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六十三日目

 どんな言い訳メールを送ろうか?


 年も明けて、一月も半ばを過ぎた頃――


 マキの誕生日が迫ったある日、暁人は仕事から自転車で帰宅する道で、いろいろと思い悩んでいた。

 嘘を付く事に抵抗が無くなった今、メールの内容をどうやって組み立てるか、すっかりそんな作業になっている。

 しかし、今回は深刻だ。


 マキと母親を納得させなければならない。電話の一つでもかかってきたら、その時は最後といっていい。

 なんとか冬奈に頼んで、最もらしい段取りをしてもらうか……。いや、それだと彼女が母親とマキに危害を加えかねない。


「まさか、自分の先輩をどうこうしようとは思えないけど……」

 一人の男を消し去ってしまうだけの組織力を持っているのだ。冬奈が目的のために何処まで非情に、実行してしまう人間なのかわからない。

 しかし、なんで正仁と有紀が死んだ事を隠す必要があるのか?

 組織力があるなら暁人など利用せずとも出来るだろうに……。


「そういえば、冬奈の目的ってなんなんだろう?」

 木岡は「種を蒔く」と行っていたが、それがいったい何をもたらすのだろうか?

 このままだと無為に時間が過ぎ、遺体の露見が長引くだけで何の意味もない。有紀が生きている振りをさせる事に、何かの目的があるはずだ。


 暁人は今まで幾度と、この疑問を持った。

 しかしそれを知ろうとする事は冬奈たちを探るという事であり、七井が言う「好奇心、猫を殺す」に繋がりかねない。暁人は無理に事情を詮索するより、なんとか現状を維持する事に腐心していた。


 マキを騙す事に抵抗感はある。

 ところが嘘をつく事に抵抗感はない。

 有紀とこのまま一緒に暮らしたい。

 目覚めて欲しいけど、そうなれば一緒に暮らせない。


 

 今の暁人は、そんな矛盾に塗れた考えで行動していた。


 メールという媒介が、暁人の嘘をつく罪悪感を薄めているのだろう。メールでは相手の顔を息遣いも分からない。疑われない程度に、自分本位でメールを打っても構わない。

 そして送られてくるメールに圧迫感はない。

 マキからのメールはどこか酷薄で、親しい兄妹と思えるほどでもない。もしかしたらメールが苦手な女の子なのかもしれない。

 それなら電話してくるのでは? とも暁人は思うが、そうならない方がいいのだから都合がいい。

 

 不自然に思う事が山ほどあるが、現状が暁人に都合が良すぎるので、無理に分け行って面倒を引き起こす気も起きない。


 とにかく今の問題は、マキのところへ行かないで済む方法だ。


 病気や怪我ではお見舞いにくる可能性が出てくる。やっぱり仕事か? でも正月も仕事で誤魔化したのだから、あまり同じ理由を重ねても疑われる……。


 暁人は悩みながらアパートの階段を昇る。

 鍵をドアに差し込み、左に捻る。


「……鍵が空いてる?」


 空回りする鍵の感触に違和感を覚えたが、粟飯原が来ているのだろうと思って暁人は特に疑いも持たず玄関に入った。


「粟飯原さん? 鍵ちゃんとしめてくださいよ」


 居間に粟飯原の姿はない。寝室でまた何か作業をしているのだろうか?


 暁人は靴を脱いで上がろうとして……。玄関に粟飯原の靴が無い事に気がついた。

 偽装用に置いてある有紀の靴と、サンダルしかない。


「……誰かいるのか?」


 初めてこの部屋を訪れた時のような緊張感。

 暁人は靴を履いたままそっとあがり、居間のテーブルに乗って蛍光灯の上に隠した拳銃を手に取った。

 もしも七井や粟飯原であった可能性を考え、銃は上着の内ポケットへ隠す。


 声をかけず浅い息を繰り返し、隠した拳銃には手を添え、寝室の襖に手をかけた。


 パッと襖を払う様に開け放ち、暁人は大きく後ろに飛び退いた。


 果たして大柄の中年男が、今まで暁人のいた空間を包丁で薙ぎ払った。暁人が安全を取って飛び退かなければ、顔か肩を包丁が襲っていた事だろう。

 しかし暁人も荒事に慣れていないので、位置取りには失敗していた。


 右手で襲いかかった中年男の身体は左に流れ、暁人は自然とその逆側に逃げてしまった。そのせいで中年男が玄関側に立つ結果になっている。


 中年男は肩ごしに暁人を睨みつけ、ゆっくりと振り返る。


「はあ、ふう、はあ、ふう……ゆ、有紀はどこだ!」


 呼吸の荒い中年男は妙な事を口走り、震える手で包丁を突きつけた。


「……なんのことだ?」


 彼は有紀の死体に気がついていない? どういう事だ? そんな疑問と中年男に対する質問への疑問が混じり合う。

 彼は何者なのか? 


