表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

第一話





十二月二十四日。寒い晩だった。クリスマスに浮かれている筈の街をフェンスの向こうに、武川豊彦は銃剣を肩に、雲の低く垂れ込めた夜空を見上げていた。雪でも降ってこようかという様相だった。十メートルほど離れて立つ水銀灯の白い光に、髭の濃い頬がいよいよ蒼く見える。視線を戻すと、駐屯地の東側を走る国道を車が一台通り過ぎ、あたりはまた、しんと静まり返った。冷えた空気が防寒着の裾から這い上がって来るようだった。彼は身震いし、動哨のコースを外柵に向かって歩き出した。

「寒いなあ… 」

背後から同意を示す低い唸り声が聞こえた。両腕を抱いて歩くまだ若い隊員だった。武川は言葉を続ける。

「ついてねぇな。こんな晩に当たるなんて」

「本当に。昨日まではあんなに暖冬だってテレビでも騒いでたんですがね」

「この調子ならホワイトクリスマスが期待できそうだ」

そう言うと彼はゾリゾリ音をたてて冷たい顎をさすった。

「赤井、おまえは正月、帰るのか? 」

「いえ、自分は正月は出番です。遅れて代休をもらいますよ」

「クニはどこだっけ」

「山口です。岩国の近くで海がきれいなとこですよ」

「南だな。どうだい、郡山の冬は寒いか?」

「はは、寒いですね、あれ?」

 赤井が広げた手のひらに小さな氷の結晶が着地したのが見えた。

「降ってきましたね」

「いよいよホワイトクリスマスだな」

ぼそりと答えた武川の耳に、排気音らしきものが聞こえた。まだ遠いが、次第に大きくなってくるようだ。高周波を多く含むそれは普通の車の音ではないようだった。南から来る。

「珍しいモノが見れそうだぜ」

「気の早い除雪車かな」

「早すぎるだろ」と武川が突っ込んで二人は笑った。

駐屯地は道路に対して高台になっている。二人はフェンスに近づき、見通しのよいところから国道の南を見やった。それにしてもスピードが出ている、どんどん大きく聞こえてくるが、まだ見えない。それだけ音量が大きいということだ。一昔前のF1を思わせるハイトーンだ。基地の前を通る国道はまっすぐ山越えの道に続く。走り屋の車はよく見るが今回のそれは異質だった。

「来た…」

 赤井が小声で呟いた声はエンジンがまき散らす音圧にかき消された。

 眩いヘッドライトは縦二灯の四灯。眼下を一瞬で走り去ったのは、中世の鉄兜を思わせる黒い車両だった。反射光がボリュームのあるボデイの凹凸を滑って流れ落ちた。スポーツカーというにはゴツゴツしており高さがあった。大型RV程のサイズがあったが、箱型にはほど遠く、一言で言って「異様」だった。

 二人は絶句した。

「なんだ…、ありゃ…」

 エンジン音が数回、上下した。その先は駐屯地正門エントランスの交差点だ。信号は青が灯っている。

「シフトダウンしてる。おい、基地へ入ってくるぞ!」

「そんな予定ありませんでしたよ!」

 赤井に一歩遅れて武川も走り出した。

テールランプがゆらりと左に揺れて下がった。その妙な動きに武川はあっけにとられる。その動作から思い当たったものと目の前を過ぎていったそいつの印象があまりに違っていたからだ。曲がり角で倒し込まれた車体が起き上がる。マシンは、そう、曲り角で傾いていたのだ。それは二輪車の動きだった。

「赤井、ありゃバイクじゃねぇか!」

「あんなでかいバイクありませんよ」

言いながら彼は確かめるように銃剣を手に抱えなおした。

 警衛所も気付いたようだ。ただならぬ気配に立哨の二人が、閉められた門扉の前、小銃を手に動く。静止をかけるためだ。だが次の瞬間には、けたたましいエンジン音を伴ったそいつはもう目前に迫っており、何をする間もなく二人の身体は鋼鉄のゲートごと宙に跳ね飛ばされた。

