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第1話 伯爵家の跡取り令嬢

 ――黎明(れいめい)


 朝と夜の狭間、夢と現の境界。

 空も。人も。世界の何もかもがまどろんでいる時刻に、ローザリッタはぱっちりと目を覚ました。


 長い睫毛(まつげ)(ふち)取られた空色の双眸(そうぼう)に寝起きの気だるさは微塵(みじん)も残っていない。どれほど熟睡していようと、神経の一部は常時覚醒するように訓練を積み重ねたからだ。


 横槍が入り、流れ矢が飛び交うような戦場では一瞬の隙が生死を分かつ。状況を見定めてから気合を入れるような虫のいい振る舞いでは、降りかかる危険に対して即応することなどとてもできない。常在戦場(じょうざいせんじょう)の心得こそが武芸の根幹である。


 ローザリッタは横たえていた体をゆっくりと起こすと、ぐるりと周囲を見回した。


 窓を閉め切った部屋の中は薄暗く、肩から滑り落ちた毛布の音がはっきり聞こえるほど静寂(しじま)に包まれていた。屋敷の使用人たちもまだ動き出していないようだ。何か異常があるのかと気配を探ってみても、彼女の鋭敏な感覚は何も訴えてこない。


 ならば、なぜ目を覚ましたのだろうか。

 普段ならば、まだ夢の(ふち)をさまよっている時間なのに。


「……まったく。我ながら、なんともわかりやすい」


 呆れるように呟いた後、(つや)のある桃色の唇が深い半月を描く。

 力強い、やる気に満ちた笑みだった。

 ローザリッタは元気よく寝床から起き上がると、そばに置いておいた愛用の木刀と髪()めを引っ掴むと、勢いよく部屋を飛び出した。




 ◆




 レスニア王国の東の果て、モリスト地方。

 そこにシルネオと呼ばれる辺境都市があった。


 都市の名の通り、居住区の周縁を市壁が囲い、領主の屋敷を中心とした行政区画が設けられているが、それ以外は深い森と田園風景が広がっているだけの――ありていに言えば、どこにでもあるような辺鄙(へんぴ)な田舎街である。


 ただし、他の田舎街と明確に異なる点が一つ。それは、この街が剣術家の聖地だということだ。


 剣の道を志す者の中で当代領主――マルクスを知らぬ者はいない。


 ベルイマン伯爵家が輩出した傑物(けつぶつ)

 王国騎士として数々の戦いで戦功を挙げただけでなく、その実績から王室の剣術指南役にまで抜擢され、更には、八年前の王都天覧試合では音に聞こえた剣客たちをことごとく返り討ちにしたという王国最強の剣士である。


 現役を退き、家督(かとく)を継いだ今でもその名声は一向に衰えを見せない。

 彼の伝説的活躍はもはや信仰の域に達しており、一旗揚げることを夢見る剣術家たちがその威光にあやかろうと〈シルネオ(もう)で〉と称して街を訪れるほどである。


 その伯爵邸の廊下を、一人娘であるローザリッタは軽快に走り抜けていた。


 寝巻のまま、寝癖もそのままに。木刀を握りしめての大疾走。

 早朝であることを配慮してか、足音が消せる程度に手加減しているが、それでも(ひるがえ)った寝巻きの裾から(たくま)しい太腿が(あら)わになるほどには速度が出ている。


 お転婆(てんば)な振る舞いだという自覚はあった。侍女に見つかったら(とが)められるだろうという確信も。しかし、全身を満たす高揚感が彼女の足を動かし続けていた。


 それというのも――


(いよいよ……いよいよ、待ちに待った元服(げんぷく)の日がやってきました!)


 ローザリッタは十六になった今日、元服の儀を迎えるからだ。


 もっとも、成人になることを渇望していたわけではない。飲酒も婚姻も、彼女にとってはただのおまけにすぎない。重要な事柄はただ一つだけ。


 (すなわ)ち――


【元服を迎えた嫡子は、すべからく武者修行の旅に出るべし】


 それはベルイマン伯爵家特有のしきたり。

 見聞を広め、領民と触れ合い、一人の人間として成長するために家の後継者は旅に出る。次世代の領主となる人間が治めるべき市井(しせい)を――ひいては、奉ずるべき王国の実情を知らないのでは話にならないからだ。