 拳銃を持つ暁人は、その優位性から男を観察する余裕があった。


 改めて見ると壮年にも見えるが、暁人より十歳くらい上の中年といった男だ。ただ、疲れきった顔とやつれた頬、まとめ方が雑な髪型などのせいで老けてに見える。背広姿で革靴を履き、見たところは普通のサラリーマンといった姿だ。


 目は血走り、荒い息と相まって変質者か正気を失った人物に見える。まちがっても強盗や空き巣の類ではない。

 

「有紀は何処なんだ!」

 男は包丁をちらつかせながら、暁人を脅した。


 暁人はそんな状況でありながら、心の何処かが覚めていた。

 余裕とでも言うのだろうか? 

 包丁を持つ中年男を、驚異とは思えなかったからだ。

 懐の拳銃もその根拠だが、どちらかといえば七井や冬奈に比べると怖くない。彼は包丁すらしっかり持てておらず、隙だらけでどうとでも出来そうな相手に見えるからだ。


「……ちょっとタイム」

 暁人は拳銃を抜き、男に突きつけてそんな軽い言葉を発した。


 一瞬、男は暁人に何を言われたのかわからなかったのか、それとも拳銃を認識するまで時間がかかったのか、呆けた顔で身を竦めた。

 その隙に、暁人は寝室を覗き込んだ。


 薄暗い部屋の奥で眠る有紀の胸に、一本の包丁が突き刺さっていた。

 

 目眩にも似た怒りが暁人の頭に走り、声を荒らげて中年男を睨み付けた。


「っ! お、お前! 有紀になんてことを!」

「な、何言ってるんだあんた!?」

 

 暁人は拳銃を突きつけたまま、中年男ににじり寄る。銃を撃った事のない暁人は、適切な間合いが分からない。しかし、中年男を問い詰めたい思いで近寄る。


 中年男は自分が不利だとは思っていないのか、玄関が近いのに逃げ出そうとしない。銃と包丁の差がいまいち理解できないのか、本物の銃か見定めようとしているのか。

 彼は震えながらも、目線がしっかりと銃を見つめている。


 暁人は奪われる事を恐れ、銃を両手で持ち直してまっすぐ構えなおす。


「……お前、なにものなんだよ! なんで有紀にあんな事を!」

「あんたなに言ってるんだよ! 有紀はどこだ! お、教えろ!」

 

 突き刺さった包丁に動揺している暁人でも、この中年男と会話が成り立っていない事に気がついた。

 彼は有紀を探している。ベッドの上で眠る彼女は有紀じゃないのか?

 もしかして本物の有紀がいるのか、逆に偽物の有紀でもいるのか?


 まさかこの有紀も、俺みたいにすり替わった人物……?


 暁人が一つの可能性に気がついたとき、中年男の怒号がその考えをかき消した。


「その人形がなんだってんだよ! 有紀はどこにいる! 早く言え!」


 ――人形? 何が? こいつまで死体を物扱いしやがってっ! この強盗野郎が! え? 死体じゃない? 人形? 有紀じゃない? いや死体じゃない? 


 有紀の死体じゃない? 違う――


「死体じゃ……無い?」


 暁人が有紀を再び見た瞬間、中年男が飛びかかってきた。


 一瞬、どこを撃とうかなどと余計な事を考えたせいで、暁人は拳銃を包丁で叩かれる。刃が拳銃とぶつかり、硬い音を立てて欠けた。


 中年男が押し倒そうとしてきたので、とっさに暁人は彼の腹を蹴って飛び、畳の上を転がって有紀のベッドにぶつかった。


 ――これが人形だって?


 蹴り飛ばされた中年男が、こたつの向こう側で立ち上がる。それに拳銃を向けながら、暁人は有紀の頬に触れた。


 冷たい――初めて触れたときと同じだ。


 でも、柔らかすぎる。包丁が突き刺さった場所以外にも、傷跡があった。

 彼女の喉にぱっくりと空いた黒い穴。何箇所か掛け布団に刻まれた突き傷。

 あの男が、寝ている有紀に向かって何度も包丁を突き立てたのだろう。


 死体だから血が出ない?


 いや、違う。


 喉の傷は、まるで自転車のタイヤを切り裂いたかのような跡だった。厚くしっかりとした層が見え、なんらかの繊維質が断ち切られたあとまでくっきり見える。層の下には空間があり、さらに下は白いシリコンが詰まっている。


 そして傷跡から、ゆっくりと漏れ出すガスの音。

 その臭いは、いつもこの部屋に漂っていた科学物質のような香りだ。

 ときより訪れる粟飯原が注射処置したあとに、部屋に充満していた臭いだ。


 ガスが抜けていき、ゆっくりと肌の張りを失っていく有紀の死体。

 いや、有紀の形を模したモノ。


 皮膚にシワが現れ始めたころ、ガスが抜けきったのか漏れ出す音が消えた。


「有紀はどこにいる!」

 包丁を拾い、男が暁人に問う。

「有紀はどこにいる?」

 暁人は有紀に訊ねた。


 不自然な構図が描かれていた。


 有紀を探す男と、有紀と思い込まれていた人形と、死体を失った暁人。接点を持つ同士の人間が、そこには誰も居なかった。点のような暁人と中年男を、結ぶ存在である有紀はここに居ない。


