第一話 プロローグ
『屋上に来て』
そう久遠環に言われ、俺は今屋上にいる。屋上には俺と久遠環のふたり。
屋上は暑く、夏日が容赦なく俺たちを照らす。野球部員の掛け声とセミの鳴き声が聞こえる。
なんでこんなくそ暑いところに呼び出されなくちゃならないんだ。
俺何か悪いことしたかな。俺としては善意でやったことなんだけどな。さきほどラノベとポストカードを入れた鞄を見やる。
「あなたのおかげで助かったわ。わざわざここまでしてくれるとは思わなかった」
久遠環は俺に振り返る。夜空のように綺麗な黒髪がなびく。
「あ、ああ」
放課後の屋上なんてギャルゲでは告白のシチュエーションだが、それはないだろう。
そんなことされるなんて期待してないし、べつに欲してない。
俺の信条は『リアルには何も求めない』だ。
何も求めない。だから期待しないし、害も求めない。
リアルでは何事も起こらないで、ただただゆらゆらと日々が過ぎ去ってゆくことだけを祈っている。
「あなた、もしかして私と同じ?」
久遠環が口を開く。
同じ、というのは俺の状態と同じかどうかということだろう。
「ああ、同じだよ」
「そう。それなら都合がいいわ」
「え、何が?」
ちょっと待って。どんな脅しが来るんだよ。怖いなあ。もう帰っていいかなあ。
久遠は白いヘッドフォンを振れ、一瞬言い淀む。
「……っ、私と、付き合って。私の彼氏に、なって」
「へ?」
屋上に風が吹き、久遠の艶のある黒髪がなびいた。
× ×
役所の社会福祉課の前の椅子に座り、受給者証が発行されるのを待つ間、俺はライトノベル『ボクの前ではみんな好き好き大好きっ子』を読むため大きなリュックから本を取り出し、開く。
前回読んだ続きから読み始めるため栞のあるページを開く。栞は書店特典で封入されていたポストカードを使っており、前面にはヒロインの全裸が描かれている。
「クドオさん、お待たせしました」
俺の前にひとり女の訪問者がおり、その女が職員に呼ばれる。
「それでは、今年分の受給者証ですね」
「ありがとうございます」
ふと視線が上がった。黒縁の眼鏡をくいと上げる。
受給者証。
用事を済ませた女は外に出てゆく。
黒く艶のある長髪を揺らし、ドアへと向かう。
前髪がかかる瞳は黒く大きな綺麗だが、どこを見ているかわからない。光のない目をしていた。白いヘッドフォンを掛け、周りの音を遮断している。単純に音楽が好きというよりは外界と自分を隔てているためのものに見える。
身長は俺と同じ160センチほど。女子の平均身長より少し高く、脚が長い。細身の体で虚ろ気な瞳もあってかどことなくは儚げな印象がある。反面、他人を寄せ付けない堂々とした立ち振る舞い。社交的な印象は受けない。しかし、美しく可憐な姿は浮世離れしていた。
……どこかでみたことがあるような気がする。
リアルの人間に興味がない俺でもどこか記憶の琴線に触れた。
それにしても、あんな女も俺と同じ状態なんだな。
一瞬、親近感を覚えたが、それでもリアルの女に興味を持たない俺はすぐにその女の記憶を外に追いやった。
「猪尾さん、お待たせしました」
『ボクの前ではみんな好き好き大好きっ子』を10ページほど読んでいると、職員に呼ばれた。俺は本を閉じ、リュックにしまう。
「猪尾宅也さん。お待たせしました。今年分の受給者証ですね」
「はい」
俺は素っ気なく答える。
はあ、やっと終わった。
なぜ俺がこんなことを定期的にしなければならないんだと呆れる。
でも仕方がない。
俺の状態は現代では障碍扱いされている。
『社会性欠乏障碍』
ふざけた障碍名だ。
ちまたでは『オタク病』なんて言われている。
俺は決して今の自分を、今の気持ち、今の状態を障碍だとは思っていない。
しかし、この障碍を訴えれば様々な福祉制度を受けられる。
医療費免除。税金の免除。学費の免除。障害年金。
さすがにこの恩恵を受けない訳にはいかない。
「よし」
さあ、面倒なことも終わったことだし帰ってアニメ観るか。
表情が少し明るくなったまま、帰途に就いた。