第三話
6
天気は良かった。ロングのワンボックスカーの後席で郁弥はいまだ憂鬱から覚めやらない気分で砂利道に揺られていた。クーラーの入らない車の開けた窓から周り中で喧しく鳴く蝉の声が遠慮会釈なく飛び込んで来る。暑さが一層際立つ。乗っている四人にとっては迷惑この上なかった。運転席にいるのは四十がらみの大柄な男で、ラジオに合わせて楽しげに鼻歌を歌っている顔つきには汚れがなかった。ブルージーンに綿一〇〇%の白いシャツが似合うのは若づくりだったからかもしれない。短くカットした髪をワックスで固めている。助手席にいるのは彼の息子のような年齢の有坂良司だった。丸刈りに近く刈り込んだ頭が汗に光っている後ろに郁弥がいた。郁弥と並んでもう一人後席に座っている彼は四人の中で一風変わって見えた。郁弥より少し低いぐらいの丈でスリムに映ったがプロポーションの良い彼は、およそ日本人離れした美しい顔だちに、長く束ねた金髪を持っていた。高校生ぐらいの年齢に見えたが、どこか陰りを感じさせる雰囲気はもう少し上の年にも感じられた。それは彫りのきつい眼禍の奥の大きな目の中で深いブルーグレーを湛える瞳かもしれなかったし、挙動の少ない何気ない仕草の一つ一つにも表れていたかもしれなかったが、白人特有の白い肌をした少年は笑えばさぞ愛らしいだろうこと誰の目にも疑いようがなかった。それはまさに美貌と云って正しかっただろう。
郁弥の後ろには二台のオートバイが並んで積まれている。TZだった。ヤマハが多くのレーシングライダーを育ててきた市販レーサーだ。郁弥の心に期待がないと言ったら嘘になろう。だがその心の中の大きなわだかまりを無視できるほど彼は楽天家とはいえなかった。
事故処理班の手で運ばれた渋谷警察署の車体置き場で大きくため息を吐いた有坂と今ハンドルを握っている高峰氏を前にして、郁弥のとれる道はこれしかなかったのだ。保険がどうこうではなく、YB6なんてクルマはもう手に入らないといってよいのだ。郁弥には自分の軽率を呪い、謝罪するしかなかった。思いつめていた彼にとって有坂の提案は福音だったとさえ言えるかもしれない。結局有坂の言いなりになってしまうのは気にいらなかったが、それよりも高峰氏がそれで納得すると言う理由の方が不思議でならなかった。氏は確かに裕福な暮らしをしているようだったが、それでも三〇〇万円のビモータは安い買い物ではなかろう。大柄な身体の丈は津々木と同じ程もあり温厚そうに微笑む高峰氏の暮らしは、この暑い日に彼がわざわざクーラーのない車を選んだわけと同じ位、郁弥には到底理解できないものだった。
「もうすぐだよ、多騎君」
振り向いた高峰が言った。
「はあ、暑いっすね。こんな山ん中なんですか 」
郁弥の言う通り彼らは人里をかなり離れた感のある、車一台通るのがやっとのような狭い山道を走っていた。両脇に生い茂るススキのような草の葉がボディを擦っている。
「山ん中だから空いてんだよ。遠いけどね」
横合いから答えたのはチームの一人だというリッキだった。横須賀のベースに長いアメリカ人の息子で六つのとき以来日本に住んでいるという。発音に訛りはなかった。むしろ米語の方に訛りがあったかもしれない。生粋の金髪の知り合いなんて郁弥には初めてだった。
「そりゃ空いてんだろうけどさ」
これじゃまともな設備なんかあるわけないだろうな、郁弥はそう思う。高峰は山道を抜けた先に見えた二〇メートル四方ほどの広場に車を停めた。駐車場のようだが他に車はいない。強い日差しの中ドアを開けると、荒れた道に散々小突き上げられて痛む腰を持ち上げた四人の前に半分破れかけたグリーンのフェンスが続いていた。まるで浅間かモトクロスコースのような雰囲気だったが、金網の向こうに広がる路面は確かに舗装されていた。高峰は言った。
「ここなら講習会待ちなんかしなくたって走れるさ」
