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無題2

作者: 薫る紅茶


    一章



 爺さんがブレンドしたこのコーヒーは苦めにブレンドされている。

 でも、今朝のコーヒーはいつにも増して苦かった。

 昨日の夜、俺は彼女とさよならをした。

 別れは突然ではなかった。この別れはだいぶ前からわかっていたことだ。

 彼女は高校を卒業後、東京の商社に就職することになった。

 最初は俺も着いて行こうと、東京の企業に就職しようと思っていた。

 しかし、突然爺さんが死んだ。癌だった。

 見つかった時にはすでに体中に癌が転移していて、手のつけようがない状態だったそうだ。

 そうだ、というのも爺さんと離れて暮らしていた俺と母さんは、爺さんが危篤状態になるまで爺さんが癌だということを知らされていなかった。

 爺さんは母子家庭だった俺達に心配をかけまいと最後まで唯一の血縁者である俺達に知らせることをためらったのだという。これは後で医者に聞いた話だ。

 爺さんが死んだ後、早くに婆さんを亡くした母さんは爺さんの死に耐え切れず欝状態になった。

 母さんは病院に行くことを強く拒み、病状は悪化していく一方だった。

 俺はいつものように学校から家に帰って、玄関の扉を開けた。すると母さんは、天井からロープを吊るし、首を吊って死んでいた。

 俺はいつかこんな日が来るのではないかと、母さんの様子がおかしくなったときから予感していた。

 俺は二人しかいなかった家族を同時に失った。

 自暴自棄になった俺は、学校に行かなくなった。

 学校に行かなくなった俺を彼女は心配してくれた、俺に残されたものは彼女しかいない。そう思った。

 学校に行かなくなった俺には当然、退学という結果が待っていた。というよりも学費やらが払えなくなったというのも一因にある。

 俺は生きていくために働かなければいけなかった。

 高校中退という肩書きの俺に出来る仕事は限られていた。ハローワークに行っても何もせずに帰ってくる日が何日も続いた。

 とりあえず土木作業の仕事を見つけた俺は、その仕事に飛びついた。

 慣れない作業に戸惑いだけが積もっていった。

 ただ生きるためだけに俺は働き続けた。

 そんな俺から彼女の心はどんどん離れていった。

 そして昨日、彼女から別れの言葉を聞いた。

 俺は何も言い返せずただ彼女の言葉を聞いていた。

 涙は出なかった。

 唯一の希望の光だった彼女を失っても涙を流せなかった俺は、完全に心を失っていたのかもしれない。

 何もかもを失った俺は、仕事をし続けた。

 爺さんが死ななければ、俺は彼女と共に上京して幸せな暮らしが出来たのではないかと、爺さんの死を恨んだ。

 母さんがもっと心が強い人だったらこんな生活をしなくてもよかったのではなかったのではないかと母さんを恨んだ。

 彼女が俺を見放さなければ俺の心はここまで荒んでいなかったのではないかと、彼女を恨んだ。

 俺はこの世のもの全てを恨んだ。俺の心は闇に包まれていった。



 ある雨の日だった。

 いつものように惰性で仕事をして、ボロアパートに帰る途中だった。

 俺はふと、アパートの隣の空き地を見た。他意はなかった。

 そこには、雨が降っているのにもかかわらず傘もささずに女の子が立っていた。

 俺はすぐに視線を戻しアパートに向かった。

 アパートに帰った俺は、泥だらけになった作業着を洗いながら、シャワーを浴びた。

 シャワーを浴びた後、遅めの昼飯を食って、何気なく窓を開けてみた。

 窓の向こうは公園で、雨はまだ降り続いている。

 雨が降っているのだから当然、公園には誰もいなかった。

 ふと、さっきの女の子がどうなったか気になった。

 どうせ雨が降っているのだから家にでも帰ったのだろうと思った。

 窓を閉めると俺はベッドに横になった。何故かとても眠かった。


 目が覚めたのは夕方だった。

 外を眺めると、朝から絶え間なく振り続いていた雨はその勢力を増し、まさに土砂降りだった。

 俺の脳裏には何故かあの女の子のことが焼き付いていた。

 何故か気になって仕方がなかった。

 また、窓を開けて公園を見ると、公園は水浸しになっていて、雨の日の学校のグラウンドを思い出した。

 女の子は居なかった。やっぱり家に帰ったのだろうと俺は勝手に納得しようとした。しかし、俺の頭の中の何かがそれを許さなかった。

 俺はとうとう傘をさして公園へと向かった。

 外は視界がほとんどないような状態で、傘を打つ雨も傘を壊さんばかりだった。

 俺は、公園内をぐるぐる回って歩いた。

 何がそうさせるのかわからなかったが、俺は一時間が過ぎても公園を歩き回っていた。

 外に出て二時間が過ぎ、少しずつ暗くなってきた公園を、俺は後にしようかどうしようか考えていた。

 すると公園のベンチに目がいった。

 何故かは分からないが目がいったのだった。

 そこには、昼にいた女の子がいた。

 雨に濡れながらベンチに座っている女の子がいた。

 女の子は長髪で白いワンピース、それに赤いランドセルという格好だった。

 昼に見かけた時と格好が変わってないのをみると、この娘は家に帰っていないのだと分かった。

 俺は吸い込まれるように女の子に近づいていった。

 近くで見ると女の子は痩せ細っていて、とてもまともな暮らしをしていないことがうかがえた。

 近づいてみたのはいいものの、俺は何をしていいか分からなかった。

 すると女の子が頭を上げて俺を睨んだ。

 俺は突然のことに驚いた。しかし俺は女の子から視線を離さなかった。

「何故睨む」

 俺は驚いた、何故か俺の口が勝手に開いたのだった。

「あんたも私を虐めるんでしょ」

「は?」

「あんたの目、私を虐めた人達の目と同じだもん」

 女の子が発したのは、俺の思っていたこととはかけ離れていた。

 虐める?

 まじまじと女の子の容姿を見ると、恐らく虐待されているであろう痣が、腕や足にあった。

 それにしても俺がその”虐める人”と同じ目をしている、というのはどういうことだろう。

 確かに俺の瞳は綺麗なものとは言えないだろう。

 しかし、それが虐める人と同じ目だというのは驚きだった。

「どうしてこんなところに居るんだ」

 またしても俺の口は勝手に開いた。

 どうやら俺はこの娘と会話がしたいらしい。

「あんたなんかに答える気はないわ」

「親に虐待されているのか」

 俺は思っていた事を口にしてしまった。

 親に虐待されているなんて、このくらいの子は気にする・・・・いや、考えたくもない事実だろう。

 俺は発言してしまった事を後悔した。

「・・・・すまない、忘れてくれ」

「あんた、虐める人達とは少し何かが違う・・・・」

 俺は女の子の一言に、何か救われたような気がした。

 何から救われたのかはわからない。

 しかし、俺は何か救われたような気がした。


 その後、俺と女の子は少し話をした。

 女の子の名前は佐藤志穂だということ、やっぱり親から虐待を受けていること・・・などなどだ。

 志穂は、今日の学校の途中に抜け出して、家出をしたらしい。

 俺は家に帰れとは言えなかった。

 虐待という事実がある以上、無理に家に帰れとは言えなかった。

 俺は志穂に聞かれるでも無く、俺の今までの人生を話しだした。

 志穂は何を言うでも無く、俺の話を聞いていた。

 小学生の志穂には分かりづらい話だったが、元が賢い子なのだろう。志穂は俺の話を理解しているようだった。

「志穂、お前これからどうするんだ?」

「・・・・・わかんない」

「わかんないじゃないだろ・・・家には帰りたいわけではないんだろう?」

「・・うん・・・・帰りたくない」

「だったらどうにかしなければならないだろ・・・色々と」

「・・・・・・・」

「とりあえずうち・・・来るか?」

 自分でも何を言っているか分からなかった。

 世の中の全てを恨んでいる俺が女の子を助ける?これはもう笑い話じゃないか。

 俺には・・・・・無理だ・・・出来るわけがない・・。

「・・・すまん・・聞かなかったことにしてくれ・・・・・・じゃあな」

 俺は志穂から離れた。

 これ以上志穂の近くにいると、自分が変わってしまいそうな気がしたから・・・。

 俺はそれがとても怖かった。

「ねぇ、お兄さん・・・・」

 俺は雨音で消えてしまいそうな志穂の声を無視して公園を後にした。

 無責任じゃないか?・・・・・・そんなこと知らない、俺には関係ない・・・・。

 そう考える事が俺のためだと言い聞かせた。

「ねぇ・・・・聞こえないの!?」

 俺の心は氷でできている。

 そう、唱え続けた。

 十数回唱え終わる頃には公園を出ていた。

 志穂はついてこようとはしなかった。

 声もそれ以上はかけてはこなかった。

 俺と志穂の交流はそれで終わりだった。












 深夜のニュースでこの辺りに殺人犯が潜伏していると報道していた。

 その後に、小学生の女の子がその殺人鬼に殺されたとのことだった。

 場所は家の隣の公園。

 時刻は七時頃だったそうだ。

 俺は、心が何かに侵食されていくのを感じた。

 それは、罪悪感というものだった。

 すぐに殺されたのが志穂だと分かった。

 殺される寸前まで俺と一緒に居たことも、俺はよく知っている。

 あの時、俺が家に連れて帰っていれば志穂は死ななかった?・・・・・・。

 俺には関係ない。

 俺の心は氷でできている。

 俺はまた唱え始めた。

 そうすると俺は冷静になれる・・・・。

 孤独が俺の味方になってくれる。

 俺の心は氷でできている。

 心は氷でできている。

 心は氷。

 心は・・・・・・・・・・。

 俺はそのまま眠った。

 心にはただ、罪悪感だけが残った。








 朝、目が覚めると、一日中降っていた雨が嘘のように止んでいた。

 もう残り少なくなったコーヒーをドリップする。

 このコーヒーがなくなったら俺はコーヒーを飲むという習慣さえ無くなってしまうだろう。

 それぐらい俺にとってコーヒーを飲むことが大した事じゃないってことだ。

 爺さんが何故熱中していたのか、俺には分からない。

 俺はドリップしたコーヒーを飲み干すと、仕事に行く準備をし始めた。

 昨日洗った作業着は昨日のうちには乾かなかったようだ。今日は晴天で、作業もあるだろう。しょうが無い・・・・予備の物を着ていこう。

 点けっぱなしのテレビでは、昨日の深夜やっていたニュースが繰り返し報じられている。

 俺には関係ない。

 俺の心は氷でできている。

 無意識のうちに俺は唱えてしまっていた。

 俺の心の中にある罪悪感は、その存在を大きくし、着実に俺の心を犯している。

 俺はまるで志穂に対する謝罪の念を表すかのように、念仏のごとく唱えていた。

 俺は志穂の霊に恐怖しているのかもしれない。

 その恐怖を紛らわせようと、俺は念仏のように唱え続けていた。

 

 家を出た後、公園の前を通る時、俺の体は震えていた。

 俺には関係ない。

 俺の心は氷でできている。

 そう唱える事でしか、心の中の罪悪感を打ち消すことは出来なかった。

 


 仕事の最中も、志穂との僅かだったはずの会話がフラッシュバックしてくる。

 その都度に作業をミスする俺を現場監督はクビにした。

 俺は志穂を恨んだ、せっかく手に入れた仕事を失ったのは志穂のせいだ。

 志穂を恨むことで、俺は罪悪感をなかったことにした。

 俺は罪悪感から解放された。

 恨みは俺の糧になる。

 そう感じた。



 今日も朝から雨だった。

 5月に入ってから、やたらと雨が降っている気がする。

 まぁ梅雨だからと思ってしまえばそれまでだが、この雨続きの天気は、俺を憂鬱にするには多すぎだ。

 今日も朝早くからハローワークに来ている。

 目立って新しい求人情報がないことは、ここ2、3日通いつめている俺には当然の事のように思えた。

 3月にあった大地震の影響で確実に求人は減っている。

 地震の被害にあった地域に、大手の会社の下請け会社があったおかげで、大企業でさえリストラや経費削減に取り組んでいるありさまだ。隣県のここに余波がくるのも当然の事だ。

