口した。でもそれは長い帰り道を考えたときに郁弥が感じたことで、この年上の男と話をすること自体は苦痛ではないと彼は思っていた。高峰がどう感じているかは別にしても、半端でない借金をロハにしてくれたことに対して郁弥は本当に感謝していたのだ。礼を云って帰ろうとする郁弥を高峰は呼び止めた。

「ちょっと待っててくれ。君に渡したいものがあるんだ。もう会えないかもしれないからな、餞別だよ」

「え?」

奥へ小走りに入って行った高峰に郁弥は慌てた。もう縁はないんだ、いまさら何も貰うわけにはいかないよ、郁弥の心はそう言ったが、縁は切れはしない。高峰には良心の咎める恩があった。

突っ立っている郁弥に背後から声がかかった。振り向くと外から表へまわって来たらしい高峰が陽が傾いてなお眩しい炎天下で呼んでいる。郁弥は入って来たときと同じように足を下ろす場所に注意しながら空気のカーテンをくぐった。一転して目の眩むような暑さだった。先ほどより低くなった太陽に、横合いから来る強い日差しに目を閉じた郁弥は体力の衰えを実感し、情けなくて歯を食いしばる。それに比べてこの高峰の何とタフに見えることか。腰を少し屈めた高峰の額は郁弥のそれとほぼ同じ位置にあった。高峰は両手で何かを押して来ていた。彼が握っているのが大きな不透明のカバーに開いた穴から突き出たハンドルグリップだと気付いた郁弥は一瞬、またこの男がとんでもないことを言い出すのではないかと身を引きそうになった。そして実際男はその通りのことを言ったのだった。

「こいつは君のために造った車なんだよ、多騎君、貰っていってくれ」

「そんな…」

郁弥は手を上げて大きく断りのジェスチャーをした。とんでもなかった。

「冗談はなしにして下さいよ、高峰さん」

「冗談は嫌いじゃないが、これは冗談じゃないよ」

そうだろうなあ、やっぱり。彼との価値観の距離は受け入れられるレベルのものではないと郁弥は再度認識を新たにする。これは本気なんだろう。この大きな男がどう思っているのか知り得ない今、目の前の事実だけが問題なのだった。郁弥は両手を挙げたままだった。

「高峰さん、やっぱり頂けませんよ」

いまさら金のことは言い出せなかった。

「そうはいかんね、僕は我壗な男なんだ。やりたいことはきっとやる。そして僕はこいつを君にあげたいんだ。その気にならないんなら乗ってくれなくてもいいよ。ただ粗大ゴミに出すんなら僕の気付かないところでやってくれ。さあ、受け取れよ」

「そんな、」

「さあ、」

グリップを握る腕を突き出して来る高峰を郁弥はそう無下にできなかった。高峰はそれを見越して同じ言葉を繰り返した。

実際郁弥はバイクが欲しくないわけでは無論なかった。彼はバイクが好きだったし、この高峰が手に掛けたバイクに文句があろう筈もなかった。それはあのTZの世界を想起させるに十分だったからだ。喉から手が出るくらい欲しかったというのが本心に近いだろう。ただ無償で貰うわけにはいかないと郁弥の心がそう言っていた。納得ができなかったのだ。代償なくして得る利益などというものが。だが高峰の話に納得はもとから不可能なのだった。

高峰の顔を見つめながら郁弥には何を考えていいのか分からなかった。こんなとき、仲間内で直面した厄介なことを茶化して終わらせてしまう彼らのやり方に逃げ道を見出そうとしたのは、あるいは無理からぬことだったのかもしれない。高峰はその考えを愉快だといって笑った。

「ようし、来い!僕が勝ったらバイクは君のところへ行く。君が勝ったらあきらめよう」

「…はい」

高峰は持って来たバイクのメインスタンドを立て、テールカウルの上にタオルを敷き、そこに肘を付き腕を立てた。その彼に正対して郁弥はバイクの反対側で腰を低くした。

「一本勝負だ」

腕を手首のところでクロスして高峰のそれに親指を掛けた郁弥に高峰がカウントした。

三、二、一、!、・・・・・・・・・・・・・・

高峰は力が強かった。郁弥が当惑したぐらいだった。怪我で衰えたとはいえ、郁弥は腕力には自信があったのだ。しかし血管の浮き出る腕はなかなか動かない。痙攣したように震える二つの拳の両側で二人の顔はしだいに赤くなる。歯ぎしりの音が聞こえるようだ。偶に街道を通る車から見えた景色はさぞ不思議なものだったに違いない。シャッターを開いた小綺麗なガレージの前で親子のような二人が炎天下顔を真っ赤にして腕相撲に興じているのだ。しかし当の二人は真剣だった。互いに考えるところはあった筈だが、予想以上に強い相手に対してもはやその余裕は殆ど残されていなかった。玉のような汗が二人の額を滑り落ちた。耳鳴りがするようだ。少しずつ高峰の手の甲が地面に近くなっていたのが、振り絞った気迫に押し返された。またドローだ。腕が震え、もう感覚はない。エネルギーの全てを込めるだけだ。ふと思えばもう一時間も経ったような気がする。持久戦になる。本当は勝つつもりだったのか、あるいは負けるつもりだったのか、すっと郁弥の脳裏に浮かんだ迷いが隙になった。

「だっ!」

一瞬に全体重をかけた高峰のアタックだった。はっとした郁弥にはもう押し戻すことができなかった。

二人は歩道にへたり込んではあはあと喘いだ。五分も経ってからようやくのことで高峰は口を開いた。

「約束だ。持ってけよ 」

「はあ、・・・ありがとうございます」

郁弥には嬉しいんだか悔しいんだかよく分からなかった。ただ分かっていることは、高峰の言う通り自分がこのカバーの下にある何だか正体の分からないでかいバイクを持って帰ることが不自然でない気になっているということだった。歩道のアスファルトはいつまでも倒れているにはやたら熱かったので、郁弥は上体を起こしてシャツの衿口をバタバタやった。そうやっても熱い空気が入って来るだけでちっとも涼しくはならなかったが、汗をかいた身体の方は気持ち悪いほど冷たかったのでぞっとした。

 喘ぎながら郁弥がふと見上げたバイクは大きかった。それから彼はそれが尋常でない大きさなのに気付く。何で気がつかなかったんだろう。これじゃまるで…。改めて見るが確かに二輪車だった。そのカバーの下から覗いているタイヤに郁弥は腹の底から湧き上がる寒けを覚える。タイヤのフォルムは確かにバンクを前提とする二輪車のそれだったが、それにしても異常な太さだった。何なんだ、これは・・・。

「高峰さん、」

いつの間にか立ち上がっていた高峰は、真剣な目でいぶかしむように眺め回している郁弥を暫く前からにやにやしながら見ていたようだ。彼に質問を投げようとした郁弥の視線を満足そうに受け止めて高峰はカバーに手をかけた。

「見せてやろう、俺の傑作を」

ハンドルを布地の下にしまってから一旦屈み込み、前輪側からゆっくり剥ぐっていく高峰の手の動きを追う郁弥の目の前に、バイクは少しずつその身を現していく。郁弥は化け物でも見ているかのような気がした。

間違いはどこにもなかった。それは本当に化け物だったのだ。


郁弥の初めての、リベラライザーとの出会いだった。



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