今度は間違えないでね、お兄様
在校生を交えた王立学園の卒業に沸き立つ生徒達のパーティーは、楽しげな雰囲気に包まれていた。そんな中、怒りに満ちた声が会場内に響く。
「マチルダ・ヘルキャット侯爵令嬢!」
マチルダ様を呼ぶ声に振り返ると、私の兄である王子のヘンリーが憤怒の表情で立っていた。お兄様が感情を露にするなんて珍しいと考えながらその傍らに視線を向けると、多くの貴族令息と浮き名を流すメアリー・コックス男爵令嬢が怯えた表情で震えながら立っている。回りにはお兄様の側近の高位貴族の令息が、彼女を守るように立っていた。
「貴女との婚約を破棄する」
お兄様の言葉に会場内はしんと静まり返る。何を言い出すのお兄様と驚きながら、彼らと一人、対峙するマチルダ様に視線を移す。マチルダ様は微笑を崩すことなく口を開いた。
「理由をお聞かせいただけますか?ヘンリー殿下」
流石は貴族令嬢の鏡といわれるマチルダ様だわ。動揺を見せず、微笑みを崩さない。背筋をシャンと伸ばし、お兄様に凛とした声で問いかける姿に、私だけでなく何人もの令嬢が感嘆の眼差しを向けた。
「メアリー嬢を虐げ、その命を狙った。彼女は治癒の乙女だぞ!」
お兄様はコックス男爵令嬢の肩を引き寄せる。まるで恋人のように。私は不快感から、思わず扇で隠している口許を歪ませた。
コックス男爵令嬢は聖女とされる四大乙女の一人である治癒の力を持つ者で、その証に瞳の中にエメラルドグリーンの星が浮かんでいる。他に守護、神託、救済の乙女がいるとされているが、今のところ彼女しか見つかっていない。
乙女は尊い存在だが、婚約者以外の異性に親しく触れるなど許されることではない。お兄様は頭がおかしくなってしまったのかしらと考えていると、マチルダ様は首を傾げる。
「ヘンリー殿下、男を奪われた女が新たな女に復讐するという行為は、慣習的に許容されておりますわ。乙女といえど、コックス男爵令嬢は人間ですのよ」
笑みを深くするマチルダ様に、グッとお兄様はたじろいだ。
この国は一夫一妻制だ。婚約の際に神と参列者の前で互いに愛を育むことと結婚の契りを、そして結婚の際に永遠の愛を誓い合う。その為、パートナーが浮気をした際にその相手に復讐する行為は慣習的に許容されている。パートナーを誘惑する浮気相手は二人の神前での愛の誓いを破らせる悪魔とされているからだ。
コックス男爵令嬢は、お兄様や高位貴族の令息たちと親密な様子を何度も目撃されている。婚約者のいる異性と二人きりで学園内のガゼボや空き教室で話し込んだり、街で連れ立って歩き、買い物やお茶をすることは浮気に相当する。他にもいかがわしい行為をしていたという噂を耳にするのも一度や二度ではなかった。
もし、婚約者のいる令息がコックス男爵令嬢に手を出したのだとしても、それを周りに訴える機会は何度もあった。
抜かりのないマチルダ様のことだ、決定的な浮気の証拠を握っているのだろう。
いくら治癒の乙女でも、婚約者のいるお兄様に手を出したのだ。その命をもって浮気の代償を払うことになったとしてもマチルダ様に何の非もない。
「わ、私は不貞など……!」
「殿下、その手はなんでしょう?」
スッとマチルダ様が畳んだ扇でコックス男爵令嬢の肩に自然と添えられてたお兄様の手を指した。慌ててお兄様はコックス男爵令嬢の肩から手を離すが、側近以外の回りの冷たい視線に気付かない。
恋は盲目とはよく言ったものだ。
「私は神に誓ってあなたを愛しておりますわ」
「ぐ……!」
「悪魔はどなた?」
今まで見てきた誰よりも美しい笑みを浮かべ、マチルダ様は扇の先をコックス男爵令嬢に向けた。神々しささえ感じるその堂々とした姿に誰もが圧倒される。愛の力とはなんて強いのだろう。
「悪魔は貴様だ!悪女マチルダ!」
顔を歪めたお兄様は、いきなりそう叫ぶと騎士団長の嫡子であるラッセル伯爵令息の帯剣を抜き、マチルダ様に斬りかかった。美しい白磁の胸元に剣が呑み込まれていき、そして引き抜かれる。会場内に生徒たちの悲鳴が響いた。
「お義姉様っ!」
私は叫んだ。目の前でマチルダ様は鮮血を散らしながら大理石の床に倒れる。その動きは酷く遅く見えた。私は倒れたマチルダ様に駆け寄りその身体を抱えると、自分の着ているドレスが血に染まっていく様子に血の気が引く。
嫌。嫌よ、お義姉様!