 そんな訳で、俺に合う仕事なんていうのは土木工事の仕事・・・・仕事というかボランティアに近いものばかりだった。

 俺はそもそも地震があったことをなんとも思っていないし、地震の被害にあった人なんてどうでもいいと思っている。

 そんな俺がボランティアなんてやるはずがない。

 仕事ならばやることはやるが、俺にも食っていかなければならないという事情がある。

 タダ同然で働くなんて御免被りたい。

 そんな訳で俺は、今日も働き口を見つけられないまま家路についたのだった。

 

 家に帰ると郵便箱に、大家からの退去通知が届いていた。

 そもそもここは、前に・・・といっても最近だが、働いていたところの寮みたいなもので。

 仕事をクビになった俺にここに居座る権利はないのだ。

 通知によると今週中には出ていかなければならないらしい。

 引越しとなると金がかかる。

 とは言っても、俺が所有している家財道具なんて19インチ程度のテレビと服が入っている衣装ケースぐらいだ。

 あとの必要な家具は、ここの備え付けのものだ。

 引っ越すと言っても軽トラックが一台でも事足りる。

 というより余るぐらいだ。

 俺は引越し先の事を考える事にした。

 しかし、仕事がない現状で家を貸してくれる不動産屋なんてないだろう。

 何としても今週中に仕事を見つけなければならない。

 また一つ仕事をしなければいけない理由が増えた。

 それこそが俺の生に対する唯一の執着なのかもしれない。

 俺は一つあくびをすると、敷きっぱなしの布団に寝転がった。

 仕事がない、学校もない。

 そういうことが如何に人間を駄目にするかを実感した。

 いや、俺は人間としてもう駄目になっているのかもしれない。

 そんな俺にとってはどうでもいい事を考えながら俺は瞼を閉じた。



 目が覚めたのは十時頃だった。

 眠るつもりはなかったのだが、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 何もする気が起きない。

 仕方がないからテレビを点けた。

 テレビではちょうど報道番組が始まるところだった。

 俺の小さな趣味が、この土日以外毎日やっている報道番組を見ることだ。

 仕事から帰ってきてシャワーを浴び、遅めの夕飯を食っていると、ちょうどこの番組が始まるのだ。

 そんな生活が続いたおかげでこの報道番組を見る事が小さな趣味になってしまった。

 惰性だといえば、そうなる。

 楽しみか?と聞かれれば、そうでもない、と答えるだろう。

 その程度の趣味なのだ。

 報道番組では、例の殺人鬼の事を評論家達がディスカッションしていた。

 奴は快楽のために殺人を犯し続けている、とか。

 奴は精神的に異常だ、とか。繰り返し言っている。

 俺は人を殺した事なんてないが殺人を犯す事をなんとも思っていない。

 強いものが生き残る。

 それが自然の摂理だ。

 しかし、弱い者が人を殺すというのもまたある。

 俺はそういう弱い者こそ真に強い人間なんだと思う。

 まぁ俺がテレビの向こうのあの場に居ればそんな事を口走ってしまうのだろう。

 恐らく、放送中や放送後に非難が殺到することまちがいなしだな、と小さく笑った。

 評論家達は未だに殺人鬼について話し合っている。

 俺はまた、嫌なことを思い出した。

 志穂のことだ。

 ここ2、3日忘れていたことを思いだしてしまう。

 心は氷でできている。

 また俺は唱え始めた。

 この言葉は爺さんがよく話してくれた戦争の話に出てきた言葉だ。

 戦時中、敵国の女子供を殺す時、爺さんの上官がそう唱えろと命じたのだそうだ。

 爺さんは、自分のことを殺人鬼だと嘆き続けていた。

 俺はそんな爺さんを見て涙を流した事もあった。

 今ならもう泣くことはないだろう。

 そんな涙なんてもう枯れ果てた。

 何回か唱えているうちに、俺は冷静さを取り戻すことができた。

 冷静になればなるほど、俺が志穂を殺したことにはならないという感情が強くなっていった。

 殺ったのは報道されている殺人鬼で、悪いのは俺じゃない。

 俺には関係ない。

 俺には関係ない。

「俺には関係ないっ!」

 思わず声にしてしまった。

 いつの間にか俺の心臓はドクドクと早鐘を打つように早くなっていた。

 俺は外の空気を吸うために窓を開けて顔を出した。

 すると外は土砂降りで視界がないくらいだった。

 しかし俺の目には公園と、雨に打たれながらも立っている小学生くらいの髪の長い女の子がいるのを見つけてしまった。

「・・・・・し・・・志・・・穂・・・・」

 そう、あれは志穂だ。

 あの日と変わらない姿でベンチの前に佇んでいる。

 俺は思わず窓をピシャリと閉じた。

「はぁ・・・はぁ・・・・」

 俺は胸の動悸で目眩がして、窓の前に座り込んだ。

 ありえない。





  二章



 絶対にありえない。

 志穂はあの殺人鬼に殺されたはずだ。

 俺は抑えきれない胸の鼓動を必死に堪えていた。

 もう一度窓の向こうを見る勇気を、俺は持ち合わせていなかった。

 テレビの喧騒と烈しい雨音だけが、俺の耳に入ってきた。

 心は氷でできている。

 心は氷でできている。

 俺は経をつぶやくようにぶつぶつと唱えていた。

 しかし、俺の体はブルブルと震え、心臓はバクバクと烈しく脈打ち続けていた。

 テレビでは殺された女の子の事を名前は別にして詳しく話していた。

 聞けば聞くほどそれが志穂だということを、俺に強く認識させる。

 俺には関係ない。

 心は氷でできている。

 そうだ、俺には関係ない。

 今公園にいるのは志穂じゃない。きっと違う子に違いない。

 そうだ、そんなに不安なら公園に行って確かめてみたらいい。

 でもそんなことできるのか?

 もし志穂だったらどうする?

 警察にでも届けるのか?

 死んでしまった存在に対して警察がどうこう出来るわけがない。

 ならどうする?

 このまま怯えて生活していくか?

 いや、このまま生活していくより真実を知ったほうが楽になれる。

 そう決心した俺は、雨具を手に家を飛び出した。

 外は烈しい雨で視界がとれない状態だった。

 雨合羽を着た俺は公園へと向かったのだった。


 家のすぐ隣の公園には、ほんの数秒で着いた。

 公園の地面は、連日の雨でぐちゃぐちゃになっていた。

 急いでいたので履物はサンダルで、俺の足は泥だらけになっていた。

 俺はビタビタと音を鳴らしながらベンチの方向へと走った。

 途中でサンダルの片方が脱げたがそんなことはどうでもよかった。

 ただ、俺はそこにいる人間が志穂であることだけを願っていた。

 志穂が殺されたのではなく、他の女の子が殺されたのならば、俺はなにも悩まなくていい。

 ただ、そこにいる志穂が、この世の者ではなかったのなら・・・・。

 そうだとしたら俺はとんでもないことをしようとしている。

 死者に会いに行くなんて完全に馬鹿げている。

 下手をしたら生命をとられかねない、そんなことをしようとしているのだ。

 俺はそれらの考えを全て投げ捨てて走った。

「・・・はぁ・・・・はぁ・・・・・はぁ・・・・・」

 ベンチにたどり着いた俺は、目の前にいる女の子を見据えた。

 女の子は背を向けたまま佇んでおり、顔を見ることができない。

 しかし、その女の子の服装は、あの日に会った志穂のものと同じだった。

 同じ服装に、同じ場所にある痣。

 俺の目の前にいる女の子は、志穂そのものだった。

「・・・・し・・・・志・・穂・・なのか?」

 すると女の子は俺の方に振り向いた。

 志穂だった。

 前に会った時よりも痩せ細っていたり、顔に痣があったりしたが、間違いなくこの娘は志穂だった。

「志穂・・・・」

「・・・・・お・・・にい・・・さん?」

 志穂は生きていた。

 俺は志穂の体をぺたぺたと触り、その存在を確かめた。

 志穂は生きていた、生きていたのだ!

 俺は志穂の生を確認するために、志穂の頬を引っ張ったりした。

「痛いよお兄さん」

「あ・・・・すまん」

 志穂は頬をふくらませてこちらを睨んでいる。

 俺は志穂の顔をまじまじと見た。

「なぁに?お兄さん」

「いや・・・なんでもない・・・お前・・志穂だよな」

「そうだけど・・・なに?」

「いや・・・本当になんでもないんだ」

「変なの」

 そう言った後、志穂は腹を押さえてしゃがみこんだ。

「ど・・どうした!」

「お腹が・・・・」

「お腹がどうしたんだ!また虐められたのか!?」

「お腹が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すいた」

「・・・・・・・・はぁ・・・」

「なによ・・・二日も食べてないんだもん・・・仕方ないでしょ」

「なんだお前飯食ってないのか」

「うん・・・」

「・・・・ちょっとそこの屋根のあるところで待ってろ」

 そう言うと俺は家に向かって走った。

 家に行けばなにかしら食えるものがあるだろう。

 ―数分後―

「待たせたな・・・ほれ」

「なに?これ」

「食いもんだ、昨日の弁当だが腐ってはいないだろう。食え」

「うん・・・ありがとう」

 志穂は、文句一つ言わず弁当を食べ始めた。

 最初は恐る恐るといったところだったが、終いにはがっついて食っていた。

「うまいか?」

「・・・・・・・・うん」

「よく噛んで食え、喉に詰まるぞ」

「わかってるよ!・・・・ゴホッゴホッ・・・」

「ほれみろ、だから言ったんだ」

「だって・・・」

「余計な事言ってないで食え、でないとまた詰まるぞ」

「うん」

 志穂は弁当の残りを急いで食べだした。

 誰もその弁当を盗らないというのに、弁当を急いで食う志穂を見て、普段の生活が少し垣間見れた。

 志穂を見ていると、酷い生活をしているのは前に聞いていたが、俺が思っている以上に辛い生活をしているのだと改めて感じた

「ごちそうさま」

「おう、どうだった?二日ぶりの飯は」

「美味しかった」

「そうか」

 そういうと俺はポケットからタバコを取り出すと、タバコに火を点けた。

 すると志穂は、ものすごく嫌な顔をした。

「ん?タバコは嫌いか?」

「お父さんが吸うから嫌い・・・」

「そうか、すまなかったな」

 そう言うと俺はタバコを携帯灰皿でもみ消した。

 俺はいつの間にか普通に志穂と会話していることに内心驚いていた。

 世間全てに呪詛を吐いていた俺が、また志穂と普通に会話している。

 俺は志穂に対しても恨みをもっていたはずなのに・・・・。

「ところでお前はこの数日間どうしていたんだ?家には帰っていないように見えるが・・・」

「・・・公園に居たり・・・街を歩いていると、おまわりさんに声・・・かけられるから・・・・」

「最近、警察が多いからな・・・なんせ殺しがあった」

「そうなの?」

「あぁ、お前と同じくらいの女の子が殺されたそうだ。その女の子を殺した殺人犯が街をうろついている。警察も警戒しているんだ。お前ぐらいの女の子が街をふらついていると声をかけられて当然だ」

「そうなんだ・・・」

「お前も外をふらついていない方がいい。家に帰れないなら警察か、児童相談所にでも行った方が良い。殺人鬼が街をうろついているんだ、お前ぐらいの歳の子がまた狙われる可能性もある」

「うん・・・・でも・・・・」

「でもじゃない。どうしても行けないなら、俺が無理やりにでも連れて行く」

「・・・・・・・・・・」

「どうする?」

「私は・・・・・」

「私はなんだ」

「私は・・・・・・」

「だからなんだ」

「私は・・・・・・・・・お兄さんの所がいい」

「はっ!?」

「だからお兄さんの所がいいの!」

 俺は、志穂の言っている意味が最初よく分からなかった。

「なんなんだお前はっ!」

「私はお兄さんのところに行きたいの!」

「一体何を言っているんだ!見ず知らずの俺みたいな人間のところに来るなんて正気の沙汰じゃないぞ!」

「だって・・・・・」

「だってなんだ?」

 先ほどまでの勢いはどこにいったのか、志穂は黙ってうつむいてしまった。

 当然俺の言葉にも反応しない。

「おい・・・黙っていたら分からないじゃないか・・・何が良くて俺の所に来たいなんて言ったんだ?」

「・・・・・・・」

 志穂はそれから十数分はそうしていた。

 聞こえるのは、未だやまぬ雨とそれが創りだす音だけだった。

 ―二十分後―

 俺が携帯で時間を見ると志穂と会ってから三時間が経とうとしていた。

 雨は降り続き、恐らく明日も雨になるだろうと思い始めていた。

 すると志穂がやっと顔を上げた。

「どうした?何か話す気になったか?」

「・・・・・・・」

 志穂は何故か徐々に顔が赤くなってきていた。

「・・・・・・・・・私は・・・・」

「なんだ?

