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新同居生活 一日目

「遠藤さん。先日の件はありがとうございました!」


 くたびれたスーツのクリーニングを考えていた遠藤俊彰は、営業先からの帰社途中で見慣れぬスーツ姿の若者に声をかけれ戸惑った。

 遠藤はマテリアル系商社の営業マンであり、一度会った人物――特に仕事で出会った人は決して忘れぬように心がけていた。そのため、見知らぬ若者への反応が少し遅れてしまった。


「遠藤さんのおかげで、新型ケイ素拡散素材導入を部長に納得してもらえ四ツ井も大変助かったと申しております」

「え? あ、ああ……」

 若者は駅構内という場所でありながら物怖じせず、ハッキリとした口調で礼を述べて頭を下げる。その後頭部を眺めながら、遠藤はうっすらと記憶の糸を手繰る。


 新型のケイ素拡散素材の納入が決まった会社の四ツ井? となるとマイクロシリコーン社のラボ部門の四ツ井研究所長かな?


「四ツ井所長さん……か。風邪をわずられってたようですが彼は元気ですか?」

 

 遠藤は、いい加減な記憶を適当に補完した。そういえばこの特徴の乏しい若者は、そこの職員の中にいたような気がする。そんな風に遠藤は勘違いを始めていた。

 遠藤は、見た目に騙された。印象の薄い若者だからこそ、どこかの誰かの顔に当て嵌る。人間の曖昧な記憶に漬け込み、忍び込むような若者。


 若者の名は大年暁人。またの名を林田正仁。そして今は……。


「はい。おかげさまで今週から研究室にこれるくらいに回復しました。あ、申し遅れました。私は研究室の伊藤と申します」

「そうか。それは良かった」

 四ツ井所長の風邪が治った事と、伊藤と名乗った彼に関する記憶に間違いがないという意味で「良かった」と遠藤は呟いた。


 暁人は今、時計屋をやっている。


 決してマイクロシリコーンとかいう会社に勤めている訳ではない。マテリアルどころか化学もさっぱりという暁人が、中小企業の会社とはいえ研究所員など務まる訳がない。

 暁人は種を蒔く者の協力者となり、時計屋という対象者の時間を調整する役目についている。


 未だに種を蒔く者の正体はわからないが、末端組織員としてこうして時より仕事をこなす生活を始め、いつしか季節は春を迎えていた。


 特徴と印象の薄い暁人の外見を生かし、組織員が用意した情報を利用して、遠藤という対象者の記憶の隙間に入り込む。そして足止めをして、対象者の行動時間を調整する役目だ。

 時には電車を一本送らせたり、時には車に乗せて目的地への到着を早めるなどの行動を取っている。

 遠藤がどんな陰謀に巻き込まれているのか、末端である暁人は全く知らない。


 暁人は特技を冬奈に認められ、こうして生きながらえている。

 特徴と印象の乏しい外見だけでなく、誰にも物怖じせず落ち着いて会話できる能力を、冬奈は暁人の持つ一種の特技と認めた。そして『時計屋』という、些か残念なコードネームを与えられ、ミネラルウォーター配達という本業の合間に、こうして日々対象者の時間を操る副業に従事している。


 全ての真実を牢獄で打ち明けられた暁人は、正仁として生きるか暁人として生きるかを選ばされた。厳密には種を蒔く者に協力するかどうかの選択も先にあったのだが、断ればタダでは済まないのでこれは強制の部類だ。

 協力を約束した上で、誰として生きるかという選択である。


 あえて暁人は正仁として生きる道を選んだ。

 冬奈が数年以内なら暁人として生きる手段もあると言ったため、正仁として生きる道を選んだ。少し誘導された気もするが、暁人に後悔は微塵も無い。


 遠藤という男の行動を少しだけ操作して、種を蒔く者の仕事を終えた暁人は、駅の有料駐車場で待機していた乗用車の助手席に戻った。


「僕の出番はありませんでしたね」

 運転席でヘッドカムを付けた男が、残念そうに呟いた。

 彼は消えたはずの有紀のストーカー木岡だ。暁人は殺されたものとばかり思っていたが、どうやら彼も選ばされたらしい。

 種を蒔く者に協力するかどうかを。


 こんな簡単に仲間を増やしてよいのだろうか? 暁人は不安になるが、種を蒔く者の全容が全くわからないので、何を心配したらいいのかわからない。

 自分が捕まって種を蒔く者が露見する事を? 誰かのヘマで自分が捕まる事を?


