第5話 伯爵の思惑
「……やれやれ」
慌ただしく中庭から走り去っていく娘の姿を見送りながら、マルクスは一人静かに溜め息を吐いた。
「あやつの才は儂も認めておるよ。わずか八年。たったそれだけの時間で、エリム古流の神髄に迫る遣い手など、歴史を振り返っても何人存在するか……剣術家としては、是非とも育ててみたい原石だとも」
誰に聞かせるわけでもなく、独り言ちる。
それは、一人の剣術遣いとしての想いだった。
男女の筋力差を物ともしない高い潜在能力を秘めた肉体。
一を聞いて十を知る、術理に対する優れた親和性。
そして、それを導く師は王国最強の剣士。
資質。感性。環境。三拍子の全て揃った極大の原石。
彼女が望む通り、武者修行に出て実戦を経験すれば――誰も及んだことのない、遥かな山巓へ辿り着けるのではないか。親の欲目を抜きにしても、そんな夢を思い描いてしまうほど輝かしい逸材だった。
「だが、それでも」
あの時から、考えは変わらない。願いも変わらない。
あったかもしれない未来を無慈悲に切り捨てる覚悟は、とうにできている。
ふと、空を見上げると色が変わっているのに気がついた。夜明けの白から、徐々に濃い青色が広がっていく。
空の移り変わりに時の流れを感じながらも、それとは裏腹にマルクスの思考は過去へと遡っていった。
◆
マルクスは、ベルイマン伯爵家の次男として生を受けた。
長男には跡継ぎとしての役割があるが、次男以降はあくまで有事の際の予備に過ぎない。家督を継ぐ機会が巡って来なければ、その後は自分の力で生きていかなければならなかった。
王国騎士として仕官するか、文官として宮廷に出仕するか。地方領主の子であれば土地を与えられて町や村の一部を経営したり、要請さえあれば、後継者に困っている他家の婿養子になったりすることもある。
ところが、それなりに選択肢がある他の貴族と違い、ベルイマン伯爵家は少しばかり事情が違った。
当主の血を引く男が進むべき道は王国騎士のみ。
それはベルイマン伯爵家が建国史に名を連ねる譜代の一族であることや、古流剣術の大家であることも大いに関係しているが――最大の理由は、ベルイマンは【白の貴族】の筆頭だからだからである。
この国の貴族は二つの家柄に分かれる。【白の貴族】と【紅の貴族】だ。
その発端は、現代から遡ること約百年前。
レスニア王国に、双子の王子が生まれたのが事の始まりである。
古来より、王家の双子は家を分ける忌子とされ、生まれてすぐにどちらかを間引くのが通例だった。しかし、なかなか子を成せなかった正室がようやく産んだ二粒種。みすみす予備を失ってしまうのは当時の国王にとっても心苦しいものだった。
宮廷内で物議を醸したものの、より王としての資質を持つ方を後継とするという方針で双子は生かされ、どちらともが王子として養育を受けることになった。
誤算があるとすれば、どちらも王としての優れた器量を備えていたことだ。武に優れたる兄と、智に優れたる弟。どちらも素晴らしい才覚に恵まれており、国王はどちらに王位を継がせるか決めきれずにいた。
……それが愚かだった。
結局、国王は後継者を指定しないまま崩御してしまい、宮廷貴族たちは兄王子派と弟王子派の真っ二つに分裂。
双子王子が元服を迎える際に、高名な鍛冶師からそれぞれに献上された二振りの刀の名にちなんで、兄王子に与する貴族を【紅】、弟王子に与する貴族を【白】とに分かれ、対立した。