「・・・・・・お兄さんが・・・・・」

「お兄さんが?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・好き」

「はっ!?何言ってんだてめぇ!」

「・・・駄目・・・・かな・・」

「駄目ってお前・・・・・そりゃ犯罪だろ!分かってんのか?大人と子供が恋愛関係になると犯罪になるんだよ!」

「・・・・・そういう好きじゃない」

「はい!?」

 俺は心の中で心底コケた、吉本新喜劇なみに。

「それじゃあどういう好きなんだ?」

「・・・なんか・・・・理想のお兄ちゃんみたいな・・・」

 俺は心の中で冷笑した。

 理想のお兄ちゃん?俺が?そんなことありえるはずがない。

 やっぱり志穂に優しくしすぎたな、これ以上付きまとわれてもうざったいだけだ。ここは引き下がろう。

「そうか、とにかく俺のところにはこさせん。以上だ、じゃあな」

「ちょっと待ってよ!」

 俺は志穂の静止を聞かないふりをして休憩所を出た。

 俺は雨具を休憩所に忘れてきた事を思い出していた。

 しかし、あえて雨に打たれることを選んだ。

 志穂に合わせる顔がなかったことも事実だ。

 公園を後数メートル進めば出れるところになって、後方からびちゃびちゃと泥にまみれた足音が聞こえてきた。

 俺はあえて振り向かなかった。

 その足音が志穂のものだということを分かっていたし、振り向いたところでなんて話しかければいいのか分からなかったからだ。

 俺は公園を後にし、家路についた。

 雨に打たれて気持ち悪かったから早くシャワーを浴びて全ての事を忘れたかった。

 家に着いた時点で俺はずぶ濡れになっていた。

 部屋が濡れることも構わずに俺は部屋に入った。

 

 風呂に簡単にはいった後、俺は慣例になっているTVを点けることもせず、寝床に横になった。

 部屋の片隅には雨や泥にまみれた雨具が放り投げられている。

 その雨具達が俺の視界の隅にはいる度に、先ほどの公園での事が思い出される。

 俺にとっては忘れたいこと・・・いや無かったことにしたいことだ。

 志穂の一言、一言が、耳に夏の日のさざなみのように耳に残り続ける。

 それは波のように襲ってきてはスーッと離れていく。それは俺が志穂になんの手助けもしてやらなかったことへの罪か、それとも俺自身が懺悔しているのか・・・。

 ただ俺は無気力感と同時に襲ってくる恥ずかしいやら憎らしいのやら分からない感情と戦っていた。

 そんな苦悶にも似た感情を押しつぶしている俺の耳に、階段を一段一段、何かを探すかのように、一歩一歩、歩を進める音が聞こえてきた。

 俺にはその足音の主が志穂であることを知っていた。だから俺は冷静になれた。

 志穂にさっき言われた言葉。

「お兄ちゃんか・・・」

 一人っ子であった俺にとっては初めて言われた言葉だった。

 俺に兄妹がいればあんなふうに呼ばれたのだろうか。

 家族。

 俺にとっては禁忌に近い言葉だった。

 爺さんは癌、婆さんは俺の記憶には無い、母は自殺、父親は・・・・・・分からない。

 小さい頃から・・・物心がつく頃には、父親の姿はなかったし、痕跡さえも皆無だった。

 母さんに小さい頃、一度だけ尋ねてみたことがある。動機はほんの少しの好奇心と、友達の一言だった。

「ぼくのオトウサンはどこにいるの?」

 今でも思い出す。その時の母さんの泣きながらも笑い、小さな俺の頭を撫でながら。

「どこだろうね・・・・お母さんにも分からないわ・・・」

 小さかった俺は、なんということはない。目の前で母親が泣いているのだ、小さい俺も一緒に泣いた。そして二人で抱きしめあったのだった。

 それ以来だ、俺は父さんのことやそれに関する話題を出さなかったし、母さんも何も言わなかった。

 だから俺は父親というのを知らない。

 歳を重ねるにしたがって父親への思いも薄くなっていった。

「家族かぁ・・・・」

 そんな事を考えていたら、玄関の前に人がいる、そんな気配がした。

 とうとう俺も覚悟を決めた。

 

「入れよ・・・濡れているんだから風邪引くぞ」

「いい・・・・の?」

「あぁ、とりあえず雨が止むまでだ。さぁ風呂にでも入れ、まだ暖かいだろうしな」

「・・・・・・ありがとう」

 そう言うとずぶ濡れの志穂は俺の部屋に入ってきた。

 もう床は俺が帰ってきたときに汚れてしまったので、もう気にもしない。

 そして俺はTVを点ける。やっと心が落ち着いたのが自分でわかった。



 TVでは連日の幼女殺害事件に関するパネルトークが行われていた。

「犯人はですねぇ・・・・ズバリ!若い男性でしょう!」

 そう少し肉の付けすぎだと思われる犯罪評論家が、唾を吹き出しながら熱弁していた。

 周りの良識人めいた頭のよさそうなタレントがそれに対して食いついていた。それに輪をかけるように、今度は見た感じ頭の悪そうなアイドルがキャッキャしていた。

「最近の若い人は罪意識が低下している!人を殺すことをなんとも思っていない!」

 続けるように女性評論家が眼鏡を光らせ畳み掛けている。

 そこで俺はTVを消した、これ以上こいつらの話を聞いていたってなんのためにもならない。

 歳の若い人間を悪く言うのはあまり好きではない。

 まず自分がその歳の若い人間であるのもあるし。今の若者社会を構成したのはゆとり教育やその他の子供を甘やかす法律を作った大人が悪いのだ。俺はそう思っている。

 それにこの事件は若い者の短絡的な快楽犯罪ではない。俺はそう考えている。勝手な推測にすぎないのだが・・・。

 そんな頭の足りない探偵ぶって考えていると、志穂が風呂からあがってきた。

「風呂・・微温くなかったか・・・・・・っておい!?」

 志穂は全裸だった。俺は言葉を失った。というよりも着替えのことを考えてなかった俺自身を嘆いた。

「・・・・・とりあえずそこら辺にある服でも着てろ・・・・服は洗濯している・・・・はぁ・・」

「う・・・ん・・・・」

 志穂も俺も思わず赤面してしまった。相手は小学生だろうが俺よ。相手にしてどうする・・・。

 志穂は手近にあったシャツを掴むとそれを着た。

 小学生の志穂が着るにはだいぶサイズが大きかったが、シャツ一枚で着替えが済むのでそれはそれで良かったのかもしれない。

 少し気まずくなった俺はまたTVを点けた。今度は先程のワイドショーではなく、情報バラエティのようなものだった。

「・・・なに・・見ているの?」

「ん?・・・・なんか適当に点けただけだ・・・他意は無い」

 そこで俺はタバコに火をつけようとしたところで志穂を見た。志穂はこの前会った時のように嫌な顔をした。

「ん・・・・・・すまんな・・・嫌いだったな」

「・・うん」

 俺は軽く舌打ちをしてタバコを箱に戻した。

 口が寂しかった俺はテーブルの上にたまたまあった飴を口に含んだ。

「お前も食うか・・・・飴」

「・・・・・うん」

 俺はぽいっと志穂に向かって飴を投げた。

「ありがとう・・・・」

 志穂はしげしげと飴をひとしきり眺めた後、包装をはがして飴を口に入れた。そんなに珍しい物だったかな?とも思った。

 そのすぐ後、志穂は飴をぺっと吐き出した。表情は苦悶の表情。

「どうした?」

「・・・・・・か・・・からい」

 そういえばこの飴はパチンコの景品としてもらったもので、ミントがきついものだったことを舐めながら改めて思い出す。子供には辛すぎたのかもしれない。

 冷蔵庫から比較的甘そうなジュースを取り出し(まぁ冷蔵庫の中身はほとんどビールだったが)志穂に渡した。

「ありがとう」

 そう言うとジュースをごくごく飲みだした。

「くっくく・・・・」

 志穂のあまりの必死さに思わず笑ってしまった。

 そこでハッと思った。俺はどれだけのあいだ笑っていなかったのだろう・・・。

 そこで急に冷静になる。

 俺は彼女を失った後から俺は笑っていない。

 彼女を失ってから俺は笑顔を忘れていたのだ。

 それをこの子は思い出させてくれた。

 その意味とは・・・。

 今はまだ分からない。

 それほどこの子の事を俺は知らないのだ。

 これから知っていけばいい?

 冗談じゃない、俺は独りで生きていくのだ。

 俺は全てを失った後、永遠の孤独は決まったのだ。

 そんな考えに至った俺の笑顔は自然と消えていった。

 そして志穂がここにいることに激しい違和感が募っていった。

 この状態は普通じゃない、俺がこんなことをしているのはおかしい。どうかしてる。

 何故俺は志穂を家に招き入れてしまったのだろう。

 分からない、全てが俺の考えを超越している。

 分からない、分からない、分からない。

 俺は不思議そうに俺を見つめる志穂を睨みつけた。そのことにどれほどの意味が含まれていたのか自分では分からないほど強く志穂を睨みつけていた。

 志穂は俺の突然の感情の変化に戸惑っているようだ。

 その瞳には畏怖の感情すら読み取れるほど、俺を恐れ、俺から離れていった。

 ただ、俺は志穂の瞳を見つめていると優しい気持ちにもなれた。

 それは不思議なことだった。心の中では志穂を拒絶しているのに、心のどこかで志穂に対する優しさ・・・・そんな感情が俺の心のなかを渦巻いていた。

 俺はそんな訳の分からない気持ちのまま。志穂は俺に対する恐怖感を抱いたまま。数時間が過ぎていった。


「さっきは・・・・すまなかった・・・・」

「なに・・・・・が・・・?」

「・・・・・・・・睨んだりして」

「・・・うん」

 俺は時間が経つにつれて自分の事を責めていた。

 自分にもそれなりに理由があったのだが、なんにせよ小学生を怖がらせた自分がバカバカしく思え、それに伴って自責の念が募っていた。それがあって俺は自然と志穂に謝っていた。

 いつしか俺は志穂にたいする優しい気持ちでいっぱいになっていた。何故かは分からない。先ほどまで負の気持ちでいっぱいだった俺の心は、この数時間で180度変わっていた。

 俺は志穂の瞳から恐怖の感情が消えるまで謝り続けた。

 数分もすると志穂は俺の近くに寄ってきて、俺の頭を撫でた。

 その構図は傍から見れば滑稽に見えたかもしれない。大の大人が小学生に頭を撫でてもらっているのだ、まさに滑稽だ。

 ひとしきり頭を撫でられた俺は、少し赤面しながら志穂を見つめた。

 志穂の瞳はまるで慈悲深い天使のような眼をしていた。そんな眩しい瞳を俺はまっすぐ見つめられなかった。

 俺は志穂の顔を見ないように頭を上げた。

「とりあえず・・・・飯食うか?」

「うん・・・お腹すいた」

「なんか作るか・・・」

 といっても冷蔵庫の中は酒しか入っていないし、外は豪雨だ、買いに行く事もできない。

 どうしたものか・・・・・。

 仕方ない、買いに行くか。近くのコンビニまでは歩いても五、六分。走って行けば二、三分で行ける距離だ。合羽でも着て行けばいいだろう。

「ちょっと待ってろ、なんか買いに行って来る」

「・・うん・・・早くしてね」

「あぁ」

 少し生意気だとは思ったが、先ほどの天使の様な瞳を思い出してその思いを打ち消した。

 隅に置いてあった合羽を手に取ると、それを着た。

「行って来る」

「気をつけてね」

「あぁ」

 このやりとりに若干の違和感があったが、気にせず外に出る。

 外は視界が数メートルも無い、そんな豪雨だ、帰ってきたらまた風呂に入らなければいけないだろうかと思うと少し憂鬱だった。

「仕方ない・・・行くしかないもんな・・・・・」

 俺は雨の中を進んでいった。

 

