暴走
その瞬間、エレノア・レイベルンはすべての感覚が停止したかのような感覚に襲われた。戦況も、研究員たちの狂気も、ユリアたちの刹那の強さも、もうどうでもよくなった。
「私は、何を求めていたのか…何を、なぜ…」
問いかける自分の心に、突然、答えが浮かんだ。
大切なものは、ずっと身近にあったのだ。
その気づきと共に、思考が止まった。その余白の中で、エレノアは微かに笑った。
「もっと、早くに気づけば良かったわね…」
そして、緑のドレスの下でひそかに隠していた黒い液体の入った注射器を手に取り、自らの首筋に差し込む。
「これは、実験体ユリアに投与する予定だったけど、もうどうでもいいわ。全て壊れてしまいなさい…」
静かに囁くその声に、部屋の空気が震えた。瞬間、エレノアの肉体が、鍛え抜かれた美しい形態を維持しつつも、膨張し始める。
次の瞬間、爆砕――
飛び散った緑のドレスの破片とともに、内部から噴き出したのは、無数の肉塊、触手、昆虫や魚類、さらには奇怪な生物の断片をも混ぜた、見る者すべてを圧倒するカオス。
ユリアは冷静に、セリアに視線を向けた。
「セリア、行くわよ」
セリアも静かに頷く。二人の斬撃が、エレノアだった者を浄化し尽くす――はずだった。
だが、予想外のことが起きた。
斬撃は空間を切り裂くも、肉塊と触手は瞬時に再構築され、元の姿とは比較にならないほどの異形の存在として残った。その場にいた誰もが理解できず、言葉を失った。
エルフ部隊も、一瞬戦意を失い、唖然と立ち尽くす。
触手や肉塊は周囲の魔力とユリアの斬撃を拒むかのように不規則に動き続けた。
そのときだった。
――初めまして。アーガスノルン社 第5研究開発部統括、マックス・ヴィルヘルムと申します。
突如として、エルフ達全員の意識に、同時に声が流れ込んできた。
魔法でも通信でもない。“直接”だった。
セリアが即座に剣を構え、怒気を込めて叫ぶ。
「あなた……今更、何よ」
声は軽く笑った気配を含む。
――これはこれは、王女殿下。お久しぶりでございます。おっと、もう王女ではありませんでしたね。
「……っ!」
セリアの額に青筋が浮かぶ。明らかに苛立っていた。
――まあまあ。今回も皆さんにとって“有用な提案”をしに来ただけですよ
その瞬間、通信に強いノイズが走る。
――……っと。本社の妨害ですね。やれやれ。では手短に
マックスの声は一気に低く、現実的になった。
――エレノア・レイベルンは、現在、全世界のマナを強制的に取り込み、恒常的な変異状態に入っています
――アーガスノルン本社上層部の老害連中が夢見ていた“神の力”――その完成形に、限りなく近い存在です
――浄化しても無駄ですよ。すぐに大気中のマナを使って再変異を起こす。要するに、不死身みたいなものです
「……早く、結論を言ってちょうだい!」
セリアが苛立ちを隠さずに遮る。
――はいはい。結論です
――これを止めるには、全世界の大気中マナシステムを、我々アーガスノルン社の権限で“停止”させるしかない
エルフ達の間に、ざわめきが走る。
そんなことが可能だという事実自体が、異常だった。
――ただし、我々が止められるのは……5秒間だけ
――その5秒で、体内に残るマナをすべて絞り切り、全力で“あれ”を消し飛ばしてください
ユリアは静かに一歩前に出る。
表情は変わらないが、その声には鋭さがあった。
「……対価は、何?」
一瞬の沈黙。
そして、マックスは、どこか愉快そうに息を吐いた。
――一つ、お願いがありましてね……
その言葉を聞いた瞬間、ユリアは即座に理解した。
この男は、善意でも正義でも動いていない。
だが――今は、利用価値がある。
「……いいわ。承諾する」
その一言に、マックスは満足そうに笑った気配を滲ませる。
――話が早くて助かります。では……カウントダウンを始めましょう




