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異世界恋愛「ざまぁ」短編集 ~不遇令嬢と、彼女を見抜く最強の理解者~

「無能の埃取り」と売り飛ばされた調律令嬢、呪われた黒鉄公爵に神技を見初められ至高の番として溺愛される ~実家の欠陥魔導具が爆発しても、もうタダ働きはいたしません~

掲載日:2026/09/12

深夜二時。


ウェイン男爵家の地下工房には、油と金属の冷たい匂いが澱んでいた。


カチ、カチ、と規則的な機械時計の音だけが響く。


作業台に向かうエレナの指先は、油汚れと小さな火傷の痕だらけだった。


彼女の双眸が、薄暗がりの中で淡く透き通る。


魔導回路の歪みを視覚として捉える、エレナ固有の力――『調律眼』。


台の上に置かれているのは、明日出荷される予定の新型魔導ランプだった。


(……やっぱり。ここ、回路の結び目がひどく捩れてる)


表面の装飾板を外すと、内部の金線が赤黒く脈動していた。


妹のアンナが「天才的な閃き」と豪語して組んだ回路だ。


一見すると魔力効率が高そうに見えるが、実際は無理な負荷がかかりすぎている。


(このまま魔石を通したら、三分も持たずに核が爆発しちゃう……)


この国では、派手な攻撃魔法や、目を焼くような閃光を放つ魔力ばかりが称賛される。


だが、どれほど巨大な魔力を込めようと、受け皿となる回路が歪んでいれば道具はただの爆弾だ。


エレナは息を潜め、極細の銀針を手に取った。


集中を極限まで高め、針先からごくわずかな魔力を糸のように紡ぎ出す。


呼吸すら止め、髪の毛よりも細い術式を一本ずつ手繰り寄せる。


キン、と針先が澄んだ音を立てた。


捩じれ、摩擦を起こしていた回路が、すうっと滑らかな一本の川のように解けていく。


熱を帯びていた核が、穏やかな青白い輝きへと落ち着いた。


(ふぅ……これで大丈夫。誰の手元にいっても、暴走することはないわ)


額に滲んだ汗を、煤けた袖で乱暴に拭う。


作業台の脇には、すでに調律を終えた数十個の魔導具が整然と並んでいた。


今夜も、すべての製品の歪みを一つ残らず整え終えた。


東の空が白み始めている。


(早く片付けなきゃ。お義母様たちに見つかったら、また怒られちゃう……)


