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カフェ「サニー・スポット」での日常は、今日も今日とて賑やかだ。

ジンがいつもの隅の席でブラックコーヒー――リノが勝手に命名した『常闇とこやみよりなお暗き漆黒のブラック・レクイエム』――を啜っていると、カウンターの方からリノの元気な声が聞こえてくる。


「だからー! ゴブリン退治はちゃんと罠を仕掛けてからじゃないとダメなんすよ! パーティのタンク役なんだから、もっとしっかりしてくださいっす、ゴードンさん!」

「う、うるせえ! 俺だってなぁ、油断してただけだ!」

ゴードンと呼ばれた、傷だらけの鎧を着た冒険者が顔を真っ赤にして言い返している。リノは腰に手を当てて、ぷりぷり怒っていた。

「油断大敵、怪我の元! ポーション代だってバカにならないんすからね! もう、ジンさんを見習ってほしいっすよ! あの落ち着き!」

「なっ……! なんでそこでソイツが出てくんだよ!」


(……俺を比較対象にするのはやめろ。それとゴードン、お前の敗因は油断ではなく、単純な技量不足だ。ゴブリンの棍棒の軌道すら読めていない)

ジンは内心で冷静にツッコミを入れつつ、自分の名前が出たことにわずかに眉を顰めた。この娘は、本当に遠慮というものを知らない。


そんなジンの心中を知ってか知らずか、リノはぷんすかしたままジンのテーブルにやってきた。

「もー、聞いてくださいよ、ジンさん! ゴードンさんたら、また生傷作って帰ってきたんすよ! だからあれほど準備が大事だって言ってるのに!」

「…………(コーヒーを飲む)」

「ジンさんって、お仕事とかで危ない目に遭ったことないんすか? いっつも冷静沈着、クールガイって感じじゃないすか!」

(……日常茶飯事だったが、それは仕事だからだ。油断は死に直結する)

「……別に」

「えー、絶対嘘だー! その顔の傷だって、きっとドラゴンとか、魔王軍の幹部とかと戦った時の名誉の負傷なんですよ! ね!?」

リノはキラキラした瞳でジンの顔を覗き込んでくる。距離が近い。コーヒーの湯気と、彼女の纏う陽だまりのような匂いが混ざり合う。ジンは無言で顔を背けた。彼女の純粋な好奇心が、時々、鋭い刃のように感じられることがある。


「あはは! 図星っすかー? やっぱりジンさん、ただ者じゃないんすね!」

(……ある意味では間違ってはいないが、方向性が致命的に違う)

ジンはこれ以上追求されるのを避けるため、テーブルの上のメニュー(普段は見もしない)に視線を落とした。


その時だった。

昼時のピークを迎え、店内は満席に近い。リノは追加注文の入ったジョッキを5つ、お盆に積み重ねて運ぼうとしていた。明らかにキャパオーバーだ。

「よーっし、お待たせしましたー!」

元気よく歩き出した瞬間、床に落ちていたらしい銅貨に気づかず、リノの足がわずかに滑った。

「きゃっ!?」

お盆が大きく傾ぎ、重そうな陶器のジョッキが雪崩を打って落下を始める! 店内の誰もが息を呑み、悲鳴が上がりかけた――その刹那。


隅の席にいたはずのジンの姿が、霞のように動いた。

まるで時間が緩やかに流れたかのように、彼の腕が伸びる。落ちてくるジョッキの一つを指先で受け止め、別のジョッキを肘の内側で押し上げ、さらに手首のスナップだけで回転させたジョッキを空中でキャッチし、最後の一つがお盆の上に着地するように絶妙な角度で弾く。

一連の動作は、ほとんど一瞬。気づけば、全てのジョッキは、まるで何事もなかったかのように、リノのお盆の上に完璧なピラミッドを描いて収まっていた。


「…………え?」


リノは目をぱちくりさせて、お盆とジンを交互に見る。周囲の客も、あっけにとられて声も出ない。静寂を破ったのは、リノの素っ頓狂な声だった。


「えええええーーーっ!?!? い、今のは一体全体どういうことなんすか!? 神業!? 超絶技巧!? まるで伝説の大道芸一座『疾風のジャグラーズ』の団長みたいじゃないっすか! ジンさん、もしかして元・サーカス団員!? それとも王宮専属のスーパー執事!?」

興奮で頬を赤らめ、早口でまくし立てるリノ。その的外れすぎる推測に、ジンは内心で深々とため息をついた。

(……無駄な動きが多すぎた。もっと効率的に処理できたはずだ。完全に注目を浴びてしまった。失敗だ)

彼は表情を変えずに、「……手が滑っただけだ」と、もはや定番となりつつあるセリフを呟き、さっさと自分の席へと戻っていった。後に残されたのは、興奮冷めやらぬリノと、「今の、見たか?」「ありえねえ……」と囁き合う客たちだけだった。


この一件で、リノのジンに対する「ただ者じゃない」疑惑は、「絶対に何か凄い人だ!」という確信へと変わった。そして、その「凄い」部分を目の当たりにしたことで、彼女の胸の中の“気になる”という感情は、さらに大きく膨らんでいった。


