1日目<上>
あれ、これ"うち"じゃない。
目が覚めて最初に私がしたことは、冷静な現状分析だった。
さっきまで私は、確かに住み慣れた自宅にいた。約三年前に会社からの辞令で引っ越してきた田舎のマンション。田舎とはいっても全国転勤ができるくらいには大きな会社の支店の近くで借りた部屋なので、常に近所は人の気配でそれなりに明るかった。家の前にはコンビニだってあるし、十分くらい歩けばターミナル駅と併設された百貨店にだって行ける。しかしその十分を今度は車で乗り過ごすと、あっという間に周りを畑と森に囲まれてしまい、民家はみんなまさに土地を持て余していることがはっきりとわかるほど大きなものばかりになる。そこそこの都会から出てきた私が住んでいたのは、そんな半端な田舎町だった。
緑豊かと言えば聞こえは良いが、享年二十五歳だった年若い自分にとっては少し物足りない街。それでも、海も山も近くにあり、住めば都という言葉がちらつく程度には馴染んでいた街。そんな街中にある築浅のマンションの、五月の陽光が柔らかく中を照らす角部屋の真ん中で、私はついさっき首を吊ったばかりだった。
そう、私は確かに自ら命を絶った────はず、だった。
わざわざこのためにエクササイズ用のぶら下がり器を買った。そこに縄を、何度も練習した絞首刑用の結び方で括りつけた。遺書も書いたし、体からあらゆる汁が出ると聞いていたのでその対策も講じた。
何か惜しむことがあるとすれば、この人生の中に一日でも死にたいと思わずに済む日があれば良かった、ということくらいか。そんな悲しすぎる辞世の想いを胸に、私は縄の穴に頭を突っ込んだものだった。
それなのに、私は今ここにこうして意識を保ってしまっている。失敗したか、と一瞬嫌な予感が脳裏をよぎったが、それならば私は今、自分の部屋にいるはずだ。外れた縄を間抜けに体に巻き付けて、天井でも見上げながら予想通り体の穴という穴から汚い汁でもまき散らしているはずだ。
それがどうだろう、と改めて自分の置かれた環境を確認してみると────そこは、我ながら間抜けな感想だと思いつつ、"空の上"と表現するのが一番相応しい場所だった。寝転がっていることで全身に触れている接地面の質感は、綿のように柔らかい。そして視覚に映る風景は、よく晴れた日の青空にとてもよく似ていた。
本当にそれだけ。それ以外には、何もなかった。
ようやく気だるい身を起こし、周りを見回してみる。やはり何もない。誰もいない。幽霊などという非科学的なものを信じた試しはなかったが、死んだその時の現場に自分がいない以上、まさか本当に死後の世界なんてものは存在していたのだろうか、と考えざるをえなくなる。
しかし、それならこれから私はどうしたら良いのだろう。死にたかった、生きていることにどうしても耐えられなかった、だから私は全てを捨てる覚悟を決めて逃げてきたのに。その先にあったのは、死ぬ前より遥かに大きな不安感だけだ。
そういえばどこかで、自死を選んだ人間は天国にも地獄にも行けず"無"を永遠に彷徨い続けると聞いたことがある。幽霊同様、天国も地獄も生きている人間が勝手に生み出したただの御伽噺だ、と鼻で笑っていた私だったが、今更になってそれは実在したのではないかと怖くなってくる。
僅かな喜びがありながらそれを遥かに上回るほど重い苦しみに耐え続けることと、苦しみが全くない代わりに喜びも全くない場所にひとりぼっちで居続けること、そのどちらの方が辛いのだろう。生きることそのものが既に拷問のようなものだったというのに、死んでなお罰を受けなくてはならないとは、人間の"生"とはどれだけ正義たるものなのだろう。立ち上がる勇気もないまま、そんなことを考えているうちに、じわりと涙が滲んできた。
そのままどのくらいの間、ひとりで恐怖と絶望に震えていたことだろう。涙もいい加減枯れた頃、私の頭上から突然白い光が差し込んだ。