エレナにとって、これは誰かに誇るような仕事ではなかった。


派手な魔法を何一つ使えない自分が、実家に置いてもらうための「最低限の埃取り」。


そう教え込まれ続けてきたからだ。


重い瞼をこすりながら、エレナは散らかった工具の手入れを急いだ。



◇◇◇



「まあ! 汚らしい! 近くに寄らないでちょうだい!」


翌朝。


燦々と朝日が差し込む華やかなサロンに、甲高い悲鳴が響き渡った。


エレナの義妹、アンナだ。


流行の贅沢なレースを幾重にも重ねたドレスを揺らし、アンナはわざとらしく鼻をつまんだ。


「朝から油臭くて吐き気がするわ。お母様、早くこの穀潰しを視界から消してくださいまし!」


ソファーで紅茶を優雅に啜っていた継母のマリアが、冷たい視線をエレナへ突き刺す。


「本当に目障りね、エレナ。ろくに魔力も持たない出来損ないのくせに」


マリアは手元のカップを乱暴にソーサーへ戻した。


ガチャン、と耳障りな陶器の音が響く。


「昨夜アンナが完成させた魔導具、先ほど商会が絶賛して買い取っていったわよ。さすがは我が家の誇る天才魔導具師だわ」


「ええ、当然ですわ! わたくしの溢れる魔力で編んだ回路ですもの。誰にでもできる雑用しか能がないお姉様とは、生まれ持った格が違うのよ」


アンナが得意げに胸を張り、指先にパチパチと派手な金色の火花を散らしてみせる。


その火花は激しく明滅するだけで、道具の動力としては全く制御できていないものだった。


昨夜、アンナの致命的なミスを徹夜で修復したのはエレナだ。


だが、それを口にすることは決して許されない。


「……申し訳ございません」


エレナはただ、油の染みた質素なエプロンを握りしめ、頭を垂れた。


言い返せば、食事を抜かれるか、冷たい地下室に閉じ込められるだけだ。


自分は無能なのだから、蔑まれるのは仕方のないこと。


そうやって心を麻痺させ、耐え忍ぶことしか知らなかった。


しかし、マリアの口元に浮かんだ笑みは、いつも以上に醜悪だった。


「まあいいわ。ちょうど、あんたの使い道が決まったところよ」


マリアは扇子を開き、下卑た笑みを隠しもせずに告げた。


「あんた、嫁ぎ先が決まったわ。相手は『黒鉄公爵』レオンハルト閣下よ」


「……え?」


エレナは思わず顔を上げた。


黒鉄公爵、レオンハルト・クロムウェル。


帝国最北端の過酷な寒冷地を統べる、泣く子も黙る国境の守護者。


だが中央貴族の間では、別の名で恐れられていた。


全身に黒い呪詛を宿し、近づく者を狂気に落とし、生贄の花嫁を食い殺す――『黒鉄の血塗れ公爵』。


「な、なぜ、わたくしが……公爵閣下のもとへ……」


「決まっているでしょう。あの怪物が、莫大な結納金と引き換えに妻を要求してきたのよ」


マリアが冷然と言い放つ。


アンナが下品な笑い声を立てた。


「我が家の借金を、お姉様が身代わりに背負ってくださるのよ! 感謝してほしいくらいですわ!」


「借金……?」


「今期、社交界で見栄を張るために少しばかり散財してしまってね。もう首が回らないのよ。あの恐ろしい怪物のところへアンナをやれるはずがないでしょう? あんたのような無能でも、公爵の気まぐれな生贄くらいには役に立つわ」


悪びれる様子すらなく、家族はエレナを「売った」のだ。


しかも、生きて戻れる保証すらない、怪物の巣窟へ。


(ああ……そうか)


エレナの胸の奥で、何かが静かに音を立てて冷え切っていった。


悲しみや怒りすら、湧いてこなかった。


最初から、自分はこの家で家族として見られてなどいなかったのだ。


都合のいい無償の労働力。


それが終われば、金に換えて処分するだけの不用品。


「返事は聞いていないわ。馬車はもう裏門に来ているの。荷物? そんなもの持っていく必要はないわよ。どうせ長くは生きられないのだから」


マリアは立ち上がり、汚れた布切れを払うようにエレナへ手を振った。


「さあ、行きなさい。二度とこの家の敷居を跨ぐんじゃないわよ」



◇◇◇



裏門に停まっていたのは、貴族の婚礼とは程遠い、窓に鉄格子のはまった黒塗りの馬車だった。


見送りなど、誰もいない。


着替えのドレスどころか、手荷物一つ持たせてもらえなかった。


身につけているのは、薄汚れた灰色のワンピースと、使い古した革のブーツだけ。


ただ、エプロンのポケットの奥底に、母の形見である一本の細い『調律針』だけが、静かに滑り込ませてあった。


ゴトゴトと、車輪が軋んだ音を立てて回り始める。


帝都のきらびやかな街並みが、鉄格子の向こうへ遠ざかっていく。


向かう先は、極寒の北の果て。


呪われた公爵が待つ、死の城。


エレナは冷え切った指先を重ね、ポケットの中の針をぎゅっと握りしめた。


(……どんな場所でも、私にできることは変わらない)


誰にも褒められず、誰にも感謝されなくても。


目の前にあるものの歪みを整え、壊れないように調律する。


それだけが、無能と蔑まれ続けた自分が、世界に存在していい唯一の証拠だった。


(死ぬために行くとしても……最後まで、私の役目だけは投げ出さない)


