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自由都市アステリアの夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る……というのは、表通りの話だ。一歩裏路地に入れば、そこには昼間とは違う種類のざわめきと、濃密な影が満ちている。カフェ「サニー・スポット」の看板娘、リノにとって、閉店後に一人でアパートへ帰る夜道は、最近、少しだけ憂鬱なものになっていた。
(気のせい……だよね?)
ここ数日、店じまいをして外に出ると、誰かに見られているような、妙な視線を感じることが増えたのだ。気のせいだと思いたい。自意識過剰だと。けれど、背中に感じる刺すような感覚は、気のせいでは片付けられない気味の悪さがあった。
原因に心当たりがないわけではない。最近、店の土地を狙っていると噂の悪徳商会、「ボルコフ商会」の連中が、やけに店に顔を出すようになったのだ。最初は紳士的に振る舞っていたが、老店主が頑として立ち退きを拒否すると、徐々に嫌がらせが始まった。仕入れの妨害、店への落書き、そして、無言の圧力。リノは店主を心配しつつも、自分にできることは笑顔で店に立ち続けることだけだと、健気に振る舞っていた。
「……大丈夫っすよ、店長! 私がしっかり店番してますから!」
「おお、リノちゃん、すまないねえ……。だが、くれぐれも無理はしないでおくれよ」
そんな会話を交わした今日の閉店後。外は、まるでリノの不安を映したかのように、冷たい霧雨が街を濡らしていた。街灯の頼りない光が、湿った石畳に滲んでいる。
「よーっし、今日も一日お疲れ様でしたー!」
自分を鼓舞するように声に出し、リノはカフェの扉に鍵をかける。そして、ぎゅっとバッグの紐を握りしめた。中には、店主が護身用に持たせてくれた、特製の「デーモン・ペッパースプレー(吸引注意!ドワーフも3日は涙が止まらない!の触れ込み)」が入っている。使う機会がないことを祈りつつ、彼女はアパートへの道を急いだ。
その時、リノの背後、通りの向かい側の建物の影で、一人の男が静かに息を潜めていた。ジンだ。彼もまた、ボルコフ商会の不穏な動きに気づいていた。チンピラどもがリノや店に不必要に接触するのを何度か目撃し、彼の内なる警戒レベルは静かに引き上げられていた。ここ数晩、彼はリノに気づかれぬよう、彼女が無事にアパートに着くまで、影のように後をつけていたのだ。
(……今夜は妙だな。いつにも増して、チンピラの気配が多い。それも、質の悪い連中だ)
ジンの超感覚的な魔力感知と気配察知が、夜の闇に潜む複数の悪意を捉えていた。数は四人。そのうち一人は、他のチンピラとは少し違う、多少手慣れた気配を持っている。おそらく、ボルコフ商会が雇った、多少腕の立つゴロツキだろう。
(……狙いは、あの娘か)
ジンの瞳が、氷のように冷たく細められる。彼は音もなく影から影へと移動し、リノとの距離を詰めつつ、いつでも介入できる位置を取った。
リノは、早鐘を打つ心臓を抑えながら、人通りの少ない裏通りへと足を踏み入れた。アパートへの近道だが、街灯も少なく、薄暗い。
(早く、早く帰らないと……)
その時だった。
前方、路地の曲がり角から、ぬっと三人の男が現れた。そして同時に、背後からも、足音が近づいてくる。挟まれた!
リノは息を呑み、足を止めた。男たちは、下卑た笑みを浮かべながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。先頭に立つのは、顔に傷のある、リーダー格らしい大柄な男だ。
「よう、サニー・スポットの嬢ちゃん。こんな夜更けに一人歩きかい?」
「ボルコフの旦那が、ちぃーっとばかし、アンタにお話があるそうだ。大人しくついてきてもらおうか」
男たちが、じりじりと包囲網を狭めてくる。リノは恐怖で足が竦みそうになったが、ここで怯んではいけない、と自分を叱咤した。
「な、なんのことですか!? 人違いです! 私は帰りま……!」
「人違いなわけねえだろ。店ごと潰されたくなかったら、大人しくしろ!」
リーダー格の男が、乱暴にリノの腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
(今だ!)
リノは恐怖を振り払い、懐に隠し持っていたデーモン・ペッパースプレーを男の顔面めがけて噴射した!
「ぶぎゃああああーーっ!!!」
凄まじい絶叫が路地裏に響き渡る。男は顔を押さえてのたうち回り、他のチンピラたちが一瞬怯んだ。
「い、今のうちに!」
リノはその隙を突いて、全速力で駆け出した!
「ちくしょう! あのアマ、逃がすか!」
「待てこらぁ!」
他の三人がすぐに後を追ってくる。足の速さでは敵わない。すぐに背後に足音が迫る。
(だめ、捕まる……!)
