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全部で4話です。
自由都市アステリア。様々な種族と夢、そして危険が交差するこの街の、冒険者ギルドにもほど近い一角に、カフェ「サニー・スポット」はあった。
その名の通り、店内はいつも陽気な喧騒と、焼きたてのパン、香ばしいコーヒー、そして時折漂うエールや怪しげなポーションの匂いで満ちている。屈強な鎧姿の冒険者が高らかに武勇伝(当社比3割増し)を語り、ローブ姿の魔術師が羊皮紙とにらめっこし、恰幅の良い商人が計算高く算盤を弾く。そんな混沌とした活気が、この店の日常だった。
その喧騒の中、店の奥、窓から一番遠い隅のテーブルだけが、まるでそこだけ時間が止まっているかのように静かだった。そこに座る男の名は、ジン。少なくとも、彼はそう名乗っていた。長身痩躯で、特徴のない、くたびれた旅人風の服を着ている。しかし、その身のこなしには一切の無駄がなく、周囲のざわめきの中でも、常に鋭い観察眼が光っていることを、注意深い者ならば気づくかもしれない。彼は日に一度、必ずこのカフェを訪れ、この席に座り、決まって同じものを注文する。
今日も、ジンは音もなく席に着き、テーブルに肘をついて、わずかに俯き加減に外の往来を眺めていた。(今日も異常なし……か。いや、カウンター席のドワーフ、昨日より斧の研ぎが甘いな。あれではオーガの皮は断てん。それと、入口近くのエルフ娘、ポーションの調合順序を間違えている。あれではただの苦い水だ……)かつて「サイラス」と呼ばれた伝説の暗殺者は、隠居した今でも、反射的に周囲の情報を分析してしまう自分に、内心で小さくため息をついた。平和とは、これほどまでに緊張感のないものか。
その時、彼の思考を打ち破る、弾けるような声が飛んできた。
「ジンさーん! ちわーっす! お待ちしてましたよーっ!」
店の看板娘、リノが、お盆を軽やかに(しかし若干危なっかしく)振り回しながら、ジンのテーブルへと突進してくる。亜麻色の髪をポニーテールに揺らし、大きなヘーゼル色の瞳をきらきらと輝かせている19歳。その太陽のような笑顔とエネルギーは、この店の名の由来そのものだと言っても過言ではない。
「今日もいつもの、『奈落の底よりなお昏き漆黒のブラック・レクイエム』で決まりっすか!? それともたまには気分を変えて『妖精の涙入りハーブティー(ただし妖精は入ってない)』とか!?」
「……ブラックでいい」
ジンは、週ごとに勝手に仰々しくなっていくコーヒーの名前に内心(そもそも正式名称を覚えていないだろう、この娘は)と思いつつ、短く答えた。長い付き合い――といっても、彼がこの街に流れ着いてからの数ヶ月だが――で、彼女のこの調子には慣れて……いや、慣れるしかなかった。
「了解でありまーす! 今日のは豆の虫干し……じゃなくて天日干しが超うまくいったんで、過去イチ美味いブラックになってるはずっす! 期待しててくださいね!」
リノは請け負った、とばかりに胸を叩き、くるりと踵を返す。その際、近くのテーブルにいた冒険者の槍の穂先にエプロンの裾を引っ掛けそうになり、「おわっ! あぶなっ!」と一人で騒いでいる。
(……相変わらず、危機察知能力が皆無に近いな)
ジンは再び内心でため息をついた。彼女がこのアステリアで、これまで大きなトラブルに巻き込まれていないのは、単なる幸運か、あるいはこの店の老店主の人望か、それとも……。
やがて、リノが「お待ちどうさまっす!」と威勢よくコーヒーを運んできた。黒曜石のような液体が、使い込まれた陶器のカップで湯気を立てている。
「どーぞどーぞ! これ飲んで、今日もお仕事がんばっちゃってください! ジンさんって、普段は何のお仕事してるんすか? いっつも夕方前にふらっと来て、コーヒー一杯だけで帰っちゃうし。もしかして……昼間は寝てて、夜にお仕事するタイプ? キャー! 夜の帝王!? それとも、凄腕のトレジャーハンターとか!?」
「…………」
