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夜のとばりが下りた自由都市アステリアの裏路地。冷たい霧雨がアスファルトを濡らし、先程までの激闘の痕跡――転がるチンピラたちの呻き声と、微かな血の匂い――を洗い流そうとしているかのようだった。だが、その中心に立ち尽くす二人、ジンとリノの間には、洗い流せないほどの濃密な緊張感と、生まれたばかりの複雑な感情が渦巻いていた。


リノは、目の前の男――ジンを見上げていた。つい先程まで、この手で触れられる距離で、彼は人間離れした戦闘能力を発揮し、悪党どもを赤子の手をひねるように打ち倒した。その姿は、物語に出てくる英雄のようであり、同時に、底知れない闇を覗かせた影のようでもあった。恐怖がないわけではない。けれど、それ以上に、彼女の心を占めていたのは、混乱と、驚愕と、そして……彼に対する、どうしようもないほどの強い想いだった。


「待って!」


去ろうとする彼の腕を、リノは反射的に、しかし力強く掴んでいた。雨に濡れた彼の旅装束は冷たいはずなのに、触れた場所から、彼の体温が、あるいはもっと別の、激しい感情の熱が伝わってくるような気がした。


「待ってくださいよ、ジンさん!」

ジンは足を止め、ゆっくりと振り返った。その表情は、街灯の頼りない光の下では判然としない。だが、その纏う空気が、拒絶と、わずかな動揺を帯びているのをリノは感じた。


「……離せ。君には関係ない」

低く、抑揚のない声。いつもの彼だ。だが、今のリノには、その言葉が彼自身の本心ではないことが分かった。

「関係なくないっす! 思いっきり関係あるじゃないですか!」

リノは掴んだ腕に力を込める。身長差も体格差も歴然としているのに、不思議と振り払われる気はしなかった。

「私、襲われたんすよ!? それを助けてくれたのがジンさんで、でもその助け方が全然普通じゃなくて……! 説明してくださいよ! ジンさん、あなた一体、何者なんですか!?」


矢継ぎ早の言葉。雨音に負けない、必死な声。ジンは、その小さな体から放たれる強い意志に、一瞬、言葉を失った。彼は軽く息を吐き、掴まれた腕を振りほどくのではなく、自らリノの手をそっと外させた。その手つきは、驚くほど優しかった。


「……まずは、ここを離れる。奴らの仲間が来ないとも限らん」

彼は冷静に状況を判断し、意識を失っているチンピラたちを一瞥した。(後でギルドに匿名で通報しておくか。ボルコフ商会の名は出さずに……いや、連中の名前くらいは伝えておくべきか。この娘への見せしめなら、これで終わるとは限らん)様々な思考が頭を駆け巡るが、今はリノの安全が最優先だった。

「君のアパートまで送る」

「え……あ、はい……」

有無を言わせぬ口調に、リノはこくりと頷くしかなかった。


二人は、再び雨の中を歩き始めた。先程までの緊迫感とは違う、重苦しい沈黙が二人を包む。リノのアパートまでは、ここから歩いて十分ほどの距離だ。その短い時間が、今は永遠のように長く感じられた。


沈黙を破ったのは、やはりリノだった。

「あの……ジンさん」

「……なんだ」

「さっきの動き……あれ、魔法じゃないっすよね? なんか、こう、もっと……速くて、正確で……」

「……ただの護身術だ。昔、少し齧っただけだ」

嘘ではない。彼にとっては、あの程度の動きは「少し齧った」レベルにも満たない基礎中の基礎だ。しかし、リノにはそれが通用しない。

「絶対嘘だー! あんなの、ただの護身術なわけないじゃないですか! 道場の師範代だって、あんな動きできませんよ!」

「…………」

「それに、あの人たち、ジンさんのこと『ただの用心棒じゃねえ』って……。ジンさん、もしかして、元々はどこかのお城の近衛騎士とか!? それとも、腕利きの冒険者だったけど、何か訳があって引退したとか!?」

リノの想像力は、相変わらず斜め上の方向にたくましかった。ジンは内心で(近衛騎士……? 冒険者……? まるで違う。俺はただ、影で人を殺してきただけの存在だ)と自嘲した。


「リノ」

ふいに、ジンが足を止めた。アパートの入り口を示す、古びた看板が見える距離まで来ていた。彼はリノに向き直ると、その目を真っ直ぐに見つめた。夜の闇の中でも、彼の瞳の奥にある真剣さが、リノにははっきりと分かった。