「そりゃ危ないんじゃないすか・・・、やっぱり」
「なにが危ないもんか。自分の身は自分で護るんだ」
そりゃそうだが・・・、見回しても誰もいない。人の気配がない。ボロボロのピットには青々とした草が侵入していた。
郁弥はオフィシャルも救護施設も整っていないに違いない田舎の山道を全開走行することを心配したのだったが、自分の立場に気後れしていたのかもしれない。そこそこに走れば満足してくれるんだろうから、まあ頑張れやと自分を言い聞かせながら借り物のレザーウェアを着込む。期待はずれだって文句言わないでくれよ、やる気のなさと不安が彼にそう思わせた。高峰をがっかりさせたら、やっぱり弁償させられるんだろうか。高峰の条件は「郁弥の全力走行を見せること」。有坂が何を言ったのかわからないが、高峰の目は期待に満ちているように見え、郁弥は微妙な心境でいる。今日は郁弥のために用意されたチャンスなのだった。暑苦しいツナギは革の匂いに混じって汗の臭いがした。
TZが下ろされた。フレーム・ワークなど今のGPレーサーのフォルムとあまり違わないところを見ると二年も前のモデルではないだろう。二台は同じ型のようだった。ともに真っ白のままで、カラーリングは施されていない。見分けるのに必要な筈のゼッケンすらついていなかった。一台はリッキのマシンだ。
「多騎、先に出ろよ。見ててやるから」
何を言ってんだこのアメリカ人は、郁弥はちょっとむっとしたがOKと言ってヘルメットを取った。フェンスに開いた入り口の手前でマシンを支える高峰と有坂が郁弥を呼んでいた。
あのときYB6が突然彼を裏切った理由は皆目分からなかった。このTZだってどうだか分からない。郁弥はVΓを思い出そうとしていたが、それはすぐにあの事故の記憶につながってしまい、結局不安は深まっていくばかりだった。有坂がここにいなかったらさっさと逃げて帰るんだがとさえ思う。そのうち今も頭の中にいる成瀬までが帰れと言い出しそうだった。
ピットに散らばる小石を踏みながらTZに近付いた郁弥に高峰はコースイン前の注意事項を告げる。郁弥はクローズドコース、つまり一般道とつながっていないコースが初めてだった。こんな状況でなかったら、そして隣に成瀬がいたら、どんなに楽しかったことだろうとも思う。
「注意してほしいのはシフトアップのタイミングだ。タコメーターをよく見て。普通のTZだと思うな。メーターにマークしてあるこの回転数の範囲内でシフトアップするようにしてくれ。最初はちょっとこれより低めでやってもいい。ただし越えると壊れるからね」
メーターには六速までのマーカーが描かれている。クラッチミートの回転域が指定で、しかも壊れるからというのは変じゃないか、シフトダウンじゃなくアップと言ったけど、と思いながら郁弥は訊いた。
郁弥がまたがると高峰がスターターでエンジンをかけた。
レーサーはアイドリングしない。郁弥はアクセルを捻ってピックアップを確かめる。
「そうだ。クラッチミートは最初は低めでもいい。十周ぐらいしたらタイムを取るから」
もちろん郁弥は普通のTZにだって乗ったことなどなかった。モヤモヤ考えている郁弥のマシンを高峰はコースへ押し出す。サーキットには誰もいなかったから余計な配慮は必要なかった。TZはあっけなく走り出した。
強い日差しを感じながらとりあえず一周目はコースを見ようと郁弥は思っていた。路面は外から見て想像したとおりかなり劣悪な状況だったので用心に越したことはなかった。小さなTZの上で腰を落ち着けようと試行錯誤しながらアクセルノブの動きとタコメーター、そしてエンジン音の感覚に探りを入れる。軽くローリングしてマシンの挙動軸に当りをつける。アクセルのつきはダイレクト感がいまいちだったが吹け上がりそのものは悪くはなかった。扱いにくい、と郁弥は感じる。
