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二十一日目

「ただいまー」

 暁人が仕事から帰宅すると、部屋の中には生臭い臭いが充満していた。

 

 ――まさか、有紀ちゃんが!?


 一瞬、有紀の遺体が腐敗し始めたのかと思ったが、長い黒髪を後ろで縛り上げたエプロン姿の冬奈が、パタパタと居間から姿を現し安堵した。

「そういえば、鍋は今日だったね」

 玄関に放置された生臭さの原因であるブリキの蓋付きバケツを確認しながら、暁人は靴を脱いで室内に上がった。

「ええ。天然のクエが手に入ったので、クエ鍋にしてみました」

「クエって何?」

「大型のハタです」

「へえ……、それって魚?」

 暁人は内陸地方で育ち、海水魚に詳しくない。まして本クエ――天然のクエが手に入りにくい高級食材で、その鍋が幻と言われているなど、なおさら彼は知らない。

「すごいなぁ。冬奈ちゃんが自分で捌いたの?」

 恐らく、内臓やら骨やら詰まっている蓋付きバケツを指差し聞いてみた。高級食材へ歓心するより、魚を捌いた冬奈に感心している様子だ。

 

 返答は居間から聞こえてきた。

「冬奈に包丁を使わせたら凄いぜ。なんでも木っ端微塵切りだ」

 七井が鍋を火にかけ、スープの出来具合を味見していた。

「その言い方では雑に切っているように思われます」

 冬奈はサイコロ状に切り分けたクエの切り身を盛った皿を、居間のコタツに置いた。卓上は鍋と野菜の皿とクエの切り身の皿と、ポン酢にマヨネーズのボトル、小皿と薬味やらと、今までにない賑わいを見せている。


 ……ん、マヨネーズ?


「あれ? そういえば七井さん、バイクは?」

 駐車場や路上に七井の大型バイクは無かった。

「今日は飲むから、冬奈の車に同乗してきた。よーし、俺様、高知鷹飲んじゃうぞぉ」

 暁人は首を廻らす。

「運転手さんは?」

「彼は有紀や貴方の友人という設定ではないので」

 酷いな……。冷たいとか主人と使用人とか以前に、運転手の扱いが酷い。設定ってなんだよ――と、悟られぬように顔を背けつつ密かに同情してみた。

 暁人は寝室を背にし、暖かいコタツに入った。


 人が夕食の用意をして待っていて、既に暖かくなっている室内に帰るというのは何年ぶりだろうか。

 七井と冬奈は家族でも親しい友人でもない。

 そんな彼らに出迎えてもらえる。


 もし、有紀ちゃんが待っていてくれたら……。


 冬奈といっしょに鍋の用意をしている姿を想像してみる。

 そういえば、有紀ちゃんの声ってどんなのだろうか? 冬奈の冷たい声より暖かいだろうか? 優しいだろうか? もしかしたら姦しいタイプなんだろうか?


 暁人は振り向き、襖の向こうに眠る有紀を想う。

 合い向かいに空く席に座るのは有紀なんじゃないかな? 七井が窓側で冬奈が台所側? もしかして有紀が台所側で、鍋の用意も彼女がしてくれるのかな?


「ちわーす。お招きありあとござんす! 粟飯原浩二っ! 米と米の加工品を持ってただいま参上!」

 うるさいのが来た。粟飯原は冬奈がいると兎角テンションが高い。

 有紀の立ち振る舞いを想像していた秋人の顔が曇る。


 マフラーとドレッドヘアと赤い鼻が妙に似合う粟飯原は、大荷物を台所に置きながら脱ぎ難そうなブーツと悪戦苦闘している。 


「では、すぐに米を研いで釜にかけてください」

「え? あっし、手がかじかんでるうえに、重い米とお酒で鬱血して……」

「グズは嫌いです」

「喜んでただいまただちにっ!」

「米の到着が遅くなりましたが、そろそろ始めましょう」


 粟飯原の到着ではなく、米の到着とは冬奈もさらっと酷い事をいう。いつもの事ながら、それを粟飯原は喜ぶようだが……。


 七井と冬奈がてきぱきと鍋に具材料を投入していく。七井はいい加減に、冬奈は手早く綺麗に並べて。

 見た目も手順も鍋の内! と言う鍋奉行がいたらぶち切れるような光景だが、幸いここにはいない。


「えー、では。林田正仁くんの就職をお祝いいたしまして、不承不承ふしょうぶしょう、わたくしが乾杯の音頭を取らせていただきます」

「そこは『不肖ながら』だろ」

 まだ鼻の赤い粟飯原がコップを片手に立ち上がり口上を述べ、七井がポン酢を小皿に差しながら突っ込んだ。


 この鍋は友人同士の交流という偽装だが、どうせなら就職祝いも兼ねようと、七井が提案し、このような形となった。

 暁人は冬奈が用意してきた身分と職で、立派に働いている。

 用意された職なので、一種の縁故採用……いや、考えようによってはもっと酷いかもしれない。なにしろ犯罪組織による斡旋なのだから。

 

