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第二話





そんなことがあってからふた月が過ぎようとしていた。松葉杖は不要になり、郁弥は萎えてしまった筋肉のリハビリに躍起になっている。執刀医をも驚かせた回復ぶりだった。日差しはそろそろ早い夏のそれになり代わろうとする気配を見せ、この短い過渡期を過ぎればもう一年でもっとも活動的に過ごすべき日々がやって来る。今年は郁弥も三年生で大学受験を目の前にしているわけだったが、それでもこれからの季節の楽しさは変わりようがなかった。太陽こそがエネルギーの源だからだ。彼はそうひとりごちた。

 有坂はあの後も度々やって来ては進展のない勧誘を辛抱強く続けていたが、兎に角その気はないと言って郁弥は箸にも棒にもかからない返答を続けていた。バイクは好きだったが、それに打ち込んで食っていけるなどとは考えられなかったし、手痛い事故にあってテンションが下がったことも理由だった。以前ほどではなかったが、あいかわらず有坂は気に入らない。そんな奴の誘いに乗るもんかとも思った。

 それでも有坂はやって来た。

 来るのは決まって郁弥がひとりでいるときだけだったから拒もうと思えば誰かと一緒にいれば良かったのだが、怪我のせいもあって一人になることはやはり多く、またわざわざ彼のためにそんな小細工をするつもりもなかった。それが誤解を呼んでるのかもしれないな、有坂が諦めない理由がわからず、そんなことまで考える郁弥だった。


窓際の日差しが強く感じる昼休みだった。じっとしていると汗ばんで来るほどだったが、開けた窓から滑り込んで来る適度な風が快適だったので、少し眩しい思いをしながらも郁弥は自分の席で雑誌を広げていた。誌面にはヤマハ、スズキに先を越され、最後発になったNSR今年度モデルのインプレが掲載されている。いつのことになるか分からなかったが、郁弥は死んでしまった彼のVΓの後継機を欲しいと思っていた。保険金は下りていたが、VΓのローンも残っており、彼の次期FXの購入が考えられるようになるのはまったくいつの話になるのか分かったものではなかった。彼にはため息をつきながら写真を眺めるのが関の山だったのだ。今年からかけられる出力規制に間に合ったTZRが手に入るのは、あるいは今が最後のチャンスなのかもしれなかった。いや、もしかすると来年は新型が出ないかもしれない。

郁弥はまたため息を吐いた。

「NSRか。でもこんなものは所詮おもちゃだぜ」

突然背後から声をかけられて郁弥はびくりとした。すっかりくつろいでいた彼は本当に飛び上がったのかもしれなかった。有坂だった。気が付くと彼のまわりには人影がとんと絶えていた。取り残されたような教室にいるのは郁弥とこの有坂良司ただ二人だけだった。

「そりゃレーシングマシンじゃないさ」

郁弥はややむっとしながら首を反らせて闖入者を見た。有坂は屈託なく笑っていた。派手なTシャツの覗くワイシャツは汚れてはいなかった。バサバサの髪が陽に灼けて赤い。「多騎、もう脚はいいんだろう? 少し具体的な話をしようぜ。今すぐ決めてくれなんて言わないのはもう分かってんだろ?」

「その気はないって言ってるじゃんか」

「それはこれまでの話だろ。状況は変わるもんさ。それに俺が気に入らないってだけで本物のバイクに乗れるチャンスを棒にしちまうなんてカスのすることだぜ。チームは俺だけじゃない。考えてくれよ」

「えらく卑屈な言い方じゃないか。確かに俺は今バイクに乗りたいと思ってるし、レーシングマシンにも乗ってみたいさ。でもな、今そんなことしてる時期か? レーシングチームって遊びじゃねーんだろ? 受験勉強はどーなる?俺だって大学は行くつもりさ、これでも少しはしてるんだぜ?」

