2日目<上>
翌日、目を覚ましたそこが見慣れた自分の部屋の天井でないことに気づき、まず大声を上げそうになってしまった。慌てて昨日のことを思い出し、周りを見回す。
格安のビジネスホテル。狭い部屋に置かれているのは小さなデスクと座り心地の悪い椅子、それからシングルベッドが一つだけ。黒くて硬い椅子に身を預け、キョウヤさんは目を瞑っていた。どうやら眠っているらしい。どうせ寝るならベッドは譲り渡せばよかったと、少し申し訳ない気持ちが湧く。
起こした方が良いだろうか、と悩みながら、眠る彼の姿を観察する。手入れをしている様子がないのに、艶のある綺麗な黒髪。こういう時、物語の中でなら「意外と睫毛が長いな」なんてドキッとする場面なのかもしれないが、生憎キョウヤさんの見た目は平々凡々。睫毛が長くてときめくこともないし、なんなら少し開いた口の端には涎の跡がついていた。まるで犬の寝顔だ。
収まりの悪い椅子に三角座りをしている姿を見る限り、とても寝心地が良いようには思えないが、これが彼の癖なのだろうか。私ががさがさと動き回る音を立てても、身じろぎひとつしない。
彼のつむじを見ながら、昨日の出会いが夢でなかったことをようやく頭も認識し始める。
昨日、私は死んだ。別に失敗することもなく、きちんと死ねた。だというのに、私の意識の一端が肉体に意地汚くもしがみついたせいで完全に死にきれず、私は7日間という新たな時間を与えられた。
死ぬために生きる。死ねなかった未練を探して、今度こそ自分を殺す。なんとも変な話だが、事実昨日も普通にフロントマンは私を認識していたし、今だってこうしてベッドに触れている感覚がある。何より今、こんなに近くにその変な話をしてきた張本人が眠っているのだ。いい加減、私も現実を受け入れなければならない。情けなくも大泣きしてしまった後ろめたさも、きちんと受け止めて反省しよう。
時計が示すのは朝の7時。チェックアウトは10時と言われているため、まだ十分な時間があるが、悩んだ末に昨日の「我慢だけはせずにいろ」という彼の言葉を思い出した私は、早く未練探しに行きたいという自分の気持ちを優先させてもらうことにした。
「キョウヤさん、起きてください」
小さく椅子の中で丸まっているキョウヤさんの肩を揺する。踏まれた蛙ならこんな声を出すのだろうか、と思わせるような呻きがキョウヤさんの半開きの口から漏れ出る。しかし、起きる様子はなかった。
「キョウヤさん」
もう少し大きな声を出し、肩も強めに叩く。ようやくキョウヤさんは膝から頭を上げ、固い瞼を開いた。
「…んあ」
不機嫌そうに眉根をぎゅっと寄せ、薄目でこちらを睨みつける。寝起きの悪さはこれまでの会話や雰囲気から想像こそできていたものの、その程度が完全に予想を超えてきている。
「朝です。未練探し、行きましょう」
「……んやだ」
発音がはっきりしないせいでうまく聞き取れないが、拒絶の意思だけははっきりと感じられた。寝起きが悪いだけなのか、本当に行きたくないのか、と考えて、おそらくそのどちらも本音であろうと結論づける。
「……昨日言いましたよね、手伝ってくれるって」
「いってない」
「ええ……昨日のは嘘だったんですか……」
早く未練を解消させた方が、キョウヤさんの負担も減って良いのではないだろうか、と思いながらも、心細さが急に胸の中で膨らむ。ここでだらだらしていたところで、7日間にも及ぶ面倒が減るわけがないのに。まあ、その面倒を背負わせている私があまり強く言えることではないが。
「……渚」
一人で出て行ったら正気に戻った彼に怒られるのではないだろうかと思ったので、そろそろ椅子から叩き落とすくらいのことまではしないといけないか、と考えていた時だった。おもむろに、キョウヤさんに名前を呼ばれる。
「なんですか?」
「……」
彼の肩を揺するために腕を差し出したその姿勢のまま見下ろすが、キョウヤさんはなかなかそれ以上の言葉を発しない。ただ眠たげに半目でこちらを見上げるだけ。何かまだ続くのだろうかと待っていると、のろのろと彼は片腕を上げた。力の入っていない手で、私の指先に触れる。