「ここに有紀は居ません」

 玄関を開け、携帯電話を片手に冬奈が答えた。


「……状況F。救急車の用意を」

 冬奈はそれだけ言って、携帯電話を切った。同時に、冬奈の背後から何者かが低い態勢で飛び出してきた。


 中年男が包丁を構えたが、床を這うような相手には対処できない。


 床を、畳を、長い手足で這い駆けるソレは、あっという間に中年男に詰め寄ると、不気味にうねる様な動きで足を絡め取って引き倒した。

 倒れた男の腕に、長い腕を絡み付けて包丁を無効化する。長い足で中年男の肩を器用に跨ぎ、彼の首の下に足首を差し入れ、ちょいと捻って絡みつけながら膝を落とす。瞬く間に、中年男は蛸か蜘蛛の巣に捕まったような無様な格好に成り果てた。


「よう、正仁。いや、暁人だな。銃はもうしまっても大丈夫だぞ」


 中年男を押さえ込んだ人物は、七井だった。捻るように肩ごしで暁人の方へ振り返り、四肢と全身で床に転がる中年男を絡め取る姿は、まるで軟体生物だ。

 

 暁人は銃を下ろしたが、ポケットにしまったりはしない。まだ彼らに聞かなくてはいけないことがあるからだ。武器は必要だ。


「彼女は……。いや、これはなんなんですか?」

 

「やっと気づかれたのですね?」

 冬奈は携帯電話を学生カバンに収め、丁寧に靴を脱いで居間に上がった。


 彼女は有紀の人形を見下ろし、冷たく言い放った。


「そこに骨も肉もありません。あるのは合成ゴムとガスとプラスチックの骨格だけです。もちろん、魂などというものなどあるわけがありません」

 冬奈は霊や魂を否定してるのか? それとも人形だから有紀の存在は無いと言ってるのか。


「そういえば髪の毛くらいは本物でしたね。有紀のものではありませんが」

「つまり、有紀はどこにもいないと?」

「死体は熱海のどこかでしょうね。正仁が埋めたか捨てたかわかりませんので」


 ああ、そうか――

 暁人は合点がいった。


 暁人が「隣、見たの?」と訊ねた時、冬奈は「見ました」とは言ったが死体を見たとは言わなかった。

 

 冬奈と七井が「アレ」と称したりしていたのは、死体を物扱いしていたのではない。元々、人形だから物として表現していたのだ。


「……俺が勘違いして、た?」

「ええ。こちらも訂正する必要が無いと思ってましたので。そもそも死体が腐らないということはありません。エンバーミングとは高度で効果的な死体保存法ではありますが、不衛生な部屋に放置して大丈夫なほど完璧ではありませんよ」


 冬奈は有紀に突き刺さっていた包丁を抜き取った。

 ガスが抜ける音がして、彼女の……人形の胸が凹んでいく。


「触れた時、自然な皮膚の張りを出すためにガスを使用しています。放っておくと抜けるので、定期的に注入が必要ですが」

 粟飯原がときより訪れて、注射でガスを補充していた。

 そういう意味なのだろう。


「うぉーい、冬奈。こいつどうしておく?」

 もがく中年男を抑えていた七井が、冬奈に声をかけた。

「締め落としておいてください」

「あいよ」

 軽い返事をして身体を捻り、いとも簡単に七井は中年男の意識を絶った。


「以降のシナリオはこうです。これから救急車が来ます。ですがこれは本物ではありません。その救急車で有紀の人形を回収します。彼女が精神的病いで暴れ倒れたから救急車を呼んだ。大家や近所にはそう説明してください。暁人は救急車に同乗。私は事後処理。七井はこのまま待機。騒動が収まってから、その男を連れて監獄ジェイルへ移動。車も手配します」

「了解」

 七井はぬるっとした動作で中年男を放り出し、普段の飄々とした姿勢で立ち上がる。


「……俺は何をしてたんだ?」

 シワだらけの有紀の顔を見下ろし、暁人がポツリと呟く。


「私たちに踊らされてた。それでは納得できませんか?」

 苛立ちを煽るような冬奈の物言いだ。しかし暁人はもう慣れている。


 思い起こせば、そうだ……大家さんは一日中動かない有紀を見た事があると言っていた。きっとあれはこの人形の事だったのだろう。


「あるんだな。本当に……」

 触れる事が出来なかった有紀の顔を撫でながら、暁人は肩を落とす。そして薄汚い天井を仰ぎ見た。


「夢でも見てたようだ。……っていうのが」

 

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