 その様子を目の当たりにした武川と赤井は反射的に小銃を構える。恐怖するというより呆気にとられていた。国道からゲートまで五〇メートル強の距離を走り抜け、ゲートをぶち壊してなお増速し、駐屯地深くに侵入しようとするその光景が現実と思えなかったからだ。

 警衛所から慌ただしく隊員達が駆け出し、次々に発砲した。相手は火器こそ使用していないがあからさまな攻撃だ。迷うことはない。警報が鳴り響く。武川は小銃に弾が装填されていないことを今更のように思い出し、警衛所内の保管庫目指して走り出した。

 無数の銃弾がターゲットのボディ上で跳ね、白い火花を飛ばした。




親友の成瀬晶夫が死んだのは三か月前だった。奴がいないことにもようやく慣れ始めた今になって、生々しくその瞬間のことを思い起こさせる、そんな出来事がまたやって来ようとは考えもしていなかった。ようするに、迂闊だったのだ、俺は。実感していなかった。敢えて恐れない風を装って、これまでどおりに突っ張ろうとしていた。成瀬が身をもって示して見せた現実をこの目の前にしたというのにだ。そうだ。人は死ぬ。簡単に死ぬ。そして、生き返らない。成瀬のVFRは俺の前を走っていて、そのトレーラーは突然俺たちの目の前に現れた。俺は止まれたが奴は止まれなかった。それだけの違いだ。で、今回は本当にヒトゴトではなかった。

こっの脳天気野郎!…

空がぐるぐる回る。マシンが俺の身体を離れ、眼下を滑走していくのが見えた気がした。状況を認識できたのはその一瞬だけだった。



 **********************



「多騎ぃ!」

唐突な訪問だった。傍らに立って声をかけたのは、まだあどけなさの残る面にそばかすを浮かべた少年だった。多騎郁弥(たきいくみ)は薬のせいか眠たげな瞼を持ち上げて、大儀そうにその闖入者の方に俯いていた頭を持ち上げた。

のどかな昼下がりだった。明るい日差しが南に面した壁いっぱいに広がる窓の列から伸びやかに差し込んでいる。いくつかの開いた窓からさわやかな春風が忍び入り、薄いカーテンを時折揺らすのがうかがえる。教卓の上の一輪挿しがそれに合わせて静かに首を振る様が何とも愛らしかった。

この昼休み。教室に残っているのは彼の他ほんの数人にすぎなかった。放課後の部活に備えて眠るもの、もっと切実な思いでノートのコピーに精を出すもの。この好天に外へ出る楽しみと各々の都合を天秤にかけて、この教室に留まった彼らは皆それぞれの仕事に没頭しており、突然入ってきて郁弥の眠りを妨げた少年に向ける関心など持ち合わせるところではなかった。いつもなら教室のあちらこちらで聞かれる女生徒たちの楽しげな会合も、今日は舞台を屋外へ移したようだった。

「おーい!」

少年はもう一度いささかトーンの高い声で、相手が遠くにいるかのように呼びながら、白いワイシャツの襟元に指を突っ込み、蒼い棒タイをぐいぐいと押し広げた。

「なんだよ、おれぁ眠いんだ。邪魔すんなよ」

邪険な返事にも笑いを浮かべながら彼はまた話しかける。

「まあいいから聞けよ」

郁弥は無視して顔を机の上に組んだ腕の間に沈めたが、このしつこい奴がどこのどいつだったかとぼんやり考え、隣のクラスの、…なんとかいう名前の騒がしい奴というところまで思い出した。これまで話したことは一度もない。とても気の合いそうもない相手だと考えつくに至るといよいよ無視する気になって耳を塞ぐように肘を立てた。

頼むから俺の邪魔をしないでくれ。どんなことだって煩わしかった。今は自由に過ごせる筈の時間なのだ。俺は眠りたい。だが気力のない彼の抵抗は少年の話を切り上げさせるだけの力をもたなかったようだ。あっちへ行ってくれと頼りなげに振る郁弥の腕越しに彼はいつまでもしゃべり続けた。大した神経だった。そのうちに予鈴が静かに響き、郁弥の眠りをしつこく妨害し続けた少年は、戻って来るこのクラスの連中と顔を合わせたくないかのようにあっさり帰っていった。何の話だったか、郁弥は殆ど聞いていなかった。貴重な睡眠時間を邪魔しに来た奴。頭に霧のかかったような猛烈なこの眠気と傷の痛みがなかったら直ちに正拳を飛ばしていたところだ。