「またえらく固いことを言うね」

「当たり前さ。判断できる限りは俺は現実的なんだ」

「でもそれを言うならこの一シーズン、一夏と言ってもいい、走らないということは自分の可能性を潰しちまうことになるかもしれないんだぜ。今からでも遅すぎるぐらいなんだからな」

「それで潰れちまう程度の才能なら初めっから無理というもんさ」


話はまるっきりの並行線だった。

「要は今年はバイクにこれからコンセントレートしようって時期じゃないのさ。望む望まないに関わらずね。望むわきゃないけど」

郁弥は本当に残念そうにそう言った。内心は大分心動かされていたのかもしれない。判断基準自体が正しいかどうか彼が考え始める前に自制心が効力を発揮したというところか。

そして実際それは正しい選択だった。

有坂はとうとうあきらめる気になったようだった。どうやらその怪我で空白になった期間がキーになったようだな、そう言うとこのふた月の努力が味気ない結末を向かえたことにがっくり気落ちした表情をあらわにし、帰っていった。



数日のうちに太陽は夏色を急激に強くし、見上げながら下を通る人々の心を灼き焦がすまでになった。郁弥はじりじりと額を灼かれるのを感じながら汗を拭いつつ窓から外に視線を投げていた。右脚にはまだプレートが埋め込まれていたが、筋肉は順調にもとのエネルギーを取り戻しつつあった。その進展の様子が感じられるのが嬉しくて、彼はかたときも休まずというほどリハビリに熱中していた。今も足首に巻きつけた鉛入りのサポーターを上下しながら、昼食のパンを頬張っているのだ。ここのところ天気は良く、昼休みの教室は空いていたが、有坂はあれきりやって来なかった。勿論彼はそれを寂しいなどとは思わなかった。いかにその招かれざる訪問が疎ましかったか、むしろ清々した気持ちでいた。

 ミルクのパックを飲み干しながら眺めていた学校の脇を走る旧道を見かけないバイクが通った。でかい。白いヤツだ。ビモータじゃないか?片足を動かすのを中断して窓から身を乗り出すと、そいつは校門をくぐって校内へ入って来た。

「ビモータじゃんか、すっげー」

声がしたのに一瞬ドキッとして右脇を見ると、津々木が同じようにして身を乗り出していた。この長身のクラスメートは出席番号が近かったせいもあって郁弥とは仲の良い方だった。バイクという共通の話題もあった。

「お前いたのかよ」

「ひっでーな、英語の宿題写し終わんなくてよ、お前やってある?」

「宿題なんてあったっけ?」

「あったよ、大丈夫かお前。結構長いぜ、やってないの?」

「そんなん忘れてたよ、英語五限じゃんか」

「やばいぞ、あと二〇分きゃないぜ」

「げー」

郁弥は呻き声をあげた。のんびりメシなんか食ってる場合ではなかった。慌てて鞄を机の上に投げ出して教科書を探す郁弥に津々木は何か言ったが、郁弥にはそれどころではなかった。

「おい郁弥、すっげーぜ。YB6だ」


津々木の机に椅子を寄せて時間の押している作業に熱中していた郁弥は、傍らに彼がやって来てもすぐには気付かなかった。ノートのページを変えようとした郁弥はそのときになってようやく頭をあげた。津々木が何の用かと言いたげな目で、手を止めてそいつの顔を見ていた。有坂だった。