最初のコーナーはイン側にべったりつけて惰性でトロトロとまわった。ギアもまだローのままだ。尻込みしているわけではない。彼らしい慎重なアプローチだった。見通しの良くない右回りの一コーナーを過ぎると、短い直線の向こうにS字に組み合わさったカーブを描いて山の向こうへ消えていく銀色の路面が見えた。このTZのギアシフトは一アップ五ダウンだ。郁弥は云われた通り目の前のメーターとつき合わせながら、ギクシャクしないようにアクセルのタイミングをはかってシフトペダルを踏み込んだ。
「おわっ!」
刹那、郁弥の口から悲鳴が洩れた。腕の下に押え込んでいた筈のTZの豹変に郁弥は振り落とされそうになったのだった。必至で取りすがったTZにさっきまでの面影はまるでなかった。アクセル開度に関係ないかのように、とてつもなくパワフルなエネルギーをもってコーナーへ猛々しく突進していくマシンはまるであのYB6の一四〇馬力をも凌ぐかのように感じられた。二速だというのに考える間もなく次々にコーナーが迫って来る。マシンをコントロールするどころではなかった。TZは乗り手の感性を置き去りにして目まぐるしく右に左に折れるロードを突っ走った。スリッピーな路面で転ばなかったのが不思議なくらいだ。コースアウトすること五回。かろうじて転倒を免れ、ようやっとストレートに出た郁弥はドキドキと高鳴る心臓を抱えて、性格がまるで違ってしまったかのようなTZをなんとか捉えようと必死になっていた。
性格が違ったみたいだって?そんなもんじゃないぜ。これはどう考えたって別のマシンだ。何だよ、この軽さは?五〇だってもっと手応えがあるぜ。まだ二速なんだぞ、このパワーはなんだ?まるでクランクの慣性がなくなっちまったみたいだ。
二五〇ツインの咆哮はまるで戦闘機の機関砲のような雄叫びに変わっている。こんなのはオートバイの音じゃない。壊れるんじゃないか?それともレーシングマシンってのはこんなもんなのか?俺が知らないだけなのか?
郁弥はただただマシンに振り回されている。メーターの針は一万のあたりを指していたが、郁弥にはその十倍もまわっているように感じられてならない。気がつくと左手のコース脇に人影が見えていた。有坂と高峰、そしてリッキだ。横目で見ながら走り抜けた郁弥は長い金髪が彼を見て笑っているのに俄かに苛立ちを覚えた。マシンにしがみついている自分の姿がさぞ滑稽だったのだろうと想像がついたからだ。
「畜生・・・」
これが当たり前のレーシングマシンだって、仮にそうじゃなくたっていいじゃないか。俺にどこまで乗れるのかやって見ようぜ。あのリッキのハナをあかしてやろうぜ。
スリムなマシンの上で肝を据えた郁弥は、あらためてシートの上で居住まいを正した。
7
郁弥は白い車の上で腰を浮かせたりずらしてみたりしながら格闘を続ける。ギアを変えたときのパワーの出方に追随しきれずダートに飛び込む度に、ホイールが空転しエンジンは悲鳴をあげた。ギアチェンジのショックは指定された回転域で確かに仕事をしている筈なのに消えなかった。チェンジのためにアクセルを戻したり開けたりしたときの実際の回転数にタコメーターが追髄できていないのかもしれないとも考えたが、それではわざわざ高峰がタイミングを指定した意味が薄れてしまう。エンジン音もバイクらしくないと思いはしたが回り続けており壊れるような感じはなかった。上体を下げてその出力特性に沿わせる方向に荷重を掛けていくしかない。つまりまたここに動的バランスを崩す要素が加わるのだ。簡単なわけがない。荒れた路面はラフな動きに容赦なく車体を跳ね上げコーナーの中でさえ郁弥ごと吹っ飛ばす。郁弥がそれでも転ばなかったのは、マシンを振り回すトライに対して積極的な気持ちにさせるこのTZの動的な軽さがあってこそだ。スリムなタンクはモトクロッサーのように郁弥の腹の下で暴れ回ったが、それ自体は不安を与える要因にはなり得なかった。