 コンビニには雨だというのにお客がたくさん居た。

 そこで俺は周囲の異変に気がついた。

 周りの客が全員耳にイヤホンのようなものを付けているのだ、

 それで分かった。ここにいる客は全員警察官だ。それも何かの捜査中、待ちぶせでもしているようだ。

 コンビニの店員もそれを分かっているらしく、なにやら挙動が不審だ。

 ようはここ最近起こっている殺人事件の犯人がここに来ることを警察は察知したのだろう。

 俺は犯人扱いされるのではないかと内心ビクビクしていた。ここ何日かで犯人が若い男だということがTVで取り上げられているからである。格好も合羽姿犯人に間違えられても不思議ではない。

 俺はできるだけ怪しまれないように堂々と買い物をすることにした。

 買い物の最中も周りの捜査官達は俺の事を凝視しないようにしつつもこちらへの視線は感じる。

 俺が買い物を終え会計をしている時も視線は感じる。俺がなにかしようとすればすぐに取り押さえるように待機しているのが分かる。

 店員も俺のことを犯人だと勘違いしているらしく、さっきより挙動が不審になっている。

 会計を終え俺がコンビニを後にしようとした時、コンビニ内の緊張感は最高潮に達した。

 俺がコンビニを後にすると、何人かの捜査員が付いて来た。俺はここでも怪しまれないように走ってきた先ほどとは違い静かに歩いている。捜査員も静かに後をつけてくる。

 さっきとは違い、雨も小降りになってきていた。

 帰りの数分間、俺も捜査員も緊張が足音からも伝わってくる。

 ぴちゃぴちゃと足音を立てながら帰っていく。捜査員は家のほんの数メートル前できびすを返して帰っていった。

 あの慌てぶりを見ると何かあったのだろう・・・・・また事件があったのか?

 事件が連続で起こっている公園は少し先だ・・・・・行ってみるか?・・・・・いややめておこう、余計な疑惑をもたれても迷惑だ。

 でも気になるのも確かだ、しかし気になっていた志穂は今家にいる。それでいいじゃないか、俺には関係ない。志穂さえ無事ならば・・・・・。

 俺は家に向けて足を向けた。

「ただいま」

「おかえり」

 久々に口にした言葉だった。ただそれだけでも何故だか嬉しい気持ちになるのは何故だろう。

 俺は少し緩んでしまった口角を元に戻して、テーブルにドサッと荷物を置いた。

「何が食えるかわからんから適当に見繕ってきた。もし食えないならもう一度行って来る、雨も小雨になってきたからな」

「食べられるよ」

 ガサゴソ買い物袋をあさっていた志穂が言った。

 どうやら志穂には食べ物の好き嫌いは無いようだ。その点安心した。

 ガサゴソあさっていた志穂が袋からサンドウィッチを手に取っていた。

「それでいいのか?」

「うん、好きだから」

「他にもあっただろ?弁当とか、菓子とか」

「あんまり食べたこと・・・・・ないから」

「そうか・・・・」

 この会話から、食生活に関してもまともな生活をしていなかったのが分かった。

 こんな子を見ておきながら自分のことを不幸だとは言えなかった。

 子供なのに子供らしい事をさせてもらえなかった志穂。子供なのに早く大人にならざるをえなかった俺。二人の間になにかが通じた気がした。

 黙々と食べ続ける志穂、そこに生の執着があるように見えた。そんな達観した心など俺は持っていないはずなのに。

 サンドウィッチを綺麗に食べ終えた志穂は窓から空を見上げた。

「雨・・・・・・・止んじゃった」

「あぁ・・・そうだな」

「帰らなくちゃいけないんだよね・・・・」

「・・・・・・服が乾い・・・・たら・・・・・・な」

 俺はいつの間にか志穂と居る笑いもなければ何もないこの空間が居心地のいいものだと思い始めていた。

 俺は志穂と別れることを名残惜しく思っていた。

「服・・・・・乾かないといいんだけどな」

「えっ!?」

「・・・・・・なんでもねぇよ」

「でも・・・・・」

「いいから忘れろ」

「・・・うん」

 俺は失言してしまったのか?心で思っていることが素直に言葉になってしまったのか・・・。

 俺は志穂と一緒に居ることを知らぬ間に望んでいたのだ。

 しかしそれを許容することをどこかで恐れている。

 いや・・・また失うことを恐れているのだ。また大切な物を・・・・。

 俺はもう二度と大事なものを失いたくない。失うくらいなら最初から手に入れなければいい。そうだ、俺は孤独に生きていく事を誓ったんだ。その誓いを今更破るのか?

 しかし俺の心は烈しく揺れ動き、志穂と一緒に居ることを選ぼうとしていた。

「・・・・・・いるか」

「なに?」

 小さな呟きだった。それを志穂が逃さないようについてくる。

「一緒に・・・・・・居るか?」

「えっ?」

「他のところに行きたくないのなら・・・・俺の所に居るか?」

「・・・・・・・いいの?」

「二度言わせるな!」

「・・・・・・・居たい・・・・」

「なに?」

「お兄さんと一緒に居たい!」

「・・・・・・おうっ」

「お兄さんと一緒がいい!」

「・・・・・・あぁ」

「お兄さん大好き!」

「・・・・・・ふっ・・・」

 また笑った・・・。俺の心は完全に志穂に開いていた。志穂を受け入れていた。志穂を大事に思っていた。

 俺の心は僅かな時間で志穂に溶かされていた。

 こうして俺と志穂の生活が始まった。





  三章



 生活が始まったとはいえまだ何もしていない。生活が始まったとも言えないのかもしれない。だが始まったものは始まったのだ。

 まずは生活の基本、仕事だ。

 俺は現在無職、家はもうすぐ出ていかなければいけないし、仕事がなければ衣食住、全て整わないのだ。


 一晩が明けて、俺は冷静にこれからの事を考えれるような心境になっていた。

 まず仕事を見つけてこの寮から出ていき新しい住居を見つけること。もしくは生活保護を・・・いや志穂が居る以上生活保護に頼ることはできないだろう。

 まず第一に生活調査がはいるため志穂の存在がバレる。

 家族でもない志穂と生活しているのがバレれば警察沙汰だ。俺は立場上誘拐犯みたいなものなのだから。

 そうなるとやはり仕事を探すしか無いわけだ。守るものが出来た以上もう何がなんでも仕事を見つける。そう誓った。

 朝、簡単に昨日買ってきたコンビニ弁当などを食べ、志穂に家から一歩も出るな、と言い聞かせた後、俺は余所行きの服に着替えてハローワークに向かうことにした今日こそは仕事を見つけて来なければならない。なんせこの寮の退去期限が明後日だからだ。

 俺はバスを乗り継いでハローワークに向かった。今日は昨日の雨が嘘のように晴れている。

 ハローワークはこのご時世からか満員御礼だった。

 列に並んでPC検索の順番を待った。

 小一時間ほど待つと俺の順番になった。PCで条件を甘めにして検索すると何件かめぼしい候補があった。

 俺はその五件の検索結果をコピーするとすぐに相談に向かった。

 ここでも待ったが、先ほどではなかった。三十分もすると俺の番になった。

「すみませんこの五件なんですけど・・・・」

「あぁこれね。この五件は人気が高くてねぇどうかなぁ~」

 第一印象で軽い人間だと思った、ぬるま湯に浸かりきった人間だと思った。

「急いでいるんです!どうかお願いします」

「ん~あなたは若いからね、優先して紹介してあげることも出来る求人もあるんですよ~例えばこれですね~」

 そう言うと五件コピーしてきた求人情報の一つを指さした。

「コンビニですか」

「そう、コンビニ。どう?やってみる?」

 俺は正直接客業とかサービス業は向かないと思っていた。しかしとにかくやってみなければとも思った。

「はい、やってみます」

「んじゃあ先方に電話連絡してみますからちょっと待っててくださいね」

 そう言うと職員は、求人情報に書かれていた電話番号に電話をした。

 数分話しているかと思うとその後に電話を切った。

「よかったねぇちょうど若いのが欲しかったんだって。深夜だけど大丈夫ですか?」

「はい、よろしくお願いします」

「それじゃあお昼にコンビニに直接行って面接、まぁ先ほどの電話からだと大丈夫だと思うけれどね。それじゃあこれ紹介状、んじゃあ頑張ってください」

「ありがとうございました」

 そう言うと俺は相談ブースを離れた。

 昼までにコンビニまで行かなければいけないわけだが・・・・・って!昨日のコンビニじゃないか!あんまり焦って仕事を探してたから場所まで確認していなかった。

 寮の管理人さんに頼んであの寮に続けて居させてもらえるよう頼んでみようか、とも思ったが近くに新しい部屋を探せばいいと思った。なんせあの辺りは住宅街だし安アパートが多い、見つけるのは容易いだろう。

 とはいえまずは面接だ、面接次第ではこの話はなかったことになってしまう。そんなチャンスを棒に振る真似は出来ない。俺には守るべきものがあるのだから。

 俺はまたバスを乗り継いで家に帰っていった。

 家に着いた時間は十一時、面接会場のコンビニまでは十分もかからない、志穂の様子を見に寄ろう。

「なにしてるんだ?」 

家に帰ると志穂は部屋の掃除をしていた。誰にも何も言われていないのに掃除している志穂は家でもこうして両親のご機嫌を取っていたのだろう。

「掃除なんてやらなくてもいいぞ」

「だって汚かったし」

「それはすまなかったな・・・・・ほら昼飯だ」

 そう言うと、ハローワークの近所のスーパーで買ってきたお惣菜やらを出した。

「うわぁ~ご馳走だ!」

「そんなに喜ぶことか?これからもっと食えるようになるぞ」

「やった~!」

「俺はこれから仕事の面接だから先に食ってろ、一時には戻る」

「ふゎぁい」

「口の中に物が入った状態でしゃべるんじゃない。じゃあ行って来る」

「・・・・・・・ゴクン・・・・いってらっしゃ~い」

 やれやれといったところで俺は家を出た。足取りは軽い、なんだか楽しくなってきた。

 すたすたと歩い事十分で着いた。少し早かったが遅いよりはいいだろう。

 店内に入ると店長らしい小太りの男が俺に気づくとこっちに向かってきた。

「やぁやぁ!君が今朝ハローワークからの電話の子って」

「はいそうです、よろしくおねがいします」

「はいっ採用!明日から働いてもらうから」

「えぇ!採用ですか!」

 あまりにも急なことだったので心底ビックリした。しかし仕事が決まった方が心を満たしていた」

「もしかして採用・・・・・嫌だった?」

「とんでもないです!よろしくお願いします」

「深夜だけどいいかな?時給も高いし、いいと思うよ」

「深夜でもなんでもやります!」

「んじゃあ明日から出れる?」

「すいません、ちょっとお金必要なんで日給制にしてもらえないですかね・・・一ヶ月ぐらいのことなんですけど」

「それぐらいなら大丈夫大丈夫・・・・それでなんで金がいるんだ?」

「事情があるってだけですよ」

「もしかして借金?」

 そこで志穂の話をしたとこでこの人は警察にでもリークしそうだ・・・・・となると。

「えぇパチンコで生活費の分までスッちゃったんで」


「そうか!頑張れ!」

「・・・・はい」

 なんとかごまかしてはみたが、借金持ちという汚名を背負ってしまった。これから先が大変そうだ。

 結局面接らしい面接もせず決まってしまった仕事だが、深夜給だしこの先の生活は二人分位ならなんとか賄っていけるだろう。

 コンビニを出て家路に着く。

しかし、不思議に思うことがある。昨日はわさわさ居た警官達が今日はコンビニには居なかった。殺人現場からほど近いこのコンビニを拠点にしているという、俺の勘は間違っていたのか?それとも夜になると現れるのか?とにかく、このコンビニで働いていく以上そこら辺もわかってくるだろう。

