二十二日目
十二月中旬になると、落葉樹の葉も落ち葉もその痕跡すら何処にも無い。あれだけあった物がどこに消え去るのか?
時折、荒地や不精な家の片隅で黒く変色しているが、大部分の落ち葉はどこへなりとも消え去っている。
それと同じくらい、木岡という痕跡が消え去った。
隣の部屋がからっぽになってしまった。
仕事から帰った秋人は通勤用に買った自転車を止め、隣の部屋の窓を見上げた。
「急だったのよねぇ」
玄関先で大家が首を捻る。秋人は自転車から降りて、頭を下げた。
「……引っ越ししたんですか?」
「ええ。まあ、ほんと急にね。解約の連絡が来てばたばた……っと。そりゃ、たまにはそういう忙しい人もいるけど、大抵は普段から仕事で忙しい人だからねぇ」
大家にとって木岡は迷惑な店子であったらしい。
ゴミ出しルールを守らない。家賃の支払いが滞る。郵便受けを覗く。大家の注意を聞かない。というより、そもそも人の話を聞かない。
「でも、それほど迷惑ってわけでもなかったしねぇ。本当の困った借主ってのは木岡さん程度じゃないからね。とにかく急なのが驚いたわ」
「そうですか」
適当な相槌をして大家と分かれ、秋人は自室へと帰る。足元で鳴る階段の音が心臓に悪い。自分の足音なのに、昨日の引っ越し屋たちの思い出して胃が重くなる。
昨日食べた鍋の味が思い出せない。
思い出せるのは冬奈と七井の酷い話ばかりだ。
木岡は有紀と面識が無かったと七井は説明した。彼は一方的なストーカーであり、有紀は気味の悪い隣人程度にしか思っていなかったという。
その話が本当ならば、彼が秋人に話した「逃げる約束」は嘘だったのだろう。彼の思い込みかもしれない。
拳銃は実際にあるのだから、木岡の遊学時代の話は本当なのかもしれない。それに<種を撒く人>の話も信用できる。
何しろ七井と冬奈、粟飯原という本人たちが、秋人の前にいるのだから、疑う必要もない。ただ、どこまで正しいのかが問題だ。
本当に<種を撒く人>という名称なのか? 目的がなんなのか?
木岡はどこまで知っていたのか。どこまで正しかったのか。
秋人は確信した。
冬奈たちはただの悪ガキではない。
利巧で小狡い若者たちが、ちょっと遊んでいるようなものではない。
間違いなく、なんらかの組織であり、人を一人消し去るなど容易な集団だ。
引っ越し先で暫くニセモノが木岡として暮らし、また引っ越しをして姿を眩ますらしい。彼らはそう説明していた。
手の込んだ失踪をするくらいの組織力がある。
異変に気が付いた家族が追いかけようしても、二つ目の引っ越し先から段々と追跡ができなくなるだろう。ましてや人付き合いを疎かにしていた木岡の事である。ニセモノが引きこもっていても、家族はその行為を疑わないだろう。
ニセモノを追いかけて、やがて痕跡が途絶える。
木岡の家族を知らないが、その人たちはその時、どんな絶望を思い知るのだろうか。
すっかり、秋人の周りにはまともな人間がいなくなってしまった。
冬奈や七井への失望は特に大きい。なまじ慣れ親しんだ感情を持っただけに、喪失感もある。
寝室の襖を開くと、信用できる人がいる。
有紀はこうして眠っている限り、ここから去る事はない。秋人の独り言を拒絶する事もないし、何より危害を加えてこない。
一向に腐敗しない死体は、秋人から嫌悪感を失わせていく。死んでいるという認識すらぼんやりしてきた。
秋人の中で、気の置ける存在が物言わぬ有紀だけになり、七井と冬奈への警戒心は大きくなった。もう、二人と気安く会話も出来ない。
今、秋人に心の拠り所は無い。
肉親もいないし親しい友人も恋人もいない。
だから辛うじて人の姿をしている有紀へ、心の拠り所を求める。
秋人は有紀を見つめる事が多くなった。
メールの内容を読み返さず、マキへ返信できるようになってきた。マキを上手く騙している感じがするが、有紀と親密になれている結果だと秋人は思う。
携帯電話のキーを押しながら、秋人は有紀を想像する。彼女は、マキになんて返信するだろう? マキが寒いねといえば、寒いねと同調するだろうか? 部屋を暖かくしなさいとか風邪に気をつけなさいというだろうか? それともヴァイオリンの乾燥でも気にするだろうか?
秋人はメールの中で有紀を表現する。
有紀ならば、有紀だったら、有紀は、有紀が、有紀有紀有紀……。
自分の立場を思い悩むくらいならば、有紀を思っている方が心が落ち着く。
他人の恋人で、話したことも無い、特に目を惹く美人でもないが、優しい口元と笑顔に魅力があって――でも秋人はそれを写真でしか知らず、さらに彼女は動かなくて、なにより死んでいて……。
マキからのメールが欲しくなる。
メールの返信をしたくなる。
だから、こちらからメールを送る。
マキからメールが送られる。
上手く生きていた時の有紀を思い描き、自然なメールのやり取りが出来ると、少しだけ彼女に近づけた気がする。
少しだけ、有紀と親密になれた気がする。
そう思えた時、秋人は少しだけ有紀のベッドに近づく。
触れるのは怖い。でも、近寄るくらいなら、親密になれたのだから許されるだろうと。
一方的な思い込みだ。
しかし、秋人には有紀を思う事だけが拠り所になっている。自分から縋り付くモノを放棄することはできない。
死体にへの忌避はまだあるので、本当に縋り付くわけにはいかないので、少しでも有紀を知ろうとし、自動的に有紀をメール上で演じられるように努力する。
いずれ……もしも有紀が目覚めるような事があって、それが秋人の思い描く姿と重なるならば……。
その時、有紀を手に入れられるような……と、秋人は思いを馳せる。
だが、秋人は気が付いていない。
手術が終わり、病院から退院したはずのマキからただの一度も音声電話がかかってきていない事に――。
そして有紀の母からも連絡が無い。
秋人はあえて忘れているのかもしれない。
この環境――死体との同居が余りにも心地よく思えてきていたから……。