 しかし紹介された仕事は至極真っ当。アルカリイオン水サーバーの営業と設置、メンテナスを行う代行会社だ。いくつかの代行業務も抱える会社だが、暁人の部署はそこである。

 重たい水タンクの運搬や、ノルマのある営業などは大変だが、なかなか快適な職場だ。給料がいいわけじゃないが、何故か時間の都合がつきやすく、営業や配達部署もこのアパート近辺を中心としている。


 恐らく……。いや、絶対に七井と冬奈の組織が関わっているのだろう。

 木岡の言う<種を撒く人>という組織も真実味を帯びてきた。少なくても、中小企業をどうこうできるほどの力はある。金銭なのかマンパワーなのかは分からないが、なんらかの力はある。


 秘密組織というのは些か滑稽だが、団体で力を行使している事は間違いない。


「えー、林田くんのニート脱却は誠に喜ばしく……」

 なぜか立っている粟飯原。乾杯の時にみんなに立てと言うのだろうか? 中腰で乾杯をする気なのか。

「無駄に長ぇ……」

 粟飯原の口上を見上げつつ、七井の右手に持たれた日本酒の杯が鍋の上を彷徨っている。

「マヨネーズは何に使うのですか?」

 冬奈の興味は、コタツの端に置かれたマヨネーズに向いている。


 ビール派の暁人は、缶ビールを片手に鍋の中で煮えるクエの切り身を見つめる。

 そろそろ食べごろだろうなぁ……。と、思っていると、冬奈が鍋の具を小鉢に取り分け始めた。粟飯原の口上をまったく気にしてない様子だ。

「……元来、労働とは生きる術であり、義務ではなくぅ強いられている活動でありました。しかしながらぁ、特に近年。生きる術が世界に溢れ、義務を遂行せずとも糧を得るという新しい生きる術がぁ……」

「では頂きましょう。乾杯」

 全員分を取り分け終わった冬奈が、無意味な口上を続ける粟飯原を無視して乾杯の音頭を取った。

 暁人のビール缶と七井の杯と冬奈のウーロン茶缶が、カン……ポコッ! と乾杯の音を立てた。七井は一気に杯をあおり、冬奈は一口だけ上品にウーロン茶を飲んだ。秋人もビールを半分ほど胃に放り込み、労働の疲れを染みるアルコールで叩きだした。


「ああ、ひっでぇ!」

 粟飯原のコップ酒は、ぐるりとコタツの上を周回したが、誰とも乾杯を交わす事なく彼の口元へと運ばれる。


 七井はクエを食った。

「うお、やっべ」

 暁人もクエを食った。

「ヤバいですね」

 粟飯原もクエを食った。

「やべーなコリャ」

 冬奈はネギを食べた。

「……」


 七井はさらにクエを食う。

「おー、やべー。マジやべー」

 暁人も続けてクエを食う。

「ヤバ、ヤッバ、マジヤッバ」

 粟飯原がクエばかり食う。

「はふひゃふやふやべはふぃやべーよふいはいうぐ」



「……昨今、若者の表現力が乏しいというのは時代の流れゆえ構いませんが、作った本人からすると味の表現がヤバいヤバいだけでは、今後の士気にも関わります。あと、野菜も食べなさい」

「も、もうしわけございません」

「……ごめんなさい」

「クエだけでなく野菜もクエってか?」

 

 粟飯原が平身低頭し、暁人が萎縮する中、七井だけがダジャレを言って飄々としている。

「わかりました。マヨネーズは罰ゲーム用ですね」

 冬奈は目にも止まらぬ素早さでマヨネーズの蓋を開けた。鍋の上を冬奈の右手とマヨネーズの容器が走る。


「ああ、ちょっとまて! うわ、マジかよ! マヨネーズかよっ!」

 七井の小鉢には、一瞬にしてマヨネーズが盛られた。

「うひゃひゃひゃ、すげーヤベーっすよ、それ。鍋にマヨとかキングマヨラーすよぉ。うひゃぁ、超やべぇー」

 コップいっぱいの日本酒で既に出来上がってるのか、妙に粟飯原のテンションが高い。


「ほんとに、なんでマヨネーズあるんだろ?」

 暁人が首を捻る。

「……お、うま。いけるぞ、マヨネーズ」

 意外だと、七井が目を輝かせ、粟飯原にマヨネーズクエ鍋を薦めた。

「マジすっか? まぁじぃで? どれどれ…………っ! む、ぶほっ!」

 騙されマヨネーズクエ鍋を試した粟飯原が、ドレッドヘアを震わせながら咽る。しかし、それでも咀嚼して飲み込もうと努力していた。


 それを見た七井が、自分の小鉢を粟飯原に突き出した。

「お、粟飯原は行けるね。やるよ、俺のマヨクエ」

 やっぱり不味かったようだ。

「……勘弁っす、七井さん」

 冬奈の手作り手盛り鍋を無駄にしてはいけないという一心で食べたが、これ以上は無理だと泣きを入れた。 

「食べ物を粗末にするとはなんて事ですか」

「いやいや、最初にやったのは冬奈。お前だろ」

「マヨは万能って言ってもこれは微妙だなぁ。マヨ強いわぁ」

 