「俺は……君が考えているような、立派な人間じゃない」

彼の声は低く、重かった。

「俺には、話せない過去がある。敵も……多い。俺の傍にいることは、君のような普通の……陽の当たる場所にいるべき人間を、危険に晒すことになる」

彼は言葉を選びながら、それでも、残酷な事実を伝えようとしていた。

「今日のことは、その証拠だ。俺がいるから、君は狙われたのかもしれない」

(ボルコフ商会の狙いは店だろうが、俺の存在が奴らを刺激し、手段を選ばなくなった可能性は否定できん……)

「だから……」

ジンは、一度、言葉を切った。次に続く言葉を言うことが、これほどまでに苦痛だとは、思ってもみなかった。

「もう、カフェには行かない。君の前にも……二度と現れない。それが、君のためだ」


言い切った。これでいいのだ、と彼は自分に言い聞かせた。彼女の安全のため。彼女の未来のため。この温かい陽だまりのような存在を、自分の薄暗い世界に引きずり込んではならない。


しかし、そう決意したはずの自分の胸が、まるで万力で締め付けられたかのように、ギリギリと痛むのはなぜだろうか。彼女の驚いたような、そして、みるみるうちに悲しみに染まっていく顔を見ていることが、なぜこれほどまでに辛いのだろうか。


(ああ……そうか)


ジンは、その時、はっきりと自覚した。

自分がリノに向けている感情は、単なる庇護欲や、安らぎへの渇望などではない。もっとずっと深く、個人的で、そしてどうしようもなく―――愛情と呼ぶべきものなのだ、と。

この快活で、少しおっちょこちょいで、けれど誰よりも真っ直ぐで温かい少女を、彼は心の底から大切に思い、好意を寄せている。だからこそ、手放さなければならない。自分の血塗られた手で、この陽だまりを汚すわけにはいかないのだ。


彼は、リノの反応を待たずに、背を向けようとした。涙か、怒りか、あるいは恐怖か。どんな反応が返ってきても、受け止め、そして去る覚悟だった。


だが、彼の耳に届いたのは、予想していたどの反応とも違う、力強い声だった。


「……ふざけないでくださいよ!」


ジンは思わず振り返った。リノは、雨に濡れるのも構わず、そこに仁王立ちになっていた。大きな瞳には涙が溜まっている。けれど、その表情は悲しみや恐怖よりも、むしろ怒りに燃えていた。


「何が……ふざけてるんだ」

「全部ですよ! それが私の為だって!? 勝手に決めないでくださいよ! ジンさんが危ない過去を持ってるから? 敵が多いから? だからサヨナラなんて、そんなの、あんまりじゃないすか!」

彼女は一歩、ジンに詰め寄る。その小さな体から、信じられないほどの気迫が放たれていた。

「ジンさんが何者だっていいじゃないすか! 私には関係ない! たとえ……たとえ、ジンさんが元・暗殺者ギルドの伝説のエースだろうが! 魔王を倒した勇者パーティの裏切り者だろうが! 世界征服を企む悪の組織の元・戦闘員だろうが!」

(……後半、ほぼファンタジー小説の読みすぎだな、この娘は)

ジンの内心のツッコミはともかく、リノの言葉は止まらない。

「私が知ってるのは! いつも無口だけど、私が淹れた(たまに失敗する)コーヒーを黙って飲んでくれるジンさんで! 私がドジしたら、呆れた顔しながらも、さりげなく助けてくれるジンさんで! そして、さっき、私のために、メチャクチャかっこよく戦ってくれたジンさんだけなんですから!」


彼女は拳をぎゅっと握りしめた。

「危険? 上等じゃないすか! このアステリアで生きてて、危険じゃないことなんてあります!? ゴブリンだって出るし、チンピラだっているし、酔っ払い冒険者に絡まれることだって日常茶飯事っすよ!」

「それは……」

「それに……それに、ジンさんがいなくなったら……私……」

言葉が詰まる。怒りの表情が崩れ、堪えていた涙が再び溢れ出した。

「……寂しい……です……。ジンさんがいない『サニー・スポット』なんて、考えられない……」

それは、か細い、しかし心の底からの叫びだった。


そして、彼女は涙を乱暴に拭うと、再び顔を上げ、今度は少し悪戯っぽい、いつもの彼女らしい表情で言った。

「大体! ジンさんがいなくなったら、誰が私の最強ボディーガードになってくれるんすか!? ねえ!? せっかくゲットしたと思ったのに! 伝説級のスキルを持った、超絶イケメン(無表情だけど)ボディーガード! こんなレア物件、手放すなんて、私、そんなお人好しじゃないっすよ!」


最強のボディーガード。レア物件。

彼女の、あまりにも斜め上を行く発想と、その裏にある、揺るぎない信頼と好意。それらが、ジンの心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。


(……敵わないな)


