臆病ウサギの救い方
ノーコメント
あの後、僕は音子ちゃんにハグされ続け、羽織先輩と木々ちゃんが帰ってくる頃には、すっかり干乾びていた。とは言っても別にそういうことを音子ちゃん──からかなり露骨に迫られたけれど──と、した訳ではなく、ただ単に女の子に、それもガラス細工のように脆い子にハグされていては、振り解くときにもしかしたら傷つけてしまうのではないだろうか? と心配になり、結局二人が帰って来るまでひたすら抱きつかれて、露骨に誘惑されていたのだ。
誘惑──もしかしたら、梨澄の核となっている感情が『怒り』であるように、音子ちゃんの核の感情は『誘惑』か『喜び』なのだろう。いやしかし、そういえば切り離される感情は、それが原因で虐待を幾度もされた場合だけらしい。ならば虐待してくる人間を誘惑しないだろうし、もしも何らかの事情で止むを得ず誘惑していたとして、自分がしたくないことをして、それでパパから虐待を受けたら、むしろ止めないか?
しかしそれでもやめないというのなら、即ち、音子ちゃんの核の感情が『喜び』であるという何よりの証明になる。
ちなみに梨澄の核の感情が『怒り』だという情報は音子ちゃんから聞いたものだ。だからというわけではないけれど、万が一その情報が全くの嘘だった場合の対処法も、少しは考えておこう。
「ついこの前までは、こうやって誰かの為に何かを真剣に考えるなんて、しなかったのにな……」
そうだ、この前まで――兎鎖木ちゃんと昨日、あの夕暮れ時の教室で出会うまで。
その時まで、僕は自分でも嫌になる程に効率的だった。
羽織先輩にマッサージをするのは、美味しいご飯を手に入れるため。
無愛想極まりない木々と良く行動を共にするのは、自分よりも機械じみている人間といることで「僕はこいつよりも人間じみている」と錯覚するため。
元母親と会わないのも、サボタージュする顧問に注意しないのも、メリットがないから。
そうだ、思い返せば僕は今まで、ずっとメリットデメリットだけで人間を選別し、差別していた。
いや、己惚れるな。
今回だって、僕は。
兎鎖木ちゃんを救えば、自分の株が上がるから等と考えているのではないだろうか?
だとしたら由々しき事態――と思えないのが一番由々しき事態なのだが、それは取り敢えず棚に上げておく。
「……あの、羽織先――」
「む、瓦礫。二人っきりだぞ、今は」
僕の言葉を遮り、不満げに羽織先輩が言う。
「……わかりましたよ、紙収さん」
羽織先輩が、マッサージと共に僕に要求してきたもの。それは……。
「ふふふ、こうして下の名前で君に呼ばれると、恋人みたいだな」
「じゃあ、恋人に背中のマッサージを頼まないで下さい」
二人っきりの時は、下の名前で呼ぶ、だ。
こんな変態じみていることを要求してくる人、紙収さん以外の人間なら確実に晩御飯作って欲しくない。というか家から直ぐに追い出すのだが、しかし羽織先輩相手にそんなことをするよりも、仲良くしていた方が色々と都合が良いのだ。
「いや、『下半身のマッサージ』といえば恋人らしくならないだろうか?」
「ならないですね!」
ならないなあ。
恋人っぽくならないなあ。
「はっ! 愛人か!?」
「愛人か!? じゃねえよ」
何言ってんだ、この生徒会長は。
生徒会長。
よもや、この優秀な生徒会長が僕の性格に気が付いていない訳ではあるまい。……どうせ、僕の性格を熟知し、その上で僕の性格を矯正しようとしているのだろう。全く、何でこの人はこんなに僕に絡んでくるのだろうか。今日だって、本当に生理食塩水を買ってきた後、先週や先々週と同じように僕の家に付いて来て、名前の長い料理を四品程作ってくれた。そして対価として僕も紙収さんの腰をマッサージしている。はたしてマッサージも含めて僕の性格を矯正するためのプログラムなのか、それとも、腰のマッサージは個人的な趣味なのか、いったいどっちなのだろうか。個人的には後者の説が有力だ。
何をどうすれば、腰のマッサージが性格の矯正に繋がるというのだろう。
……まさか。まさかとは思うけれど、この人、本当にただ料理の対価として、僕にマッサージをさせているのか?