絶望感がリノを襲った、その瞬間だった。
まるで黒い疾風だった。
どこからともなく現れた影――ジンが、リノを追い越してチンピラたちの前に立ちはだかった。いや、立ちはだかった、というよりは、それは通過点に過ぎなかった。
最初に追いついてきたチンピラが、驚く間もなく、ジンの繰り出した掌底を鳩尾に受け、カエルのような呻き声を上げて地面に崩れ落ちた。声すら上げられない、的確すぎる一撃。
二人目のチンピラは短剣を抜いて襲いかかってきたが、ジンはまるで柳のようにその攻撃を受け流すと、相手の手首を掴み、人体構造を熟知した動きで関節をありえない方向へと捻り上げる。「ぎゃあああ!」という悲鳴と共に短剣が石畳に落ち、チンピラは腕を押さえてうずくまった。
「な、何者だ、てめえ……!」
最後に残ったのは、顔に傷のあるリーダー格の男だった。彼は仲間が一瞬で無力化されたことに動揺しつつも、腰から錆びついた片手斧を引き抜いた。
「邪魔すんじゃねえ!」
ヤケクソ気味に斧を振り下ろしてくる。それは素人目には恐ろしく見える一撃だったが、ジンにとっては、まるで子供の遊びのようだった。
彼は最小限の動きで斧を避け、踏み込みながら男の懐に入り込むと、肘で相手の顎を鋭く打ち上げた。ゴッ、と鈍い音が響き、男の意識が一瞬飛ぶ。身体がぐらついたところを、ジンは容赦なく追撃する。回し蹴りが男の側頭部を捉え、巨体が軽い木の葉のように吹き飛んで、路地の壁に叩きつけられた。そのまま、男は動かなくなった。
ほんの十数秒。
リノは、自分のすぐ側で繰り広げられた、あまりにも一方的で、あまりにも苛烈な「戦闘」を、ただ呆然と見つめていた。雨音と、最初にスプレーを食らったチンピラのうめき声だけが、やけに大きく聞こえる。
ジンは、倒した三人を一瞥もせず、ゆっくりとリノの方へ向き直った。フードはいつの間にか脱げ、雨に濡れた黒髪が額に張り付いている。街灯の頼りない光が、彼の顔に陰影を作る。その瞳には、いつものカフェでの穏やかさ(リノがそう思っていただけかもしれないが)は欠片もなく、ただ、底なしの闇のような、冷たい光が宿っていた。それは、獲物を仕留めた後の、あるいは、次の獲物を探す捕食者の目だった。
(こわ……い……?)
リノの身体が、恐怖とは少し違う種類の震えに襲われた。目の前にいるのは、本当にいつもの「ジンさん」なのだろうか。あまりにも違う。強すぎる。そして、その強さの質が、冒険者たちのそれとは明らかに異質だった。効率的で、冷徹で、一切の無駄がない。まるで……。
「…………」
ジンは、リノの怯えたような(あるいは、別の感情が混じったような)表情を見て、ハッと息を呑んだ。彼の瞳に、一瞬、動揺の色が走る。(しまった……見られた……この娘に、俺の『本質』を……)
彼は、自分が何者であるか、その片鱗を見られてしまったことに気づいた。この少女の前でだけは、決して見せてはならないと思っていた、血塗られた過去の残滓を。
(……もう、終わりだ)
彼女はきっと、化け物を見るような目で自分を拒絶するだろう。それでいい。それが正しい。彼女のような陽だまりにいるべき人間が、自分のような影に関わるべきではないのだ。
ジンは踵を返しこの場からそして彼女の前から完全に姿を消そうとした。後始末は後でいい。まずは、彼女から離れなければ。
しかし。
「待って!」
リノの声が、彼の背中を打った。それは、恐怖に引き攣った声ではなかった。むしろ、何かを確認するかのような、切羽詰まった響きを持っていた。
ジンは足を止めたが、振り返らなかった。
「……行け。ここも危険だ」
「行かないっす!」
リノは叫び返した。そして、信じられないことに、彼女は駆け寄り、ジンの腕を、両手で掴んだのだ。雨に濡れて冷たいはずの彼の腕が、リノにはなぜかとても熱く感じられた。
「待ってくださいよ、ジンさん!」
彼女の声は震えていたが、それは恐怖だけではない。混乱、驚愕、そしてそれらを上回る強い感情。
「一体、何なんすか!? 今の……! 全然、普通の動きじゃなかった! まるで……まるで、物語に出てくる……伝説の……!」
言葉が続かない。彼女の中で、目の前の男のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れ、そして再構築されようとしていた。いつもの、無口でちょっとミステリアスな常連客。それが、今、信じられないほどの力を見せた。
「ジンさん……あなた、本当は……誰なんですか!?」
リノは、彼の腕を掴んだまま、その答えを求めるように真っ直ぐに雨に濡れた彼の背中を見つめていた。その瞳には怯えよりも、真実を知りたいという強い意志と、そして、目の前の存在に対する抗いがたいほどの強い想いが宿っているのを、ジンは背中越しに感じずにはいられなかった。
彼の隠居計画は、今最大の、そして予想外の局面を迎えていた。