窓の外の景色は、やがて灰色の雲に覆われ、冷たい吹雪の荒野へと変わっていった。


エレナ・ウェインの、過酷で、けれど運命を変える旅が、静かに始まった。



◇◇◇



猛烈な吹雪を突き抜け、馬車が辿り着いたのは黒鉄色の巨城だった。


切り立った断崖の上にそびえ立つ、黒鉄公爵城。


飾り気のない無骨な石造りの回廊は、吐く息が白くなるほどに冷え切っていた。


案内された執務室の重厚な扉が開く。


室内の暖炉には薪がくべられていたが、部屋全体を底冷えする威圧感が支配していた。


大きな黒檀の机の向こうに、一人の巨躯の男が座っている。


「――お前が、ウェイン男爵家の娘か」


低く、地を這うような声が部屋に響いた。


レオンハルト・クロムウェル。


黒曜石のような漆黒の髪に、凍てつく刃を思わせる鋼色の瞳。


そして、襟元から首筋、顎のあたりにまで這い出ている不気味な黒い文様。


それこそが、帝国中から恐れられる『呪い』の証だった。


「はい、閣下。エレナ・ウェインと申します」


エレナは背筋を伸ばし、一分の隙もない完璧なカーテシーを返した。


実家で理不尽に叩き込まれた、身を守るための唯一の礼節。


みすぼらしい灰色のワンピース姿の令嬢を、レオンハルトは値踏みするようにじっと見つめた。


その瞳の奥に宿るのは、噂に聞くような狂気でも、残虐な嗜虐心でもない。


深く、底知れない疲労と諦念のように見えた。


机の上に、一枚の羊皮紙が滑り出る。


「これにサインをしろ」


突き出された書面には、几帳面な文字で細かく条項が記されていた。


それは婚姻誓約書ではなく――明確な『契約書』だった。


「一つ、お前を妻として扱う気はない。閨を共にすることもない、完全な白い結婚だ」


レオンハルトは淡々と、感情を削ぎ落とした声で告げる。


「一つ、この城の敷地内であれば、どこでどう過ごそうがお前の自由とする。衣服も食事も、望むだけのものを手配させよう」


エレナは驚きに目をしばたたかせた。


生贄として虐殺されるか、奴隷のように扱われることを覚悟していたからだ。


「……よろしいのですか? わたくしは、実家から買い取られた身です。何の役にも立たない無能ですが……」


「構わん。私の妻という肩書きさえあれば、あの下劣な男爵家がお前に手出しすることは二度とない」


吐き捨てるような言葉の裏に、奇妙な配慮が滲んでいた。


レオンハルトはわずかに眉をひそめ、己の手首に浮かぶ黒い文様を隠すように腕を組んだ。


「どうせ、私の命はそう長くはない。私が死んだ後は、この城にある全財産の半分をお前に渡す手筈になっている。それを持って、帝国の好きな場所へ逃げて静かに暮らせ」


(……この方は)


エレナの胸に、小さな衝撃が走った。


冷酷な怪物などではない。


彼は、自分の命が尽きることを悟った上で、悪名高い実家に食い潰されかけていた自分を買い取り、逃げ場を与えようとしているのだ。


「閣下、そのお身体は……」


「お前が詮索することではない。さあ、サインを――。」


言葉の途中で、レオンハルトの表情が激痛に歪んだ。


ドサリ、と重い音を立てて机に両手をつく。


「くっ……ぐあぁっ……!」


呼吸が途絶え、喉から苦悶の呻きが漏れ出た。


首筋の黒い文様が、まるで生き物のように禍々しく脈動し、肌を裂かんばかりに黒紫色の光を放ち始める。


全身の筋肉が強張り、彼はその場に崩れ落ちるように膝をついた。


「閣下!」


駆け寄ろうとするエレナを、レオンハルトは荒い息の下から鋭く睨みつけた。


「来るな……! この呪いは……人を狂わせる……! 下がるんだ……!」


近づく者を傷つけまいと、必死に拒絶する言葉。


その瞬間、エレナの瞳が無意識に切り替わった。


『調律眼』の発動。


世界から余計な光と影が消え、万物を巡る魔力の流れだけが鮮明に浮かび上がる。


(……え?)


エレナは息を呑んだ。


彼の全身を覆い尽くしているのは、おぞましい怪物や呪詛の類いなどではなかった。


(これは……呪いなんかじゃない……!)