まるで壊れ物に触るかのような繊細さ。力が入っていないのだから、却って重力に任せた雑な触り方をしてくるものだと思っていたが、神経の全てを集中させているとでも言いたげに、彼の指先は緊張していた。昨日私をあやしてくれた時に触れた感覚とは全く違う。
優しいとか甘いとかそういうものではなく……不安げで、彼の方が何かに怯えているような触れ方だった。
「……もう、いくな」
行くな? 勝手に行くなと諫められているのだろうか。一応こちらも最低限の義理は弁えているつもりなので、「俺の言うことをちゃんと聞け」という昨日の指示には従うつもりでいる。だからこそこうして今、単独行動を慎み彼を起こしているというのに。
「……キョウヤさん?」
沈黙と彼の奇妙な行動に耐え兼ね、名前を呼ぶ。キョウヤさんは何度か瞬きをしてからふと自分の手に視線をやり、一気に驚いたように体を伸ばした。その勢いのせいで硬い椅子の肘掛けに思い切り体を打ちつけてしまい、「っでえ!」と情けない叫び声が飛び出す。
「何してんだ!」
「いやキョウヤさんが……寝ぼけて……」
「俺かよ!」
昨日の気だるげなキョウヤさんからは想像もできないような大声と、勢いづいた動作。完全に目が覚めたようなのは良かったが、彼自身も今の言動に説明がつかないようで、戸惑っているのがありありとわかる。
「……キョウヤさん、意外と人恋しくなったりするタイプですか」
「いや……違う……これはそうじゃない……忘れろ……」
まるで昔の恥ずかしい思い出を掘り起こされた人のようだ。頭を抱えて「忘れろ、忘れろ」と何度も繰り返している。だんだん可哀相に見えてきてしまったので、興味を惹かれながらもそれ以上その話を続けることはやめた。
「その、私、そろそろ外に出たいなって思って……」
「ああ……そう……そうだったな。わかった、あー……3分待て」
時計をちらりと確認してからそう言うと、キョウヤさんは本当に3分で身支度を整えてしまった。ぼさぼさの髪に寝癖直しをスプレーし(彼の荷物にそれが入っていたことが驚きだ)、顔を乱暴に洗って乱暴にタオルで拭く。服は私が寝ている間に着替えていたらしい、ワイシャツとジーンズではなく、首元も袖もよれよれになった皺だらけの白いTシャツに、これまた腰のゴムが緩み切った黒いジャージを履いている。
「あー、じゃあまず実家付近に戻る」
「……え?」
唐突に帰省を宣言され、思わず頷く前に変な声が出た。まずは親への別れでも済ませろ、と言いたいのかもしれないが、初日からそんなに文字通り飛ばしていくとは思わなかったので、不意をつかれた。
「なんだ、飛行機はとってあるぞ」
「い、いえ……てっきり初日はこの辺りを動くのかと思ってたので……」
「ああ。何か特別思い当たることでもあるか?」
「……そういうわけではないです」
「ならついてこい」
言うことには従えと言われているし、別に彼の案に反対するつもりは最初からない。私は簡単に「お願いします」と頭を下げた。
ホテルのチェックアウトを済ませ、ホテルから出る。「代金は…」と財布を出しかけた私の緩慢な動作は、「急げ」という彼の鋭い言葉にあっさり殺された。駅前のバス乗り場には空港行きのバスがちょうど着いており、キョウヤさんは迷うことなく二人分のチケットを買い、中に乗り込む。
「発車は5分後だ」
「それも調べてあるんですか?」
「当たり前だろ」
言葉少なに答える彼の口調から、「余計なことを話しかけるな」という言外の戒めが聞こえてきた。調べてあったにしては寝起きの悪さが異常……というか、私があそこで起こしていなかったらどうするつもりだったのだろうか。
ただここは公共の空間、特にバスの中という、会話が特に周りに聞こえやすい環境だ。色々と思うところはあるが、不用意な口を叩かないよう、私は頷くとともに目を瞑ることにした。眠くはないが、寝ているふりをして会話のない気まずさから逃れようとしたのだ。
イヤホンでも持って来れば良かった、と心の中で愚痴を吐いた後すぐに、スマホを持ち歩けないならそれも意味がないことを思い出す。スマホを持てないなら、本の一冊でも持って来れば良かった。少し考えれば長距離の移動が必要になる未来など簡単に見えただろうに。
発車したバスの速度が異様に遅く感じる。これを実家に戻る飛行機の中でも繰り返さなければならないのかと思うと、もう気が遠くなりそうだ。