そんな事を考えながら歩いていると、今日の晩飯の事が頭を過ぎった。

またコンビニまで戻るか?いや、これから働くところで買い物なんてしたくない。少し距離はあるがスーパーまで歩こう。まだ昼間だし何もないということはないだろう。

そう考えた俺は歩く方向を九十度変えてスーパーに向かった。


スーパーまでの道のりは四キロといったところだろうか、歩くには少し疲れる距離だが、今日は仕事が決まっためでたい日だ。今日くらいは良い物を志穂に食わせてやりたい。そんな事を思いながらただ歩き続けた。

バスを使えばいいのかとも思ったが、これからは色々と金がかかる。節約だ節約。


小一時間かけて俺はスーパーにたどり着いた。

買い物カゴを持ち惣菜コーナーに向かう。

俺は料理があまり得意な方ではない。ただこれからはしっかりしなければならないだろう。志穂ぐらいの子には栄養たっぷりの食い物を食わせなければいけない。料理も勉強しなければならないだろう。

惣菜コーナーで手頃な寿司を二パックカゴに入れた後、適当にジュースなんかを選んでレジに向かった。

会計を済ませると、スーパーを出てまた歩き出した。

時計を見ると二時を回っていた。志穂には一時には帰ると言ったが一時間も過ぎてしまった。これからまた歩くとなるとまた更に一時間はかかるだろう。二時間の遅刻だ。

俺は帰り道を早歩きで歩き始めた。


 家の前に着いたのは二時四十五分。これでも急いだはずなのだが・・・。

 志穂が心配だった。

 家に入り靴を脱ぎながら居間の方を見ると志穂はTVを点けっぱなしにして寝ていた。

「待ち疲れて眠ったのか・・・」

 そう口にすると、冷蔵庫に買ってきた物を詰め始めた。

 その途中、そういえばアパートを見つけなければいけなかったのを思い出して心底慌てた。

 今日中にも部屋を決めなくては・・・・。

 寝ている志穂にタオルケットをかけると『不動産屋に行って来る五時には帰る』と置き手紙を書きテーブルの上に置いた。そして志穂を起こさないように玄関に向かった。

 家を出たら外は曇模様だった。もしかしたら、夕方には雨が振ってくるかもしれない・・・。急ごう。

 近所の不動産屋に行くと、ガラス窓に何件か近隣のアパートの不動産情報が貼ってあった。その中にはめぼしい物件がなかったので、中に入る。

「すいません」

「・・・・・はーい」

 一目見てヤル気が無いなと思った。今日は人の運が無いようだ。

「この近辺でワンルームで安い物件ありますか」

「え~・・・・はい・・・それではここらへんなんかどうでしょう」

 店員が見せてきたのは今の寮から数メートルも離れてない、というか寮の隣のアパートだった。

 賃料もそこそこ安かったし、礼金、敷金零円だったのでその部屋に決めた。

「そこでお願いします」

「はい・・・・では・・この書類に記入して下さい」

「はい」

 その後契約云々をして手続きを終えた俺は、部屋の鍵を受け取った。

 一日でこんなにすんなり決まるとは思わなかった。仕事も家も決まってしまったのだから、これは運が良いと言っていいんじゃないんだろうか。

 部屋の鍵を持って近所の商店街に向かった。合鍵を作るためだ。志穂の分と俺の分の二つ。

 合鍵も早々に作ってもらうと、帰路についた。

 

 家に着くと、眠っていたはずの志穂が起きてTVを見ていた。

「遅くなった」

「置き手紙見たから大丈夫」

「そうか・・・あぁ仕事と家決まったぞ」

「ほんと!よかった」

「あぁこれでしばらくは安泰だな」

「うん」

 グ~と志穂の腹が鳴った。

「腹減ったのか?」

「寝たらお腹空いちゃった」

「よしっ少し早いが飯食うか」

「うん!」

「今日は少し豪華にしてみた。寿司だ」

「お寿司!食べたこと無い!」

「まじかよっ!」

「だって・・・・」

「・・・・・すまん」

「いいんだよ、私んちがおかしかっただけなんだから・・・・」

「これから・・・」

「なに?」

「これから経験していけばいい・・・・・・・・・俺と・・・・・・」

「・・・・・・うん」

 グスッと鼻をすすったかと思うと志穂は泣き始めた。

「おいっ!泣くなよ・・」

 そう言っても志穂は下を向いたきり嗚咽を漏らし続けた。

「俺が泣かせたみたいでなんかバツが悪いだろ・・・」

「グスッ・・・・・・ち・・・ちがう・・・・ちがうの」

「それじゃあなんで・・・・」

「う・・・・・うれ・・・・うれしくて」

「嬉しいって・・・・・寿司がか?」

「ちがう!お兄さんが言ってくれたことが嬉しくて・・・」

「そ・・・そうか・・・嬉しかったのか・・・・」

 志穂は俺が言った些細な事が泣くほど嬉しかったらしい、俺には分からないことだ。人の言葉で泣くなんて・・・。

 俺はまだ心のどこかが凍っているのかもしれない。

 志穂の出現によって大分溶けていた心が、まだ凍っていたことに少し安心した。

 何故安心したのかは自分でも分からない。

 何か冷めた気分になりながらも、目の前の志穂の泣いているとも笑っているとも言えない顔を見て微笑んでいた。

 そうしたやり取りがあって、ようやく飯になった。

 冷蔵庫から寿司とジュース(寿司には合わないかな?と今更に思ったが)を取り出してテーブルに並べる。

「飯食ったら引越しの準備だ。まぁそんなに急がなくても明日やればいいんだが」

「ううん、早くやっちゃおう」

「そうか、まずは飯をゆっくり食え」

「うん」

 そうして、粛々と飯を食ったのだった。


「お兄さん、これは?」

「あぁそれはゴミだ」

「これは?」

「それもゴミだ」

「ゴミばっかじゃん」

「仕方ねぇだろ男の一人暮らしなんだから」

「これからはレディもいるんだから気をつけてよね」

「誰がレディだ、後十年経ってから言え」

「なによ!」

 こんな感じで引越し作業は続いている。時刻は八時過ぎだ。

 引っ越す先が隣なので志穂が梱包、俺が運ぶ作業をしている。

 引越しは時間と労力がかかる。と言っても七時前から始めたのでもう殆ど終わってしまっているのだが。

 今になって自分の荷物の少なさに驚く。引越し業者を呼ぶ必要もないほどだ。

 残すは部屋の掃除だけ、という事になってまた明日やろうという事にした。

 俺と志穂は新しい住居で眠ることにした。

 新しい家はワンルームながら前の寮より広くて、荷物を片付けない状態でも二人が雑魚寝するには十分なスペースがあった。

 これからこの部屋で志穂と生活していく・・・・。何か感じるものがあった。


 









































今日の疲れがあったのか俺が早くもウトウトし始めた時、志穂が独り言のように呟いた。

「幸せな生活」

 俺はそれを聞くか聞かないかの感じで聞き流した。

 幸せな生活・・・・・その全てが俺にかかっている。そう考えると少し不安になった。

 守るものがたった一つ増えただけでこれほど重圧があるとは思わなかった。

 明日からの仕事、それも不安だった。

 初めての接客業、俺に出来るだろうか・・・。

 考えていてもしょうが無い。流れに身を任せよう・・・今だけは。













 

 目が覚めると見慣れないキッチンの方から料理を作る音が聞こえた。久々に聞いた音だった。

 布団から起きると俺は物音のするキッチンへ向かった。向かったと言っても扉一枚挟んだ向こう側なのだが。

 狭いキッチンでは志穂が何かを作っていた。

「何作ってんだ?・・・・味噌汁か・・・」

「うん、味噌汁。私料理といえば味噌汁くらいしか作れないから・・」

「味噌汁なんて作ってもらったのは久しぶりだな・・・これ食えんのか?」

「失礼だな~食べれるに決まってるじゃん。ちょっと食べてみてよ」

「ん・・・・・・・・美味い」

「でしょ~まったく」

「お前は今日から味噌汁係な」

「え~しょうがないなぁ・・・いいよ」

「頼むぞ。さぁあとのおかずは俺が作るからあっちいって待ってろ」

「うん」

 そう言うと俺は冷蔵庫からハムと卵を取り出してハムエッグを作った。

 それを居間に持って行くと志穂と二人で並んで食べた。

 仕事まではまだ時間がある、深夜の仕事だからまだ寝ていたほうが良いのかとも思ったが、一日を無駄にするようでなにか嫌だった。

 それで俺はダンボール箱を開けてコーヒーメーカーとコーヒーを取り出した。もはや習慣になっている行為だ。

 爺さんがブレンドしたこのコーヒーももう残り一回分になっていた。その一回分のコーヒーをドリップする。

 コーヒー独特の香りを楽しむ、これが俺の朝の楽しみだった。それも今日で終わりになるのかと思うと悲しくなった。

 新しい物を買ってくればいいのだろうけど、やっぱりこのコーヒーじゃなきゃいけないのだ。

 志穂は俺がドリップしているのを物珍しげに見ている。

「ん?・・・どうした?」

「ううん、初めて見たから」

「両親はコーヒー飲まなかったのか?」

「うん、お酒ばっかり。お兄さんはお酒飲むの?」

「俺は飲まん」

「よかった」

「なにかあるのか?」

「あいつらはお酒飲むと暴力ふるってくるから」

「そうか・・・・」

 志穂はやっぱり可哀想だ。家族には疎まれ剰え暴力まで振るわれている。そんなやつらの元に志穂は返せない。児童相談所に連れて行ってもまた家族の元に連れて行かれるんだろう。そんなのはダメだ。俺が守ってやらないと。

 でも障害は色々ある。それから志穂を守っていくのは困難だろう。それに俺は打ち勝てるのか・・・・。少し不安にもなった。

 そんな事を考えていたら少し眠くなってきた。さっきはもったいないと思ったが少し眠ることにした。

「志穂、俺少し寝る」

「うん、お仕事もあるからね」

「あぁ、おやすみ」

「おやすみ」

 そんな事で俺は眠りに落ちていった。


「・・・・んぁ・・・・・・んん」

 目をこすり瞼を開くと周りは一面オレンジ色に染まっていた。

「今・・・何時だ・・・・・」

「五時過ぎ位だよ」

 俺が体を起こすと志穂はTVを見ていた。

「やばっ!五時半から仕事だ」

「そろそろ起こそうかとも思ったんだけど・・・・」

「起こすならもうちょっと早く起こしてくれればよかったんだが・・・・引越しの荷物をバラさなければいけなかったし」

「ごめん・・・」

「あぁ・・・いいんだ。まずは仕事だ」

 俺はTVを見ている志穂の後ろで着替えを始めた。

 荷物を崩していないので手近にあったTシャツとジーパンに着替えた。

「じゃあ行って来る。TVばっかり見てないで早く寝ろよ。俺が帰ってくるのは朝だからな」

「わかってる。いってらっっしゃい」

「行って来る」

 そして俺は仕事に向かった。


 仕事に向かうと言っても徒歩十分の距離だ。軽い散歩程度で着いてしまう。

 そんな他愛もない事を考えながら今や隣の隣になった公園を見る。

 ここで殺人事件があったとは思えないほど公園は閑散としている。事件があったからだと言えばそうなる。誰も事件のあった公園で子供を遊ばせようとはしないだろう。しかも被害者が子供だ、警戒して誰も近づかないだろう。