制服を着ていないので見違えてしまう。あっけにとられて郁弥は自分から声をかけた。

「なんだよ、その格好は」

有坂は黒地に赤いストライプの入ったレザーのライディングスーツを着ていた。揃いのグラブをはめた手にヘルメットを抱えている。

「珍しいメットじゃん」

津々木の指したヘッドギアはNAVAのものだった。滅多に見かけることはない。

有坂は自慢げに笑った。

「このぐらい気張らなくっちゃな。今日はバイクに負けちまう。見てたろ?」

 郁弥は目を見開いた。

「あ、嘘だろ?!あのビモータ…」

「YB6」

津々木が補足した。

「嘘じゃねぇよ。あれだよ」

「すっげーじゃんか、あれ二〇〇万じゃきかねぇだろう 」

「ああ、ま、値段はいいんだ。どうせ俺んじゃないんだ」

「そりゃそうだろうけどよ」

有坂とは面識ない筈だったが津々木の方が興奮していた。宿題のことなんかどこかへ行ってしまっている。

「最強最速ってのは大袈裟な表現じゃないぜ」

有坂はそう言っていわくありげに郁弥に視線を戻した。

「多騎、あれはおまえに貸そうと思って持って来たんだよ。受け取ってくれよ」

「俺に?」

「ずいぶん迷惑かけたからな」

「迷惑だって?カスほども思ってねぇくせに、よく言うぜ」

「へへへっ。カスぐらいは思ってるぜ。まあいいよ、ほんとはあれに乗っておまえの気が変わるのが狙いなんだ」

「変らねぇよ」

「そんときゃほんとにあきらめるさ」

「なんでおまえがそんなに俺に拘るのか分らねえな」

「郁弥、」

横合いから津々木が口を出した。

「借りろよ、これから先もまずないチャンスだぜ。おまえあれがどんなにすげえバイクなのか分かってんのか? YB6なんだぜ、YB6」

「ふーん」

郁弥は鼻を鳴らした。実際のところ、彼はそのバイクのことを知らなかったのだ。ワールドチャンピオンマシンの車体構成のまま、より強力な1リッターのビッグエンジンを積んだロードゴーイングレーサー以上のマシンと呼ばれていることなど。郁弥を驚かせたのはただそのタンクに描かれた超高級バイクブランド「ビモータ」の文字に過ぎなかった。

だからビモータなんだろ? 郁弥は津々木にそう言ったが、津々木は首を縦に振ろうとしなかった。バイクに今すぐ乗れる、それは十二分に魅力的な話だった。郁弥は迷い始めていた。

その迷いを感じ取った有坂はそれ以上時間を与えることはないと判断したのだろう。ヘルメットの中にはずしたグラブを突っ込むと、ノートがいっぱいに広げられている机の上にドカリと置いた。有坂はキーを津々木に向かって投げた。津々木は落としてなるかというように両手を広げてそれをキャッチし、こらえきれない笑みを溢れさせた。自分が借りたわけではなかったが、チャンスがその手の内に転がり込んで来たことに間違いはなかった。