「……ほら」
目を瞑ることにも早々に飽きてしまった私を見かねたのか、その時キョウヤさんがこちらに文庫本を差し出してきた。聞いたことのない日本名の作家が書いた、見たことのない本だった。
「暇だろ」
「……キョウヤさん、こういうの読むんですか」
裏返してあらすじを眺めると、どうやら人魚と人間の恋愛ストーリーらしい。恋愛小説を読むキョウヤさんの姿が想像できなかったので、思わず疑問が口をついて出た。
「読むよ」
返事は相変わらず短い。別にこの程度の雑談、何の問題にもならないだろうに。
「キョウヤさんの暇潰しはあるんですか?」
「俺は俺で本持ってるから」
「じゃあ……ありがたくお借りします」
一言お礼を言ってから本を受け取る。
舞台はどこかの国の架空の港町。主人公は平凡な高校生の女の子。満たされた人生を送りながらも、どこか物足りなさを感じている彼女が足繁く通うのは、人気のない夜の海。誰もいない凪いだ海面を、月明かりを頼りに眺めるのが好きだった彼女の前に、"人魚"はある夜突然現れる。陸に憧れ何度も港町を隠れて観察していた、と言う彼と主人公は当然のように惹かれ合う。
まだ若い彼らは、自分たちの想いに疑問など一切抱かず恋心を育てていくが、そこには"異種である"故の越えられない壁があり……。
ストーリーはありきたりながら、幻想的で魅力的な話だった。こういう"どこかにありそうでどこにもない"話は好きだ。乾いた私の人生に、一筋の希望を与えてくれるような気がする。つい、私にももしかしたらこんな恋をした人生が存在しえたのかもしれない、と夢想する。とはいえもうその人生も、全て終わっているものではあるが。
とにかくじっくりと読み進めているうち、二人が静かな夜に語らう良いシーンで、バスは目的地へと着いてしまった。
「これ、面白いです」
「良かった。一週間ずっと貸してやるよ」
短いやりとりの中でも、キョウヤさんは相変わらずのスピードで搭乗券を私に渡し、保安検査のゲートを通るよう促す。出発時間まではあと25分。田舎の空港では混み合って手続きが進まない、などということの方が稀だが、それにしても結構ギリギリなスケジュールで動いている。
財布と本、それから最低限の身嗜みセットが入った小さなショルダーバッグだけを持った私と、私の鞄よりワンサイズ上げただけの、これまた小さなショルダーバッグを荷物検査に通すキョウヤさん。言葉を発さずとも、その身軽さを見た周りの人から既に少し不審な目で見られているのを感じていたが、まるで気にしていない様子の彼に倣って、私も涼しい顔をして飛行機に乗り込む。
向かうは羽田空港。そこから更に電車を乗り継いで、都心から少し離れた実家の最寄駅が次の拠点となるそうだ。
始めはどうなることかと思った道中も、人魚たちのお陰で持て余さずに済んでいる。余計なことを言うなと先に言われていたのも、沈黙を気にせずいられると思えば却って良かったのかもしれない。抱えていた不安がたいしたことないものだとわかるにつれ、私の気持ちもだんだんと寛いでいく。
数時間後、無事飛行機は羽田空港に着陸した。出発してきた田舎の小さな空港とは比べ
物にならない人の往来。店の数も空間の規模も、全てが段違いだ。幼い頃、旅行に行けないならせめて気分だけでも、と母が初めて飛行機を見せに連れて行ってくれた時、空を飛ぶ大きな鳥がいる、と子供心にはしゃいでいたことを思い出した。就職が決まり、配属先が行ったこともない田舎の支店だと聞かされた時には、寂しさと不安を抱えてこの通路を通ったものだ。半年に一度必ず帰省しては、同じ道を通って安心していた。
それが今は────不思議な感覚だ、としか言えない。一度全てを捨てて死んだはずなのに、私はまたここにいる。頭ではこれが済めば、この日の記憶も含めて全てを失うのだとわかっている。それでも、見るものすべてを目に焼きつけたいと本能が訴えているかのように、つい辺りを見回してしまう。
「目立つぞ」とキョウヤさんがわざわざ言ってくるまで、私はきょろきょろと不自然に空港内を観察していた。