 無論、道中で荒事に巻き込まれることもあるだろう。しかし、そういった不当な暴力に屈しない武勇もまた統治者に求められる要素である。


 当然のことだ、とローザリッタは思う。領民のために自分の手を血で汚す覚悟もない者に誰が付き従うのか。誰が支配者だと認めるというのか。


 それに、荒事は望むところだった。

 ローザリッタが剣の修行を始めて八年。かねてより己の剣技が外の世界でどれだけ通用するのか、もっと言えば自分がどれくらい強くなったのか、ずっと確かめてみたいと思っていたからだ。しきたりである武者修行の旅は彼女にとって、まさに打ってつけの試練だと言える。


 いよいよ、その念願が叶う時だ。行き場のない熱量に(さいな)まれ、居ても立ってもいられなくなった彼女が、目覚めて早々、部屋を飛び出したのも無理のない話だろう。


 何も今すぐ旅立とうというわけではない。儀式を終えるまでは自分が未成年であるということくらい重々承知している。だが、胸裏に激流のごとく押し寄せる期待感をどうにか発散させないと、本当に飛び出してしまいそうだった。


 ローザリッタが目指しているのは、いつも鍛錬に使っている裏手の森だ。

 歩いて四半刻(約30分)ほどの距離ではあるが、この昂った気分では靴を履くのももどかしく、玄関から出るのさえ(わずら)わしい。


「おっと」


 曲がり角から人の気配。自分を起こしに来た侍女だろう。

 見つかったらいろいろ面倒だ。

 瞬時に方向転換。縁側を跳び出し、裸足のまま中庭へ躍り出る。


 音もなく着地。すぐさま、地を這う虫を(ついば)んでいる小鳥たちを追い散らしながら中庭を突っ切り、そして――()()()()()()()()()()()


 もしも(へい)に自我があれば、己の存在意義に疑問を感じて旅に出たかもしれない。


 それほど鮮やかな、そして常識からかけ離れた凄まじい大跳躍(ちょうやく)だった。


 ゆるい放物線を描きながら宙を舞うローザリッタを、地平線から顔を出したばかりの朝陽が出迎える。


 照らし出された彼女は、太陽に負けず劣らず輝かしい。

 風にはためく黄金色の髪。活力に満ちた空色の瞳。磁器のように滑らかで、絹のように白い肌。まだ幼さの残る容貌(ようぼう)と小柄な背丈に反して、ゆったりした寝巻の上からでも見て取れるほど、その体つきは起伏に富んでいた。


 その美貌が血筋に()るものなのは一目瞭然だ。


 野に咲く(すみれ)ではなく、品種改良された薔薇(ばら)のごとく何代も積み重ねた貴顕(きけん)の美。いささかお転婆であろうと、血に約束された優雅さや華やかさは四半世紀にも及ばぬ歳月では上書きできない。


「――お嬢様⁉」


 真下から驚きの声が聞こえた。ローザリッタが眼下に視線を向けると、屋敷の夜間警備に当たっていた若い二人組の巡邏(じゅんら)と目が合った。


 ――運が尽きたか。


 いや、巡邏たちは突然の出来事に呆気(あっけ)に取られている。

 我に返るまで数秒を要するだろう。これが敵襲なら目も当てられない大失態だが、彼らもまさか()()()()不審者が跳び出してくるとは思うまい。情状酌量の余地はあった。


 何より、そのおかげでまだ()()()


「おはようございます! お勤めご苦労様です!」


 言い置きながらローザリッタは危なげなく着地すると、ぽかんと口を開けている巡邏たちを尻目に、裏手の森へ向かって颯爽(さっそう)と駆け出した。





「……見たか?」


 あっという間に小さくなった背中を見ながら、巡邏は声をひそめて相方に問う。


「……ああ、白だったな」

「え? そっち?」

「そっちじゃないなら、どっちだよ」

「どっちってそりゃあ……めっちゃ揺れてただろ。ありゃあ、下に何もつけてないと見たね。また合わなくなったのか。ご立派に成長されて喜ばしいことだ」

「しまった。見落とした。純白があまりにも破壊力がありすぎて……」

「……いずれにせよ、無防備だよなぁ」

「こういう時、この家に仕えて良かったと心底思う」

「まったく同感だ」


 巡邏たちはしみじみとした面持(おもも)ちで頷く。


「でも、このことは黙っておこうな」

「ああ。不敬罪でお館様に殺されたくないからな。……さてと」


 密約を交わした二人は、気を取り直して警笛(けいてき)を鳴らした。





ここまでお読みいただきありがとうございます!

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※次回の更新は8月3日20時を予定しています。

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