 公園を横目に俺は職場のコンビニに向かう。初めての接客業だということで、自然に足が遅くなる。

 遅い足取りだとしても、色々考えていても、着くには着くのだ。いつの間にかコンビニは目の前だった。

 コンビニの裏手に周り、従業員専用の出入口へ向かう。

 ドアノブを捻ると簡単に扉は開いた。

「お疲れ様です」

 恐る恐る声をかけながら入っていくと、昨日面接をした店長がデスクに座ってポテチを食べていた。

「お疲れ様です、今日からお世話になります」

「あぁ借金男君おつかれおつかれ、さっそくだけど仕事に取り掛かってもらおうかな」

「はい」

「まずは掃除からかな、詳しい事は先に出てる加藤君にでも聞いてくれ、君の事はもう話しているから」

「分かりました」

「んじゃ・・・・はい、これが制服ね、これに着替えて」

「はい、よろしくおねがいします」

 俺はあくまでも謙虚に接した。だがこれは緊張の現れだとも言えるだろう。

 ストライプの制服をTシャツの上から羽織ると、恐る恐る店内に向かった。

 店内は客が一人もいないガラガラな状態だった。

 レジ前には恐らくさっき言っていた加藤と思われる三十半ば位の男が、俺と同じ制服を着てあくびをしながら立っていた。

「・・・加藤さん・・・ですか?」

「ふわぁ~・・・・・ん?君は・・・・例の借金君か、俺加藤よろしく」

「よろしくおねがいします」

 ここにきても借金男扱いだ。店長、そして加藤にもだ。

 これから働いていくにしたがって色んな店員と交流する事があると思うが、その人達にも借金男扱いされるのだろうか・・・・・・・少し憂鬱だ。

「あの、店長から加藤さんに教えてもらえって言われたんですが」

「あぁ~そうだね~何から教えればいいんだ?」

「店長がとりあえず掃除からって・・・」

「あぁ掃除ね掃除。んじゃとりあえず事務室からモップとバケツ持ってきて」

「はい」

 第一印象は間違ってなかった。加藤・・・・こいつはダメ人間だ。

 俺はつくづく人間関係の運が無いなと一人愚痴りながら事務室へ向かった。

 事務室では店長がさっきと変わらずポテチを食っていた。さっきはのりしお味だったが、今はコンソメ味だ。こいつはポテチがどんだけ好きなんだ・・・。

「店長、モップとバケツどこですか」

「んん・・・・・・あぁ借金男か・・・モップとバケツ?そこの隅のロッカーの中だよ」

 そう言うと店長は事務室の端っこのロッカーを指さした。

「はい」

 俺はそれ以上会話をするわけでもなくロッカーからモップとバケツを取り出して、事務室を後にした。

 俺はここに仕事をしに来ているんだ。仲良しごっこなんてするつもりはない。

 店内に戻ると、また加藤があくびをしていた。暇だからとはいえ緊張感がなさすぎる。

「加藤さん持って来ました」

「ふわぁ~・・・・・ん?・・あぁ持ってきたのね。んじゃまずはトイレでバケツに水入れてきて」

 俺は生返事をすると、店の奥のトイレに向かった。

 トイレの隣にある水道から水を汲むと、また加藤の元に戻った。

「これでいいんですか?」

「おう・・・んじゃ店内モップがけして」

「分かりました」

 そう言うとバケツを手に店内のモップがけをはじめた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 かれこれ一時間はモップがけをしているが、その間客が入る様子がない。加藤も眠いのかダルいのかあくびばっかりしている、暇そうだ。


 更に三十分ほどモップがけをしているが加藤が何かを言ってくるわけでもないので黙ってモップがけをしている。

 客はさっきビールを買いに来た、酔っぱらいのサラリーマンが二人だけ、という閑散ぶりだ。その二人に対する加藤の接客ぶりもいい加減だった。

 さすがにモップがけも飽きてきたので俺は加藤に話しかけた。

「モップがけ終わったと思うんですけど」

「あぁ・・・そうだねぇ・・・・レジ打ちでも覚えておく?」

「あぁお願いします、とりあえずモップとバケツ片付けてきます」

 そういうと俺は一旦水道の場所に戻って汚水を捨てて、事務室にモップとバケツを置いてきた。ちなみに店長はまだポテチを食べていた、今度はうすしお味だった。

「戻りました」

 見るからにダルそうな加藤に声をかけると、めんどくさそうにレジ打ちのしかたを教えてくれた。


 三十分も教えてもらったらだいたい理解することが出来た。これで客がきても大丈夫だろう。

 その後もコンビニについての色々な事を加藤はダルそうに教えてくれた。見た目によらずしっかりものなのかもしれない。

 指導を終えると休憩だからと言って加藤は事務室に戻っていった。新人に店を任せるなんてどうかしてる・・・・やっぱり加藤は適当人間だ。

 それから二時間ほどレジ前に立っていたが客は一切来なかった。このコンビニは経営成り立っているのか?と思うほどだった。

 そうしていると、加藤が事務室から戻ってきた。

「借金君休憩して」

「分かりました、どれくらいで戻ってくればいいですか?」

「・・・ん?・・・・あぁ・・・・適当に」

「わ・・・・かりました」

 なんかわからんがとにかく休めばいいらしい。現在の時刻は午前三時、あがりが五時だからそれまで休むわけにはいくまい。一時間で戻ろう。

そう思いながら事務室に向かった。

事務室には店長が居なかった、やはり深夜までは居ないのだろうか。

「とりあえず休憩しよう」

 そう独り愚痴ると、事務室から外に出て、煙草を取り出し火を点けた。

 そういえば昨日は一日タバコを吸っていない。まぁ志穂が嫌がるからというのもあるが、俺も吸わなくても大丈夫ってことなのだろう。

「タバコ・・・やめるか」

 そう小声でつぶやくと、吸っていたタバコを携帯灰皿に入れてもみ消すと、持っていたタバコの箱を握りつぶしてゴミ箱に捨てた。

 暇を持て余した俺は事務室に戻って、なんとなく置いてある雑誌を読み始めた。

 誰の物かは分からないが、捨ておいてあるようなもんだから大丈夫だろう。


 はっと目を覚まして、驚いて時計を見るとちょうど一時間経っていた。

 開きっぱなしの雑誌を元の場所に戻すと店内に戻った。

 すると加藤がレジ前で寝ていた。立って寝ていた・・・・・器用だ・・・・。

「戻りました」

 俺が加藤に話しかけると、ビクッと一瞬動いた後ゆっくりこちらを振り向いた。

「あぁ・・・・・借金君・・・戻ったのね・・・んじゃレジお願い、俺あがりだから」

「えっ?店どうするんですか」

「・・・もうすぐ交代要員が来るからそいつらが来たら君も帰っていいよ」

「分かりました」

「んじゃ・・・・よろしく」

「はい」

 加藤はのそのそと事務室に向かっていった。

「なんか変な客来たらどうするんだよ・・・・」

 と一人愚痴ると仕方なくレジの前に立った。


 三十分レジ前に立っていると一組だけ客が来た。見た瞬間警察だと思った。

 その二人は深夜にもかかわらず目に緊張感が見て取れた。

 二人は十分位店内を見て回るとジュースだけ買って帰っていった。

 二人が帰っていったのと入れ違いに事務室から女の人がやってきた。

「あら、見ない顔ね・・・新人?」

 その女の人は店長と同じくらいの歳に見えた。

「今日からです」

「あぁ噂の借金君ね」

「・・・・・はい」

 この人にも借金男扱いだ・・・。もうどうでもよくなってきた。

「私この店の店長の妻です、よろしく」

 やっぱり店長の奥さんだった。そこで気になっていたことを聞いてみる事にした。

「よろしくおねがいします。ところでこの店店員さん何人位いるんですか?」

「この店ほとんど家族経営だから。私と夫が朝から夕方まで。それから朝までを加藤くんにお願いしているわ、だから今日加わったあなたを含めて四人でまわすことになるわね」

「はぁ・・・・」

「それじゃあ今日はお疲れ様、もうあがっていいわよ」

「・・・はい、お疲れ様でした」

 どうやら加藤の言っていた交代要員とは店長の奥さんのことだったらしい。

 帰っていいと言われたので俺はさっさと帰ることにした。

 事務室に戻って制服を脱ぐと一つため息を吐いた。

 客もまばらでやることも少ない。まぁ楽な仕事だ。これで給料がもらえるんだから儲けモンだ。

 そこで気がついたのだが明日からの出勤について聞いていなかった。

 俺は店内に戻ると奥さんに聞いてみた。

「明日からどういう風に出勤すればいいですか?」

「ん~まぁ明日とりあえず来てみて。それまでに主人と相談してみるから」

「分かりました。お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様」

 聞くものは聞いたので、俺は事務室に戻り荷物を持って外へと通じる扉を開けた。

 店内にいる時にちょくちょく外を見ていたのだが、やはりこの時間になると外は明るい。さっさと帰ろう。

 帰り道になってようやく程よい疲れと眠気が襲ってきた。

「帰ったら少し寝よう・・・」

 そう呟いた俺は帰路を急いだのだった。


「ただいま・・・・・」

 寝ているであろう志穂に向かって帰宅の意を示す・・・・が反応はないのはわかってるのだが・・・。

「おかえり」

 以外な反応だった。

志穂が眠そうな顔で扉を開けて玄関にやってきた。 

「お前・・・・・起きてたのか」

「うん、今さっきだけど・・・・」

「そうか」

 志穂はまだ眠そうで目をこすりながらあくびをしている。

「もう少し眠ったらどうだ?」

「お兄さんは?」

「俺は・・・・・少し眠るが?」

「んじゃ一緒に寝る」

「おう」

 そして二人で扉を開けて居間へ行き二人で布団も敷かずに寝た。


 瞼を開けた。明るい。窓からは日光がさんさんと降り注いでいる。

 今は何時だろうか・・・・。

 隣で寝ていたはずの志穂を見る。

 志穂はもう起きたのか、姿はない。

 扉を一枚隔てたキッチンの方から何かを作る音がする。

 あぁ志穂が味噌汁を作っているんだ・・・・。眠さ半分でぼーっと考えた。

 意外に疲れたのか、体が重い。慣れない事をしたからだろうか。

 思いのように動かない体を無理やり動かしキッチンへと向かう。

 扉を開けると、出汁と味噌の香りが漂ってくる。

「志穂・・・お前って味噌汁だけは大したもんだな」

「あっおはようお兄さん。それにしてもだけって酷いなぁ」

「ふっ・・・・。今日の味噌汁は豆腐か」

「冷蔵庫にお豆腐しかなかったんだもん」

「あの豆腐腐ってなかったか?」

「えっ?・・・・・・大丈夫だと思うけど・・・・」

「まぁいい・・・・食えればな」

「さぁ食べよ」

「あぁ」

 志穂がコンロの火を消し、お椀に味噌汁を入れる。俺はそれを持つと居間へ向かった。そこで気がついた。飯を炊いてない。まぁいい味噌汁だけでいいか。

 俺と志穂は味噌汁だけの遅い朝食を摂る。

 掛け時計を見るとあれから五時間は経ったようだ。睡眠時間としては短いほうだが眠れただけいいだろう。

 味噌汁をすすり終わると短い朝飯は終わった。さて荷解きをするか。

 それから四時間ほどかけて荷解きと軽い掃除をした。

 少ない荷物だったが、思ったより時間がかかった。掃除もしたので二人とも汗だくだった。

「風呂入るか?」

「うん、汗だく。それにお腹すいた」

「あぁ、もう昼も過ぎているしな。朝飯が遅かったとはいえ腹も空く頃だろう。先に風呂入っとけ、昼の用意をしておく」

「うん、わかった」

 そう言うと、志穂は風呂の用意をし始めた。俺は昼の用意を始めようと思ったが冷蔵庫を開けてみたところ、なんにも入っていなかった。これはなにか買いに行かないといけないな。

「志穂」

「ん?なぁに?」

「買い物に行って来る」

「コンビニ?」

「いや、スーパーまで行って来る」

「コンビニでいいよ~」

「働いてる所で買い物はしたくない。それに今後の食料も買って置かなければならないだろ?」

「そうだね・・・」

「それじゃ行って来る、お前は風呂だ」

「わかった、行ってらっしゃい」

「あぁ」

 そう言うと俺は玄関を開け、スーパーに行くためにバス停に向かった。

 今日も晴れだ。最近晴れ続きなので、梅雨ももう終わりに近づいているのかもしれない。

 バス停に着くと調度良くバスがやってきた。行き先を確認すると、スーパーの方に行くバスだったので、そのバスに乗った。

 バスに揺られているとこの近辺で事件が起こったとは思えないほど静観だ。

 数日前までは警察がずっと警らしていたのだが、ここ何日かは姿を見せていない。コンビニにも二人来た位だったし。事件が他で起きたとも聞かないし、最近起きたとも聞いていない。犯人が捕まったのだろうか・・・。

