二日目 3
食事と買い物を終え、アパートに戻った暁人は玄関ドアのチェーンロックをしっかりと掛けた。
タバコとライターの入った買い物袋を玄関に置き、視線を居間に向けると……
居間のコタツで髪の長い女性が背を向けて正座していた。
死体が動いた!
暁人は死体が動き出したのかと息を飲んだ。心臓が跳ね上がり、乾いた喉が不規則な呼吸で痛み出す。実は有紀が死んでいなかったのではないかと思い至り、不法侵入を通報される事を恐れ慌てて逃げ出そうとした。
玄関ドアにへばりつき、後ろ手でチェーンロックを外そうと探った。
慌ただしく怪しい動きをする暁人に気が付いても、彼女はゆっくりと振り向くだけで闖入者に驚く様子も咎める素振りも見せない。
暁人は女性に見つめられ、段々と逃げ出す気勢を削がれた。改めて彼女を見ると、寝室で寝ている女性とは似ても似つかない高校生くらいの少女である。幽霊や死体が動き出したり生き返ったりしていないと気がついて、暁人は少し冷静さを取り戻した。
正座のまま躙って身体をこちらに向ける姿は美しく、作法に疎い暁人でも感じ入った。
「お邪魔してます」
少女がお辞儀をし、遅れてはらりと長い黒髪が流れ落ちた。
「……君は?」
ボロが出ないように暁人は言葉少なめに問いかける。
少女はヴァイオリンの弓のヘアを緩めている最中だったらしい。問われた少女は、膝の上に載せていた弓を右に置くヴァイオリンケースに仕舞うと居住まいを正した。
「利根有紀の妹……」
妹と聞いて、思わず暁人は台所に出したままにしておいた包丁へ視線を向けた。
「……マキの友人で、小田切 冬奈と申します」
「お、小田切さん?」
頭を振って包丁から意識を遠ざけると、名乗った少女に向き直る。
「……隣、見たの?」
死体を見たのかと、暁人は寝室を指さして尋ねた。冬奈は視線を暁人から逸らさずコクリと頷く。
「はい、見ました。そして私は貴方が正仁ではなく、大年暁人という人物である事も知っています」
少女の告白を聞いて目眩を感じた暁人の視線が、再び包丁へと向かう。
「お、俺は殺して……ない」
軽挙妄動をしてはいけない……と、強い理性が働き、暁人は弁明の言葉を口にした。弁明を聞いた冬奈は小首を傾げ、少し考える素振りを見せて寝室の襖を見遣った。
「……存じております。貴方は利根有紀を殺していません。そう認識してます。利根有紀の恋人は林田正仁。貴方の身分証を持って事故死した男です」
非日常的な事実を臆面もなく口にする少女を見て、暁人は異常事態が身に降りかかっている事を万全と感じた。
「……君は、どこまで知ってるんだ?」
声を絞り出す様な暁人に対し、冬奈は涼しい顔で、
「まずはそちらに座りませんか? こちらも落ち着かないので」
冬奈は奥の席。コタツの向こう側を薦めた。
逃げ出し難い奥に座るのは気が進まない。しかし向かい合う相手が華奢な少女なので、暁人はいざとなれば力尽で何とでもなると思い、コタツの奥に腰を下ろした。冬奈は見知らぬ男が近くを通るというのに、一切気後れする様子もなく居住まいを崩さない。
小田切冬奈は、良家のお嬢様。そんな雰囲気を纏っていた。
地元の有名女子校の制服に身を包み、傍らにはヴァイオリンケースを置いている。姫カットと呼ばれる黒髪は、夜闇が流れているかのようで深く魅力的な雰囲気を彼女に与えていた。円な瞳と整った鼻筋、小さいがしっかりと結ばれた口元などが愛らしい位置で配されている。さらに彼女の天辺から爪先までを纏う凛乎とした佇まいで、美貌と風格がより一層引き立っていた。
胸を弾ませる様な美しさではないが、一定の緊張を持って見とれてしまう……いや、視線を外せなくなる印象を持つ少女だ。
神色自若。暁人より十歳は若いはずだが、人格的な成熟さも感じさせる。
「暁人さんは随分と落ち着いておられますね?」
冬奈に対し思っている事を言われて暁人は動揺した。
「ま、まさか。それなら君の方だってこんな状況で落ち着いてるじゃないか」
「慣れてますので」
さも当然。造作もなく、死体が隣の部屋にあることを慣れてると言い放つ。
「大年さんも慣れておいでですか?」
「……まさか」
暁人は肩を竦めて見せた。単に対処が分からないから身を縮めているだけに過ぎないと、仕草で伝えようとした。伝わったかどうかは分からないが、冬奈は納得した様子で数回頷いた。
「では、どうされますか?」
「どうするって……」
「私がここに来たことにより、貴方には二つの選択肢が生まれました」
「……選択肢だって?」
「一つは自首する事。今ならば不法侵入と窃盗……されているならですが、この二つで済みます。撥ねられて死亡した男性は林田正仁だと私が証言し、そして貴方は今後、大年暁人として生きる事が出来ます」
「自首か……」
肩を落とし暁人は視線をさ迷わせた。
「もう一つはこのまま、ここで林田正仁として暮らす」
「まさか!」
死体のある部屋で生活など出来る訳がないと、暁人は腰を浮かせた。
「もちろん無理な事です。ですが、もしも望むのであればどちらの選択肢にも協力します」
いったいどうやって協力するのか甚だ疑問だが、そもそもあってないような選択である。
しかしふと思う。
この事実を知っているのが、この華奢な少女だけならば?