鐘が鳴り終る。教室に騒がしさが戻って来る。畜生。郁弥は呷いた。足の傷が疼く。全身が怠く腕が上がらない。大儀そうに背を反らし、嬌声をあげながら入って来る少女達にどろんとした視線を投げかけると、郁弥はかけていた椅子の下に手を伸ばして松葉杖を拾った。立ち上がるのに努力と技術がいった。くだらねぇや。口から溢してしまったかのように呟くと、思い出したように郁弥は机の中身を適当に鞄に放り込んで席を立つ。親しげにその彼を揶揄する声が聞こえたような気がしたが、応える気力もなかった。彼の早退を阻むものはなかった。

爽やかな風が表に出た彼の頬を撫でて行ったが、郁弥はそのことにすら気付かなかった。



翌日も少年はやって来た。曲がったネクタイが、力なく伸ばした腕に頭を載せて臥せっている郁弥の視界を塞いだ。何を見ているわけでもなかったが、焦点を失って郁弥は目をしばたたかせた。小春日和の温暖な空気に、今日も教室はがらんとしていた。飲むことを余儀なくされている薬のせいか、郁弥を誘う睡魔の誘惑は午後バックレを決めた昨日に勝るとも劣らなかったが、痛みがいくらか引いた分身体に自由が戻り気分は昨日よりは良かった。

気分は良かったんだ。この瞬間までは。郁弥はため息を吐いた。

「なんの用だよ。有坂」

有坂と呼ばれた少年は上機嫌だった。それはまるで世の中に何も困ることなんかありはしないとでもいうような微笑みで郁弥を一瞬ドキッとさせた。

「今日は聞いてくれんのか?多騎」

「気かねえよっ、つってもまた邪魔する気だろうがよ」

有坂は乾いた声で笑った。

「はははーっ、当たりだぁ」

「くだらねえ話だったらぶっ飛ばしてやるぜ」

「あらまあ、苛ちやね。はははっ 」

ゆっくり体を起こしながら郁弥は眉間に皺を寄せた。正拳を握ると気力が湧きあがって来るような気がした。火花の飛びそうな目で睨まれた有坂は慌てて身を引きながら両手をかざして振った。

「分かった分かった、冗談はよすよ。おまえに殴られたらひと月はガッコ出てこれねぇよ」

なにを言ってやがる。郁弥はおべっかとも本音ともつかぬ言い分にかえって苛つきを覚えた。郁弥が空手をやっていたのは高校に上がる直前までの五年間ほどだ。級友にも知っているものは殆どいまい。

「何が言いたいんだ、何がよ、」

いよいよ不機嫌そうな郁弥の態度を見て有坂は両手を広げて降参のジェスチャーを残すと、おもむろに表情を変えた。

「バイクのことさ、…」

「バイク?」

口調を変えて含みを持たせたようなその一言の意味が分からず、郁弥は一瞬気を緩めた。

有坂は繰り返した。

「そう、バイクのことさ。俺が話しに来たのは」

「何のことだよ。事故ってマシンと身体をぶっ壊した間抜け面を見に来たってぇのかよ」

有坂の話は少なくとも郁弥の気を引いたようだった。有坂はにやにやしている。

「そんなんじゃねぇよ。事故ったのは不運だったな。車の割り込みだったんだって?」

郁弥は鼻を鳴らして乗り出しかけた身体を椅子の小さな背もたれに戻した。別にこいつからご愁傷さまを言われる覚えはなかった。どうして自分の身体がこうなってしまったのか思い出して苛々するだけだ。路側帯を走り抜けようとした郁弥が突っ込んだのは、突然開いたクーペのドア先だった。真っ二つになったVΓのカウルが脳裏を過ぎる。投げ出され、ガードレールに直撃して砕けかけた右脚の大腿骨が疼くように痛んだ。神経をうまくつなげられたからよかったようなものの、下手をすれば一生松葉杖を手放せなくなるところだった。