だがバイクと戦い続けるライディングがけっして優れたスタイルでないということは郁弥にも良く分かっていた。兎に角マシンを押え込もうと躍起になっていた彼にも、ようやっとコントロールするために必要なものにアプローチしようとするゆとりが見えかくれし始めていた。スピードに慣れ始めたのかもしれない。無我夢中で彼自身気付かなかったが、ガクガクと震えていた指先もようやく落ち着きを取り戻している。
郁弥は頭の中でコースをストレートとコーナーに分ける。そして一つずつ、より速くよりもむしろ安定して走るトライにかかっていた。エンジン音をよく聞いて、素早いシフトチェンジと適切なアクセルワーク、そしてスムーズな荷重移動ができさえすれば、マシンの挙動変化を最小限に抑えることができた。しかし異様だと思えるほどに軽く感じる車体は、かなりスピードが上がって高エネルギー状態になってもその力の大きさを殆ど伝えようとせず、郁弥に大きな違和感を与える。マシンと路面の関係が把握しにくいのだが、そこはマシンまかせでいつもの通りパワーをかけていけばしっくり決まるような気もする。安定はしているのだからそれでいいのだろうと郁弥は自分を納得させている。ただそうやって不安なまま身体の覚えているやり方でコントロールしていくにはスピードが上がりすぎていた。つかみ所のないタイヤに頼ったコーナリングは、破局が何の前触れもなしに訪れるだろうことを想像するに容易い。しかしトラクションを稼ぐためにスロットルは開けなければならない。
郁弥はどんどん回りたがるエンジンに自然と低めのギアを選択している。一番長いストレートでもトップに届いていない。それは彼の感性が理解できる限界だったのかもしれない。郁弥にはこのTZがつかみようのない抜き身の剣のように恐ろしく思えてしまう。彼を不安にさせるのは確かにマシンの運動性能ではなかった。ラフなアクセルワークは禁物だったしコーナーでのギアの選択ミスは命取りだったが、ただローギアに落としさえしなければ、ライダーが積極的に働き掛けてやることを前提として、バイクが大きく安定を欠くようなことはなかった。
二速にシフトアップしたときにまるで違う車になってしまったかのように感じたのは気のせいではない。このTZはセカンドを境に豹変する。その極端な荷重変動は身体の動きなどで補正できるレベルのものではない。車体がガクッと軽くなるように思わせるのは突然激流のように湧き上がって来るパワーのせいかもしれなかったが、慣性と言うか、質量そのものが小さくなってしまうようなその感覚は単なるギアレシオや出力特性の問題ではないと郁弥は直感する。何か特殊なデバイスがあるに違いない。だとすればこのTZのパフォーマンスはどの程度のものなのだろうか。手応えという確証のない大きな不安を抱えながらも、郁弥は更に奥へと開かれていく未知の領域に次の一歩を踏み入れようとしていた。
高峰の前を何度通過しただろう。下り勾配のついたタイトコーナーを駆け降りて来る郁弥の目の先でコースインしようとしているバイクがあった。振り向いたヘルメットの後ろから長い金髪が伸びている。リッキだ。加速する彼のTZの横を郁弥は三速全開で駆け抜ける。
右回りの一コーナー侵入のブレーキング。背後で風切り音が渦を巻く。サイレンサーが吐き出す排気の音を頼りにアクセルを操作する。一瞬メーターを確認した。ギアを一速落とす。そのショックを吸収するためにスロットルを思い切って捻る。後輪がザリザリと擦過音を立てるのに注意を払い、次のコーナーのために切り返しながら通過するストレートに備えて身体を起こした。郁弥は小さく振り返る。既にテールツウノーズでリッキが来ていた。
