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不法侵入当日・一日目

 十一月も末になると、吹く風に冷たさが混じり始める。その冷たさが空から降りてくるのか、遠く離れた山から飛んでくるのか分からないが、時節を考えると何処から冬が訪れてもおかしくない。


 夕刻となり日も隠れ始めると、路地を進む暁人の息も白みを帯びる。これが視覚的にも寒さを誘い、彼は身を竦めながらニット帽子を目深に被り直した。 


 暁人はギリギリだった。


 限界は既に超えている。ギリギリなのは彼のモラルだ。

 田舎から政令指定都市の大学へ進学し、不況の中に卒業後なんとか就職した会社を解雇され、それ以降は派遣やアルバイトで食いつないでいた。

 気がつくと、一体何が悪かったのだろうと思うほど曖昧な時間の末に、彼は家も無く路頭をさ迷う事となった。

 彼は決して無気力な人間ではない。数週間前ならば精力的な彼を見て、モラルをギリギリまで減らす様な人物と思う事はないだろう。


 とかく夕刻の住宅街は匂いが強い。

 家庭という匂いだ。有り体に言えば夕食の匂いだ。


 実のところ、彼は繁華街の匂いから逃げて来た。だが外食屋の換気扇から吐き出される香りより、住宅街の匂いの方が腹にも心にも染み込む。すきっ腹を抱え歩いていると、この街の何処かに自分の家があるのではと錯覚するほどだ。


 無論、そんな筈もない。彼の生まれは電車で一時間はかかる場所だし、近しい親族は既に地上に居ない。何度かあった親戚がいるはずだが、名前も住まいも覚えていない。

 寄る辺ないとはかくも悲惨なものなのかと、暁人は頭を抱える。それとも自分が単に不甲斐ないだけなのか? と自己嫌悪まで沸き上がる。

 もともと気楽な性格でない暁人は、ひと度落ち込むと深く悩む。生真面目な性格の人が陥り易い気質だ。


 いっそ犯罪でもして、留置所でも放り込まれた方が良いのでは?

 そんな気持ちがギリギリまで浮かび上がってくる。そんな誘惑が心の一線を辛うじて越えてこないのは気力の乏しさからだ。


 そんな暁人の前に、一つの誘惑が訪れた。

 とあるアパートの二階でドアが開き、帽子を目深に被った一人の男が姿を現した。何気なく暁人は手近の電柱の影に隠れて様子を伺う。

 帽子の男はドアの鍵も閉めず、周囲へ視線を配らせながら……だが雑な探り方で何かを見つける事も出来なそうな……階段を降りて大通りに向かう路地へ出ていく。

 暁人は鍵をかけていかなかった彼の行動を確かめるべく、その後を追う。もし近所に出かけるだけならばすぐに帰宅するだろう。もしも暫く帰る様子がないならば……。


 帽子の男は早足で路地を進み、大通りへ出ると通りかかったタクシーを捕まえて慌てた様子で乗り込んだ。行き先をさっさと告げたのか、タクシーはドアを閉めると同時に走り出して車の流れに消えていく。

 すぐには戻らないと確信した暁人は、アパートへ取って返る。ギリギリの一線を越える為に。

 辺りはまだ明るい。どこで誰が見ているか分からないが、せめて冷蔵庫の食べ物を持ち出すなりできればいい。自然に疑われず咎められず侵入出来れば、そのくらいの成果は得られる。

 下から窓を見上げる限り、男の出てきた部屋は暗い。誰かが中にいる気配もない。

 縞板の階段を登り、ドアの前まで辿り着く。誰かが咎めてこないかと振り返るが、人影はない。あまり挙動不審では怪しまれるので、まずは鍵が本当にかかってないか調べる。


 鍵は掛かってない。


 僅かにドアを開けると、暗い玄関とキッチンが見えた。暁人は誰もいないと判断し、覚悟を決めてドアを開けて中に侵入した。

 動悸激しい胸を抑えつつ、まずは冷蔵庫を漁る。出来合いの物は一つもなく、まるで数日間も家を留守にしていたような冷蔵庫だ。それでも未開封のハムがあり、まずはそれに齧り付いた。


 ハムで一息つけた暁人は、持ち出せそうな食料を探し始めた。あわよくば現金も……とここに至っては毒食わば皿までとばかりに部屋を物色し始めた。

 部屋は2DKで、キッチンと居間は磨りガラス嵌った格子の引き戸で仕切られている。居間の右手には襖があり、恐らくその先は寝室だろう。

 掃き出し窓から入る夕日の光を頼りに、暁人は居間を探り始めた。

 居間に入った足元に、箱根のお土産らしい袋があった。早速、覗いてみると三つの包みが収まっている。蒲鉾のお土産のようだ。

 紙の手提げ袋に入っているので持ち出すのに最適だと思い、玄関へお土産を移動させた。


 さらに居間を探る暁人の背後で、短いメロディと共に硬い板と携帯電話が振動音を立ててメールの着信を知らせた。ギョッとした暁人は飛び退くように振り返り、ぶつかった本棚から数冊のアルバムが落ちる。落下音にも驚いた暁人はさらにバランスを崩して、携帯電話の乗るテーブルに倒れ込んだ。

 

 スライド式携帯電話の液晶画面が瞬き、暗い室内と暁人の顔を照らす。

 画面には……

≪from:マキ Title:お姉ちゃん帰った?≫

 の文字。


 まさか同居人がいるのか? いや先ほど出ていった男以外に女がいるのか? どっちが同居人だ? 誰かいるのか? 