彼は、生まれて初めてかもしれない、完全な敗北感を味わっていた。暗殺者としての技術も、築き上げてきた覚悟も、この太陽のような少女の前では、何の意味もなさなかった。彼女は、彼の過去も、彼が纏う影も、全てを飲み込んで、それでも「傍にいたい」と言っているのだ。


そして、ジン自身も、本当は分かっていた。もう、彼女のいない日常には戻れないことを。この陽だまりを手放すことなど、できるはずがないことを。彼女を守るためには、離れるのではなく、傍にいて、全ての脅威を排除し続けるしかないのだと。それが、どれほど困難で、危険な道だとしても。


長い、長い沈黙の後。

ジンは、深く、深く息を吸い込み、そして、吐き出した。まるで、長年背負ってきた重い荷物を、少しだけ下ろしたかのように。


「……分かった」


その一言は、雨音にかき消されそうなほど小さかったが、リノの耳には、はっきりと届いた。

彼女は、ぱっと顔を輝かせた。

「え? わかったって……それって……!?」

「……カフェには、行く」

ジンは、真っ直ぐにリノの瞳を見つめ返して、繰り返した。

「明日も……その次も。……お前が、望む限りは」


それは、愛の言葉ではなかったかもしれない。未来を約束する言葉でもなかったかもしれない。けれど、リノにとっては、それ以上ないほどの、最高の答えだった。


「!! ……はいっ!!」


満面の笑顔。雨粒なのか涙なのか分からない雫を頬に伝わせたまま、リノは力強く頷いた。

「約束、っすからね! 絶対、絶対に来てくださいね! 私、世界一美味しいコーヒー淹れて待ってますから!」

彼女は、勢い余って、ジンの胸に飛び込もうとして……すんでのところで思いとどまり、代わりに彼の腕をもう一度だけ、ぎゅっと握った。


ジンはその小さな手を振りほどかず、むしろ、わずかに力を込めて握り返した。(その力加減に内心で冷や汗をかきながら)。

「……早く入れ。本当に風邪をひくぞ」

「はーい!」

リノは、名残惜しそうに彼の手を離すと、アパートの扉へと駆け込んだ。扉が閉まる直前、彼女はもう一度振り返り、最高の笑顔で手を振った。


ジンは、その姿が見えなくなるまで、雨の中に立ち尽くしていた。そして、誰に言うともなく、小さく呟いた。

「……やれやれ。とんだ『陽だまり』に捕まったものだ」

その声には、呆れと、困惑と、そして、否定しようのないほどの、温かい感情が満ちていた。


翌日の午後。カフェ「サニー・スポット」は、いつも通りの活気に満ちていた。そして、いつもの隅の席には、静かにコーヒーを飲むジンの姿があった。


「ジンさーん! いらっしゃいませーっ!」

昨日とは打って変わって、リノは完全にいつもの調子を取り戻していた。いや、むしろ、いつも以上に元気かもしれない。彼女はスキップでもしそうな足取りでジンの元へやってくると、にぱっと笑った。

「約束通り、来てくれたんすね! よかったー!」

そして、声を潜めて、悪戯っぽく囁いた。

「昨日のジンさん……マジのマジで、おとぎ話のヒーローみたいで……痺れました! かっこよかったです!」

その言葉に、ジンの眉がピクリと動いたが、表情は変わらない。


リノは、ピカピカに磨かれたカップをジンの前に置いた。

「はい、どーぞ! いつもの、『影より深き漆黒のブラック(守護者ブレンド・愛情マシマシ)』っす!」

また勝手に名前が長くなっている。しかし、ジンはもう、それを指摘する気も起きなかった。


彼は黙ってカップを手に取り、一口啜る。

相変わらず、苦い。けれど、その苦さの奥に、確かに感じるものがあった。それは、雨上がりの澄んだ空気のような、あるいは、雲間から差し込む陽光のような、確かな温かさだった。


彼の隠居生活は、どうやら、終わりを告げたのかもしれない。いや、あるいは、ここからが本当の始まりなのかもしれない。隣には、太陽のように笑う、少し(いや、かなり)騒がしい少女。そして、背後には、いつまた襲いかかってくるとも知れない、過去の影。


前途多難。それは間違いないだろう。

しかし、ジンは、目の前の陽だまりのような笑顔を見つめながら、ほんの少しだけ、口元を緩めたような気がした。


(悪くない……のかもしれんな)


ビターなコーヒーの香りと、彼女の笑顔が照らす陽だまりの中で、元・伝説の暗殺者と快活な看板娘の、奇妙で、少し危険で、そして間違いなく温かい物語が、今、本当の意味で幕を開けた。

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