出て行く有坂に立ち上がって静止をかけようとする郁弥に津々木は笑いかけた。

「やったぜ、郁弥、今日はフケようぜ。もう英語なんていいよ」

この収穫に比べたら天気のいい昼休みをつぶしてなし得た業などどうでもいいことだった。

「イタリアの勉強と決めこもうぜ、よう!」

郁弥は小さくため息をついたが、それは困っている顔ではなかった。

「そうするか、…」郁弥は立ち上がった津々木を見た。彼は郁弥よりも一〇センチほども上背があった。

「でも俺ぁ有坂のメットつけたくないんだ」

「何だよ、仲いいんじゃないの?」

「大嫌いだね、どっちかというと」

「へえ? それでなんであんなもの貸してくれるってのさ」

「俺にもよく分んねーんだよ」

「何かあったわけ?」

「ま、ね。どうも俺をレーシングチームかなんかに入れたいらしいんだ」

「でも仲悪いんだろ?」

「だから分んねーんだよ」

「チームに入れていじめる気なんじゃねーの 」

「アホらしい。フケるんならもうみんな戻って来る時間だぜ」

「急ごう、俺のメット貸してやるよ。まったくわがままな奴」

「すまん」

郁弥と津々木は有坂のヘルメットを脇の机にやると、開いたノートを慌ただしく閉じた。




大きい…、郁弥はまずその大きさに圧倒された。白鯨の背中のように広いタンクカバーの向こうにコックピットはあった。削り出しのトップブリッジが美しいたたずまいを醸し出してライダーを迎えようとしている。ステアリングピボットに突き出している丁度バルブを逆にしたようなかたちをしたものはチョークノブだろうか、おそるおそる伸ばした腕がつかんだハンドルグリップは見てイメージしたほどではなかったがやはり遠かった。郁弥の身長ではちょっと辛いかもしれない。着座位置がかなり前寄りになってしまう。郁弥は振り向いて今度はテールカウルに手をやった。カバーを外すとタンデムシートが現れるタイプではなく、本物のシングルシートだった。塗装は厚かったが、郁弥はこんなものかなと感じていた。ビモータといえばまさに市販されるあらゆるモーターサイクルの頂点に立つ存在だ。彼はもっと至極の、走る宝石のようなものを想像していたのだ。テールには津々木の言ったとおりYB6 一〇〇〇の文字が光っていた。

その津々木が目をきらきらさせながら郁弥の注意を促した前側のカウル。車のサイドに付いているそれのようなウィンカーの上に、一九八七 F1 WORLD CHAMPION。そう刻まれていた。

「本当なのか、・・・? 」

こんな文字の入ったマシンは見たこともない。訊いた郁弥に向かって津々木は人差し指を立てて振って見せた。

「だから言ったろ、どんなマシンか分ってんのかって」

「ホントかよ・・・」

「それだけじゃないぜ。厳格に言うとワールドチャンプを取ったのはこのマシンじゃないんだ。F1を走ったのは七五〇だろう?」

「あ、そうか」

「そのチャンピオンマシンYB4に一リッターのエンジンを積んだモンスターなんだよ、こいつは」

「YBか、パワーユニットは、じゃあFZRかな」

ビモータはメーカーというよりむしろビルダーといった方がしっくり来るようなイタリアの小さな会社組織だ。妥協のない設計と職人のハンドメイドによって、量産メーカーには真似の出来ないクオリティの製品を造り続けているが、エンジンを自社開発するまでの資本力がない。完全にオリジナルな車を造ることは彼らの夢なのだが、今郁弥の跨がるマシンの生まれた八〇年代にはその兆しすら見られるところではなかった。ビモータのマシンは搭載した動力ユニットのメーカーの頭文字と、ビモータのB、そしてそれがそのメーカーのエンジンによる何番目の車かというナンバーをもって命名される。YはヤマハのYだ。郁弥が仕上げに物足りなさを感じたのも、たとえば目に入るメーターパネルにオリジナル車のそれをそのまま使うといった当時のビモータの慣習も関係しているだろう。

「FZR一〇〇〇だよ」と津々木は正解を告げた。

「ビモータのチャンピオンマシンか」

郁弥はため息混じりの口笛を吹いた。そうさ、バイクは宝石とは違うさ。郁弥はbのロゴの入った革製のキーホルダーの付いたキーを捻った。

小気味のいい音を立ててあっけなくバイクは目を覚ました。低い、大排気量車ならではの排気音がマシンの背を揺らす。暫く前まで周りを取り囲んでいた生徒達が窓からあらためて顔を出したようだ。もう授業は始まっている筈だった。

「津々木くん、さぼっちゃだーめよ!」

郁弥が見上げると二階の窓から見下ろしている野郎達に混じって、窓から一際乗り出した女の子が手を振っていた。いい度胸だ。

津々木はちょっときまり悪そうににやにやしながら小さく手を振り返し、自分のGSX-Rの脇に下ろしてあった有坂のパステルレッドのヘルメットを拾い上げた。

「津々木ぃ、可愛い子じゃんか。あのショートカット」

「クラブの子だよ」

「おまえ何やってたっけ」

「バレー。郁弥、グラブは有坂の使えよ、俺、小さくて手が入らねぇよ」

「ああ、サンキュ」

郁弥が、借りたヘルメットに頭を突っ込んで位置を整えながらもう一度見上げると、その彼女は視線に気付いてまた手を振った。郁弥ははっと目を見張った。本当に可愛かったが、ドキリと心臓が身を捩ったのが分かるぐらい郁弥が気を引かれたのは彼女ではなかった。落ちそうなくらい半身を窓の外へ乗り出している彼女を支えようと後ろから手をかけている、それは遠目にも眩しい瞳の女の子、郁弥は半ば思考停止した頭でそう思った。せり上がって来るような心臓の高鳴りに、顎紐を通す指の動きが自然に止まってしまっている。