 暁人は思考が纏まらないまま携帯電話を掴み取り、メール本文も確認する。

 内容はこの携帯電話の持ち主である姉に、妹が旅行から帰ったかと尋ねる物だった。お姉ちゃんと呼ばれる人物は旅行先で風邪をひき、それを心配する記述もあった。

 出ていった男とは別に携帯電話の持ち主がこの部屋に居るかもしれない。

 携帯電話を持ったまま、暁人はピタリと閉まっている襖を見つめた。


「誰かいるのか……」

 手が震え、呟く声も掠れている。早く逃げ出せばいいと思いながらも、やけに静かな襖の向こうが気になる。そこに何があるのか確かめたい。そんな欲求が暁人の心に湧いてくる。


 のそりと立ち上がり、テーブルを回り込み襖に手をかける。


 襖をゆっくりと開けて室内を伺う。


 カーテンが閉まっているのか寝室は暗い。辛うじて見えるシルエットの御陰で、奥にベッドある事が分かる。そして鼻を付く薬品の臭い。

 内科病棟や学校の理科準備室を思い起こさせる複雑な薬品の絡み合った臭いが、寝室に充満している。

 暁人は寝室に入り照明スイッチの紐を探す。運良くそれはすぐに手に当たり、紐を引く。

 カカンとグローランプがなり、蛍光灯が寝室を照らし出した。


 ベッドに髪の長い女性が寝ていた。


「……ッ!」

 暁人は誰かいるのではないかと思っていたが、不法侵入の後ろめたさも手伝って実際に人の姿を見ると心臓が止まるほどの仰天を味わった。息の吸い方も間違って、呼吸が乱れる。

 彼女が起きる前に逃げ出さねばと蛍光灯も消さず襖も閉めず、居間を抜けて玄関のドアにガチャガチャと荒々しく開いた。


 目の前にメガネをかけた初老の女が立っていた。

 最悪だ……。鉢合わせだ……と暁人は青ざめる。


「おや? 帰ったのかい、利根さん。アンタ、利根さんのカレシかい?」

 初老の女はどうやらこの部屋の住人ではないらしい。さらにここの住人の恋人と勘違いしているようだ。もしかしたら先ほど出かけていった男が、利根という女の彼氏かもしれない。


「え、ええ……は、初めまして」

 勘違いしてるならとりあえず誤魔化そうと、暁人は目線を逸らさずに頭を下げた。

「あたしゃ、ここの大家なんだけどね……、利根さんは……ああ、寝てるのかい?」


 玄関から寝室が丸見えだった。慌てて逃げようとしたので、襖もガラス戸を開けたままだ。寝室で寝る女の髪が僅かに見える。


「ええ。あ、あの風邪をひいたらしくさっき寝たばかりで……」

 メールの本文に携帯電話の持ち主が風邪をひいたと書いてあった事を思いだし、咄嗟に言い訳を口にする。携帯電話の持ち主がここの部屋の住人なのか、寝室で寝ている女なのかは分からないが切り抜ける口実にはなる。


「そうかい。熱海へ行ったのに風邪をひいて帰ってきたらつまらないねぇ。ちゃんと温泉あったまったのかい?」

 幸い大家さんは納得したようだ。

 それに熱海へ行ったというならば、さきほど見つけた土産と一致する。

 玄関に持ち出してあった袋の中から、カマボコの入った包みを取り出して大家に差し出した。


「あ、これ……。お土産です」

「あら悪いわねぇ」

 大家さんはカマボコを受け取ると、メガネの位置を正しながら微笑んだ。


「ところであなたの……」


 名前を尋ねられるのは困る!


 暁人が生唾を飲み込んだ時、大家さんは視線を右へと向けた。釣られて暁人もそちらを見る。

 隣の住人らしき男が、ドアから頭を出してこちらの様子を伺っている。


「あ、木岡さん! ……あ、ごめんなさい。利根さんにお土産ありがとうと伝えて置いてね。あとお大事に」

「は、はい」

 大家さんは隣の木岡という人物に何かのっぴきならない用事があるのか、険しい表情でこの場を後にした。

 安堵しつつも部屋から逃げ出せない状況となり、静かにドアを閉めて鍵をかけた。

 大家さんと木岡が何かを言い合っているようだ。これで寝室にいる女が目を覚まさないかと、暁人は内心穏やかではない。


 起き出して騒がれる前に……。いや目を覚ましたらすぐに口でも抑えられるように……と、暁人は居間にあるクッションを手に取り、一歩また一歩と寝室に忍び込む。


 女が起き出す様子はない。


 大家と木岡の些か近所迷惑な大きい声などどこ吹く風。しっかりと目を閉じ口を紡ぎ、静かに……ただ静かに寝息を…………。

 

 寝息?


 ベッドの上の女から寝息が感じられない。呼吸で胸が上下する様子が見えない。顔の動きも全くない。

 嫌な予感で暁人の背に嫌な汗が流れた。

 そっと女の顔に手を延ばす。


 彼女の整った顔は冷たかった。

 

 ベッドの上の女は寝ていない。

 生きてはいなかった。

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