それは、途方もない質量を持った、純粋で高密度な精霊魔力だった。


帝国全土の北辺を守る巨大結界炉。


その炉が吐き出す膨大な過負荷を、この人はたった一人で、己の肉体を依代にして受け止め続けていたのだ。


耐えきれなくなった魔力が体内の経路で激しく衝突し、毛細血管のような極小の魔導核を幾重にも捩じり切っている。


極度の魔力循環不全。


幾千本の釣り糸がぐちゃぐちゃに絡まり、無理やり引っ張られて発熱しているような状態だった。


(痛い……なんて激痛なの。こんなの、全身の骨が軋んで砕けるような痛みなのに……!)


彼はこの苦痛に何年も耐え、なおも国境の民を守り、見ず知らずの自分にまで救いの手を差し伸べようとしていた。


ドサリと、レオンハルトの巨体が完全に床へ倒れ伏した。


苦痛のあまり意識が朦朧とし、荒い呼吸だけを繰り返している。


「人を……呼ぶな……いつものことだ……放っておけば……」


途切れ途切れの声が、完全に途絶えた。


意識を手放してもなお、彼の眉間には深い苦悶の皺が刻まれている。


静まり返った執務室。


助けを呼べば、彼の衰弱と『呪い』の暴走が城内に知れ渡り、大混乱に陥るだろう。

エレナは躊躇うことなく膝をつき、彼の荒々しい手の甲に触れた。


氷のように冷たく、皮膚の下だけが恐ろしい熱を帯びている。


(誰にも評価されなくてもいい。無能の悪あがきだって笑われてもいい)


エレナはエプロンの奥から、一本の細い『調律針』を抜き取った。


実家で毎夜毎夜、欠陥品を事故から防ぐために磨き続けた、彼女の魂そのもの。


(この人は、死んじゃいけない人だわ)


すうっと、エレナの集中が極限まで研ぎ澄まされる。


指先から、髪の毛よりも細く繊細な、無色透明の魔力糸を紡ぎ出す。


そっと、レオンハルトの胸元、心臓の直上に針先を当てた。


キン、と澄み渡る微かな金属音が室内に響く。


エレナの調律眼が、彼の体内で狂乱する魔力の結び目を捉えた。


力任せに押し込んでも破裂するだけだ。


必要なのは、力ではない。


一本一本の魔力流の機嫌を伺い、摩擦を殺し、あるべき向きへと滑らかに導く『極微細調律』。


呼吸を止め、瞬きを忘れ、エレナは指先をミリ単位で動かし続けた。


ほどけ、流れて。


冷えて、巡りなさい。


針先を通じて、レオンハルトの凄まじい苦痛と熱量がエレナの指先にも伝わり、火傷のような痺れが走る。


それでも、エレナは針を引かなかった。


一度手を止めれば、反動で彼の魔導核が完全に焼き切れてしまう。


一秒が永遠のように引き延ばされる感覚。


夜が深まり、窓の外の猛吹雪が遠い幻覚のように薄れていく。


絡まり合っていた黒い魔力の糸が、エレナの指先によって、奇跡のように一本ずつ、優しく解きほぐされていく。


漆黒だった文様が、次第に澄んだ蒼銀の光へと色を変え、静かに彼の皮膚の下へと染み込んでいった。


窓の隙間から、青白い暁の光が差し込み始める。


最後の一結びが、ほどけた。


「……ふぅっ……」


張り詰めていた糸が切れたように、エレナの身体から力が抜けた。


レオンハルトの荒れていた呼吸は、すっかり穏やかで深い寝息に変わっている。


首筋を覆っていたおぞましい黒い痣は、嘘のように跡形もなく消え去っていた。


エレナの指先は感覚を失い、白く震えている。


極度の魔力枯渇による激しい目眩が視界を奪っていく。


(よかった……間に合って……)


床に横たわるレオンハルトの安らかな寝顔を見届け、エレナはその場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。



◇◇◇



窓から差し込む柔らかな陽光が、執務室の絨毯を照らしていた。


レオンハルトは、静かに目を開けた。


いつもなら、骨を削り肉を焼かれるような激痛と共に迎えるはずの朝だった。

だが、身体が驚くほどに軽い。


(……痛みが、ない……?)