私の大好きなお義姉様!
目を開けて!
「お義姉様……」
真っ白な顔のお義姉様に声をかけるが反応はない。まるで眠っているかのような美しい顔。お義姉様。こんなお別れ、私は嫌です。
「お兄様、私は貴方を許さないわ!」
お兄様は目を見開いて私たちを見下ろしている。カランとその手から血のついた剣が滑り落ちた。回りの側近たちも呆然と立ち尽くしている。
「お前は絶対に許さない!」
コックス男爵令嬢を睨み付けると、半ば放心しているお兄様の後ろにそっと隠れた。か弱い小動物のように震えているが、どこか演技めいたその仕草に頭に血が上る。この女を絶対に許さない。
怒りで沸騰している頭で、お義姉様を殺した奴らをどう処罰してやろうかと考えていると、急に視界が暗転した。
「イライザ様」
私を呼ぶ聞き慣れた声に目を開く。眩しくて手で目元を隠すと、小さな笑い声とカーテンを引く音が聞こえた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
あれは夢だったのかしら。小さくため息を吐いてベッドから起き上がり、見慣れた室内にホッと胸を撫で下ろした。なんて酷い夢だったのと寝汗で張り付いた前髪を掻き上げて、専属メイドのアリスに声をかける。
「おはよう、アリス」
「イ、イライザ様……!」
私と視線が合うと、アリスは目がこぼれ落ちそうな程大きく開いた。その顔に驚いて私も目を丸くすると、彼女は悲鳴を上げながら部屋を飛び出していく。私の顔にアリスの苦手な蜘蛛でもついているのかしら。ベッドサイドチェストの上に置いてある手鏡を手に取り、恐る恐る覗き込んだ。
「え!」
私の瞳に四大乙女の一人、神託の乙女の証である赤銅色の星が浮かんでいる。
「まさか……」
神託の乙女は、夢で神からのメッセージを受け取るといわれていた。私の見たあの最悪な夢が、まさか現実のものになるのだろうか。
そんなの絶対に嫌。
思わず手鏡の持ち手をぎゅっと握る。目を閉じて息を吐いて気持ちを落ち着かせ、手鏡を元の位置に戻すと、私は身支度をするためにベルを鳴らす。早くお父様とお母様に夢の内容を知らせなくてはと、ベッドから立ち上がった。
お兄様たちの醜聞は生徒間だけの噂に留まり、大人たちの耳には届いていないようだった。
私たち王族に影はついているが、彼らは命令されたことしかしない。今のところ、影は私たちの護衛を命令されているので、目の前でお兄様があの女と睦み合っていても、それを王や王妃に報告はしないのだ。
私の大好きなお義姉様、マチルダ様を死なせるわけにはいかない。
お兄様は凡庸な方だ。
だから神童と呼ばれるマチルダ様が婚約者として選ばれた。
マチルダ様はお兄様のことを「凡庸かもしれないけど、優しくて思いやりのある方なのよ。周りの者によく気を配ってらっしゃるし。ほら、オレンジブロッサムの生花の花飾りを私に下さったのよ」と言いながら、嬉しそうに私に真っ白な花飾りを見せてくれた。
オレンジブロッサムは開花時期が短く、生花よりも造花が用いられることが多い花だ。お兄様もマチルダ様を愛しているのだと感激したことを覚えている。
どこでボタンの掛け違いが起きたのだろうか。
あんな夢のような未来は潰さなければ。
部屋に入ってきたメイドたちが私の目を見て驚き固まったが、私は気にせず微笑んだ。
「お父様とお母様にお話ししたいことがあるの。朝の支度を」
メイドたちはひっくり返った声で返事をしながら、私の身仕度を整えるために各々動き出した。
今度は間違えないでね、お兄様。
次は本当に許さなくってよ。
うわなりうちからこの話を書いてみました。
お読みいただきありがとうございました。