GSXーRのエンジンがかかった。観客を意識してあおったアクセルに排気音がかまびすしい。飛行機のように金属的な音だと郁弥は思った。

「郁弥ぃ! のんびりしてっと誰か出て来んぜ、急ごう。門閉められちまったらことだ」

違いない。郁弥もアクセルを捻った。

・・・・・・!!

一リッターの音がした。郁弥は知らなかったが、一四〇馬力の音だ。

アライのシュワンツ・レプリカのシールドの奥で、郁弥の瞳は感動的な快感に酔ってしまったかのようだった。四ストローク・インライン四というコンベンショナルな構成の引き出す磨き込まれた咆哮はまさに芸術的だったと言っても良かろう。ストレスなんて感じよう筈がない。

郁弥は身震いしていた。その限界を感じさせない大排気量の迫力に臓腑がまるごと洗い流されるようだった。

すっげーぜ!

エンジンに探りをいれる郁弥の大胆なアクセルワークに校舎から歓声が上がった。耳に飛び込んできたのはやっぱりさっきの津々木の女友だちの声だったが、彼女は教師に小突かれて身を引いてしまった。紳士的である筈のYB6の雄叫びが全校に響き渡る。初めて乗る大型バイクにクラッチのつなぎ方を控えたつもりだったが、それでも後輪はあっけなくスリップした。路面に黒々と高価なタイヤマークを残し、YB6とGSX-R四〇〇は校門を走り抜けた。


「津々木、まず俺ん家へ行くぞ。メット取って来たいんだ」

車体を並べてそう怒鳴った郁弥はマシンを先行させた。そしてそうするのに何の気負いも覚悟もいらなかったのに郁弥は唖然とした。ただちょっと、スロットルを捻っただけ。それだけでYB6はまるで果てしのないかのような増速を続けて行くのだ。三速へ入れるのをためらうどころかローギヤでも事足りると思えたほどだ。VΓのような軽快さは無論なかったが、それは彼が想像したビッグバイクのどっしりした安定感などというものとも違っていた。ややアンダーを保ちフロントの存在感を失わないハンドリング。そして強大なパワーを誇るFZRパワーユニットを搭載しながらも小気味よくトラクションを発生する車体。そのマシンを操る楽しさに郁弥は傷めた足をかばうことも忘れて夢中になった。津々木はGSXをキンキン言わせながら付いてきた。




バイクのある生活は、例えようもなく楽しいものだった。事故で愛車を失ってからの日々は心身ともに苦痛の日々だった。郁弥は迷っていた。有坂はいつまでとは言わなかったが、それにしてももういい加減返さなければいけないと郁弥は考え始めていた。それはかなり名残惜しいことだったが、当然の事実だった。津々木の言った通りYB6は凄じくすごい車だった。高い運動能力が生むゆとりを持ちながら、速く、そしてパワフルなだけでなく汎用性も高いのだった。そのスムーズな動きは乗り手にそれだけで信頼をもたらす。たとえばサスペンションの動き一つ取ってみてもVΓのそれが動いていなかったのではないかとすら思えるほどだった。早朝に出かけた奥多摩のワインディングは勿論、単なる街乗りでもワクワクする、こんなマシンが実在するのかと、郁弥には信じ難いぐらいだったのだ。ビモータはやはり宝石だった。津々木のGSX-Rにも乗ったが、このYBに比べれば非力でいたずらに扱いにくいおもちゃに過ぎないとまで感じられたものだ。津々木は雑誌で読んだインプレッションからイメージしたものとは違うもんだなという感想を残していた。そのインプレ記事を郁弥も見たが、もともとどうでもよかった郁弥は内容がどうだったか殆ど覚えてもいない。実車があればそれで彼には十分以上だった。


