第6話 姉妹のような二人
「あー、疲れた……」
ローザリッタに遅れること四半刻。
ようやく裏手の森からヴィオラは屋敷に戻ってきた。
その手には二本の木刀。一本は自前のものだが、もう一本はローザリッタが森の中で放り出していったものだ。
「朝っぱらから跳ばせるなっての……」
不平を口にするヴィオラの顔には相当な疲れが滲んでいた。顔だけでなく、侍女服のいたるところに泥のはねた跡や木の葉がついており、実に薄汚れている。森の茂みを掻き分けて、とぼとぼ地道に歩いて帰ってきた証拠だ。
先行するローザリッタに追いつくために、初っ端から全力で〈空渡り〉をしたせいで、ヴィオラには帰りに跳躍する体力が残っていなかった。
疲労困憊な状態で〈空渡り〉をしても、足場の枝を踏み外したり、高度が足りなくて墜落したりと、かえって危険な目に遭いかねない。並外れた跳躍術を会得したことに自惚れず、その状況に適した移動手段を選択することも、安全に空を駆け続けるこつだ。
というより、あれだけ跳びまわった後に走り出せるローザリッタのほうがはっきり言って異常なのだ。才能の桁が違うと改めてヴィオラは痛感する。
「――ご苦労様でした」
屋敷の裏門まで辿り着くと、門前に待機する巡邏の二人組がヴィオラに労いの言葉をかけてきた。苦笑を浮かべながら、手を挙げて応じる。
「……おう。あんたたちも朝っぱらから災難だったな」
「いえ、自分たちは……」
巡邏二人は思わず顔を見合わせると、ぎこちない笑みを返した。
その不審な態度に、ヴィオラは思い当たる節があった。飛び出した時のローザリッタの格好だ。半裸同然の寝巻き姿を思えば、下着の一つでも見えてしまったか。故意ならば不敬罪で厳罰だろうが、当の本人があの格好では不可抗力と主張されても否定できないだろう。
(……お嬢のそういうところは、いずれ直さなきゃなぁ)
ヴィオラは内心で嘆息した。
庶民と貴族とでは、羞恥の感覚に大きな隔たりがある。
日常生活のあらゆる場面で他者の視線が存在する貴族に、私的自由などあってないようなものだ。
伯爵家の令嬢ともなれば常に近侍が側に控え、着替えや入浴、時には排泄などの世話を受ける。それに対して、いちいち恥ずかしがっていてはとても暮らしていくことはできないだろう。
ただし、それも同性に限った話である。
むしろ、男性に対しての羞恥心の基準は庶民よりもはるかに低く、また鋭い。
何故なら、貴族令嬢は純潔であることを求められるからだ。
貴族の家に生まれた女は政略結婚を宿命づけられており、嫁いだ先の血を繋いでいくのが役目。
しかし、生まれてくる子供に、自分の血が半分流れていることが確約されている女性側と違って、男性側は本当にそれが自分の子供かどうか確かめる術はない。もし、妻が胎に夫以外の子を宿したまま結婚を果たし、出産後にそれが明るみになってしまえば、爵位や財産の継承権を廻って家同士の対立に発展する可能性がある。
それを避ける最も安全な方法は、自分以外の男を知らない娘――つまりは処女を娶ることだった。
貴族の男が純潔の令嬢を妻に求めるのは単に支配欲を満たすためではない。血統が爵位継承の条件である貴族制度において、家の存続と家同士の結びつきを第一に考えているが故の当然の要求なのである。
そういった経緯があるため、貴族の令嬢たちは婚礼を迎えるその日まで決して間違いを起こさないように、幼少期から徹底した貞操教育を施される。
異性からは遠ざけられ、私的な恋愛は禁止。そうして育てられた結果、自分の体は夫となるべき男にのみ捧げることを至上とし、それ以外の男に辱めを受けるくらいなら舌をかみ切ることさえ厭わない――そんな異性に対してのみ極度に潔癖を発揮する精神性を獲得するのである。
