十四日目
「林田さん」
「おはようございます。大家さん」
「ああ、お早う。利根さんは元気かい?」
「ええ、話かけても問題無いくらいには。まだ起きるのは億劫らしいですけど」
平日の朝、ゴミ袋をゴミ集積所に積み上げながら、大家と暁人は挨拶をかわす。
ついこの間まで、大家と接触を避けていた暁人はもういない。
林田正仁として、何食わぬ顔で大家と世間話ができるほど、ふてぶてしくなっていた。
たった数日で暁人の心境は大きく変わり、それによって余裕が生まれている。
正仁を何食わぬ顔で演じていた。
「あたしゃね、うつ病なんて軟弱な怠け病かと思ってたけどね。前の利根さんを見ていて、そうでもないと思ったよ」
「そうですか」
過去の出来事だ。
適当に話を合わせる。
「前に患った時は、一日中、寝室で膝を抱えたまま動かない。そんなのを何度も見たよ。あんな様子をなんども見たら、結構大変なもんだと思うよ」
「そうですか……」
カーテンが開いていると、大家の二階から寝室の様子が良く見える。以前、有紀がうつ病に悩んでいた時、大家は無気力に何も出来ない姿を見たと言う。
「ああ、悪いねぇ。あんたの方が良く知ってるよね」
「ええ……」
ここは言葉を濁す。有紀のうつ病に詳しかった人物は本物の林田正仁だ。暁人はメールの内容でしか知らない。
マキや正仁のやり取りから、有紀を知ってる。その程度だから、逆に有紀という人物を都合のいい部分だけで見てしまう。
妹の才能を伸ばす為に粉骨砕身して働くが、実は弱く傷つき易い。家族思いで優しくて弱い。そんな勝手な有紀のイメージを作り上げていた。
「じゃあ、利根さんが元気になったら一度、顔を見せてくれるように言っておいておくれ」
「ええ、分かりました。ご心配お掛けします」
無理な申し出だが、暁人はコクリと大きく肯いて見せた。
「あんたみたいな彼氏さんがいて、利根さんも心強いだろうよ」
大家は暁人の肩を軽く叩いて、自宅へと帰っていく。その背を見送り、秋人は顔を顰めた。
「ゴミ捨てに来たその手で肩を叩くとかさぁ……」
暁人は綺麗好きである。安物の上着とはいえ、一張羅だ。
お金もあることだし、着替えを買おうか……と思いを廻らせていると、不思議と笑いが出てきた。
死体のある部屋に住む事への抵抗感が、暁人の中からすっかり消えていた。
有紀が生きている可能性すら妄想し始めているせいか、死体という認識も希薄になりかけている。
それが良いのか悪いのか、暁人には分からない。だが、確実に気持ちの上では楽になってきている。
大家と別れ、アパートの二階に上がると、隣室のドアから木岡が姿を現した。
お互い、不必要な付き合いはしない。彼とはそういう取り決めだった。
目線だけで合わせ、二人はすれ違う。
暁人の不安は、有紀より木岡の存在が今では大きい。何しろ彼は七井たちのような協力者ではなく、協力を求めてきている部外者だからだ。
有紀を気にかける彼を騙さなくてはならない。
これは大家を騙すより難しい。
結局、大家は大家であり、有紀は店子である。
それ以上の関係ではない。実際、大家の有紀を気にかける態度は淡白である。
だが、木岡は有紀に執着している。
大学へ行く木岡を、暁人は室内から覗きみた。
図らずも数日前とは逆の光景である。
彼は「有紀と一緒に逃げる約束をしていた」などと言っていたが、どうにも信用できない。
有紀と正仁は愛し合っていた。
メールを何度も読み返せば分かる事だ。
二人の間に木岡が割り込む余地は無い。暁人はそう思っている。
そして、有紀と正仁の仲を確信する度に、暁人は胸を押さえる。
苛立ちに似た思いがもたげる。
そんな仲でありながら、有紀を殺した正仁に怒りが湧く。
「ああ……。死んでる相手にそんな事を思ってもしかたないんだけどね」
暁人はカーテンを閉め、寝室の襖を開け放った。
「どう思う? 死んでる相手を憎いと思うのと……」
ベッドの前に腰を下ろし、有紀の寝顔――いや死に顔を見つめる。
「死んでるキミに俺が……」
秋人の手が、有紀の顔へと伸びる。
トントンッ! と、玄関が叩かれた。
音は弱めだが、硬く握った手で叩く独特なノック。
冬奈のノックだ。
そろそろ暁人も、七井や冬奈たちの来訪を見極められるようになってきていた。
冬奈はそれほど頻繁にこの部屋を訪れない。だが彼女は一番分かり易い。
鉄の外階段を音も無く昇り、気配も無くいきなりドアをノックする。これだけで彼女と分かる。
粟飯原などはノックもしないが、鍵を開ける乱暴さで分かるし、七井は大型バイクで乗りつけるので、二階に上がる前に気がつく。
暁人は有紀に「冬奈が来たみたいだ」と無意識に語りかけて立ち上がり、襖をしっかり閉じて玄関を開けた。
「おはようございます」
制服姿の冬奈が礼儀正しくお辞儀をした。
はらりと肩から落ちる黒髪が、やけに視線を誘う。
「やあ、おはよう」
「大分、元気になられたようですね」
「え? ああ、うん。有紀も食欲が増えてね」
冬奈はパタンと玄関を閉じ……