 不安になっている暁人に、木岡が悠々と語る。


「専門用語が行き交えば、僕の知識が物を言ったのですが」

 大学で地学を専攻していた木岡は、多少なりとも化学や地球科学の知識がある。


「一夜漬けの癖に偉そうに。大学で専修したワケじゃないだろ」

 暁人は連絡用の襟元マイクを外し、カバンの中に放り込む。木岡はそれを確認してから、自分のヘッドカムを外して車を発車させた。


「でも、基礎知識はあるから理解できるんですよ。会話から研究の内容も類推して受け答えをする。普通じゃできないんです。いざって時は僕がフォローしないと、暁人さんはボロを出すんですよ。ふふふ」

「はいはい。俺はそういう会話にならないように、他の会話に誘導するんだよ。とっさの現場の技術も必要なんだよ」

「ふふふ。僕の出番が減ると種を蒔く者の立場が弱くなるんで、少しは出番くださいよ」

「分かった分かった。じゃあ、冬奈ちゃんの家に頼むよ。お前も大活躍だったって報告するからさ」

「分かりました。是非ともお願いしますよ」

 木岡は不満も言わず、暁人の指示で車を走らせた。暁人は尾行の車がないか注意し、木岡も道と走り方を気をつけて車を冬奈の家に向かわせた。


 暁人はどういうわけか、冬奈への受けがいい。


 冬奈は種を蒔く者でも中心人物で、あの七井ですら立場は彼女の部下らしい。対等か七井が上かと暁人は思っていたが、そうでもなかった。

 冬奈は暁人を重用する。

 時計屋の仕事だけでなく、七井の仕事に同行させたり、冬奈自身も暁人を連れ歩いて仕事をする時がある。

 まるで見て仕事を覚えろと言いたいのか。暁人は怖くて聞けないが、なんとなく冬奈の態度から期待と厳しさを読み取っていた。


 やがて木岡の車が小高い丘の下に到着した。丘は城の様に白壁に囲まれ、正面には大きな門が嵌っている。松が並ぶ丘にはお屋敷が三軒も点在して建ち、近代的なコンクリートの家も南に面して立っている。

 冬奈は本当にお嬢様だった。

 彼女の正体にはあまり驚かなかったが、始めた来た時は家の規模には大いに驚いた。


 車で暁人を送った木岡はここまで帰る。彼は呼び出されない限り、自由に冬奈と会うことは出来ない。本当の下っ端なのだ。

 暁人は彼とは違い、挨拶一つで自由にお屋敷に入れる立場にある。末端構成員にしては異例だという。有紀のアパートを引き払った後、暫くこの屋敷に住まわせて貰った。その為、使用人とも交流があり、屋敷の仕事も一緒にこなした経緯があって覚えもいい。

 潜り戸を開けてもらい、暁人は庭園内に入った。


 梅が咲く坂道を登り、日当たりの良い中腹の庭に向かった。坂道の庭石に手を掛けながら登り、植え込みから顔を出し覗くと、庭園の中央で冬奈と真紀が紅茶を楽しんでいた。

 冬奈は暁人に気がつくと、紅茶のポットを翳して一緒にいかがですか? と誘ってきた。

 暁人は庭の冠木門を潜り、ご相伴に与ろうと頭を下げた。


「じゃあいただきます」

 暁人は慣れた様子で、冬奈の正面の席に座った。

「そろそろ戻るころかと思ってまして、真紀先輩と一緒にお待ちしてました」

 冬奈は用意していた三つ目のティーカップに、ハーブティーを注いで暁人の席に差し出した。真紀の前にいる冬奈はいつも機嫌がいい。辛辣な言葉も成りを潜めてしまい、たおやかなお嬢様の笑顔を絶やさない。

 あまりに別人のようで、始めの頃は暁人もひどく戸惑ったが、今はすっかり慣れてしまった。


 冬奈が心許す存在、真紀は――骨ではない。張りのある肌と栗色の髪。有紀によく似た面立ちでやや幼さのある目元。冬奈のように飛びぬけた美人ではないが、誰からも愛されそうな微笑みと魅力を持っている。

 冬奈のすぐ隣で、身じろぎもせず椅子に座っている。湯気が立つハーブティーは減ってもいない。

 とてもこの中に、真紀の骨が収まっているとは思えない。

 いや、誰しも人間には骨があるのだが、真紀の中にある骨は遺骨だ。生きている者の生きている骨ではない。

 見える真紀は人形で、内部には冬奈が愛してやまない真紀の骨がひっそりと収まっている。

 恐ろしい事に、冬奈はこの真紀の人形と寝食を共にしている。

 恐ろしい事に、暁人はその冬奈を羨ましいと思って止まない。


「今日、真紀先輩の機嫌がとてもいいんですよ。春の陽気だからでしょうか? 梅の香りがいいのでしょうか?」

 ティーを飲む暁人に、冬奈は輝くような笑顔で語る。男なら誰しもその笑顔に釣られて微笑むだろう。

「風も暖かいし、今日はいい日だからね。真紀ちゃんも気持ちいいんだろうね」

 ハーブティーのフレーバーと梅の香りに鼻を擽られ、暁人は温まった空気を肺から吐き出した。

 投影された真紀の印象表現を、暁人は真正面から受け止める。使用人たちですら、冬奈の狂った愛に怯えているというのに、暁人は当然とばかりに受け答える。

 冬奈もそれが自然だと、暁人と語り合う。

 