郁弥は仏頂面をつくって口を閉ざした。有坂は少しの距離を置いたまま話した。

「実はな、俺達のチームに参加してもらえないかと思って誘いに来てんだ、俺は」

「チーム?族かよ、失せろよ」

「違う違う。レーシングチームだよ」

「ほおう?」

郁弥は大して興味を覚えた風でもなしに、瞼を半開きにして傾げた顎を机の上の頬杖に載せた。

「今ライダーを一人探してんだよ。近い将来、全日本を戦えるライダーをね。一人見つかってるんだけど、もう一人欲しい」

「まじかよ。バリバリ伝説みてぇだな…」

「はははっ」

「で、何で俺に声かけてるわけ?」

「おまえの度胸と腕を買ってんのさ。決まってるじゃんか」

「そいつぁどうも。光栄だね。突っ走って事故っちまったこの俺にね!」

郁弥はその気のないことをあからさまにして白い歯を剥き出して見せた。

「だいたい俺の身体はもとのようにはならんかもしれないんだぜ」

「大丈夫さ」

静かに 時間切れを告げる予鈴が鳴り始めた。いつの間にそんなに時間が過ぎたのだろうと郁弥はちょっと慌てている。気付かぬうちに有坂の話にのせられていたのだ。背を向けながら有坂は最後の言葉の続きを妙に優しく口に出した。

「きっと治る。絶対だ。また来る」

結局最後まで付き合っちまった。郁弥は深くため息を吐いた。




有坂良司の話を聞いてから二日目。降り止まぬ霧雨の中を家へ戻った郁弥は、玄関のポストに差し込まれていた新聞を引き抜こうとして、湿った新聞紙の隙間から滑り落ちた白封筒を何の気なしに拾い上げた。腰を曲げた姿勢にビリッと痛みが走ったが、郁弥はドアの取っ手に体重を預けて痛みをやり過ごした。まだ当分松葉杖は手放せなかったが、右脚の回復は順調だった。

封書は彼に当てられたものだった。差出人は、…ない。郁弥はその場で封を切った。

 表の樋を伝い落ちる雨垂れの音がいつまでも響き、その空間を満たそうとしている。既にいっぱいに近かった傘立てに閉じ切らないまま放り込まれた濡れた傘がゆっくり滑り落ちてカタリと音を立てた。

 脱ぎかけた靴の上で重いドアに凭れ、彼は広げた白い紙の上に目を走らせている。一瞬でも走った期待はどうやら裏切られたようだった。不審げに顔を曇らせ小首を傾げながら何度も読み返したそれを郁弥は無造作にポケットへ突っ込むと、杖を支えに靴を左脚で蹴飛ばすようにしてはずみをつけて上がり口に腰を落とし、じとじとする靴下を丸めて下駄箱の脇へ投げた。そうして暫く冷えた足をさするようにしながら考えていたが、やがて思い直すと角へ追いやった汚れた白い固まりを拾いあげ、洗面所の方へ半ば這うようにして歩いて行った。


「警告か、脅迫か」

郁弥は机の上に足を投げ出して椅子の背を軋ませながら呟いた。その姿勢が一番痛まなかった。頭の上に白い便箋がかざされている。ぐしゃぐしゃにしわの入ったそれは先ほど受け取った封書の中身に違いなかった。

「やっぱりあれのことかな」

便箋には印字した文字でたった一行、こう書かれてあった。


挑発に乗ることなかれ さもなくば、君は地獄を見るだろう…


「地獄ならもう見たぜ」

郁弥は紙切れを改めて丸めて頭の後ろに放り投げると、金属プレートの入った右脚をそっと撫でた。いったい誰のよこした手紙だろうと郁弥は考えたが、思い当たる節はなかった。こんな気取った警告をしそうなのは、挙げてみれば成瀬以外には考えつかない。奴が天国からよこした辞世の台詞なんだろう。馬鹿馬鹿しい。郁弥は机に手を伸ばし、封筒を破り捨てた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