綺麗な空の青色に慣れていても眩しい、まるで夏の日差しのような一筋の光は、僅かな時を費やした後で唐突に消えた。そして光が差していたその場所には、一人の男性が立っていた。
「うわ……またかよ……」
明らかに文句とわかる言葉を低く呟くその人は、まるで神様のような現れ方をした割に、ごくごく普通の出で立ちをしていた。細身で、160cmの私より背が少しだけ高く、黒々とした瞳を持った、至って平凡な…日本語を喋る日本人だ。思わずどこかで会ったことがありませんか、と訊きたくなってしまうくらい馴染みやすい顔をしている。あえて特筆すべきことがあるとするならば、彼はとても綺麗な黒髪をしていたということ程度か。年も私と同じほどに見えるし、服装も白いワイシャツにジーンズという、どこにでも売っていそうな、安上がりな格好だった。
「お前、自殺したのか?」
彼の問いは唐突だった。その眼差しはあまり友好的なものではない。私にそれを尋ねることが、もはや苦痛であるとさえ言えるような口調だった。
「……その、ここは……?」
ここはどこ。あなたは誰。どうして私の前に現れたの。彼の質問に答えるより先に、訊きたいことの方が先走る。
「ここは死に損ないの来る場所だ」
自分の質問に対応する言葉がすぐ返ってこなかったことに、彼はわかりやすく不満そうな顔を見せていたが、それでも渋々答えてくれた。
死に……損ない? "損なった"ということは、私はもしや、自殺に失敗してしまったのだろうか。
「私……死ねなかったんですか。じゃあここって、」
「いや死んでる。だけど……言っただろ、ここは死んでも死にきれなかった半端者が来る所だって」
死にきれなかった半端者。生と死の狭間……とか、そんなところだろうか。────たとえば、病院の集中治療室で意識を失っている人が見る夢をイメージする。ここはそんな、ありがちなドラマに出てくる設定のような場所だとでもいうのだろうか。
死後の世界に来てしまったかも、と不安で泣いていたことなどすっかり忘れ、私は彼の言葉に対して猜疑心を隠そうともせず、顔をしかめる。
「それで? お前は自殺したのか?」
そうだった。慌てて先に質問されていたことを思い出し、こわごわと首を縦に振る。
「自殺……しました、はい」
すると、彼は嫌悪感を一切隠す様子なく唇を歪めた。
「私、確かに、自分の家で首を吊ったんです。それなのにこんなに突然…空の上みたいなところに寝かされていて、わけがわからなくて……」
私は、夢を見ているのだろうか。死ねなかった半端物の来るところ、などと言われたところですぐに信じられるわけがない。
「……お前、死後の世界とか信じないタイプだろ」
私の疑いは内容まですっかり見抜かれていたようだ。あからさまにそっけない態度をとる彼に、私も毅然とした表情を装って頷いてみせる。
「もしまだ自分は生きてる、とか思ってるなら、安心しろ。何度も言うが、死んでるから」
投げやりな口調。私の戸惑いなど全く意に介していない様子だ。しかし死んでるから、と言われたところで、はいそうですかと受け入れられるほど、私は素直ではない。
「……でも、こうして私、あなたと話してます。夢じゃないというなら、あなたは誰なんですか?」
「……うーん……半端者を確実に死なせる…人……じゃないけど…そういう役割の者」
「わ…私のイマジナリーフレンドとか、ですか……?」
「ああもう、同じことばかり言わせるな。ここは死に損ないの来るところ、俺はお前を死なせる……あー……もう天使でいいよ、天使で。そっちの方がわかりやすいだろ」
天使って人を死なせるの? と口を衝いて出そうになったところを、慌てて止める。訊きたいのはそんなことではない。
「確実に死んだのに死に損なったって、どういう意味ですか?」
「……これじゃあ堂々巡りだな。わかったよ、一からちゃんと説明するから、口を挟まずに聞いてろ。こっちだって何度もこんな話したくないんだ」
語気を若干荒げて彼はそう言い放つと、私がひとまず従順に口を閉ざしたことを確認し、ようやく真剣な様子を見せてくれた。