それから空港発の在来線に乗る。交通系ICカードを登録していたスマホは置いてきたので、キョウヤさんに言われて切符を買った。頭上の路線図を見ながら値段を確認するなんて、何年ぶりだろう。慣れない手つきで画面を操作し、紙の切符を手に取ってから、それを通せる改札を選んで入場し、構内のホームで発車を待っている電車に乗り込んだ。
3分後、時間通りに出発した電車に揺られながら、私は残りのページが僅かとなった文庫本を開く。キョウヤさんはイヤホンをして、音楽を聴いているようだった。無言の時間は続行する。
やがて本を読み終えてしまった私は、満足感に浸りながら窓の外の風景に目をやる。人魚と主人公が迎えたあの結末について、キョウヤさんは何を思ったのか後で聞いてみよう。そう考えているうちに、そろそろ乗り換えるべき駅が近づいてきた。見たことのある建物が瞬時に過ぎ去っていく様をぼんやりと見ながら、本に描かれた切ないラストシーンへの感情が徐々に薄れ、そうして私の思考は次に「本当に私は死んだのか」、と何度も考え尽くしたはずの議題へと再び移っていた。
私は死んだ。死んだのに、家に帰ろうとしている。私が今ここにいるのは誰の目から見ても明らかで、私が今見ているものもみんなと同じ、実在する世界。しかし、本物の私はここにいない。だって、死んでいるから。
……考えれば考えるほど、こんがらがってくる。
「着いたぞ」
キョウヤさんの声で、はっと我に返る。いつの間にか乗り換えるべき駅に着いていた。ここからはもう数駅で、実家の最寄駅まで辿り着く。てきぱきと歩いていく彼の後ろをたどたどしくついて行きながら、私はまだぼんやりとした心地のままでいた。
随分慣れているように歩いているが、彼は何度もここを通っていたのだろうか。私のように未練探しを手伝わせる例はなかなかないという話だったが、なにしろ彼の仕事がどこでどう行われているのか、まだ私はよく知らない。乗り継ぎのため待っていた電車に乗った後も、吊革が余らない程度に混んだ車内でうまく隙間を縫いながら場所を確保する彼の姿は、とても特殊な任務を負った人外種には見えない。
十分と経たないうちに最終目的地へと着いた。再び私は、後がつかえないかとひやひやしながら切符を改札に通し、駅の外に出る。
「……」
────ああ、ここだ。私の過ごしてきた場所。数年前まで、確かに毎日通ってきた場所。懐かしさに、思わず胸が熱くなる。よく考えた末の選択として命を捨ててきたはずだったが、ずっと何も変わらないこの駅前の風景は、春の温かい日だまりや爽やかな風と一緒に、文字通り未練がましく帰ってきた私を、それでも優しく迎えてくれているようだった。
「行くぞ」
私が何を言うより早く、キョウヤさんが急かしてくる。そうだ、ひとまず人のいない空間に行かなければ、私は口を開くことすら許されない。
駅前のビジネスホテルに入ったところで、「ここで待ってろ」とロビーのソファに座らされた。キョウヤさんは1人でフロントへ向かい、宿泊手続きを済ませてくれる。程なくして従業員の人の深い礼に背を向けると私の方を見やり、小さく手招きした。
エレベーターに乗って、3階まで。今回も2部屋とったようで、彼は2つの鍵のうちのひとつを私に手渡した。
「動けるようなら、俺の部屋に直行で」
「大丈夫です」
私の持つ鍵に印字された番号の、隣の部屋。中に入って鞄を置いたところで、思わず深い溜息をついてしまった。
「長旅で気疲れしたか?」
「はは……少しだけ……」
今の体が特殊な器だ、という彼の言葉は本当だった。7時過ぎに出発してから約5時間。いつもなら早朝からこんな風に長時間も移動すれば、体のあちこちが痛み、すぐに眠りにつこうとしていたはず。それが今は、肉体的な疲労感が全くないのだ。今あるのは、ずっと喋ってはいけないと自分に言い聞かせてきたことによる心理的な圧迫感と、少しの郷愁感だけ。
「お前にはほとんど口を開かせなかったけど、不調はないか? 故郷を見て心が乱れたりとか」
「ああ……懐かしいなとは思いますけど……死んだ事実は、もう受け入れたので。ただ、却ってそれを受け入れた以上、確かに少し変な感じはしますね。この世界にもういないのに、知覚される"存在"としてここにいることが」
私の感想は、彼を満足させるものだったらしい。
「お前は賢いな。それが正しい反応だよ」