レオンハルトは寝台から起き上がり、己の両手を見つめた。


皮膚の下で常に暴れ狂っていた黒い濁流が、完全に消え去っている。


体内に満ちるのは、澄み渡る清流のように滑らかで、力強い精霊魔力の循環。


長年蝕まれ続けていた『呪い』の痕跡が、胸の奥底の魔導核に至るまで、奇跡のように跡形もなく整えられていた。


信じられない思いで立ち上がった彼の視界に、床の上で丸まって眠る小さな姿が飛び込んできた。


「エレナ……?」


エレナは絨毯の上に倒れ伏したまま、力尽きて深い眠りに落ちていた。


その手元には、一本の細い針。


彼女の指先は酷く赤く腫れ、過酷な魔力操作の反動で痛々しい擦り傷がいくつも刻まれている。


レオンハルトは息を呑み、そっとその小さな指先に触れた。


彼の鋭い魔力知覚が、針の切っ先に残る極微細な術式の残滓を捉える。


(……馬鹿な。これは……)


帝国最高の宮廷魔導師たちですら「解呪不能」と匙を投げた、超高密度の魔力結節。


それを、力任せに破壊するのではなく、髪の毛の千分の一ほどの精度で一本ずつ解きほぐしている。


途方もない集中力と、神技と呼ぶにふさわしい繊細な調律の痕跡。


帝国全土を探しても、これほどの奇跡を起こせる調律師など存在しない。


(彼女が……あの下劣な男爵家で無能と罵られていたこの少女が、たった一人で私の命を救ったというのか……?)


胸の奥から、熱い激情がこみ上げてくる。


自分を救うために限界まで魔力を絞り尽くし、冷たい床で眠る少女。


レオンハルトは躊躇うことなく彼女を抱き上げ、自らのあたたかな寝台へと優しく寝かせた。


ふかふかの毛布に包まれた瞬間、エレナの長い睫毛が震えた。


「……んっ……」


微かな呻き声と共に、エレナの琥珀色の瞳がおずおずと開かれる。


目の前には、至近距離で見下ろすレオンハルトの端正な顔立ち。


その首筋からは、あの恐ろしい黒い文様が完全に消え失せていた。


エレナは跳ね起きようとして、全身の痛みに顔をしかめた。


「か、閣下……!」


怯えたように身を縮こまらせ、エレナは青ざめた顔で寝台から滑り降りようとする。


(怒られる……勝手に触って、無能の雑用係が生意気だって……!)


