魔窟
飛行船・内部
――一歩、足を踏み入れた瞬間。
主任研究員ハインリヒ・ヴァイスは、
自分の思考が一瞬、停止したことを認識した。
エレノア・レイベルンの飛行船。
そこは、一言で言えば――地獄だった。
外観は、確かに金属製の巨大構造物に見えた。
だが、内部はまるで違う。
壁が、
うねっている。
生体組織のように、
いや、それ以上に生々しく、
肉の塊が呼吸するかのように脈動している。
ところどころ、
壁面に目のようなものが浮かび、
こちらを見ているのか、
あるいは、ただ反射しているだけなのか判別がつかない。
湿った空気。
わずかに鉄の匂いと、
何か甘ったるい腐臭が混じる。
ヴァイスの脳裏に、
「即時撤退」という選択肢が浮かび――
そして、消えた。
(……違う)
彼は、意識的に呼吸を整える。
(ここで隙を見せるな)
エレノア・レイベルンに、隙を与えてはいけない。
論理ではない。
経験でもない。
直感だった。
だが、それはこれまでの人生で、
彼を何度も生かしてきた感覚でもある。
幸い、
主要メンバーの反応は極端だった。
リリア・クロイツは、
臆するどころか、
壁の動きを目で追い、
まるで宝物を見つけたかのように目を輝かせている。
「……凄い……
自律的組織再編……
これは、制御できている……?」
彼女の声は震えていない。
興奮している。
ユング=フェルナー双子も、
相変わらずだった。
異様な光景の中でさえ、
二人は端末に齧り付き、
シミュレーションを走らせ続けている。
「壁面構造、非ユークリッド的変位あり」
「内圧変化、周期性を確認」
「生体だが、個体ではない」
「集合体。
……いや、器官群?」
彼らの視線は、
恐怖ではなく解析対象を見ていた。
特殊部隊長は、
一瞬だけ顔をしかめた。
だが、すぐに表情を消し、
部下たちと同じく、
冷静さを維持している。
ただし――
額に、わずかな汗。
(理解不能だが、
敵意は未検出)
そう判断している顔だった。
一方で、
経験の浅い研究員や技術スタッフの反応は、
最悪だった。
顔色は真っ青。
視線は定まらず、
中には膝が震えている者もいる。
執事ジェームスに先導され、
異様な廊下を進む。
肉の壁。
脈動する床。
やがて――
突然、空間が切り替わった。
そこは、
銀色に清潔な空間だった。
床も壁も天井も、
磨き上げられた金属質。
照明は均一。
空調も完璧。
一瞬、
アーガスノルン本社の研究区画と
見間違うほどだ。
――だが。
それは、
外壁だけだった。
その空間に、
整然と陳列されているもの。
それらは――
エレノア・レイベルンの
**“作品”**だった。
恐らく、
元は人間。
だが、
人の形を留めていない。
肉のまま、
生きたまま。
家具のように。
彫刻のように。
工芸品のように。
それでいて、
腕、顔、目、声帯など、
「人だったと分かる部位」だけが
意図的に残されている。
声にならぬ唸り声。
喉を鳴らすだけの存在。
だが、
中には――
「……た……すけ……」
意識を保ったまま、
助けを求める声を上げるものもいた。
その瞬間、
チームの反応は完全に分かれた。
リリア・クロイツは、
感動したように、
ため息を漏らした。
「……芸術的ね……」
「機能美と残酷さが、
完全に一致してる……」
何かを呟きながら、
目を離そうとしない。
ユング=フェルナー双子は、
作品一つ一つをまじまじと眺め、
無言で端末にデータを入力している。
「構造保存率、高」
「神経回路の選択的残存」
「苦痛反応、制御されている」
彼ら三人は、
共通点を持っていた。
かつて、
ユベニウス帝国の地下研究所に
配属されていた者たち。
今は壊滅し、
機能していないが、
そこで行われていた悪趣味な実験の噂は、
本社内でも有名だった。
一方――
特殊部隊員たちは、
眉一つ動かしていない。
だが、
装甲の内側で、
確実に汗をかいている。
そして――
その他の研究員、技術スタッフ。
その場で嗚咽を漏らす者。
壁に手をついて、
嘔吐する者。
誰かが、
謝罪とも祈りともつかない言葉を
呟いていた。
その部屋の中央。
まるで、
展示室の主であるかのように。
エレノア・レイベルンが、
そこに立っていた。
「ようこそ、皆様」
柔らかな声。
「私の作品、
気に入って頂けたかしら?」
少し首を傾げる。
「それとも、
お気に召さなかったかしら?」
困ったような表情。
――無邪気な子供のような顔。
そのギャップに、
ヴァイスは内心で、
はっきりと驚いた。
だが、
彼は即座に一歩前へ出る。
深く、
丁寧に頭を下げる。
「いえいえ、
とんでもございません」
「感動に打ち震えているのです」
一瞬だけ、
周囲の嗚咽に視線を走らせる。
「ただ、
我々の部下が粗相をしてしまったこと、
誠に申し訳ない」
「すぐに清掃させますので」
「また、
我々の機材も、
どうぞ思う存分お使いください」
エレノアの表情が、
ぱあっと明るくなった。
「まあ……!」
「それは嬉しいわ」
両手を合わせ、
純粋に喜ぶように。
「これで、
もっと素晴らしい作品……
いいえ」
一瞬、
言い直す。
「研究ができるわね」
その瞬間。
ヴァイスの胸に、
今まで感じたことのない違和感が
静かに芽生えた。
(……この女は)
(我々を、
同類だと思っている)
それは恐怖ではない。
嫌悪でもない。
もっと根源的な――
立ち位置のズレ。
第7研究開発部は、
とんでもない魔窟に
足を踏み入れてしまった。
その晩、
魔窟への機材の搬入と、
試運転は、
夜遅くまで続いた。
そして誰も、
この契約が、
戻れない一線だったことを、
まだ口にしていなかった。