赤いヘッドギアの下でリッキは余裕の笑みを浮かべていた。いつでも抜いて見せる、そんなゆとりが彼の走りにはありありと見てとれる。アクセルを開けるタイミングをわざと一呼吸も遅らせて郁弥をつつきながら観察している彼だった。高峰のマシンのセッティングはリッキが出していた。今目の前で多騎が乗っている車も彼のTZと基本的には同じだ。
ここぞというときにはずいぶんと荒削りなことをするが、結構神経質な走りをする…、郁弥の後ろを二周もプレッシャーをかけながらついてまわって、そう一通り結論を出したリッキは前へ出てみる気になった。つつかれてペースの上がっている郁弥にそろそろ限界が見え始めていたからだ。実際郁弥は飛ばしても飛ばしてもぴったりついて来るリッキに焦りを感じていた。リッキは一番楽なパッシングポイントを選んだ。山の向こう側の中速コーナーを駆け上がった先のトップまで届くストレート。郁弥は六速をフルに使っていなかった。それは直線を走り切った後に待ち構えるきついコークスクリュー気味の下りカーブへの侵入に備えフルブレーキングに費やす路面が、砂の浮いているような状況で非常にスリッピーなためだったが、このマシンがライダーにテイクバックしてくる路面と車の相関の捉え方を完璧に知っているリッキにとってさしたる問題ではなかった。郁弥より早いタイミングでアクセルを開けたリッキはスピードに乗せてTZをストレートに放り出す。郁弥は初めて聞くリッキのマシンの甲高い咆哮を感じ、次の瞬間、ブレーキレバーに指をかける自分をあっけないほど鮮やかにパスしていくリッキの背を見た。
郁弥は戦慄すら覚える。あの路面ではスピードを殺しきれない…、郁弥はそう思った。だが何でもないかのようにブレーキングをすませコークスクリューに踊り込んでいくリッキの姿を見て、郁弥の闘争心は燃え上がった。
絶対に捕まえてやる!郁弥は身体が急に軽くなったかようにTZの上で身震いした。
リッキはコークスクリューを下り切ったところで振り向いて郁弥の姿を確認した。このまま振り切ってしまう気はなかった。今日は郁弥の走りを見るのが目的なのだ。ファイティング・スピリットを剥き出しにした彼に満足してリッキは微笑む。ついてこれるところまでついてこい、おまえの本当の限界を引き出して見定めてやる、赤いヘルメットの後ろから舞う金色の髪が、ぐっとフェアリングの中に沈んだツナギの背で光った。
もう郁弥に雑念はなくなっていた。後塵を浴びせられることは勿論だがそれよりもそれができる筈なのに引き離そうとしないリッキが郁弥を爆発させる引き金を引いた。マージンとして残しておいた一線は他愛もなく消し飛び、郁弥の頭にはもうリッキを撃墜することしか残っていなかった。右に左にコース幅をいっぱいに使って走るこのアメリカ人ライダーを、郁弥は追い続け、走りの隙を狙う。リッキの効率的なライディングにいつしか同調する彼のスタイルは、意識したマシンコントロールではなかったがそのきっかけにはなろう。VΓのとき、これまで前輪の存在を殆ど無視して走っていた郁弥の方法論は、YB6の体験によって良い方に修正されたのかもしれなかった。少なくとも彼らのTZに対しては。情報量が絶対的に乏しいリッキの仕上げたこのTZには前輪の拾う僅かな感覚が貴重だったからだ。郁弥はそれに新たに自分本来の持ち味である後輪主体の旋回を加えてリッキのそれとは違うライディングでTZにトライしようとしていた。鋭いコーナーへのアプローチ、安定を稼ぐ早いスロットルワーク、そして効率的な脱出加速。リッキの方が速い部分だけ、彼から吸収しようとしていたのかもしれない。
距離は詰まり始めた。リッキは驚いている。もはや笑っていられる事態ではなくなっていた。徐々にペースを上げてくる多騎に対して少しずつ吐き出していた彼のマージンは底をつこうとしていた。内心で舌を巻きながらリッキは既に本気になっていた。コーナーの向こうへ、奴を消し去ってしまうまで。