少女を見た時から頭を時より過ぎる口封じの手段……。何度目か分からない邪念を暁人は振り払う。
空腹から気の迷いで空き巣に入った結果が今なのである。ここでずるずると短慮を重ねては取り返しがつかない事になると、懸命に理性を働かせた。
結果……。
「自首か……。それしかないよな」
今なら出頭ではなく自首になり、罪も軽くなるだろうと打算が働いた。暁人にとってどこの誰とも知らない死体と暮らすのは面倒事この上ない。林田正仁という男は、何故か死体をこの部屋に運び込んで生きているように見せかけていた。暁人はその行為を疑問に思ったが、林田正仁が殺害犯ならば犯行隠蔽の為で致し方ない事なのかもしれない。
もしかしたら昨日の事故も、恋人を殺してしまった罪の意識から車に飛び込んだ結果なのかもしれない。
自首という答えを出して、何かの間違いが重なり自分が追い詰められるような事が無くなり、暁人は少し気が楽になった。
暁人は自首を提案してくれた冬奈に正面から見据えた。
彼女は以前としてその気品ある姿を崩していない。緊張も怯えも見られない。
「良かった。貴方がその答えを出してくれて」
彼女がそう言った瞬間――。
寝室の襖が向こう側から開け放たれ、二人の男が姿を現した。暁人は突然の事に、コタツから飛び出して後ずさり、反対の壁に背をぶつけた。
暁人の前に現れた一人は、蜘蛛の様に手足の長い男。もう一人は注射器を持ち、サングラスを襟元に下げたドレッドヘアの男。
どちらも暁人より上背があり、荒事に慣れた空気を持っている。
「結構、利口な奴だったな。見上げたモンだぜ、暁人くん」
蜘蛛の様に手足の長い男が、舐めていた棒付き飴を口から取り出して腰を抜かした暁人を見下しながら言った。見上げたものだといいながら、高圧的で不遜な男だ。
「冬奈ちゃん、靴を懐にて温めておきましたよ~」
ドレッドヘアの男は注射器をワンショルダーバッグに仕舞うと、ささっと玄関に移動して懐から出したローファーを置いて並べた。いかつい風貌に似合わず、軽い調子で冬奈のご機嫌をとる様は滑稽にも思える。
冬奈はヴァイオリンケースを持って、すっくと立ち上がる。
「では、参りましょう」
「え? どこへ?」
暁人は素っ頓狂な返事に、
「警察に決まってンだろうが」
と、手足の長い男が自分の靴を玄関に置きながら答えた。二人は自分たちの靴と冬奈の靴を持って寝室に隠れていたようだ。
なるほど、と暁人は思う。二人の男が隣の部屋で待機していたなら、冬奈の落ち着いた態度も納得出来る。暁人は軽々しい行動を取らなかった自分を内心褒めた。もしも冬奈に手をかけたりしようとしたら……、恐らくこの二人が飛び出してきただろう。
ドレッドヘアの男は冬奈の手を取って玄関にエスコートして、わざわざ靴を手に取って彼女の足に履かせた。彼のニヤニヤした顔からは、マトモな人物で無いことが感じ取れる。
シルバーアクセサリーと日焼けした姿から、世間で言う「チャラい男」のイメージが強い。しかし冬奈の隣では、体中から卑屈な印象が滲み出る。男らしくキリリとした目元も、冬奈の前では情けなく崩れている。
一方、手足の長い男は、棒付き飴などを舐めているいるが立ち振る舞いに隙がない。暁人に対して常に注意を払っている様子で、ひしひしとプレッシャーを与えてくる。ガリガリと飴を噛む悪癖があるようで、苛立たしげなその音も暁人への圧力となっていた。
いつまでも立ち上がらない暁人を見て、飴を舐める男は長い足のストロークで玄関から二歩で歩み寄った。暁人の手をぐいと引き上げ、
「行くぞ」
と睨みつけて頭ごなしに言付けた。
「は、はい」
暁人は迫力に押され、何度も頷きながらコタツの上の携帯電話をポケットにねじ込み立ち上がった。手足の長い男に背を押されて、冬奈とドレッドヘアの男に続いて外に出る。
アパートの下には一台の大型ミニバンが横付けしてあった。運転席の男がこちらを伺う様子があり、冬奈の仲間が外で待ち受けていた事を暁人はここで知った。ドレッドヘアの男は先に階段を降りて、運転席の男と話している。
逃げ出していたならば、あの男に追われたかもしれない。暁人は組織立った対処方法を見て、冬奈たちが裏社会の人間ではないかと疑い始めた。
自首という結論を早々と出して正解だった。そう思いつつ後ろでぴったりと立つ手足の長い男に背を押されながら、アパートの階段を降りる。しかし、本当に裏社会の人間たちならば、素直に見逃してくれるのだろうか? 暁人の脳裏に邪推が浮かぶ。
「そう緊張ならさないでください。警察にお送りするだけなので」
冬奈は暁人の前を進みながら優しく言う。もしかしたらどこか山奥に連れられていって殺されるのではと考え始めていた所なので、冬奈の一言で急に気持ちが楽になった。
冬奈は助手席に乗り、暁人はドレッドヘアの男と手足の男に挟まれる様に後部座席に座った。
暁人の急に身体から力が抜けた。正体不明の男たちに脇を固められているが、死体のある部屋から離れられる安堵感が勝ったからだ。
運転席の男は無言でバックミラーを覗き、後部座席を確認するとゆっくりと車を発進させた。
暁人を乗せて大型ミニバンは、最寄りの警察署へと向かう。