そう言って鞄の中からメモを取り出す。昨日ホテルで書き出した未練候補リストだ。
「お前の死は昨日の夜に、自宅でちゃんと確認された。相当真面目だったらしいな。遅刻して連絡もつかないお前を心配して、早々に会社側が捜索届を出してた。もちろんそれにあたって、実家にも連絡が行ってる。終業後になってもまだ見つからないっていうんで、大家に事情を話して上司が家を開けたそうだ。可哀想なこった、死体なんて見慣れてないだろうに、ドア開けたら首吊り人間がドーン、なんて相当トラウマになったろうな」
「私、死体はあんまり汚くならないようにしてたつもりです」
「そういうことじゃないんだけど……」
実際の自殺現場は見たことがないので、残念ながら上司の心情を察することはできない。ただ確かに、子供の頃に棺桶の中で見た親戚の死に顔は、最初から死んでいるとわかっていても、平常心を保って見続けることが難しかったような気がする。不自然なほど白い肌の色と、冷たい上に硬い感触。眠っているようだ、などとみんなは言っていたが、私にはそれがとても睡眠をとっている人間の顔には見えなかった。
「ここにはもういない」。「この人は二度と起きない」。"死"という複雑な概念を、あの頃の私はそう簡単な言葉で捉えていた。命のある自分と命のないこの人は、全く別のモノだ。幼心にはその感覚が、気味悪いとすら思えていた。
そうか、上司は"生きている"と思って部屋に入り、あのなんともいえない"死"のおぞましさに直面してしまったのか。できるだけ綺麗なまま保っておけるよう手を尽くしたとはいえ、申し訳ないことをしたと思う。悪い夢にでも出てしまわなければ良いのだが。厳しい人だったが、尊敬していた。
「てことで、遺体はまだあっちの家にあるものの、今搬送の手続きが進められてる。数日かかるかもしれないけど、警察医が書類を発行してくれさえすれば、お前の本体は本当の意味でちゃんと実家に帰れるからな」
「はあ……」
安心しろ、と言わんばかりの口調だが、そう言われても私の意識は仮の肉体と一緒に一足早く帰ってきてしまっているので、あまり実感がない。
「2、3日はここにいるとして……親御さんはまだ多分お前が死んだって全く受け入れられてない状態だろうな。下手に行くとパニックを起こして道連れにしかねないから、ひとまず今日は実家には帰らない方が良い」
「なるほど」
道連れとは、私と親が同時にパニックを起こすという意味だろうか。それとも本当に文字通り親までショック死させてしまうという意味だろうか。どちらにせよ、キョウヤさんの言葉は正しいと思う。
死体すら見ていないのに突然、「娘さんが自殺しました」と言われたところで、とても私の両親は受け止めきれないだろう。そんなところに私が「幽霊です」なんて追い打ちをかけるように現れたらどうなるか。コメディ映画も凌駕するほどのパニック騒動になるに決まっている。
「半日くらいで検視が終わることを願って、親への挨拶は明後日くらいになると想定しておこう。俺のところには同僚からリアルタイムで情報が入るから、遺体の搬送が終わり次第すぐ伝える」
……それにしても本当に、無理やりにでもこの人に援助をお願いしておいてよかったと思う。これを私一人でやれ、と言われていたら、きっと昨日のうちに飛行機に乗って実家に着き、まだ死んだことすら知らない親にとどめを刺していたかもしれない。そもそも、そんなところまで頭が回らないことの方が普通なのではないだろうか。ろくに情報も状況も見えないまま、一人で現世を彷徨う自分の姿を想像したところで、7日間の猶予期間が慈悲などではなく新手の拷問に思えてしまった。
天使制度も、もう少し死者に手厚い保護ができるよう改定した方が良いのではないだろうか。
「だから今日は買い物だな。パーっと買って、それから夜景の綺麗な高いところに行く」
「高いところ……スカイツリーとかですか?」
「そんなとこ。あの辺なら散歩にも向いてるし」
初日からそんなにお金を使ってしまって良いのだろうか。後先考えずにする買い物は確かにやってみたいことではあったが、後日それでお金が足りなくなる方が困る。
「移動やら宿泊やら、未練探しに必要な資金であれば、ある程度はこっちからも支給されるから安心して使い切って良いぞ」