始めは宮廷貴族たちの権力争いに過ぎなかったが、やがて、その波紋は地方貴族にも広がっていき、最終的には王国全土を巻き込んだ内乱に発展してしまう。今なお語られる暗黒時代の到来である。
歴史的な事実で見れば、最終的に王権を手にしたのは弟王子だった。
論功行賞は戦の常。政権奪還を支えた【白の貴族】たちは恩賞によって、多くの領地や宮廷内での重要な役職と権力を与えられ――それとは逆に、反逆者側である兄王子派に加担した【紅の貴族】たちは厳罰に処されることになる。中枢を担った貴族たちの爵位は剥奪の上、極刑。軽いものでも家格の降格、領地の没収は免れなかった。
この沙汰により没落する家がある一方で、新しく爵位を与えられた新参の貴族が誕生するなど、貴族の勢力図はがらりと様変わりする。
当時は、ただ歴史が古いだけの地方貴族に過ぎなかったベルイマン伯爵家も内乱時の獅子奮迅の働きにより、王家を支える武人の一族として確固たる社会的地位を築き上げることに成功した。
そのような歴史があるが故に、ベルイマンの血統から王国騎士を排出することは、現代まで連綿と受け継がれる伝統なのである。
マルクスもその伝統に従った。
既に剣の腕前は長兄をも凌いでいたマスクスだったが、騎士として生きるからには家名に泥を塗ることがないように、次男の身ではありながら自ら望んで武者修行の旅に出た。
各地を放浪すること一年。
旅の最後に、王国騎士たちでさえ手を焼いていた凶悪な野盗を瞬く間に討ち取り、その首を手土産に王都の城門を叩く。
そのあまりにも鮮烈な入団に、誰もがベルイマンの武功は今なお健在だと持て囃し、鳴り物入りで彼を歓迎した。
そんな輝かしい騎士団での生活の中、マルクスは一人の騎士と出会う。
武芸十八般を修め、軍略にも長け、常に優しさを忘れない人格者。
若いマルクスはその騎士から、王国騎士としての振る舞いを改めて学んだ。弱きを助け、礼節を重んじ、王に忠義を尽くして悪を討つ。そんな騎士として当然の、尊く気高い在り方を。
まさに模範の騎士だ。理想の騎士だ。
そう心から信奉したマルクスだったが、その評価とは裏腹に彼の序列は騎士団の中でもとても低いものだった。
その理由は、彼が【紅の貴族】の血を引いているから。
ベルイマン伯爵家が現代でも内乱時の功績を伝統としているように、反逆者である【紅の貴族】に対する謗りもまた現代にまで色濃く残っている。裏切り者の末裔――ただそれだけで差別されるほどに。
その騎士に対する扱いは不遇の一言だった。重要な局面では、先祖のように裏切るかもしれないと後方へ回され、手柄を立てる機会を奪われる。そのくせ、犠牲を強いるような危険な作戦では、その実力故に真っ先に死地に送りこまれる。体のいい使い捨ての駒だった。
そんな扱いをされても、彼は腐らなかった。騎士が忠誠を誓うべきは王。守るべきは国と民。周囲の評価など気にせず、彼は騎士の道を貫いて戦場を駆けた。
駆けて、駆けて、駆け抜けて――そしてついに、彼は戦地から帰ってこなかった。
翌日、夜明けとともに運ばれてきた血まみれの骸と対面した時、マルクスは恥も外聞もなく泣き崩れた。
そして、憎悪した。理想の騎士を死に至らしめた醜い風潮を。助けてやれなかった己の無力さを。
(大昔の出来事を引きずって、優秀な人間が無駄死にし、無能が生き残る。こんな理不尽があってたまるか……!)