 真紀が何も話さない。話すわけが無いのに、冬奈はそれでも分かっているとばかりに、真紀の言葉を代弁して語る。

 誰が見ても痛々しい。


 だが、暁人はそんな冬奈が羨ましい。


「……あっと、そうでした。すみません。浮かれていました」

 暁人の見惚れるような視線に気がついた冬奈が、急に居住まいを正して傍らのワゴンに載せていた書類袋を手に取った。

「頼まれていた正仁さんと有紀さんのスマートフォン、携帯電話の位置情報です」

「ありがとう」

 暁人は飲み干したハーブティーのカップを置き、冬奈から書類袋を受け取った。


「正仁さんと有紀さんは、靴屋という仕事柄、計九つの携帯端末をもっていました。GPS情報と位置情報が九台分ですから、かなり確度が高いと思います」

「そうか。もしかして結果も出してある?」

「ええ。二時間ほど山の同地点に留まった形跡があり、九つ分のデータは一八個の点となっています。それぞれの誤差が五メートルから三十メートルとして、その分布を修正した中心。おそらく、そこ」

「……ありがとう。さっそく行ってみる」

 暁人は差し出されたティーポットに手を翳し、冬奈に礼を言って庭を後にする。

「お礼は必要ありませんよ。貴方は特別・・な仲間ですから」

 冬奈は真紀の人形に身を寄せ、暁人の背に優しい声で言った。


      *




 暁人は夢から覚めた。

 有紀が目覚める前に、暁人の目が覚めてしまった。


 暁人はレンタカーを走らせ、熱海へ向かっていた。


 ラジオから小伊土のニュースが流れている。

 元々、銀行の金を三千万円も横領をしており、失踪するには不自然ではない人間だったようだ。いや、これも種を蒔く人が横領をでっち上げたのだろうか?

 そんな事をつらつら思いつつ、暁人は車を走らせる。

 途中、沿道にあった花屋で花束を買い、暫くして車は熱海へと入った。


 熱海の国道から側道に入った地点に車を止め、書類に書き留められた位置をGPS端末で確認する。少しばかり山に入った場所。この付近で、幾つもの点が散らばっている。

 荷台からスコップとブルーシートを取り出し、花束を抱えて山の中へと暁人は入り込む。


 書類の地図に書かれた点は、有紀が殺されたと思われる当日夜の携帯端末の位置情報だ。

 ここは山合いだが、観光地で国道付近という事もあり、基地情報もGPS情報も比較的確度が高い。更に長時間、当時の正仁がこの場所から端末を動かした様子がない。

 つまり、正仁がここで何か作業をしていたということだ。


 担いでいたスコップを下ろし、暁人はこの辺だと思われる場所で天を仰ぎ見た。

 抜けるような春の空。新緑はまだ無い。足元の土は冬を越えてじっとりした落ち葉が積もっている。


「……ここにいるのか? 有紀」

 暁人は冬奈の気持ちが分かるような気がしていた。多分、それは勘違いなのだが、冬奈の気持ちを分かりたいと望んでいるのは確かだ。

 暁人は目覚めたが、もう一度、あのフザケた生活の中で眠りたい。そう想って止まない。

 隣で死体が眠っていると怯えていた生活。あの時の自分は、逃れる事ばかり考えていて、有紀とは向き合っていなかった。

 今度は出来る。暁人は漠然とそんな風に考えている。

 あの部屋にいた有紀は本物ではない。

 本物を前にすれば、彼女の事をもっと理解できる。もっと自分を知ってもらえる。


 妄執が暁人を惑わしている。それは暁人の目覚めを妨げ、有紀の目覚めも妨げる壊れた目覚まし時計のようだ。


 期待を込めてスコップを握る。また有紀との生活を始められる。本物の有紀はどんな姿をしているのだろう。

 不安で足が止まる。また有紀を隠す生活が始まる。本物の有紀は土の下で、いったいどんな姿に成り果てているのだろう。


 有紀と会える期待で胸は高鳴るのに、頭の中は不安で心臓を叩いて作業をやめさせようとさせる。思いと想いがケンカでもして、身体の主導権を奪い合っている。

 花だけ手向けて帰ってもいいのでは? 今まで培ってきた理性が、そんな軟弱な事を言ってくる。

 有紀がどんな姿だろうと、山で一人にさせていて良いわけがない! 心のどこかで新しく生まれた暁人が、そんな事を叫びながら表層に上がってこようとしている

 せっかく終わった日々を、暁人は新たに求めていた。 


 震える手に暁人の葛藤が現れている。覚悟がいるのか、それとも諦めがいるのか。

 濡れた地面を見詰める暁人の目に力が宿る。ついに暁人は花束を後方に投げ捨て、スコップを握る手に力を込めた。


 冬奈と真紀が暮らす、歪つで不可解で美しく触れ難い、もがりの住まいを思い出し、自分もそんな生活を送りたいと願う。


「今日からが本当の同居生活だ」


 サクッとスコップが山の地面に突き刺さった。

やっと完結です。大変お待たせしました。

よろしかったら感想やご指摘など頂けたら幸いです。


挿絵(By みてみん)


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