3 星空の下の思い
何の進展もない毎日を繰り返しているうちに、寒さに加えて冷たい雨の日が続くようになった。そのたびに不安の色が濃くなるかのように、紅葉が落葉に変わったそんなある日、普通科二組の教室ではちょっとした異変が起きていた。
それは休み時間になるたびに、翔子に近づいては通り過ぎ、通りすぎては引き返して来てまた通りすぎる夏帆の姿があったのだ。その夏帆の行動がどこかおかしく、そしてもどかしくも思える翔子。
「なに? 夏帆!」
隔たりを持ってしまった二人だったが、おとなしい夏帆のモジモジしている姿に、なにかあるのだろうということは伝わっていた翔子。
「翔子ちゃん、実はね……」
誰も人のいない所に翔子を連れ出して、ポーチに入れていた白い手紙を取り出した夏帆。
「これ、あんときのラヴレターじゃん! しかも増えてやがる!」
嫌がらせのサイトやメールが原因で病んでいるものと思っていた翔子だったけれど、夏帆の手に握られた何通もの白い手紙。それを見せつけられた翔子の心中は穏やかではなくなってきた!
ってことはなに?
こんな所にまであたしを呼び出して、人の心配をよそに恋の相談?
「わたし、モテちゃってモテちゃってどーしよー」ってか!
いつぞやの部活動帰りの複雑な心境にプラスして特別な感情が込み上げてきた翔子。つまりは一層のムカつきが全身を震わせるように湧いてきた翔子だった。
「見て……」
翔子の心境など知る由もない夏帆は、白い手紙の束を翔子に差出した……。
この期に及んであたしにラブレターを見ろって?
分かったよ、見てやるよ。そして思いっ切り言ってやる。監督さんや野球部員みんなが、どれだけアンタを心配していたかを!
とばかりに、受け取った手紙を開く翔子。
ア ゼ ン !
「わたしの下駄箱に、ときどき入ってるの……」
うつむきながら、今にもこぼれ落ちる涙をこらえて声を振り絞る夏帆。あまりのショックに出てこない言葉のなかから、それでも何とか言葉を見つけた翔子。
「あ、あれからずっと、続いてたの?」
コクリ……
「ウソ、でしょ…………」
夏帆に届く白い手紙は、まだ見ぬ心の王子様からのラブレターなどではなかった。それどころか、目を疑うほどに夏帆をなじる言葉がこれでもかと綴られたものだった。
嫌がらせのメールは学校や高校野球協会宛てのものばかりだと思っていた翔子。しかし現実はそれだけではなく、直接夏帆に対して嫌がらせをしていたという、卑劣な状況であったのだ。
犯人に苛立ちを覚えるとともに、一人で苦しんでいる夏帆に気付いてやれなかった自分にも腹が立つ翔子。
「夏帆、何でもっと早く言ってくれなかったの?」
「だって、わたしが……」
「わたしがじゃないよ! まさかこんなことになってたなんて……。っていうか、あたしも全然気付けなくてごめん! でもこれ、すぐになんとかしなきゃ!」
同情してくれる翔子の心根を感じた夏帆……。その目からは耐えることができなくなった大粒の涙がこぼれ落ちた。
ボトボトと、たくさん、たくさん。
「とにかく先生に相談しよう。もう、あたしたちで解決できる問題じゃないよ!」
そうするべきだと思って翔子に相談を持ちかけたはずの夏帆だったけれど……、いや、そうしてほしいからこそ翔子に見せた手紙だったけれど、翔子の手からそっと手紙を取り戻してポーチにしまい込んだ。
「元々、わたしのわがままから始まった話だし、面白く思わない人がいるのもわからなくもない。野球部の皆にも迷惑をかけられないし……」
「何言ってんの! 夏帆の試合出場は高校野球協会だって認めていることだもの、夏帆はなにも悪くないよ!」
これまで続いた思い込みによる変な時間。それを取り繕うように一生懸命に勇気付ける翔子だったけれど、視線を合わせようとしない夏帆の表情は変わらなかった。
「ごめんね翔子ちゃん、せっかくの休み時間に……」
「何いってんの……」
「ううん…………」
「夏帆……」
結局気がまぎれたのはこのときだけで、みんなに迷惑をかけることに変りはないと思った夏帆は、一人でいることを選んだ……。
「夏帆に直接?」
「はい。しかもその手紙、二十通はあります」
「そんなにか! 嫌がらせのサイトや学校へのメールならば、時間が過ぎて気持ちが落ち着けばと思っていたが、直接夏帆に手紙とは……」
「はい、夏帆もかなり落ち込んでます。監督さん、早く何とかしてあげないと……」
「そうだな、翔子の言う通りだ」
「はい。早速、夏帆救出作戦を考えましょう!」
「だが、卑劣なヤツのやることだから、おいそれとはいかないだろう。少し時間はかかるが間違いのない解決策を考えよう」
「は、はい」
「それと、この事はまだ誰にも言わないように。下駄箱に入れてあったということを考えると、身近な人物が絡んでいる可能性は大きいようだからな」
「はい、わかりました!」
それ以降、室内練習場の監督室と呼ばれる、ホームベース後方に設けられたガラス張りの部屋にこもる翔子は、各選手のアベレージや特徴をまとめるマネージャー作業をしながらも、さりげなく、しかしじっくりと選手たちを監視するようになっていた。
もしかしたらこの中に夏帆を苦しめているヤツがいるのかも……。
夏帆、あたしが夏帆を苦しめている犯人を捜してあげるからね。夏帆の野球を、あきらめさせない!