それからマルクスは奮起した。
マルクスが一つの隊を任される身分になると、その編成を大幅に変更。それぞれに能力に応じた階級を与え、実力さえあれば出自は不問とした。逆に、結果を出せなければ、どんな家柄の者だろうと相応の立場に落とすか、別の隊に移籍させた。不当だと喚く馬鹿もいたが、それを戦果で黙らせてきた。
やがて、その功績と個人の武勇が国王にも認められると、マルクスは王室の剣術指南役に推挙される。
王城のみならず、宮廷にも少なからず出入りするようになった。
残念なことに、宮廷でも【紅の貴族】を冷遇する風潮は存在した。閉ざされた環境であるせいか、その陰湿さは騎士団よりも酷いものだった。
しかし、いくら王室に招聘されているとはいえ、一介の指南役に過ぎないマルクスでは内政に口を挟めない。その力や立場がない。
そんな無念を抱えながらも粛々と務めを果たしていたマルクスに転機が訪れる。
ベルイマン伯爵家の当主となった長兄が夭逝したのである。
故郷で流行り病が蔓延し、夫婦、息子ともに病没。後継者候補の中で、唯一、王都に身を寄せていたマルクスだけが災難を逃れ、図らずも自分には縁がないと思っていた地位と権力が転がり込んできたのである。マルクスは無念と思いつつも、心に秘めていた政策を実現する機会を得たのだ。
その政策とは、貴血の浄化である。
もし、国王からの信頼も厚い【白の貴族】の筆頭たるベルイマン伯爵家が【紅の貴族】の血を引く者を嫁に迎えたら、どうなる?
決して交わろうとしない【紅】と【白】、その二つの貴血を引く者が、この家の後継者になれば――この国の悪しき風潮に一石を投じることができるのではないか。百年続いたしがらみだ。すぐに無くなりはしないかもしれないが、ほんの少しでも緩和することにならないだろうか?
――もし、そんな世の中にすることができれば、先輩のような人間を減らすことができるのではないか。今の自分には力がある。騎士としての戦功。指南役を通じて得た王室との繋がり。伯爵という地位と権力。それを駆使すればきっと実現できる。
爵位を継承するにあたって、マルクスは今後の政策を一族の前で宣言した。【紅の貴族】から嫁を取り、その子を後継者に据える、と。
反対する者がいても、今の自分には力がある。騎士としての戦功。指南役を通じて得た王室との繋がり。伯爵という地位と権力。それを最大限駆使して味方を集め、背く者を排除し、この十六年間、休まず邁進してきた。
最終段階も近い。一人娘であるローザリッタが家督を相続し、男児を産みさえすれば政策は完了する。
もう少しだ。たとえ、娘から嫌われたとしても――こればかりは譲ることができない。それがマルクスの伯爵家当主としての考えだった。
◆
「……さて。婚姻の手配を進めなくてはな」
――思考の流れを現代に戻したマルクスは、これからのことを思案する。
それくらいの理性はあると信じたいが、勝負の結果に納得しないローザリッタが感情に任せて家を飛び出さないとも限らない。元服の儀と同時に婚姻の儀を敢行するくらいの意気込みでなければ、今朝の逸脱のように足元をすくわれる。
「まったく。無事戻ってきたからよかったものの。しばらくは内外の警備を強化するよう命じるか。ヴィオラにも側を離れるなと厳命せねばな……」
ぶつぶつと呟きながら、マルクスは役目を終えた石灯篭に背を向け、屋敷へ向かって歩き出した。
当主としてやるべきことは山積みだ。まずは親族への通達。そして、婿に相応しい人物の選定だ。通常の執務も残っている。惚けている暇はなかった。
「とはいえ、七日しか猶予がないのは儂も同じか。縁談は常々あったが、他家から婿を取るなら慎重に選定しなければならないが、見定めるには時間が足らぬ……そうだ」
マルクスは名案を閃いたとばかりに手を打った。
「あやつがおったわ。血筋も年齢もぎりぎり釣り合う。ローザも兄と慕っておるくらいじゃしな、どこの馬の骨とも知れん男よりはよほどいい。そうしよう」
嬉々として縁談の予定を組み上げるマルクスの頭の中に、ローザリッタが灯篭斬りを成功させるという可能性は微塵も存在しなかった。失敗するという確かな自信がある。
何故なら――
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