数日後の午後。その日は珍しく客足がまばらで、リノはカウンターで新しいポーションのレシピ本を読んでいた。すると、店の扉が乱暴に開き、ガラの悪そうな男たちが三人、どやどやと入ってきた。安物の革鎧、使い古された剣、そして何より、その目が据わっている。昼間から酒を煽ってきたのだろう。リーダー格らしい髭面の男が、品定めするようにリノを見た。


「よう、ねーちゃん。この店で一番強い酒、持ってこい!」

「は、はい! ただいま……」

リノは少し怯えつつも、笑顔で応対しようとした。しかし、男たちは注文した酒が来る前から、大声で下品な冗談を飛ばし始め、他の客に絡み始めた。店主は今日に限って仕入れで不在。リノは困り果てた。


(どうしよう……ギルドに通報した方がいいかな……でも、事を荒立てたくないし……)


彼女が対応に苦慮していると、隅の席で静かにコーヒーを飲んでいたジンが、ゆっくりと立ち上がった。そして、まるでトイレにでも立つかのように、自然な動きで男たちのテーブルへと近づいていく。


そして、「偶然」を装って、リーダー格の男の椅子に軽く足を引っかけた。

「おっと……!」

男はバランスを崩し、テーブルに手をつく。その瞬間、ジンは男の耳元で、他の誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。

「……消えろ」


たった三文字。しかし、その声に含まれていたのは、凝縮された純粋な“死”の気配だった。男は、一瞬にして全身の血の気が引くのを感じた。目の前にいる男が、自分たちとは住む世界の違う、本物の「化物」であることを、本能で理解したのだ。


「ひっ……! お、おい、行くぞ!」

男は仲間たちに目配せし、先程までの威勢が嘘のように、慌てて財布から銅貨を数枚(明らかに足りない)テーブルに叩きつけると、転がるように店から逃げ出していった。


「え? あれ? 行っちゃった……」

あまりの変わりように、リノは呆気に取られていた。ジンはいつの間にか自分の席に戻り、再びコーヒーを啜っている。まるで何も起こらなかったかのように。

「ジンさん、今……あの人たちに何か言いました?」

リノが尋ねると、ジンはゆっくりと顔を上げた。

「……いや。虫でもいたんじゃないか」

しれっとした答え。しかし、リノは見ていた。ジンが男に近づいた瞬間の、彼の瞳に宿った氷のような冷たさと、男たちの怯えきった表情を。


(気のせいなんかじゃない……ジンさんが、助けてくれたんだ……)


彼はいつもそうだ。ぶっきらぼうで、自分のことは何も話さないけれど、いざという時には、さりげなく、でも確実に、自分を守ってくれる。あのジョッキの時もそうだった。今日のことも。それは、ただの親切や偶然なんかじゃない。もっと……。


リノの胸がきゅうっと締め付けられた。それは、感謝の気持ちだけではなかった。彼のミステリアスな強さ、不器用な優しさ、そして、自分だけに向けられている(と信じたい)特別な気配り。それら全てが、リノの中で一つの大きな感情へと形を変えつつあった。


(私……ジンさんのこと……)


顔が、カッと熱くなるのを感じた。心臓が、今までで一番大きな音を立ててドキドキと脈打っている。これが、物語に出てくる「恋」というものなのだろうか。だとしたら、相手は無口で無表情で、恐ろしく強くて、何を考えているか全く分からない、訳アリっぽい常連客……。


(……うん、なんか、私らしいかも!)


自分で自分にツッコミを入れつつも、リノの心は決まった。もっとジンさんのことを知りたい。彼の力になりたい。そして、いつか、あのポーカーフェイスを崩して、笑わせてみたい。


その日から、リノのジンに対する態度は、以前にも増して積極的になった。それは、単なる好奇心や親しみではなく、はっきりと「恋する乙女」のそれだった。


「ジンさーん! これ、昨日練習して作った『愛情たっぷり回復クッキー(効果:微小)』! よかったら食べてくださいっす!」

(……回復効果は誤差の範囲内だが、毒物は含まれていないな。及第点だ)ジンは無言で受け取り、一口かじる。

「ど、どうすか!? 美味しい……です、か?」

期待に満ちたキラキラした瞳で見上げられ、ジンは(味はしないが、不味くもない)と内心で評価しつつ、「……悪くない」とだけ答えた。それだけで、リノは「やったー!」と飛び上がらんばかりに喜ぶのだった。


ジンの憂鬱は深まるばかりだった。この陽だまりのような少女の好意は、あまりにも眩しく、そして、今の自分にはあまりにも不釣り合いだった。彼女の笑顔を守りたい。けれど、自分が傍にいればいるほど、いつか本当の「影」を呼び込んでしまうかもしれない。


(……潮時か)


そんな考えが、再び彼の頭をよぎる。しかし、明日のコーヒーの味と、彼女の「また明日ー!」という声が、重い鎖のように彼をこの場所に繋ぎ止めているのだった。

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