実家で幾度となく刷り込まれた恐怖が、反射的に彼女の喉を締め上げる。


「申し訳ございません! わたくし、お苦しそうだったので、勝手に出過ぎた真似を……! どんな罰でも受けます、どうか……!」


震える手で頭を抱え、床へ平伏しようとするエレナ。


だが、その身体が冷たい床に触れることはなかった。


カシャリ、と重厚な音が響く。


「……え?」


エレナが恐る恐る目を開けると、息を呑むような光景が広がっていた。


帝国最強と恐れられる『黒鉄公爵』が。


冷酷無比な氷の武人が、エレナの前に片膝をつき、深く頭を垂れていたのだ。


騎士が唯一無二の主君にのみ捧げる、最上級の礼。


「閣下……!? な、何を……」


「顔を上げてくれ、エレナ」


レオンハルトがゆっくりと顔を上げた。


凍てつくようだった鋼色の瞳には、今や溢れんばかりの熱い敬意と、震えるような感謝が宿っていた。


「私の命を救ってくれたのは君だ。……いや、私だけではない。私が倒れれば、この北辺の結界は崩壊し、数万の領民が魔物の餌食になるところだった」


レオンハルトは、エレナの傷だらけの手を、まるで壊れ物を扱うかのように両手で優しく包み込んだ。


「君こそが、私の……そしてこの公爵領の、真の命の恩人だ」


「い、命の恩人だなんて……滅相もございません! わたくしはただ、魔力の結び目を解いただけの、埃取りのような雑用を……」


困惑し、必死に手を引っ込めようとするエレナ。


だが、レオンハルトの手は解かれなかった。


むしろ、逃がさないように、けれど決して痛ませない絶妙な力加減で、彼女の手を包み直す。


「あれを雑用と呼ぶのか? 宮廷魔導師たちが束になっても解けなかった死の結節を、君はたった一人で完璧に調律してみせたのだぞ」


レオンハルトの瞳に、深い怒りと痛惜の色が過った。


彼女の実家――ウェイン男爵家の浅ましさに対する怒り。


「あのような至宝を無能と呼び、虐げていた実家の連中は、揃いも揃って目の腐った愚か者だ」


彼はエレナの手の甲に、熱い口づけを落とした。


「ひゃっ……!?」


「もう二度と、君に惨めな思いはさせない。君の技術、その尊い心、そして何より君自身を、私は生涯を賭けて守り抜くと誓おう」


レオンハルトが立ち上がり、そのままエレナの華奢な身体を、そっと力強い腕の中に抱きしめた。


分厚い胸板から伝わってくる、力強い鼓動と、確かな温もり。


誰からも必要とされず、ゴミのように捨てられた自分。


「穀潰し」「家の恥」と罵られ続け、凍りついていたエレナの心の奥底に、あたたかい何かがじんわりと染み渡っていく。


(……この人は、私を見てくれている)


(私のしてきたことを……ちゃんと、認めてくれた……)


一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。


エレナの大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。


「あ……ぅ……う……っ」


実家を出るときですら流さなかった涙。


それは悲しみではなく、生まれて初めて誰かに肯定されたことへの、救済の涙だった。


エレナは彼の胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


レオンハルトは何も言わず、ただ優しく、慈しむように彼女の背中を撫で続けた。



◇◇◇



その日を境に、黒鉄公爵城の空気は一変した。


氷の城と呼ばれた館は、奇跡を起こした若き花嫁への、惜しみない寵愛で満たされることになる。


エレナに宛がわれたのは、城で最も日当たりの良い、豪奢な最上階の部屋だった。


絹のドレスが何十着も運び込まれ、専属の料理人がエレナの健康のためだけに腕を振るう。


「エレナ、指の火傷の具合はどうだ? 特注の薬草軟膏を取り寄せた。私が塗ろう」


「め、滅相もございません閣下! 公爵様自らだなんて……!」


「レオンハルトと呼んでほしいと言ったはずだ。……それに、君の手を労わるのは私の最大の義務であり、幸福なのだから」


真面目な顔で甘い言葉を紡ぎ、自らエレナの指先に丁寧に薬を塗り込むレオンハルト。


かつて『血塗れ公爵』と恐れられた男の面影は、そこには微塵もなかった。


領内の工房を見学すれば、エレナの的確な調律のアドバイスに職人たちが感涙し、彼女を「女神様」と崇め始める。


「エレナ。君がこの地に来てくれてから、世界が色を取り戻したようだ」


暖炉の前、レオンハルトの腕の中にすっぽりと収まりながら、エレナは柔らかな紅茶の香りに包まれていた。


かつて地下工房で泥にまみれていた日々が、まるで遠い悪夢のようだ。


レオンハルトの逞しい腕の温もりを感じながら、エレナの頬に、生まれて初めての幸福な赤みが差していた。



◇◇◇



その頃、帝都のウェイン男爵家は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。


工房からエレナが消えてから、わずか半月。


エレナの夜通しの精密な調律を失った魔導具たちは、ただの時限爆弾と化していた。


ドォォォンッ!


帝都の名門貴族の夜会で、アンナが誇らしげに納品した「新型発光魔導シャンデリア」が大爆発を起こした。


飛び散った火の粉は広間を焼き、高位貴族たちに重傷を負わせた。


それだけにとどまらなかった。


富裕層に売り捌いた魔導暖炉や自動給湯器が、各地の邸宅で次々と魔力暴走を起こし、火災を連発したのだ。


「詐欺師め! 欠陥品を売りつけおって!」


「賠償金を払え! 我が家の宝物庫が全焼したぞ!」


男爵邸の門前には、激怒した貴族や商人たちが押し寄せ、怒号が鳴り響いていた。


請求された損害賠償額は、ウェイン男爵家が逆立ちしても払えない天文学的数字。


「ひ、ひぃぃっ! なぜなのよアンナ! あんたの魔力で組んだ天才的な回路じゃなかったの!?」


サロンで髪を振り乱し、マリアが金切り声を上げた。


アンナは顔面蒼白で、ガタガタと震えている。


「わ、わかりませんわ! いつも通りに作ったのに……どうして急に爆発なんて……!」


その時、マリアの脳裏に、かつて夜な夜な地下工房にこもっていた娘の姿がよぎった。


(まさか……あの穀潰しの埃取りが、何かしていたというの……!?)