YBを借り出してから数日が過ぎたその日、郁弥は明るい気分でYB6を駆っていた。その日、湿布薬を貰いに保健室へ行った郁弥は、岸田葉月とそこで偶然鉢合わせた。渋った津々木をYB6をネタに口説き落とし、その先日の嬌声の主をそれとなく紹介してもらったのはほんの二日ほど前のことだった。たとえ偶然めぐってきた機会を上手に活用できるほどの器量を彼が持ち合わせていなかったにしても、その幸運を郁弥がどんなに喜んだことかしれない。それは葉月が一人ではなかったからだ。葉月と一緒にいたその彼女のクラスメート桜沢翔子とたとえ一言でも話をすることのできた郁弥が、今いつになく浮き浮きしていたとしてもそれは無理からぬことだった。彼女は、彼が初めて岸田葉月という少女を知ったとき、その窓の奥にいて郁弥の心を捉えたそのひとだったのだから。

白いビッグビモータは傍目にも軽快に都心へと向かっていた。YBで乗り入れる初めての夜の都会だった。山手通りを折れて井の頭通りへ入り、代々木の体育館を右手に線路伝いに渋谷へ向かう。彼の感動的な今日の出会いはまだ終結していなかった。一歩一歩を形にして残したい、純粋な欲求が考えつくまま、郁弥はそれを音楽に変えようと思っていた。何を選ぼうかと迷うだけでも無性に楽しかった。スザンヌ・ヴェガみたいなのもいい、もうちょっと明るくて楽しい感じの女性シンガーがいいかな、そういえば女ヴォーカルじゃなかったけどこのあいだMTVで観たエアリアズはよかったな、ちょっとイージーだったけど。やっぱりいつものギターものにしようかな、いやこの気分にはスラッシュが合うかもしれない…。それよりも彼女はどんなイメージだ?マルティカの陽気な面持ちに、イーディ・ブリケルの哲学的なパフォーマンスを含ませたような感じかな。色の白い、それでいてはち切れそうに眩しい彼女の顔を郁弥は思い描く。くるくるとリスのように動く澄んだ瞳が、魔力を持った宝石の輝きで郁弥を虜にしようとしていた。そしてにっこりと微笑んだ彼女の大きな笑みには、郁弥のどこかを無意識に刺激する例えようもない脆さがあった。

YB6は軽やかに歌うように路面を滑っていく。公園の木々の向こうに消えた熱い夕日の残した熱気と入り混じって忍び寄る夜気をバックに、慣れたマシンへ身体を委ねるゆとりに任せ、右へ緩やかなコーナリングの軌跡を描いた原宿駅前の交差点だった。銀色の列車の轟音が砂利を轢くようにパワフルだ。今日一日の余韻に浸る街を手の届く距離に置いて、競技場を囲む石垣の上で静かに談笑するカップルのシルエットを横目にしながら、消防署の前を過ぎた辺りだった。

郁弥のマシンは突然つんのめった。

パニックに陥る間もない。

三〇〇万円のビモータは瞬時にして郁弥を放り出し、頭からアスファルト路面に突っ込んだ。一〇メートルも投げ飛ばされて派手派手しく叩きつけられた郁弥は、何が何だか分からないまま傍らのガードレールのパイプに手を伸ばし、立ち上がろうとあがいていた。週末でなく道が比較的空いていたのは彼にとって幸いだっただろう。呆然としているその目の前で、YB6はガラクタになり果てていた。

「何が、あったんだ・・・」

郁弥はヘルメットを取るのも忘れて、まだ熱を残している道路に座り込んでいる。

「フロントがいきなりロックした、みたいだった・・・」

路面に原因となりそうな傷はなかった。

「エライことになっちまった・・・」

ぼんやり呟く郁弥は頭がぐらぐらするのを感じていた。夜はまだこれからだった。



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