「死後の世界を信じないやつにいきなりこんなことを言っても、理解が難しいのはわかる。でも、死後の世界、に近い概念は存在する」
天国や地獄……あとは私が恐れた"無"が本当にあるということだろうか。
「でも、それはお前たちが勝手に作り上げた天国とか地獄とか、そういうものじゃない。命が終わった後にまで人が営める世界は用意されてない。ただ、命は無機質に、そして自動的に巡るんだ。……リサイクル工場のベルトコンベア、とか言えばわかるか?あんなイメージだよ。俺見たことないけど」
私も見たことはないが、想像ならできる。たとえばペットボトルが粉々になり、不要なものを取り除き洗浄された後、繊維製品に生まれ変わる。その流れ作業のことを比喩として用いたのだろう。
「命も同じ。捨てられた後はまた綺麗になって別の生命へと生まれ変わる。システムだけ考えれば命そのものを最初から"装置"とでも呼んだ方が正しいんだろうけど、俺たちはその一連の流れを行うところを"死後の世界"と呼んでる……まあ、あくまで便宜的に、だけど」
ここがこんなにも現実離れした場所でなければ、私は彼が何かの宗教に入信した熱心な人だと思い、丁重に別れを告げていたことだろう。しかし今、当の私がこの世界のどこでも見聞きしたことのない場所におり、そしてその直前には確かに命を絶ったという事実もある。それでも彼と彼の話が真実でないと言うならば……やはり夢でも見ているという可能性が一番大きいか。まあ、それならば話くらい聞いたところで害はないだろう、と大人しく続きを促すことにした。
「普通、意識や記憶は命が巡る時に不純物として取り除かれるから、"死後の世界"を直接生きていた者が認識することはないんだけど……稀にいるんだ、お前みたいなやつが」
「私みたなやつ?」
「そう。うまくベルトコンベアに乗れなくて、端っこから落っこちるやつ。そういうやつの行き着く先が、ここ。確実に死んでるからもう元の肉体には戻れないけど、正しい命の循環ルートから外れたせいで、生まれ変わることもできずに、不安定な存在として不安定な場所に寝っ転がってるだけ」
死んでいるが、死んでいない状態…。
彼の話を信じるとするならば、私はつまり"きちんと死ねけど生まれ変われなかった"ということになる。
「…それって、やっぱり天国でも地獄でもないところを永遠に彷徨うってこと……ですか?」
「ああ、自殺したやつがさまよう"無"の空間って迷信? あれは嘘。さっきも言ったけど、天国も地獄もここにはないんだって。あるのは生まれ変わるか、生まれ変われないかの違いだけ」
どうせ死んでいるという事実は同じなのに、ややこしい話だ。
まだ"生まれ変わる"方の意味するところならわかるし、そちらの方がありがたいということも理解できる。意識も記憶も消えてくれるという話だし、ちゃんと生まれ変われていたら、私はこの苦しみを忘れ、また新しい人生を歩めるようになっていたのだ。もしかしたらその時は幸せになれるかもしれないという希望だって持てる。
しかし、"生まれ変われない"とはどういうことなのだろう。
生まれ変われない人間は、元の肉体に戻ることもできず、どうしろというのだろう。そしてそもそも、なぜ私はスムーズに生まれ変われなかったのだろう。
「ここに来る人間は、死んだ当時の人生に未練を残したやつだ。生まれ変わろうとしている命が"まだ生まれ変わる時じゃない"って判断して、勝手レーンから飛び出して行くんだ」
「……その行き着く先が、この何もないところ?」
「そりゃ、こんなところに用があって逃げてくるわけじゃないからな。現世に戻りたいのに戻れる肉体がないから、何もないところで立ち往生してるんだよ」
言われてみて、改めて周りの景色を見てみる。絵の具を塗ったように均一な青。足下の感触は相変わらず柔らかな綿そのものだが、そこまで美しい世界に留まり続けていると、流石に気味が悪くなってくる。
「……それを、あなたはベルトコンベアに連れ戻しに来たってことですか?」