すると、私の不安を読んだのか、キョウヤさんが先に答えを与えてくれた。昨日から現金を持たせておいて使わせてくれなかったのはそういうわけか。
「支給って……どこから?」
「俺らの……うーん……現世で建てた会社」
「天使って会社建てるんですか? というか、そもそも天使の使ってるお金って……大丈夫なんですか、それ。偽札とか嫌ですよ、私……」
「あー……そういうのも気にするのなお前は…」
彼にとってはまた面倒な説明になるらしい。申し訳なく思う方が面倒になりそうな頻度だ。自分の知識欲を初めて恨みながら、それでもきちんと話してくれるキョウヤさんの律儀さに感謝し、私も素直に耳を傾ける。
「見てわかったと思うけど、普段は俺らも普通に人間として生活してる。というか、俺たち天使の役割は人間を死なせることだけじゃない。職業……って言い方をすればわかるか? 人間を死なせる職以外にも、人間が現世で滞りなく未練を解消するために必要な処理をする職業があるんだ。俺たちの仲間には、現世に入り込んで、うまくその辺の生命循環システムが機能するよう動いてる人間モドキもいっぱいいる。そういうやつらには、ちゃんとそれっぽい経歴も与えられて、普通に企業を立ち上げて金を集めてる。その従業員の給金の一部が、お前たちの資金源になってるってこと」
……簡単に言ってくれるが、そんなものが実在したら、あらゆる法に引っかかるような犯罪者集団になるのではないだろうか。
「……今現世の法のこととか考えたかもしんないけど、これは俺らがお前らを確実に殺すために不可欠なシステムなんだよ」
「会社の事業内容まではもう怖いので聞きませんけど、嘘の経歴を作るってそもそもできるんですか? なんだかまだ偽札を作る方が、余程現実味のある話のように思えるんですが」
「できるよ。簡単な話に落とし込むなら、スパイ映画でも似たようなことがよくあるだろ。それにそうまでして本物の金を流す理由なんて……それこそ、もう少し考えられるだろお前は。どれだけ今執行猶予者が現世に蔓延ってると思ってるんだ」
言われた通り、言葉の意味を頭の中で噛み砕いてみる。現世にいる幽霊たちに偽札を配るより、あらゆる偽造書類を使って"人間"に擬態し、会社を興してでも本物のお金を流通させた方が得な理由……。
……確かに考えれば、すぐにわかることではあった。しかしその結論は、私の予想を嫌な方向に裏切るものでもあった。
「……無茶なインフレが起こるくらい偽札が横行するハメになるってことですね。経済効果に配慮してるのか、偽札に対する検挙が増えるのを恐れているのかは知りませんが」
「両方だな」
「でもそれってつまり……未練を残してる幽霊がその辺にうじゃうじゃいるってことになりますけど……」
一国の経済を傾けるほど流通するお金と、それを遣う膨大な数の死者。一体私がこの人生ですれ違ってきた人のどれだけが"本物の生者"だったのだろう、とつい考えてしまう。
「まあ俺たち自身の生活資金を作るため、ってのもあるけどな。とにかく天界を回すためには莫大な金が必要で、そのお陰で執行猶予者は金の心配をしなくて良い、ってことだけ覚えとけ」
「……でもそれだけのお金を生み出せる企業ってことは……いやもちろん一社だけとは限りませんけど……相当大きな会社なのでは……?」
「お前、さっき怖いから事業内容は聞かないって言ったたろ。俺もその方が良いと思うよ。誰でも知ってる企業の社長や重役が人外だとか、死んだ後とはいえあんまり聞きたくないだろ」
都心を彩る高層ビルの数々を思い出す。あの中のいくつかには、彼らのような天使が私たちの救済のために作った会社もあるのかもしれない────。そういうことなら確かに、私の心の安寧のためにこれ以上踏み込まない方が良いだろう。
「とりあえず、お金については助けてくださるということはわかったので、あとは全て忘れて買い物に集中したいと思います」
「お前は本当に賢いな」
キョウヤさんは皮肉げな笑みを浮かべながらも、満足したような口調で褒めてくれた。
「それから、改めて外での会話についてだけど……、昨日も言った通り、俺たちの会話はどうしても不自然になりやすいから、今後も立場ありきの素直な発言にはよく注意するように。でも、そればかり気にして公共の場で全く会話がないのも、それはそれで不自然になる。ここまではわかるな」