 そんな事を考えていると、降りるバス停に着いた。バスを降りると目の前にスーパーがある。毎回思うのだがここは本当に交通の便がいい。駅も近いしバスもある。そのせいもあるのかないのか、ここはいつも混んでいる。店内に入ると昼時も過ぎているというのに、主婦風な買い物客が大勢いる。

「何が必要だろう・・・・」

 とりあえずせっかくバスで来たのだから数日分は買わなければ損だろう。そう思った俺は、とりあえず腐りにくい生鮮食品や、何もなくてもこれがあれば飯が食えるような缶詰やふりかけなどや、志穂用の味噌汁の具になりそうな野菜なんかを買ったりした。

 店を出た時には両手いっぱいの買い物袋だった。

 バス停まで行って時刻を調べる。幸い五分後にバスが来るようだった。五分ぐらいなら待ってもいいだろう。

 五分きっちりでバスがやってきた。時刻に正確な運転手なのだろうか。

 バスに乗り込むと学生達で溢れかえっていた。その隙間に何とか体を押し込めると、バスが発車した。

 この路線で学生が多いのは、この路線の途中に、地元では有名な大学があるからだ。昼夜関わらず学生達がこのバスを利用している。そのため混むときは本当に混む。

 混み混みのバスに揺られること十数分、降りるバス停に着いた。降りるために相当な苦労をして、やっと降りることができた。

 バス停から家までには、公園を通る。公園はあいも変わらず人気がなかった。この公園に子供達の遊ぶ姿が戻るのだろうか。そう思った。

「ただいま」

「おかえり」

 風呂あがりのせいか、志穂からシャンプーのいい香りが漂ってくる。

 志穂は着替えを持っているわけではないのでいつもは俺のTシャツなんかを着ている。今もそうだ。これから外に出る機会もあるかと思う。その時着る服も必要だろう。それに俺のTシャツ姿もまぁ・・・・なんかあれだ。次の機会に服を買ってやらなければいけないだろう。

「随分買ってきたね」

「あぁ、バス代が勿体無いからな」

「だからって買いすぎだよ~腐っちゃうよ梅雨だし」

「なるべく腐りにくい物を選んできたから大丈夫だ、ついでにお前用の味噌汁の具になりそうな物も買ってきた」

「ありがとう!」

「当分は買い物には行かなくてもいいだろう」

「うん」

 とりあえず買ってきたものを冷蔵庫に入れるべきものは冷蔵庫に入れる。その他のものはキッチンの隅にまとめて置いておく。

 居間に戻って時計を見ると、時刻は既に四時を回っていた。そろそろ仕事に行かないと。その前に飯だな。

「志穂、飯にしよう。仕事まで時間もないし」

「うん。味噌汁作るね」

「おぅ・・・・・・。俺は・・・・・魚でも焼くか」

 志穂と二人で台所に立つ。そういえばこうやって二人で台所に立つのも慣れてきた。といっても俺の料理の腕は上がらないし、志穂は味噌汁ばっかりだ。今度料理本でも買ってきて勉強しようか・・・。

 慣れない手つきで魚を三枚に開くと、魚焼きグリルで焼く。今日の魚は鯖だ。鯖の焼ける香ばしい匂いと、味噌汁の出汁のいい匂いが、キッチン全体に漂っている。四、五分後二人の料理は出来た。

 料理を片付けたばかりの居間に持って行くと、テーブルに並べた。白米と焼き魚、それに味噌汁だけの質素な晩飯だが、一人で食べる飯よりはマシだ。こんな風に思えるようになったのは、間違いなく志穂のおかげだろう。ここ何日かで劇的に変わった点だ。

「食うか」

「うん、いただきます」

 二人同時に焼き魚をつつく。

「焦げてるな」

「こげこげだね」

 焦げた鯖を二人で食べながら質素な晩飯は終わっていった。

 飯を食い終わって、片付けた頃には仕事に行く時間になっていた。

「そろそろ仕事に行くが、今日みたいに起きていなくてもいいからな」

「今日はたまたま起きただけだから!」

「そうか・・・・・まぁ・・起きてなくていいからな」

「たまたまなんだから!」

「そうか・・・・・着替えるからあっち向いてろ」

「もう!・・・・・・」

「・・・・・・・・・もういいぞ」

「だから待ってたわけじゃないんだって!」

「そうか・・・それじゃ行って来る」

「・・・いってらっしゃい」

 志穂に一応言い聞かせておいて俺は玄関を開けたのだった。

 玄関を開けると梅雨の終わりの初夏の匂いがするような空だった。しかし空気はひやりとしていて、半袖で行くか長袖で行くかで迷ったかいがあった。俺は今長袖だ。

 初夏の爽やかな風を頬に受けてコンビニへと向かう。昨日と比べ気分は上々だ。なんせ昨日は何かわからない緊張感があったため、周りの気候など気にしてもいられなかった。今日は風を感じて歩けている。なんだかなんでもできそうな気がする。

 そんなこんなでコンビニ前までたどり着いた。中を覗くと加藤があくびをしながらレジ前に立っている。

 従業員専用入り口から入ると事務所で店長がポテチを食っていた。やっぱり好きなんだろうなこの人は・・・・ちなみに今日はじゃがバター味だった。

「お疲れ様です」

「ん・・・・・・・おぉお疲れさん借金君」

「あの・・・今日・・・今朝奥さんに今日とりあえず来てみろって言われたんですが」

「あぁそうね、そうだった。・・・・君のシフトは月水木土だ、どう?キツイ?」

「大丈夫です」

「それじゃよろしくね」

「はい」

 そう言うとロッカーから制服を取り出すとTシャツの上から羽織った。

 事務室から店内に出ていくと、薄めにかかった有線が聞こえてきた。

「加藤さん、お疲れ様です」

「ん・・・・・・・あぁおつかれさん・・・んじゃ交代な」

「はい」

 そう言うと加藤は事務室に戻っていった。来たばかりの人間に後を任せるとは、やはり加藤は適当人間だ。

 そう愚痴りながらもレジ前に立つ。今日も客の入りは悪いようだ。

 それから三時間黙ってレジ前に立っていた。

 今日はわりと客が来た日だった。最初の三時間は客が来なかったが、その後、日が変わるまでずっと客が来ていた。途中で加藤が戻ってきたが、二人でぎりぎりさばける位の客数だった。客が去った後。

「こんな客来ることあるんですか」

「あぁ・・・・たまにあるねぇ」

「はぁ・・・」

「んじゃ君は休憩ね」

「はい」

 俺は疲労困憊で事務室に戻った。

 事務室にはやはり店長は居なかった。椅子に座ると、目を瞑る。少し疲れたちょっと眠ろう。


「ん・・・」

 目を覚ますと休憩に入ってから二時間が経っていた。

「やばっ!」

 すぐに衣服を正すと店内に戻った。

「加藤さん遅れました!」

「あぁ・・・・・いいよいいよ客も来なかったし・・・・・んじゃ俺上がりだから」

「お疲れ様でした」

「おつかれ~」

 あくびをしながら加藤は事務室に戻っていった。

 その後、客が来ないので。モップがけをしたり商品陳列をして過ごした。

「お疲れ様~」

 声のする方を振り返ると店長の奥さんが事務室からやってきた。

「お疲れ様です」

「借金君もう上がっていいわよ」

「はい、お疲れ様でした」

 上がっていいと言われたので、そそくさと帰ることにする。

 事務室に戻り着替えると、時刻は五時少し前だった。志穂はまだ寝ているだろうか。まぁ起きているんだろうな。そう思った俺は帰路を急ぐことにした。


 軽く走る感じで家に向かう。このペースなら三分もかからずに家に着くだろう。

 家に着く間際、ふと公園の方を見た。そこには無人の公園があるはずだった・・・しかし。

 公園には人だかりが出来ていた、この時間に人がこんなに集まっているとはただごとじゃない。俺は吸い込まれるように公園に入っていった。

 人ごみをかき分け、騒動の中心に向かう。

 その中心には・・・・・・・・・死体があった。女の子の死体があった。

 女の子の死体には母親らしい女の人がしがみついて泣きじゃくっていた。

 しばらくすると警察がやってきて、母親を死体から引き剥がしていた。母親は嗚咽を漏らし、死体にしがみついていた。

 俺はその光景を黙って見ていた。そして志穂が心配になった。俺は家に走った。

「志穂!」

・・・・返事は無い。それが俺をさらに不安にさせる。俺は靴を脱ぎ捨てて部屋に入っていった。

部屋に入って部屋を見渡す、志穂は居ない。風呂を見に行く・・・風呂にも居ない。つまりこの家には志穂が居ないということだ。ではどこに居る。

 俺は外に走りだした。靴も履かないで外に出たため足が痛い。志穂が行くとしたらどこだ?俺は今になって俺が志穂の事を何もわかっていなかったことに気がついた。志穂の行きそうなところがわからない。

 どうしたらいい、俺はどうしたらいい。

「お兄さん?」

「・・・・し・・・・ほ・・・」

「どうしたの?お兄さん」

「・・・・・・・」

「どうしたの?」

「ばかやろーっ!」

「えっ!?」

「どうして外に出た!」

「・・・どうしてって・・・外が騒がしかったから・・・・・」

「あぶねぇだろうがっ!」

「・・・・・えっ?」

「家に帰るぞ」

 俺は志穂の腕を掴み、家へと早歩きで歩いた。

「・・・痛いよ・・・痛いよお兄さん・・・」

 俺は志穂の言うことを無視して歩き続けた。

 バタン。

 強めに扉を閉めて俺と志穂は家へと入った

 俺はわけの分からない気持ちになっていた。手が震えていた。それが怒りからくるものなのか何からくるものかも分からず、ただ震える手で志穂の腕を掴んでいた。

「・・・・・痛いってば・・お兄さん」

 志穂に言われてやっと志穂の腕に跡がつくほど握っていたことに気がついた。

「・・・・・・・すまん」

 そう言って、やっと手を離した。

「・・・・・・・うん」

「腕・・・・大丈夫か?・・・・」

「・・・・・・うん」

 志穂は傍目から見ても怯えているように見えた。出会った時。あの日の眼をしていた。

「驚かしてすまなかった」

「・・・・・・うん」

「お前も知っているだろう?この辺りで小さい子を狙った殺人事件が起きていることを」

「・・・・・・うん」

「それで・・・・・心配だったんだ・・・・帰ってきたらお前が居なかったから・・・」

「・・・心配・・・・・してくれたの?」

「・・・・あぁ」

「・・・・・・・・・・」

「どうした?」

「うぅ・・・・うぁー」

 突然志穂が物凄い勢いで泣きだした。

 俺はただあたふたとし、どうすればいいのか分からなくなっていた。

「うぅ・・うぇーん」

「おい・・・・どうしたんだ・・・・俺が何かしたか?」

 なんとか言葉をかけることが出来たが、志穂が泣き止む気配はない。

 俺はどんどん自責の念に押しつぶされそうになっていた。

 強引過ぎただろうか・・・・痛かったのだろうか・・・・怒鳴ってしまったのが悪かったのか・・・・どんどん悪い方向に考えてしまう。

「うぅ・・・・ぐすっ・・・・・・・嬉しい」

「えっ?」

「嬉しいの・・・」

 予想外の言葉だった。

 嬉しい?何が?俺には分からない。

 俺にとっては久々に聞いた言葉だ。恐らく志穂だって久しぶりに言った言葉なのだと推測できた。

「嬉しい?」

「だって嬉しくて・・・・」

「何が嬉しいんだ?」

「何がって・・・・心配してくれたから・・・・」

「そうなのか・・・・」

「そうなのかって・・・・・」

「分からないんだ・・・・・嬉しいだとか」

「えっ?」

「前も公園で話しただろ?俺は人間らしい感情を失ってしまったんだ」

「うん・・・聞いた・・・でも心配してくれたんだよね?」

「そう・・・・・・なのかもしれない・・・・」

 俺は未だに分からなかった。志穂の言葉に反応はしたが未だに自分のした行為の理由が分からない。

 俺は志穂と触れ合ってきて少しずつ人間らしい心が戻ってきている事は自覚していたが、ここまで人間らしい感情をあらわにしたのは初めてだった。だから未だに動揺し続けている。