部活動としてはいつもと変わらず普通に行われてはいるけれど、夏帆のいない室内練習場が、特に翔子の怒りを助長していた。
また、ジャージ姿の三津田監督も嫌がらせサイトの真相を探るべく、いつものようにいろいろな選手に声をかけて調子を伺いながらも選手たちを観察していた。
そして、仕事が早上がりの夕方や週末になると父はコーチとして室内練習場に顔を出し、選手たちにアドバイスをする姿は変わらずに続いている。三津田監督から嫌がらせサイトについて一連の話を聞いてはいたが、父はあくまでもコーチとしての役割を果たすことに専念していた。
そして、父も指導をしていた今日の部活動終了時のこと。
「鳴沢コーチ!」
「おおどうした。大和、猛」
「夏帆さん……、大丈夫ですか?」
「ああ、普通に生活はしているよ。ただ野球の会話はなくなったけどな」
「そうなんですね……」
「まっ、しょうがないだろう」
「コーチ……」
「大和、改まってどうした?」
「僕と猛を、夏帆さんに会わせてもらえませんか?」
父を見つめる二人の眼差しは真剣そのものだ。
「んーー……」
少しの静寂が三人を包み、強い覚悟を持ってお願いを申し出たその表情に、この二人に夏帆を任せてみようという思いが、父の心に湧いてきた。
「わかった。でも難しいかもよ……。夏帆が部活動のことで最後に言った言葉は『わたしのせいで、これ以上みんなに迷惑はかけられない』だったからな」
「そんな淋しいことを言ったんですか、夏帆さん……」
「ああ」
「僕たち野球部員みんな、誰も迷惑だなんて思ってません!」
「そうだろうよ猛。でも、夏帆の心境は誰にも測れないくらい重いようだ」
「それならなおさらです。とにかく夏帆さんと話がしたいんです。夏帆さんの力になりたいんです。仲間として!」
「わかったよ大和。夏帆に言ってみる」
「ありがとうございます!」
「お願いします!」
そしてさっそくその週末の土曜日。部活動を終えた大和と猛は、父の運転する車でボクの家の近くの公園までやって来た。
「夏帆、来てるかな……。大和と猛が話したいからって言っても、特に返事はしなかったから、もしかしたら……」
「大丈夫ですよコーチ。僕たち、夏帆さんを信じます」
「すっぽかしたりするようなことはしないとは思…………」
「あれ、夏帆ちゃんじゃね、大和?」
「そうだよ。コーチ、夏帆さんいました!」
「えっ、どこに?」
夏帆は浮かない顔をしたまま遊具のそばに設置してあるベンチに腰をかけていた。昼間なら子どもたちでにぎわう遊具も、薄暗さのなか静まりかえっている光景が余計に夏帆をひとりぼっちに見せている。
「よく見つけたな」
「はい」
「それじゃ大和、猛、あとは頼んだぞ」
「はい!」
「行ってきます!」
大和と猛に任せることにした父は、公園脇にある駐車場に車を停めてエンジンを切った。家に帰らないのは話を終えた後、二人をそれぞれの家まで送って行くつもりでいるためだ……。という名目で、実はヒッソリと話を聞きたいのだ。
「久しぶり、夏帆ちゃん」
「ごめんね夏帆ちゃん。無理言って来てもらって」
ありきたりの言葉に秋の夕暮れは早く、西の空には一番星が三人を見守るように姿を見せていた。
「…………」
オシャレを表現することなどない、それでも防寒対策はしっかりとした私服姿でベンチに座る夏帆は、二人の言葉にうつむいたまま軽く首を振るだけだった。
そして、今までに味わったことのない時間と空気感が三人を包むなか、心を決めて考えていた言葉を並べ始める大和。
「猛とも話してたんだけど……、悪口ばかり流されて、追い詰められて、それで夏帆ちゃん、精神的にも辛くなってたんだよね」
「……」