いやいやいやいや、待て瓦礫。落ち着け。なんていったって、あの紙収さんだぞ? 絶対に僕に何かしらを仕掛けようとしているに違いない。じゃないと、紙収さんがいよいよ救いようのない変態になってしまう。
僕は、チラリと紙収さんの顔を一瞥する。
紙収さんは凄く気持ち良さそうに目を細め、「あー、そこそこ……」と、完全に僕のマッサージを堪能していて、少なくとも僕をどう矯正するかなんて微塵も考えて無さそうな顔をしていた。いや、確かにマッサージをしている僕からしてみれば、普段シャキっとしている紙収さんをここまで骨抜きに出来るとかなり誇らしい。しかし同時に、「紙収さんもしかして何も考えてなくね?」と思ってしまう。
いや、そんな訳がない。そう信じたい。
それよりも、だ。
「紙収さん、少し……良いですか?」
そういって僕が紙収さんの肩をポンポンと叩くと、紙収さんは僕の声のトーンから察したのか、乱れた服を直しながら立ち上がり、僕の横に座った。
「……兎鎖木の事か」
そういう紙収さんは、さっきまでのマッサージの時とはまるで別人のようにシャキっとしていた。
「よし、まずは情報を交換しようじゃないか」
「情報、交換ですか」
「そうだ。大方、私と木々が生理食塩水を買いに行った時に、梨澄以外にも人格が出て来たのだろう?」
「え、ええ。確かに出て来ましたけれど……何故それを?」
あまりにびっくりして声も出なかったが、しかし紙収さんは特に自慢気にするでもなく、淡々と理由を説明しだした。
「いや、何の事はない。予め梨澄から訊いていたのだよ。「兎鎖木の人格は、俺を含めて七人だ」と。だから、木々と生理食塩水を買いに行く時に、部室に私の携帯電話を仕掛けさせて貰った――という訳だ。何か質問はあるか?」
盗撮じゃねえか。
「む、なにか不満気だな――ああ、生理食塩水は保健の串島先生から頼まれていたからついでに買ってきたのだ」
そうじゃないよ。
生理食塩水の事じゃないよ。
「……ありがとうございます、良く分かりました」
「おお、そうかそうか。私は何せ口下手だから伝わるか心配だったが、そういって貰えると嬉しいぞ」
説明することによって、盗撮していたことが露呈してしまってはもう口下手とかいう次元の話じゃないが、しかし紙収さんの盗撮だって、学び舎で後輩の女子を裸にした僕よりはまだマシなので、そこは今回は不問にするとしよう。今は、兎鎖木ちゃんを救うことが最優先だ。
「それで、何人出てきた?」
「えっと……二人、いや、兎鎖木ちゃんを合わせると、三人です。兎鎖木ちゃん、梨澄くん、そして、音子ちゃん」
「音子、ちゃん? 女性か?」
「ええ、女性でした。……今更ですけれど、人格が全員、兎鎖木ちゃんが切り捨てた感情が核となって形成されているということは、ご存じですよね?」
「ああ、それも梨澄から訊いている。確か、兎鎖木が父親から虐待を受けた時、原因として兎鎖木が切り捨てた感情が人格になる――だったか?」
「ええ、その通りです。人参の葉の部分を切って水に着けていたら、その部分が葉を伸ばすみたいな感じですね」
「ふむ、その例え、木々にも使えば良かったかな……」
何処に食いついているのですか。
というか、ふと頭に浮かんだだけの例え話にそこまで感心されると、照れてしまうというか……。
「ん? もう木々には説明したのですか?」
「ああ、一緒に薬局への道中で説明した。……しかし、木々は私の説明を訊きながら、しきりに小首を傾げていてな……まあ、最終的には分かってくれたから良いのだが」
どうやら、説明下手というのは謙遜ではなくて、本当にそうらしい。
「ともあれ、取り敢えず木々は理解してくれたから良かった」
閑話休題。
「それで、君は一体どうしたいんだい?」
「どう、したい?」
復唱する僕に、紙収さんは畳み掛ける。
「兎鎖木ちゃんを助けるなら、梨澄達を消す。梨澄達を助けるなら、このまま兎鎖木ちゃんを……」
「放置する、ですか」
身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、それらを見て見ぬ振りをして、今まで通りに父親から虐待を受け続けて、徐々に壊れていく兎鎖木ちゃんを、それでも放置する。といえばかなり残酷に聞こえるが、しかし梨澄を消すのだって、どうせ虐待が無くなるか否かの問題とは、全くと言って良いほど別なのだ。
どうせ、どちらを選んだ所で虐待を受け続ける。そして、僕にはどうすることも出来ず、例え兎鎖木ちゃんの惨状を警察に伝え、兎鎖木ちゃんのパパが隔離されても、果たしてそれが兎鎖木ちゃんを救った事になるだろうか? 否。そもそも、他人である僕が干渉するのは、駄目だ。兎鎖木ちゃんがこちら側に助けを求めていないのに通報したって、そんなものは単なるお節介でしかない。それを僕だけではなく、紙収さんも、木々も分っているからこそ、誰も口に出さず、通報すらしないのだ。
等と大層な理由を述べたが、しかし、それだけじゃない。
僕は、トラブルに首を突っ込みたくない。
「僕は――みんなを救える方法を、模索します」
「ふふ、みんなを救う、か。お前、なかなか面白いことを言うんだな」
昔は絶対にそんなこと言わなかったのにな。と、紙収さんはまるで昔を懐かしむように呟き、上体を布団に倒した。
「さあ、もう寝よう。明日は月曜日だからな」
「ええ、さっさと眠りましょうか」
そういって、僕も上体を倒す。
「あ、いや、私は瓦礫が性欲処理を夜にするために寝ようとしたのだが……」
「……寝ましょう」
人間という生き物は驚くべきことに、百年間も生きることができます。そしてその間に幾度となく間違いを犯し、数多の人間に迷惑をかけます。
というわけで、まずは謝罪と言い訳をば。
前回、四話のあとがきで締め切りを厳守するとか言っておいて、さっそくこの失態でございます。そして言い訳ですが、テストが近かったのと、高校の勉強がアホ程難しいのとで、受験勉強並みに勉強していました。しかし流石にいつまでも更新しないわけにもいかないので、こうして書き上げたわけです。そのせいで文字数が三千字程ですが、すぐに六話も投稿していくので、ご了承ください。つか、許してください。