ジンは無言でコーヒーを口に運ぶ。味は悪くない。むしろ、この街で飲めるコーヒーとしては最上級の部類だろう。だから通っているのだが。
「あはは! やっぱ教えてくれないっすよねー! 知ってたー!」
リノはジンの沈黙を意に介す様子もなく、けらけらと笑う。彼女は、ジンのこのミステリアスな(と彼女は思っている)雰囲気が、結構お気に入りなのだった。無口で、何を考えているか分からないけれど、たまに自分が見せるドジを、呆れたような、でも少しだけ優しいような目で見ている(気がする)のだ。
「あ、そうだ! ジンさん、これ! 新作の試作品なんすけど!」
リノはそう言うと、どこから取り出したのか、小さな皿に乗ったプルプルと震える緑色の物体を差し出した。
「『森の賢者も唸る!? 苔風味スライムゼリー・ぷるぷるデラックス』! 食べてみてくださいよ! 自信作なんす!」
(……苔風味? スライムの粘液と苔の胞子を混ぜたのか? 衛生観念はどうなっている。それに、あの緑色は……猛毒を持つ『沼地のヌメり茸』の色素に酷似している)
ジンはゼリーを一瞥しただけで、その危険性を瞬時に分析する。彼は無言で首を横に振った。
「えーっ!? 食べてくれないんすかー!? 意外とイケるのにー! ちょっと青臭いけど!」
リノは心底残念そうに頬を膨らませる。その反応すら、ジンには遠い世界の出来事のように感じられた。
ジンは黙々とコーヒーを飲みながら、再び店内へと意識を巡らせる。カウンターの脳筋戦士は、今度は「俺が素手でドラゴンを絞め殺した」話をしている。(嘘だな。ドラゴンの鱗は並の鋼鉄より硬い。絞め殺す前に爪で引き裂かれるか、ブレスで丸焼きだ)。隣のテーブルの商人たちは、何やら怪しげな古代遺物の取引について話している。(あれは3年前に俺が偽造して流した贋作だ。まだ騙されている者がいるとは)。
様々な情報が、彼の耳に、目に、流れ込んでくる。かつては生死を分ける情報だったそれらも、今では退屈な日常のBGMでしかない。
リノは、そんなジンの様子をカウンターの中からこっそり窺っていた。(ジンさん、今日も難しい顔してるなー。何を考えてるんだろ? やっぱり、失われた古代王国の秘宝のありかとか? それとも、宿敵の魔王軍の動向とか? かっこいー……!)彼女の脳内では、無口な常連客は、既に壮大な物語の主人公になっていた。
(でも、たまには笑ってくれたら、もっとカッコいいのになー)
彼女は、いつか彼の笑顔を引き出してみたいと、密かに野望を燃やしていた。
「ねーねー、ジンさん!」
懲りずにリノが再び話しかけてくる。今度はカウンター越しだ。
「さっきギルドで聞いたんすけど、最近、北の鉱山跡で『はぐれアンデッドナイト』が出るって噂っすよ! 討伐依頼、ランクBだって! ジンさんくらい強かったら、ソロでも余裕じゃないすか? ねえ、行きませんか!?」
(……はぐれアンデッドナイト。おそらくは、かつて俺が始末した騎士団の生き残りだろう。怨念だけで動く、厄介な相手だ。ランクBは妥当だが、素人が手を出すべきではない)
「……興味ない」
「えーっ! つれないなー! お金になるのにー! それとも、もっとデカい獲物狙いとか? 例えば……伝説の『虹色に輝くドラゴンの逆鱗』とか!?」
「…………」
ジンは答えず、最後の一口を飲み干すと、静かに席を立った。テーブルには、コーヒー代ぴったりの銅貨が置かれている。
「あ、もう帰っちゃうんすか? ジンさーん!」
リノが慌ててカウンターから顔を出す。
「また明日ー! 絶対来てくださいねー! 明日こそ、新作の『ミミズクの目玉風グミ』、試食してもらいますからねー!」
(……絶対に断る)
ジンは心の中で即答しつつ、店の扉に手をかけた。振り返らずとも、背中にリノの元気な声と、陽だまりのような温かい視線を感じる。
その温かさが、今の彼にとっては救いであり、同時に、いつか手放さなければならないものなのかもしれない。そんな予感を胸の奥にしまい込み、ジンはアステリアの雑踏の中へと、再びその影を溶け込ませていった。