緑のドレスは血を嫌う
森は、夜になるとよく鳴く。
獣の声ではない。
恐怖が、空気を震わせる音だ。
月明かりの下、古代樹の間を縫うように、薄汚れた服とも呼べぬ布切れを着た者たちが放たれていた。
首元には奴隷魔法の刻印。
逃げることはできても、森を出ることはできない。
「さあ、始めましょう」
エレノア・レイベルンは、緑のドレスの裾を指先でつまみ、軽やかに一歩踏み出した。
金髪は結い上げられ、碧眼は月光を映して冷たく光る。
細身だが、無駄のない筋肉が身体の線を裏切らない。
それは飾りではない。
魔法を振るうために鍛えられた身体だった。
「今回は、あの赤髪の女にしましょうか」
周囲の貴族たちが、愉悦に満ちた笑いを漏らす。
狩りだ。
彼らにとっては、ただの余興。
赤い長髪の女——ユリアは、息を切らしながら立ち止まった。
痩せ細った身体。
マナは、限界寸前。
それでも、その瞳にはまだ光が残っていた。
「……私たちは……」
エレノアは、ゆっくりと魔法陣を展開する。
「《雷よ、我が指に集え——》」
詠唱が始まると同時に、空気が軋む。
電気が、彼女の指先にまとわりつく。
ユリアは叫んだ。
「私たちは道具じゃない!」
その瞬間、エレノアの詠唱が一拍、間を置いた。
——ほんの一瞬。
「何をしているの、愚民?」
エレノアは首を傾げ、微笑んだ。
「死にたいの?」
その高慢な声に、森が静まり返る。
ユリアは、動いた。
立ち止まったのは、諦めではなかった。
それは、賭けだった。
布切れの裾に隠していた短剣を抜き放ち、
詠唱中のエレノアへと、全身の力で踏み込む。
だが——
「……無駄よ」
乾いた声。
次の瞬間、雷が走った。
詠唱なし。
魔法陣もない。
ユリアの身体が弾かれ、地面に叩きつけられる。
「っ——!」
全身を電撃が貫き、筋肉が硬直する。
短剣が、音を立てて転がった。
「奇襲は評価するけれど……相手が悪いわ」
エレノアは、ゆっくりと歩み寄る。
倒れ伏すユリアを見下ろし、
邪悪な笑みを浮かべた。
「レベル3のマナを持つ貴族は、魔法の使用に詠唱は必要ないの」
指先に、再び電光が灯る。
「貴族の間で戯れに、
どれだけ優雅に魔法を使えるか——
そのためだけに、詠唱をしているだけなのよ」
電撃が、さらに強まる。
「……残念だったわね?」
雷が落ちた。
ユリアの意識は、そこで途切れた。
「……あまりやり過ぎて、殺すとまずいわね」
エレノアは、興味を失ったように視線を逸らす。
「あの方々への献上品ですもの」
木陰から、静かに一人の男が現れた。
白髪、白い髭。
片目に単眼鏡。
黒いタキシードを着た、長身の初老の男。
「ジェームス、この娘を屋敷まで運びなさい」
「……かしこまりました、お嬢様」
彼は一切の感情を見せず、
気絶したユリアを抱え上げ、闇へと消えた。
エレノアは、空を見上げた。
王家は、こうした狩りを「下劣」と呼ぶ。
——笑わせないで。
「王族ごとき、従う価値はないわ」
本当に世界を動かしているのは誰か。
彼女は、もう知っている。
魔族と呼ばれる存在。だが、それは実在する。
「愚民にも、使い道がある」
その夜、エレノア・レイベルンは、
魔族との接触を決意した。
人を資源として扱う存在に、
自らを“理解者”として差し出すために。
——そして、この世界は、さらに歪んでいく。