「もちろん、それだけではなくて、もっともっと重いものを背負っていて……、自分が頑張らないとって、自分を追い詰めて……」
「……」
「それで、まともなピッチングができなくなったんだよね? 心も体も自分じゃないって、そういうことだったんだよね?」
「……」
「俺たち、上っつらしか見てなくて、夏帆ちゃんが陰ではこんなに辛い思いをしていたなんて、俺たち何も知らなくて……」
「……」
日が暮れてからの気温はどんどん下がる。だけどそんなことを感じることもなく、大和と猛は必死で話し続けた。
「野球部のみんなで話し合ったんだ」
次の言葉を予測する夏帆は、視線を落としたまま上着のポケットに手を突っ込み、まるで世間から自分を遮断するように目をつむった。
「あのさ……、俺たち……、なんだかんだ言って、夏帆ちゃんがいたからこそここまでやってこれたし、夏帆ちゃんがいたから勝てるようにもなった。そしてチームとして一つになれた。だから……」
次の言葉を出しづらいのか、大和は少し間を取り、そして改めて言葉を振り絞った。
「夏帆ちゃんの辛い気持ちに気付けなくてゴメン。夏帆ちゃん、野球やるの辛かったら……、苦しかったら……、野球を辞めてもいいんじゃないかって……」
「…………」
「こんなに盛り上がれたのは夏帆ちゃんのお陰だから、俺たち滝岡高校野球部は、笑顔で夏帆ちゃんを送ろうって決めたんだ!」
「…………」
「そしてこのことは、監督さんも了解してくれている」
「…………」
「だからもう、苦しまないで……」
「そうだよ、これからは、夏帆ちゃんの思うようにしていいから……」
てっきりグラウンドに連れ戻すために来たのだと思っていた夏帆、ついでに父は、思いもしなかった二人の、いや野球部みんなの言葉に驚いた。
そして夏帆は少しだけ顔を上げて、すっかり暗くなった公園の街灯に薄っすらと見える二人の顔に視線を向けた。
同時に笑顔を見せる大和と猛は、伝えたいことは話し終えたのだろう、スクッと立ち上がって明るい言葉を放った。
「俺たちの夏が終わったらさ、三年生の引退式あるでしょ。そのときは夏帆ちゃんも誘うからな、出席してくれよ!」
「絶対だぞ!」
「やまとくん……、たけるくん……」
みんなの優しさを知り、複雑ながら胸の中が熱くなるのを感じずにいられない夏帆は、声にならない声で二人の名前を口にしていた。
そして大和と猛はそれだけを伝えると、三人の会話が気になって仕方がなく、いつの間にか車から出てベンチ近くの木の陰に潜んでいた父のもとへと近付いた。
「コーチ、お待たせしました!」
「おお……、よく俺がここにいることに気付いたな?」
闇夜にまぎれて隠れているつもりだった父。街灯の明かりと月灯りに自分のシルエットが丸見えだったことは、どうやら気付いていなかったようだ。
「このチャンスを頂きありがとうございました!」
「お前たち……」
二人の言葉から見える部員たちの心根を知った父は、それ以上の言葉が出なかった……。
「ボクたち帰ります!」
「何いってんだ。送って行くから車に…………」
「駅まで近いんで大丈夫です!」
「それよりも、夏帆さんをお願いします!」
「「失礼します!」」
そう言うと大和と猛は深々と頭を下げた。そして公園の出口へ向かうために、歩き出した二人はおもむろに振り向きながら声を張った。
「夏帆ちゃん、また!」
「野球やりたくなったらいつでも来いよ!」
静かな住宅街に響く声を残し、ダッシュで公園を去って行く二人のキザ男。どんな表情で叫んでいたのか月灯りではわからなかったけれど、自分のことを気遣ってくれる二人のシルエットが見えなくなっても、まだその姿を見送っている夏帆。
夏帆……、今、何を感じ、何を思う?
夜空を見上げると、そこには気品高く輝く宵の明星が、キラキラとにじんでいた。