現実3
ふと突然、
涙が落ちた。
ケーキを食べ終えて、一息。
紅茶を啜っている時だった。
「……どうした?」
喋るとまた涙が出てきそうで、何も言わなかった。
何も言えなかった。うまく言葉にできなかった。
「千宏」
兄が、そっと抱きしめてくれた。小さな体で。
驚いてマグカップを絨毯に落としてしまう。
残っていた紅茶が、灰色に似合わない茶色の染みを作っている。
「あっ、」
そこでようやくかすれた声が出たが、兄は離してはくれなかった。
ゆるゆると染み込み、そこから茶葉の香りが部屋に満ちていく紅茶。
そんな様子を後目に、兄は、そっと抱きしめてくれた。
何だか温かくて。
何より温かくて。
暫くこのままで居たかった。
ずっとこのままで居たかった。
時間が過ぎないで欲しかった。
この温もりを瞬間が通り過ぎないで欲しかった。
ただただ、兄の背中に腕を回すべきか否か迷い。
ただただ、自分のうなじにかかる兄の吐息に全神経を集中させて。
結局、ぎゅっと抱きしめ返してしまうのは、自分が弱いからだろう。
ごめんね。ありがとう。だいすきだよ。
明日なんか来なくてもいいと、初めて思った、
夏の日。
「翔兄、あのさ―――」
Fin.
もう何年も前に書いた話を、今更ながらに掲載してみます。
こんな兄がいたら、家に帰りたくなるだろうな、と思って書いた気がします(笑)。
当時は若かった。うん、何もかも、若かった。
知っているようで知らなかったことが多かった。いまもそうですけどね。