 分からない、俺は分からないんだ、志穂。

「お兄さん・・・・私すごく嬉しかった」

「あぁ」

 俺はただ頷くことしかできなかった、なにも分からないのだから・・・。

「本当に嬉しかったんだからね?」

「そうか」

「・・・・・・・うん」

「・・・・・」

「どうしたの?」

「ん?・・・なんでもないんだ」

「なんか素っ気ない気がするんだけど・・・」

「・・・・」

 その後二人は無言のまま一時間を過ごした。


「朝飯にしないとな!」

 俺は無言を打ち消すように、少し声を張って言葉を発した。

「・・・うん!・・・味噌汁作るね!」

「頼む、俺は飯を炊く」

 そうして二人でキッチンへと向かった。

 俺は米を洗い、志穂はほうれん草を切っている。志穂は手作りの踏み台に乗っている。これは、初めて志穂がキッチンに立った時、身長が足りなくて苦労していたのを見て俺が作ったものだ。志穂は気に入ってそれをよく使っている。気に入ったというか、それを使わないとキッチンに立てないのだが。

 志穂が味噌汁を作り終わるのと飯が炊けるのはほぼ同時だった。両方を盛り付けると、それを持ち居間に向かった。

「いただきます」

「いただきます」

 特に会話もなく食事は進んでいく、当然黙々と食べ進めていったので、すぐに食事は終わる。

 沈黙を避けるためTVを点けてはいるが、俺も志穂もほとんど見ていない。聞こえてくるのは、やはり最近の殺人事件についてだ。

 連日のように報道されてはいるが、犯人についての人物像は曖昧で、評論家達が日夜バトルを繰り広げている。最近の傾向は、犯人は二十代から三十代の間。その情報についても噂程度の情報から推測されたものだ。愉快犯なのか、快楽殺人なのか、計画的殺人であるのかもわかっていない。

 TVは朝のニュースから情報ワイドショーに変わり、主婦向けの嫁姑がどうかとか遺産相続がどうなのかと、殺伐としたニュースからはかけ離れた、ほんわかとしたムードが漂っている。

 食事が終わり、洗い物を志穂に任せ、俺は窓から外を眺める。

 平日の朝らしく小学生が登校している、しかしその様子は普段の登校とは違い、集団登校のうえ警備員が二人付き添っている。やはりここ最近の事件のせいだろう、子供によっては保護者らしい人がぴったりと子供に張り付いているのも見伺える。

 そういえば・・・・といえば語弊があるが志穂も小学生だ。もう二週間近く学校には通っていないだろう。そこら辺はどうしたほうがいいのだろうか・・・。

 俺は志穂と暮らしてはいるが、直接の保護者ではない。学校に通わせるとなると、今までの経緯や事情を志穂の両親に問いただすだろう。二週間近くも学校に行っていないのだ、もしかしたらもう志穂の両親には話が伝わっているのかもしれない。そうなればまともな親なら捜索願なりを出すだろうし、そうなったら警察が動く。もしここがバレたのなら志穂の意思云々関係なく、俺は児童誘拐、監禁の罪で逮捕されるのは間違いない。

 志穂を学校に行かせないのは可哀想だし、行かないのは現行の法律上学校に行かせないのは法律違反だ。まぁこうして志穂と過ごしているのも法律上はまともなことではないのだ。

 やはり、これからのことを考えると志穂と暮らしていくことが難しいことは分かっている、しかし俺は志穂の気持ちと意思を尊重したいのだ。それに虐待をするような親のもとに帰すのは俺の意に反する。しかし、この生活は長くは続かない。それだけは分かっていた。

 深い溜息を吐くと窓を閉めた。

 はたして志穂は学校に行きたいと思っているのだろうか。それだけが頭を過ぎった。

「お兄さん何見てるの?」

「ん?・・・公園だ」

「何かあった?」

「今朝の喧騒が嘘のように静かだ」

「そうなんだ・・・」

 ここで学校の事を話すべきだろうか・・・そんなことも考えたが、何かタイミングを掴めず言い出せなかった。なにか聞いてはいけないような気がして・・・。このまま過ごしていけば、学校の事を話題に出すよりは長く生活できるだろう。しかし、志穂には当たり前の生活を送ってほしい、それが俺の願いだ。やはり聞いてみる方が良いだろう、そう決心した。

「ところで志穂・・・・」

「なぁに?」

「が・・・・」

「が?」

「が・・・・学校の方はどうするんだ?」

「学校?」

「あぁ学校だ」

「学校かぁ・・・どうなってるかなぁ」

「志穂も小学生なんだから学校のことは気になるだろ?」

「うん・・・まぁね」

「二週間も行っていないんだ、友達とかも気になるだろ?」

「・・・・・・うん」

「どうした?」

「私・・・・学校あんまり行ってなくて・・・・友達とかいなかったから・・・・」

「何故学校に行っていなかったんだ?・・・・・まぁ・・・話したくないならいいんだが・・・」

「うん・・・・あいつらが学校に行くぐらいなら掃除とか洗濯とかしろって・・・」

「義務教育だろ?学校側は何か言ってこなかったのか?」

「病気ってことにしてたみたい・・・」

「病気って・・・・・何を考えているんだ!」

「・・・・・怒ってくれてありがとう。でもそういう奴らなんだよ、あいつらは」

「学校に行きたいと思うか?」

「・・・・わからない」

「わからないって・・・・・義務教育なんだ、行かなくちゃいけないだろ?」

「でも・・・・」

「でも?」

「学校に行ったらあいつらのところに戻らなくちゃいけなくなる・・・・・」

「そうだな・・・・」

「だから嫌だ!」

 俺が思っていたよりも志穂は大人だった。俺が危惧していたことをほとんど理解している。この生活が長くは続かない事も理解しているんだろう。だからこそ志穂を正しい道へ導いてやるのが正しい大人のすべきことだ。

「志穂の親に会いに行こう」

「え?」

「親に会いに行くんだ」

「え?!やだよ!絶対に嫌!」

「それが一番良い選択だと思う」

「私はお兄さんと一緒が・・・」

「行く」

「え?」

「昼間は家に居るんだろう?今から行く」

「嫌だ!」

 志穂は今までに無い位の大声を出した。家に行く事が嫌なのは分かっている、でもこれは避けては通れない道なのだ。今行かなくても、いずれは志穂が家に帰る日が来る。それが早まっただけだ。俺は自分にそう言い聞かせた。

「志穂・・・・行くぞ」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」

「志穂・・・」

「嫌だ嫌だ嫌だいや・・・・・・」

「志穂!」

「嫌・・・・・」

「志穂」

「・・・・・・」

「行くぞ」

 そう言うと何も言わなくなった志穂の手を握り家を出た。

 家を出たのはいいものの志穂の家は分からない。これは何とかして志穂から聞き出さなければいけないだろう。

「志穂どっちだ?」

「・・・・・・・・」

「黙っていたってしょうが無いだろ?家を教えてくれ」

「・・・・・・・・」

「志穂」

「・・・・・・・・」

「志穂!」

 志穂は無言のままだったが俺の手を引いて歩き出した。

 どこに向かって歩いているのかは分からなかったが、公園に来ていたくらいなのだからそんなに遠くは無いのだろう。


 十数分は歩いただろうか、右手に学校がある。恐らくこの学校が志穂の通っている学校なのだろう。志穂が一瞬立ち止まった。

「ここに通っていたのか?」

「・・・・・うん」

 志穂は一言だけ小さい声で呟いた後、また歩き出した。

 

 そこから数分歩いたところにその家はあった。家と言っても古びたアパートなのだが、外から見た感じだと人が住んでいる様子はなかった。

「ここか?」

「・・・・・うん」

「行くぞ」

「・・・・・・・・」

「行くぞ」

「・・・・・・・うん」

 志穂は消え入りそうな声で呟いた後、下を向いた。

 俺は志穂の手を引き、アパートの郵便受けを見に行った。

「どの部屋だ?」

「・・・・・二階の端」

 二階の端だと言うと恐らく203号室だろう。203号室の郵便受けにはピザ屋のチラシやらで詰まっている。その様子を見る限り、だらしない生活をしているのが目に浮かぶ。

「さぁ行くぞ」

「・・・・・・・うん」

 錆びついた階段を登って行くと異臭が漂いはじめた。

 201号室と202号室にはどうやら人が住んでいる様子はなかった。だとすればこの異臭は203号室。つまりは志穂の両親の部屋から漂ってきているのだろう。ただ、この匂いはゴミの腐敗した臭いというよりは・・・・・・嫌な予感がした。

 203号室の前に立つと臭いは強くなった。嫌な予感は確信へと変わった。

「志穂・・・下に降りてろ」

「・・・なんで?せっかく来たのに・・・」

「いいから黙って降りてろ」

「・・・・・うん」

 志穂が階段を降りていくのを見届けた後、俺はため息を吐いた。

 俺の感じていた予感・・・・今は確信に変わったそれとは・・・・死体の臭いだ。

 母さんが家で首を吊っていた時の臭いそのものだった。いやそれよりキツイ臭いだ、恐らくかなり放置されたものなのだろう、扉を開けなくても分かる。

 俺は携帯を取り出すと警察に連絡をした。自殺しているであろう人が居ると。


 数分で警察がやってきた。それからは瞬く間だった。第一発見者として取り調べを行うため警察署へと連れて行かれる俺を、志穂は茫然自失な瞳で見つめていた。

 警察署で詳しく何を喋ったかは覚えていない。ただ、たまたま通りがかったら異臭がした、とだけ言ったような気がする。

 俺が取り調べを受けている最中に志穂が警察署に連れてこられた事を警察官から聞いた。

 志穂はずっと俺のことを話していたらしい、自分の親が自殺したというのに。

 志穂は今までの経緯を洗いざらい話したらしい。新たに入ってきた警官が俺のことを不審者を見るように見つめてきた。

 その後警官は俺からも志穂との事を話すよう促してきた。俺は志穂が話してしまったとのことだったので、警官に全てを話した。そうすると警官は志穂を連れてきて、俺について話すよう志穂に言った。志穂が何を喋ったのかは、頭に入らなかった。

 その後、俺は解放された。恐らく志穂の証言がよかったのだろう、俺に対する処罰はなかった。志穂は両親の事があるらしく、まだ話をしているようだった。

 俺はこれで志穂との生活が終わったと思った、二週間程度だったが楽しい日々だった。

自然と涙が流れた。

 涙を拭くと、俺は家に帰ることにした。もう誰も待っていてはくれないが、それでも俺の家だ、帰るしかあるまい。志穂はもう帰っては来ない。

 俺は歩き出した、誰もいない家に向かって。





















  第四章



 あれからもう7日が経った。

 バイトに行く気も起きず、俺はただ家で寝て過ごしている。

 警察からも連絡は無い、志穂がどうなったのかも分からない。

 最初の2、3日は気になって眠れなかったが、今ではもう何も感じないし気にもならない。

 タバコを買いに行く以外外に出ることのなくなった俺はもう廃人なのかもしれない。

 窓も開けずにタバコに火を点ける。ふと志穂の嫌がる顔が目に浮かんだ、しかしすぐに消えていった。

 タバコを吸ったらもう寝よう、今日こそはよく寝れるといいな・・・とそれだけを思った。



 携帯が鳴っている。

 眠気を払い携帯を手に取る。

「・・・はい」

「ひまわり養護施設の佐藤というものです」

「ひまわり・・・?養護施設?」

「突然のことで驚かれるかと思いますが・・・・・志穂ちゃんの事でお話が・・・」

「志穂・・・・」

 俺は突然の言葉に言葉を失った。



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