 いつもの緊張感はどこへやら。

 鍋とはこんなに楽しいものなのか。


 美味なクエ鍋に舌鼓を打ちつつ、ここに有紀がいたらもっと楽しいだろうと思いを馳せる。


 などと楽しい時間を過ごしていると、数人が外階段を昇る足音が聞こえてきた。

 彼らは往来し始め、隣の部屋で作業をする物音が聞こえてきた。

 木岡の部屋に誰か来ているのだろうか? 今までにない事だ。

 秋人が不思議に通路の方を見ていると、七井が杯をあおって言った。


「引っ越し屋が来たみたいだな」


 この夜に? 引っ越し? ……屋? 引っ越し屋……。木岡は数日、姿が見えない……。まさか!?


 はっとする暁人に、冬奈が目を閉じて語る。

「住人の都合に併せて、夜に引っ越しをする業者もあるんですよ」

「そうそう。日中は仕事で休み取れないとか、夜逃げとかねぇ」

 粟飯原が軽い口調で同意しながら、有紀のノートパソコンの電源を入れた。


 遅い立ち上がりのノートパソコンを見つめつつ、七井が呟く。

「木岡 一期。奴は有紀と正仁が旅行に出かけた日、この部屋に忍び込んだ。それでそいつの電源を入れたってわけさ」

 冬奈が言葉を続ける。

「実は、そのノートパソコンにはOSが二つ入っています。所定の操作をせずに起動すると、初期状態に近い設定のOSが起動。その後、バックグラウンドでもう一つのOSとデータを消去。そういう仕掛けです」


 熱海へ出かけた日ばかりのタイムスタンプが付くファイル。やけに甘いセキュリティ。空っぽだが初期設定の終えているOS……。

 

 秋人は渇く喉を潤すためにビールをあおった。

 ……余計に喉が渇く。

 冬奈の飲むウーロン茶が欲しい……。


「……しかし、実はそれもフェイク」

 そう言って、七井は一つのUSBメモリを懐から取り出した。

「こっちにDebian系のOSが入れてある。データもこっち。実際にはこれを起動させて、有紀と正仁はメールやらデータを管理してたのさ。いいねぇ。最近のPCはいろいろ融通が効いて」

 USBメモリをしまい、七井は鍋からクエを取り分ける。

「窓のデータもこっちで扱えるようになってきたし、周辺機器のドライバも充実してて俺たちが苦労しなくてもいろんな仕掛けできて楽だぜ、最近。まあこのOSは無線機器が梃子摺てこずるが」


 暁人はそこそこコンピュータに詳しいので、七井が何を言っているのか大体わかる。

 つまり二重のフェイクをセキュリティに見せかけ、実際のデータとOSは別に用意していた。

 ノートパソコン本来のOSを操作してるわけではないので、USBメモリで作業したログはノートパソコンには残らない。

 恐らく、ルーターのログは毎日消しているか、毎日消える設定にしているのだろう。ノートパソコンを隅から隅まで調べても、こうなると何も出てこない。


 暁人は木岡との関係が知られていないか、気になって仕方ない。こちらから声を出せば、すべてバレてしまうのでは? と口が震える。


「有紀のストーカー、木岡一期は引っ越した。それで終わりです」

 冬奈が冷たく宣言した。


「就職により、この部屋から貴方が離れる時間が多くなりました。そのため、露見の可能性を減らす為、以前より障害の懸念があった彼は引っ越し。そうさせて頂きました」


 荷物は分かる。部屋も解約すればいいだけだ。

 だが人間は?

 木岡はどうなったのか?


 隠している拳銃には目線を向けない。彼らなら、暁人の仕草だけで拳銃の存在に気が付くかもしれない。

 暁人は亀のように首を竦め、決して木岡との関係を悟られないように注意した。


「ま、お前とはなんのゆかりもない奴が一人、ちょっと遠くへ引っ越しただけの話しさ。さあさあクエを食えよ。なーんてなぁ」

 七井がつまらない冗談を言い放つ。もちろん笑えない。

 絶品であるクエの味も、もうさっぱり分からない。


 やはり、こいつらは普通じゃないんだ……。


 木岡はどこへ消えたのか?

 まさか鍋の中ではないだろうが……。もしかしたら、あの蓋付きバケツの中のような姿に……。


 その視線に気が付いた冬奈が、ふと呟く。

「似たような姿になっているでしょうね」


 ぞっとした。表現のしようがない。秋人は底知れぬ恐ろしさを味わった。

 気を抜いて思わず視線を向けただけで、冬奈は暁人の恐怖心を細かく読み取ったのだ。

 もしも……タイミング悪く拳銃の隠し場所を見ていたら……。

 彼らが木岡との接触に気が付いて、それを隠しているなら……。


 俺はどうやって有紀と暮らしていけばいい!?


 

 信じられないかもしれないが……。

 暁人は自分の身の安全より、有紀との生活……。いや、ここでの生活から離れる事を心配していた。



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