エレナの調律こそが、欠陥回路の暴走を防いでいた唯一の命綱だったのだ。


真実に思い至ったマリアは、血走った目でアンナの手を掴んだ。


「エレナよ! あの無能をすぐに連れ戻すのよ!」


「えっ……でも、あいつは公爵の生贄に……」


「どうせもう怪物は死にかけているはずよ! あの無能にタダで全部修理させれば、賠償金だってなんとかなるわ! あいつはうちの所有物なんだから!」


身勝手な欲望と浅ましさに突き動かされ、二人は借金取りの目を盗んで馬車に飛び乗った。



◇◇◇



黒鉄公爵城の謁見の間。


豪奢な扉を乱暴に開けて入ってきたのは、薄汚れた旅装のマリアとアンナだった。


「エレナ! どこにいるの、この恩知らず!」


マリアは広間を見回し、大声で喚き散らした。


「実家が大ピンチだというのに、こんなところで贅沢をして! さっさと戻って工房の魔導具を直しなさい!」


「そうですわお姉様! 無能の分際で公爵夫人気取りなんて笑わせないで! あんたはうちの雑用係なのよ!」


アンナが勝ち誇ったように嘲笑の声を上げる。


広間の奥。


上座の豪奢なソファーには、最高級の絹とレースに包まれたエレナが座っていた。


かつての痩せこけた面影はなく、艶やかな髪と血色の良い肌。


その隣には、彼女を包み込むように寄り添う人影があった。


「……私の妻を、誰が無能だと?」


ピシリ、と広間の空気が凍りついた。


ゆっくりと立ち上がったのは、レオンハルト・クロムウェル公爵。


首筋にあった黒い呪詛の文様は完全に消え去り、かつてないほどの圧倒的な覇気が全身から立ち上っている。


帝国最強の守護者としての威圧感が、濁流のように二人を押し潰した。


「ひっ……!?」


マリアとアンナは、あまりの気圧に息が詰まり、その場にへたり込んだ。


死にかけているはずの怪物が、万全の魔力を漲らせて目の前に立っている。


「れ、レオンハルト閣下……! そ、それは違うのです!」


マリアは震える声で必死に弁明しようと這いつくばった。


「その女は我が家の娘! 無能で、家の金を食い潰すだけの出来損ないです! そんないかがわしい女はお返ししますから、我が家へ連れて帰らせて――」


「黙れ、下劣な羽虫が」


レオンハルトの冷徹な一喝が、大理石の床を震わせた。


彼は冷酷な瞳で見下ろし、手元の羊皮紙の束を床へ投げ捨てた。


バサリ、と乾いた音が響く。


「これは帝国憲兵隊および財務省から届いた、貴様らの罪状調書だ」


「な……罪状……!?」


「一つ、欠陥魔導具を意図的に流通させ、貴族社会に甚大な損害を与えた重過失致傷および詐欺罪」


レオンハルトは淡々と、しかし逃れようのない事実を突きつける。


「一つ、この婚姻の際、結納金として支払われた公爵家の公金を横領し、違法な闇賭博に注ぎ込んだ横領罪」


アンナが「あ、あぁ……」と絶望の声を漏らして震え上がった。


「そして――」


レオンハルトの一歩が、重く響く。


彼の瞳に、昏い怒りの炎が宿っていた。


「帝国随一の神技を持つ至高の調律師であり、我が領の命の恩人であるエレナを長年虐待し、搾取し続けた罪だ」


「そ、そんな……あいつは、ただの魔力なしの雑用で……!」


アンナが涙目で喚く。


レオンハルトは冷笑を浮かべ、宣告した。


「貴様らの作ったガラクタが爆発したのは当然だ。エレナが毎夜、貴様らの致命的な欠陥を一人で調律し、防いでやっていたことすら気づかなかったのか」


「え……?」


マリアの思考が完全に凍結した。


「貴様らが誇っていた『天才の技術』など、最初からエレナの足元にも及ばぬ粗大ゴミだったのだよ」