それを踏まえると、巡邏に下着を見られてしまった一般的な伯爵令嬢の反応としては「もうお嫁に行けない」とさめざめ泣き崩れるあたりが妥当だろうが――ヴィオラが嘆く通り、ローザリッタの反応はそれにまったく当てはまっていなかった。
それもひとえに、これまでに打ち込んできた剣術修行のせいである。
人間の心と体は切って切り離せないものだ。
誰しも一度くらい、心の動揺によって体が動かなくなったことがあるだろう。命を賭けた真剣勝負の場では、ことさら心の状態が勝敗に大きく影響する。わずかな心の揺らぎが勝負の明暗を分けるのだ。
感情の中でも、驚、懼、疑、惑――つまり、驚き、恐れ、疑い、惑う――の四つは、戦場において最も起こしてはならないものだと考えられており、これを剣術世界では四戒と定め、忌むべきものとしている。
ローザリッタも剣術を始めたての頃は、それなりに異性の視線を気にしていた。
しかし、試合の最中などに気もそぞろになっているようでは、相手にわざわざ打ち込む隙をこちらから与えてしまうようなもの。上達するのに羞恥心など足枷に過ぎない。そう判断したローザリッタは剣士として熟達していく過程で、本来、令嬢が持つべき異性に対する極端な羞恥心が自然と薄まっていったのだ。
とはいえ、ローザリッタも常識知らずではない。感覚が鈍磨しているといっても、それが恥ずかしいものだという知識は残っている。ただ、実感が伴っていないため、今回のようなことをやらかしてしまうのである。
「……お館様には黙っといてやる。ところで、お嬢は戻っているか?」
「はい。先程、走って――いえ、跳んで戻られました」
巡邏は苦笑いを浮かべた。その口ぶりからするに、飛び出した時と同様の光景が繰り返されたに違いない。
「化け物だな」
「それに追いつけるヴィオラ殿も大概かと」
巡邏の追従に、ヴィオラは鼻を鳴らす。
「確かに短時間ならいい勝負ができるかもしれないけどな。持久力って意味じゃ、全然相手にならないさ」
言いながら、ヴィオラは裏門を潜ろうとする。
すると、噂をすれば影――ローザリッタがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「うげっ」
ヴィオラはその姿にぎょっとする。
森の中で合流した時よりも、一層、あられもない格好になっていたからだ。
寝巻きの着崩れは極限にまで達していた。
白い肩はすっかりむき出し。開けた胸元から見える乳房はほぼ半球。かろうじて布地が先端部分に引っかかっているものの、ゆっさゆっさと上下に激しく揺れているので安心はできない。左右の裾を繋ぎ止める腰帯は今にも解けそうなほど緩んでおり、崩壊まで秒読みだ。今から駆け寄っても間に合わないかもしれない。
――なので。
「許せ、お前ら――‼」
ヴィオラは巡邏二人に渾身の蹴りを見舞う。
「「うぼぁ――‼」」
あっさり吹き飛ばされた二人は、白目を剥いて地面に倒れた。これは純粋な災難である。
「おかえりなさい! さすがヴィオラ、計ったように戻ってきました――うにょ⁉」
ヴィオラは両手に持っていた木刀を放り投げ、駆け寄ってきたローザリッタの頬を両手で引っ張った。
「いい加減にしろよ、この破廉恥令嬢……!」
餅のように両頬の皮を伸ばしながら、敬うべき主人に対する態度としては失格だが、朝から駆けずり回されたせいで、さすがにむかっ腹が立っている。一言文句を言わないと気が済まなかった。
「寝起きのたった一刻の間に何回粗相をすれば気が済むんだ、ああん⁉」
「ひたい、ひたいでふって!」
「あたしはそんなはしたない妹に育てた覚えはねぇぞ! 姉代わりとしてとても悲しい!」
「ふぁふぇふぁ、ふぃふぉふふぉふぇふふぁ!」