「有紀ではなく、貴方の事です」
と、伏せ目がちに言った。
てっきり偽装の会話を振って来たと思ったが、暁人の勘違いだったようだ。上手く受け答えしたつもりだったので、ちょっと残念だ。
「俺か?」
「貴方です」
冬奈の目は相変わらず冷たい。今日はその追うような目を向けて来ないので、暁人は内心安堵していた。
「食欲が増えたのは貴方のようですね」
流し台と片付けられた朝ご飯の食器を見て、冬奈はふと目を閉じる。
「今度、鍋物でもご用意しましょう」
「作ってくれるの?」
「ええ、ご馳走いたしましょう。七井や粟飯原など友人が集まって、看病している正仁と気落ちしている利根有紀と交流する。うつ病の対象相手とはいえ、極自然でしょう」
「……ああ、そうだね。自然な……偽装だ」
暁人は不満だった。
冬奈が暁人だけの為に料理をしてくれないからではない。
彼女が有紀の生存偽装をシステマチックに考えているからだ。
それっぽい事だけをすればいい。彼女はそうやって有紀と付き合っている。
「ご不満ですか?」
冬奈は暁人の心を見抜いた。追うような瞳が向けられる。
「い、いや……」
気圧され、不満も何も吹き飛んだ。
「そうですか。ではできる限り腕を振るいましょう。それから、こちらをどうぞ」
冬奈は冷たい視線を逸らさず、暁人に小袋を手渡した。
受け取ると軽い。手が思わず上に上がってしまう。
「昨日、家で焼いたクッキーです。どうぞ」
「え? あ? はい。ありがとう」
妙な気遣いを受け、暁人は戸惑った。
「利根有紀に手焼きのクッキーを届けるという偽装です。マキへのメールにも書いておいてください」
……ああ、そうかい。
細かすぎる偽装行為に、暁人の男心が深く傷ついた。
「クッキーの処分はそちらでお願いします」
「処分ときたかー。俺の口と腹は処分の為かー。そんなら冬奈ちゃんが食べてもいいじゃんか」
自棄ぎみに、小袋を突き返す。
「そう言われればそうですね」
当て付けのつもりだったのだが、相手が悪かった。冬奈は意外にもすんなり受け取った。
まさしく「ぬかに釘」である。
暁人は鞄へと仕舞われ行くクッキーの袋に追い縋った。
「いやいや待った。良く考えたら味が分からないと、マキちゃんへの返信が出来ないじゃないか。俺が味見するよ、うん味見」
「ささやかで惨めで短い反抗期でしたね」
辛辣な言葉と共にクッキーを受け取り、暁人は戦利品を持って座卓へと運ぶ。
「お茶でも淹れようか?」
「いえ、これから学校なので。失礼します」
「ああっと! ちょっと待って!」
立ち去ろうとする冬奈を居間から呼び止めた。
「なんでしょうか?」
冷たく無表情のまま、小首を傾げて振り向く冬奈の姿が、小動物の様で珍しくて可愛らしい。
「実はさ、少し働こうと思うんだ、俺」
「バイトですか?」
「なんでもいいけどさ。働いてないとおかしいだろ? 世間体っていうかなんていうか」
「確かにそうですが、アレの管理はどうするのですか?」
冬奈の追う目が寝室へと向く。
「いや、だからさ。有紀ちゃんが少しは回復したってそぶりも必要だろ?」
有紀を物扱いする彼女の態度に憮然としながら、暁人は強く意見を言った。
「……わかりました。林田正仁の身分証と履歴を準備しましょう。履歴書の記入は貴方がしてください。こちらの指定先の職業となりますが、よろしいですか?」
冬奈は提案をあっさり受け入れた。
提案を呑むのも意外だが、彼女が他人の身分証を用意した上に、職を用意できる立場であることに秋人は驚愕した。
一介の高校生に出来ることではない。
背後に誰かいるのか? 彼女はどんな当事者責任を持っているのか?
種を撒く者の中で、彼女はどれだけの権限やら力やら持っているのか?
暁人は背筋に冷たい物が流れる感覚を、生まれて始めて味わった。
「……わ、分かった。頼むよ」
「はい。では用意しますので、また明日に」
明日までに用意できる物なのか!?
暁人は生唾を飲み込みながら、小袋を握り締めた。渇いた音と共に、クッキーが砕ける。
「……残念です。形も良く出来たのですが」
冬奈はクッキーの砕ける音に背を向け、不平を言い残して玄関を開け放つ。
はっと正気に戻った暁人は小袋の中を覗く。
……嘴や首の折れたペンギンのクッキーたちが、無残に積み重なっていた。
慌てて謝ろうと玄関を見たが、冬奈はもう飛び出してそこには居ない。
カンカンッと鉄の外階段を打ち鳴らし、文句を並べるように去っていく。冬奈が階段をあれほど鳴らすのは初めての事だ。
鉄とローファーの靴底が刻む音色を聞きながら、苦笑を浮かべクッキーを一欠けら口に放り込んだ。
暁人の苦笑は微笑に変わった。
同時に有紀の携帯電話が、マキからのメール着信を告げた。
「有紀ちゃん。今日は冬奈ちゃんのえらく可愛い態度とか、美味しいクッキーとか話題が多いよ」
暁人は有紀の眠る寝室を見遣り、携帯電話を手に取った。
彼はもう有紀が死んでいるなどと思っていない。
……かのようだった。




