八日目 夕方
「……ヤバい事になってきた」
木岡の部屋で、様々な話を聞いた翌日。
暁人は外出もせず、貰った拳銃を手元に置き、ゴロゴロとして時間を潰した。
ろくに動かないので腹も減らない。考え事をしてるようで、実際には何も考えていない。
昼食も有り合わせの物で済んでしまうほど、カロリーを全く消費しない自分にエコな一日だった。
夕日が半開きの窓から差し込み、暁人の足を温める。その窓から吹き込む風が、暁人の身体を冷やす。空気が篭る感じがして、暁人は窓を開ける習慣が付いていた。
頭を抱え、まんべんなく掻きむしり、唸り声を上げながら左右に身体を振る。
苦しんでるようにも、悩んでるようにも見える。
ひとしきりゴロゴロとして、暁人はむくりと起き上がる。
「どーするんだよ。銃とか秘密組織とかありねーだろ……」
寝室と居間を隔てる襖に向き直り、胡座をかいた。畳の上の拳銃を、じっと見つめる。
見つめる。じっと見つめて……見つめているうちに、おもちゃの拳銃にでもならないだろうか?
実は有紀も生きていて、この部屋は俺の家で、二人は恋人同士で、なんのトラブルもなくて、種を蒔く人とかフザケた奴らはいなくて……。
そんな風にならないだろうか?
「いや、それは都合良すぎるか……」
暁人は頭を振って、妄想を振り払う。
「俺はただの空き巣でいいから、せめて有紀ちゃんと正仁が仲のいい恋人同士のままで……」
暁人はふらりと立ち上がり、襖の引き戸に手を延ばす。
ここを開けたら有紀が目を覚ましていて、驚いて……正仁が俺を叩き出して、警察に捕まって……それでいいんじゃないか?
それで終わりになって、もういいんじゃないか?
「……俺の罪だけ残るのってねーんじゃね?」
正仁は有紀を殺した。
暁人の窃盗だけ罰せられ、正仁の殺人だけなかったことになるのは不公平だ。
「だけど、それだと……有紀ちゃんは死んだままになる」
何も無かった事にならないだろうか?
そんな都合のいい奇跡でも起きないだろうか?
初めてこの部屋に入ってから開けていない襖。
これを開ければ、何か変わっているのでは――
暁人はついに覚悟を決めて、襖の引手にかける腕に力を……入れようとして、ふと視線を感じ、半開きの窓の外へ目を向けた。
暁人を見詰める黒い瞳……。
大家の庭木に一匹のカラスが止まり、襖を開けようとする暁人を凝視していた。
カラスと視線が絡み合い、暁人の動きが止まる。カラスも暁人の次の動きを見定めるかのように、微動だにせず見つめ返す。
早く死体を啄ませろ――。
無機質な瞳がそう言っている。
暁人は死臭が漏れ出しているのかと、カラスから視線を逸らさず鼻を効かせた。だが、鼻が慣れて鈍くなっているのか、人間の嗅覚では気化した科学薬品に覆われて分からないのか、腐敗臭を感じる事が出来ない。
カラスは空を飛べ無い暁人を見下ろし、死体を差し出せと無言の圧力をかけてくる。
視線に耐えられなくなった暁人は、畳の上に置いた銃を拾い上げた。
「もう、一人にさせてくれ」
暁人はカラスに拳銃を向けた。
カラスはエアガンの悪戯に懲りているのか、銃を拾い上げた動作を見ただけで、飛び上がり逃げ出した。逃げたカラスも、まさか本物の拳銃に狙われたとは思っていないだろう。
もう何も無い空に銃口を向けても仕方無い。暁人は拳銃から弾を抜き出して、ポケットの中へと仕舞い込んだ。
ふと、有紀を物扱いした七井の顔が脳裏に浮かぶ。
「いや、二人か……」
襖の向こうに有紀がいる。
死体だがモノじゃない。
襖を開ける勇気はまだないが、心ではそう思ってる。
「開けろよ、俺……」
彼女はモノじゃない。
だから、彼女に敬意を払わねばいけないはずだ。
死体だ、遺体だ、腐敗だ、不潔だ、不浄だ、などと思って彼女を避けてきた。
モノ扱いはしてないが、忌避してきた。
暁人はついに……初めてこの部屋に入った時以来、自らの意志で寝室の襖を開けた。
有紀はやはりそこにいた。
彼女はやはり死んでいた。
ポケットの拳銃を撫でながら、一歩だけ寝室に踏み込んだ。
鼻は慣れてしまっているが、薬品の臭いが漂う室内。澱んだ空気に包まれて、有紀は変わらず眠るようにベッドの上で横たわっている。
何故、ここまで死体を綺麗に保存できるだろうか。
白い肌は病気だからと言い訳すれば通りそうだ。呼吸も布団のかけ方で誤魔化せる。
もしかして生きてるんじゃないか?
もしかして粟飯原が食事の世話などしてるとか?
病気で死んだように寝てるだけじゃないのか?
俺を騙そうと、冬奈と七井が仕掛けをしてる可能性だってある。
初めて彼女に触れた時だって一瞬だった。冷たいと思ったけど、直前まで首に氷でも当てていたとか?
「……あの」
暁人は恐る恐る声を掛ける。
「有紀さん?」
見知らぬ女性を起こす時、どうしたらいいのだろうか?
触る?
叩く?
撫でる?
揺する?
布団を取る?
いや、どれもできそうに無い。
暁人の口の中が乾ききり、呼吸も乱れる。死臭を嗅ぎたくない一心で、浅い呼吸をしていたが、そろそろ息苦しい。
もう居間に戻りたい。襖を閉めて、暫く外に出たい。
でも、確かめたい。
生きているのか、やはり死んでいるのか?
もしも万が一、何かの奇跡か誰かの冗談か何でもいいから都合のいい事があって、有紀が生きていれば、それで全部終わる。
暁人はふらりと前に出た。
有紀の身体が近づく。
また一歩、前に出る。
有紀のきめ細かい肌が見える。
さらに一歩、進む。
蛍光灯の紐が額に当たる。
今度は半歩だけ、右足を前に。
手を伸ばせば、有紀に触れられる。
揺り起こして、彼女が目を覚ませば、もう終わる――
カアーッ!!
突如、カラスの鳴き声が響き渡り、数羽の影が閉められたカーテンの向こうで舞い上がった。バタバタと影絵が、夕日を遮って室内に疎らな暗闇を落としていく。
暁人は慌てて手を引っ込め、飛び立つカラスの影を見送った。
そして、やっぱり止めようと首を振り、寝室を後にした。
襖を閉め……、行き過ぎてズレたので閉め直し、その場にドスンと腰を下ろした。
呼吸を忘れてた。
暁人は荒い息を吐き出し、吸い込む時に思わず咽せた。
一通り咳き込んで落ち着くと、首を巡らせて襖の引手を見つめた。
そして――
「……目を覚ましてくれないかな。急に起きても、俺……驚いたりしないからさ」
有紀に語りかけてみた。
今日、ついに――
初めて、暁人は死体に話かけた。