「口答えすんな! だいたい、この間だってな――」
ヴィオラはしばらくの間、一言どころか一頻り文句をぶつけ続けた。
「……ちゃんと反省したか?」
言いたいことを言ってすっきりしたのか、ヴィオラがローザの伸びきった頬からぱっと手を放した。
「はい。しました……」
真っ赤になった頬を押さえながら、ローザリッタが消沈したように呟く。逃れようと思えばできただろうが、甘んじて折檻を受けていたのは、彼女なりに振り返る部分があると思ったからだろうか。
「ほら、忘れ物」
ヴィオラは地面に放り出した木刀を拾うと、ローザリッタに差し出した。
「あ。わたしの木刀。拾ってきてくれたんですね、ありがとうございます」
「どういたしまして……まあ、自棄になる気持ちもわかるけどな。いよいよ元服できるって楽しみにしてたのに、それがなくなったんだからな。それで、どうだった? お館様と話はついたか?」
「……そうでした!」
言いかけたことを思い出したのか、ローザリッタがはっとした声を上げる。
「ヴィオラ、すぐに湯殿の準備をお願いします!」
「なんだよ、藪から棒に」
「これから中庭の石灯篭を斬るんです!」
「……は?」
ますます困惑するヴィオラに、ローザリッタはマルクスとのやり取りを詳しく説明した。
「……石灯篭を斬ることができたら武者修行を許す、か。お館様がそんなことをね」
ヴィオラは腕を組んで唸る。まるで、マルクスの真意を確かめるように。
「灯篭を斬るなんて初めての挑戦ですが、挑むからには最大限の準備をして臨みたいのです」
「それで湯浴みね」
ヴィオラは主人の意図を汲み取った。
「――〈殻断ち〉を遣う気だな?」
「はい」
ローザリッタははっきりと頷く。
〈殻断ち〉もまた、〈空渡り〉と同様にエリム古流に伝わる奥義の一つだ。
本来は、硬い甲殻や外骨格を持つ〈神〉を攻略するために開発された技であり、文字通り、硬い甲殻を断ち斬る高威力の斬撃である。
ただ力任せに剣を一点にぶつけるのとはわけが違う。
全身の筋肉から生じる運動量を余すことなく剣先に乗せ、正しい刀線刃筋を維持しながら引き斬る――聞くだけなら単純そうに見えるが、緻密な太刀筋と身体制御を求められる絶技だ。
「〈殻断ち〉を極めるには、わずかな狂いも許されません。まして、岩石の類を相手に試斬など一度もやったことはありませんから……」
「験も担ぎたくなる、か」
それは剣術家の間に古くから伝わる慣習だった。
『身の穢れは心の穢れ、心身の不浄は太刀筋の不定に通じる』――と、剣術遣いの間では固く信じられている。
といのも、刀という武器は実に繊細な構造をしており、正しく刀線と刃筋が立たなければ、最大限の切断力を発揮しないようにできているからだ。そのため、わずかな手元の狂いで平打ちの力が加わり、刀身が折れ跳ぶことも十分にあり得る。実戦でそのような失態を晒さないために、刀遣いは藁にも縋る想いで身綺麗を心掛けているのである。
「そうです。挑む以上は全力全霊で。やれることはやっておきたいのです」
「なるほどな」
慣習が信じられているのも事実だが、どちらかと言えば、人事を尽くしたという精神的安定が肝だ。
いざ直前で、ああしておけばよかった、と後悔が生まれれば、それだけで迷いが生じてしまう。刀遣いにとってそれは致命的なことだ。何事にも手を抜かないローザリッタの気性は、ヴィオラは嫌いじゃない。
「わかった。さっそく湯殿の手配をしよう。……その前に」
未だ地面に倒れ伏している巡邏二人を、ヴィオラはばつが悪そうに見つめる。
「……ちょっと、こいつらを介抱してからでいいか?」
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