「はい」
「だから、外では俺のことを恋人って扱いにしとけ」
え。
「友達とかじゃなくて、ですか?」
キョウヤさんの言いたいことはわかるが、なぜそこで知り合ったばかりの私たちが、恋人などという一番距離感の近い関係を繕わなければならないのか。第一私は、好きでもない人との恋人ごっこのやり方など知らない。
「友人でも良いけどお前、俺たちは1週間寝食を共にすることになるんだぞ。普通に考えて旅行してる恋人の方が設定として滑らかだろ」
────言われてみれば、それもそうかもしれない。
「無理にバカップルを演じる必要はない。接し方は友達と同じで良いよ。ただこの関係の名前を仮称として"恋人"って言うだけだ。それならできそうか?」
なるほど。恋人だなんて言い方をされたために大仰なものを想像してしまったが、結局は友達と同じで良いのか。確かに同世代の男女が「今晩泊まる部屋がさ」なんて言いながら「友達です」と主張してこようものなら、色々とその関係を探られかねない。もちろんそこまで深い会話をするような場面もないだろうが、便宜上の設定としてその提案は妥当なものに思えた。
「だから今後俺には敬語を使わなくて良いし、昨日も言った通り遠慮は一切せずに連れ回せ。俺はマジで気が乗らないけど、引き受けた以上はちゃんと付き合うから」
「マジで」の部分をやけに強調された気はするが、むしろこれは仕事だと言い切ってくれることで遠慮しなくて良いのだと思えるようになるので、彼の言い方にはむしろ感謝の念を覚えた。
「ありがとうござ…ありがと」
「よし、他に不明点は?」
不明点。そういえば、ここに来るまでずっと抱いていた小さな違和感が、先程ちょうど明らかな疑問点に変わったばかりだった。
「……随分現世の生活に溶け込んでるみたいだけど、キョウヤさんは何か特殊な力を使ったり日常でぶっ飛んだようなことする時ってある?」
「ない」
清々しいほどの即答だった。
「とりあえずわかりやすいように、と思って最初は天使って名乗ったけど、生態としてはほとんど人間と同じだからな。まあ、あえて言えば俺たちは生まれた時から死ぬ時まで見た目が変わらないっていう違いがあるけど……現世で人間に紛れて働いてるやつならともかく、ひとまず今のお前にそれは関係ないしな。別に空を飛ぶこともないし念力も使えない。基本的に生活もこっち側でしてるから、文化やマナーにもちゃんと慣れてる。お前がビビって変なこと口走るようなことはないから安心して良いよ」
簡単に「人間と同じ」だと言うが、生まれてから死ぬまで見た目が変わらない時点で全く同じではない。何より私は、最初に会った時の彼の説明の数々を決して忘れていなかった。この世とあの世をつなげることができたり、死んだ人間に別の肉体を用意してみせたり、そんなことができる時点で、彼らは人間と根本的に違う。
本人が何と言おうと、自覚していないところにまだ人間離れした機能が何かしら備わっていてもおかしくないのではないだろうか。
「…ペンギンは空を飛べないし、アンコウは海を泳がない。生きていくためだけに必要な機能以外備わっていないのはどの生き物にも共通だろ。疑ってるようだけど、俺たちは寿命の長さが数百年くらいあることと、見た目が死ぬまで変わらないこと、それから人間が死ぬ時にそれを導く手段を持ってること以外、何もお前たちと変わらないよ」
キョウヤさんの喩えはよくわからなかったが、これ以上問答を繰り返したところで何も理解できないだろうと判断し、私は疑問を呑み込んだようなふりをした。それより、さらっと言われてしまったが、この人たちは見た目が変わらない上に数百年も生きなければならないのか。それもまた大変なことだ。
「じゃあ早速……うーん、新宿辺りにでも行こうか」
「また随分庶民的だな」
「生前もそんなにお金を持ってたわけじゃないからね。身の丈に合ったおしゃれをしたいなって」
「なるほど、わかった。そういうことなら新宿に行こう」
そこで渋谷って言わないのがお前っぽいな、とわかったような口を叩きながら、キョウヤさんは部屋の扉を開けて私に外へ出るよう促した。