真実を突きつけられたアンナは、真っ青になって床に突っ伏した。


自分が天才などではなく、ただエレナの才能に寄生していただけの無能だったと知らされたのだ。


「連れて行け」


レオンハルトが冷たく手を振ると、背後から屈強な黒鉄騎士たちが無慈悲に二人を取り押さえた。


「いやぁぁっ! 離しなさい! エレナ、助けなさいよ! 親に向かって何て仕打ちをするの!」


「お姉様! ごめんなさい、謝るから! 連れて帰ってぇぇ!」


見苦しく暴れ叫ぶ二人。


エレナは、ソファーから静かに立ち上がった。


その瞳には、かつて実家で怯えていた面影はどこにもない。


凛とした淑女の佇まいで、かつての家族をまっすぐに見つめ返す。


「……さようなら、お義母様、アンナ」


感情の波風すら立たない、静かで、決定的な決別の言葉。


「わたくしの技術は、あなた方の虚栄を満たすための道具ではありません」


騎士たちに引きずられ、二人の絶望的な悲鳴が回廊の向こうへと消えていった。


爵位剥奪、全財産の没収、そして北方の過酷な強制労働鉱山への永久追放。


二度と帝都の華やかな社交界に戻ることは許されない、完全なる破滅だった。



◇◇◇



害毒が完全に排除され、公爵領には穏やかな春が訪れていた。


城の最深部にある、巨大な「精霊結界炉」。


かつてレオンハルトの命を削っていた炉は、今やエレナの手によって完璧に再調律されていた。


過負荷による軋みは完全に消え去り、心地よいハミングのような魔力光を放っている。


領内の魔導設備はすべて劇的に効率化され、凍てつく寒冷地には暖かな魔導熱が行き渡った。


「エレナ様! 新しい温室の魔導回路、完璧に作動しました!」


「エレナ様のおかげで、今年の作物は過去最高の収穫になりそうです!」


領民や職人たちが、広場を歩くエレナを見つけるたびに、心からの笑顔と歓声を送る。


「無能の穀潰し」と罵られていた少女は、今や誰もが敬愛する「黒鉄の守護聖女」だった。


城のバルコニーから、賑わう城下町を見下ろす。


そっと、背後から逞しい腕が伸び、エレナの腰を優しく引き寄せた。


「ふふ、レオンハルト様」


エレナが振り返ると、夫となったレオンハルトが、愛おしさに満ちた瞳で微笑んでいた。


かつて『冷酷な怪物』と恐れられた面影など、どこにもない。


「今日も領民たちに囲まれていたな。……少し、妬けるな」


大きな体で、甘えるようにエレナの首筋に顔を埋める。


「もう、からかわないでください。わたくし、ただ皆さんの魔導具の歪みを整えただけです」


「それがどれほど尊い奇跡か、君はいまだに無自覚だな」


レオンハルトは小さく笑い、エレナの小さな手を両手で包み込んだ。


かつて傷だらけだった指先は、今や大切に手入れされ、白く滑らかな輝きを取り戻している。


薬指には、公爵家の証である蒼銀の指輪が光っていた。


「私の命を救い、この領地を救い、そして何より……私に人を愛する温もりを教えてくれた」


レオンハルトは、慈しむように彼女の額へ口づけを落とした。


「エレナ。君は私の誇りであり、生涯をかけて愛し抜く唯一の妻だ」


真っ直ぐで、混じり気のない絶対の愛。


もう、自分の価値を疑うことはない。


エレナの胸の奥に、確かな誇りと、溢れんばかりの幸福が満ちていく。


「はい、レオンハルト様」


エレナは最高の笑顔を咲かせ、最愛の夫の胸にそっと身を委ねた。


「わたくしも……あなたを、心から愛しています」


北の澄み渡る青空の下、二人の紡ぐ穏やかで温かな時間は、永遠に続いていくのだった。


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