排気音が変わった。リッキは郁弥がパワーバンドとして意識していた回転数を遥かに越えてエンジンを回す。オーバーレブによる出力の低下さえ戦力にしてしまう彼本来の飽くことのないハングリーなライディングだった。彼は全力で走り続ける。限界を知らないかのように郁弥がそれを追う。まだだ。TZはもっと速く走る。
状況からいえば分はリッキの方にあっただろう。コース、マシンへの慣れを別にしてもだ。郁弥の走行時間は既に一時間に近い。スリッピーな路面とはいえ、炎天下を走り続けたマシンのタイヤがそういつまでももつ筈がない。郁弥の身体にしてもそうだ。考えようによっては今なおアグレッシブな走りを見せているのは奇跡的だったかもしれない。そのうえそのTZは他ならぬリッキの走りのためにセットアップされているのだった。唯一郁弥に有利な点があるとすればそれは、走り続けてきた郁弥のマシンの方がガスが減った分軽量だったということだ。しかしリッキにしても満タンの状態でコースインしたわけではなかった。それをよく承知しているリッキが郁弥の猛追に焦りを感じていたとしても不思議ではあるまい。彼は抱えたプレッシャーを全て前進するパワーに変えようとしていたが、それはスピードの乗りを失うことにつながろうとしていた。
郁弥がリッキのインに割り込もうとする。強引だ。リッキは譲らない。大きくスライドしながらブレーキングを遅らせてきたのが郁弥だった。長時間休みなく走り続けてきたリアタイヤは完全にグリップしていない。立ち上がりはリッキの方が速いのだ。彼に退く理由はなかった。
郁弥はいけると思った。アクセルワークに一瞬グリップは回復する。勝負だ!、火花の散りそうな闘争心のぶつかり合い。カウルが音を立てて接触した。郁弥のマシンは瞬時ダートへ飛び込み、コースへ戻り際に大きく揺れた。
ただでさえバンピーな路面だった。ステップを泳いだ郁弥の爪先が何かに触れた途端、彼のTZは宙に飛んだ。限界に望んだ郁弥の初挑戦の終焉だった。
二転、三転してオートバイは薮に突っ込んだ。カウルの破片が舞った。
ひととき意識を失った郁弥は夏の太陽に焦げつくばかりに暖められたアスファルトに俯せになり、血の匂いを嗅いでいた。足音が近付いてきた。金髪の少年に抱き起こされる郁弥の身体は全身が疼くように痛んでいた。リッキがヘルメットを丁寧にはずした。
「痛むか?」
リッキの問いに郁弥は傷跡の癒えていない右足に走る痛みに気付いた。
「サンキュー、リッキ」
「馬鹿を言うな」
リッキのマシンでコースを逆走して高峰のところへ戻る間、二人が交わした会話はそれだけだった。
マシンをオシャカにされたというのに高峰は上機嫌だった。郁弥の怪我は病院へ戻ってからでなければはっきりしたことは言えなかったが、右足以外は支障ない程度のものだった。ただ久しぶりにこなした激しい運動量で、体力を消耗しているのは否めなかった。ぐったりした郁弥に帰路面倒を見てくれた高峰は言ったものだ。
「君だけだよ。初めてあれに乗ってあそこで十八秒台を出したのは。しかもシフトミスをしなかった。大したもんだ」
郁弥にはその数字の意味するところは分からなかったが、焼き付きを食ったのはやはりシフトミスだったに相違ないことは知れていた。足が意に反してペダルを引っ掛けてしまったのだ。高峰の指示した回転数をはずしたピストンは油膜切れを起こしてシリンダーの内壁にへばりつき、後輪のロックしたマシンは郁弥をぶっ飛ばした。事故とはいえ、もとはといえば無理なパッシングが原因であることが彼には良く分かっていたから性格上責任を感じずにはおれなかった。彼はやはりレーシングライダー向きではなかったかもしれない。街へ出るまでハンドルを握っていたリッキはまったく来たときと変わるところがなかった。
郁弥は病院へ着くころ激しい痙攣を起こすほどの熱を出した。