「そういうこと」
ようやく私が納得したとでも思ったのか、彼は初めて唇の端を僅かに持ち上げてみせた。
「……未練か……」
そう言われてみても、たいしたことは思い浮かばないのだが。ちらりと脳裏を掠めたのは、死ぬ間際に残した「生きていて良かったと感じたかった」というささやかな願いだったが、あんなものが死を不完全にするほど強い未練だったなんてとても思えない。
あれは願いというより、ただの諦めだ。
「────生まれ変わるためには、どうすれば良いでしょうか。あなたについて行けば、ベルトコンベアに乗れますか?」
「そんなわけがあるか。死ねる条件は"未練の解消"ただ一つだよ。俺にもまだその具体的な中身はわかんないけど、お前が置いてきた何らかの未練を全て消し去った時、初めて命は不純物を取り除かれたとみなされて、次の命に変わる準備を進められるんだ」
ああ、これが本当に夢なら、そろそろ覚めてほしい。いい加減脳が情報過多でパンクしそうだ。
「まあ、死後の世界すら信じてないお前にいきなりこんな話をしたところで処理しきれないだろうし、しばらく俺の話でも反芻してな。ここはお前がさっき言った"無"に限りなく近い場所だ。生きてるわけでも死にきれたわけでもないやつしか来ないからな」
せめてそういうことは、慰めるように言ってくれないだろうか。理解が及ばないと言いたい私の気持ちを察したのか、あまりにおざなりな口調で彼は気軽にぽんと肩を叩いてくる。
「……死ねるように導く、って言ってましたけど、それであなたは何かしてくれるんですか?」
「7日間、時間をやる」
「7日?」
「そう。7日、死んだ時と同じスペックの肉体を貸してやる。といっても本物は早々に焼くなり埋めるなりで処理されることが多いから、あくまで実体ではないけどな。五感を与えられた幽霊とでも思えば良いよ。自分も他人も見える聞こえる触れる嗅げる味わえる。それを使って現世に戻って、未練を解消してこい。7日以内にお前が死ねる状態になったら、俺も初めてベルトコンベアへ続く道を作るから」
執行猶予のようなもの、とでも考えれば良いのだろうか。7日間のうちに未練を解消できれば無事に死ねるが、もしその間に何もできず終わったら────。
何もできず、終わったら?
「未練を解消しきれずに7日経ったらどうなるんですか?」
「貸した仮の肉体は返してもらう。で、精神は死ねない半端な存在のまま現世に放り出される」
それこそが俗にいう"幽霊"、あるいはゲームに出てくる"亡者"に類するものだろうか。いまいち彼の言葉の意味を噛み砕けず答えに窮していると、わざとらしい溜息の後、彼は詳しい説明を加えてくれた。
「まず命のルールとして、生まれ変わるためには"意識と記憶が完全に消失した状態で肉体から乖離しないといけない"ってものがある。でもそれを阻害するのが"未練"だ。精神機能のほとんどが既に肉体を手放してるから、現世で実体を持って生きられるほどのエネルギーは残ってない。……なのに未練だけが肉体にしがみついてるせいで、完全に死なせてもらえない状態になるってわけだな」
自業自得なのはわかっているが、残したいわけでもなかった未練のためにこんな状況に置かれているのだと思うと、いよいよ悲しくなってくる。生きることも死ぬことも自由にできないなんて、一体私は前世でどんな悪行を積んだのだろう。
「だから俺たちが7日の猶予を与えて、命の解放を促進してるんだけど……。そもそもほとんど離れてる精神に一時的かつ仮初めのものとはいえ肉体を与えることの方がイレギュラーだからな。その仮肉体を現世に留めておけるギリギリの消費期限が7日。そこまで経ったら死者は肉体を返し、自然に精神がくたびれて消滅するまで、現世に留まり続ける必要がある」
「え、未練って放っておいても勝手に消えてくれるものなんですか?」
それならわざわざ7日間なんて与えなくとも、自然消滅を待てば良いのではないか。驚いた私の表情から言いたいことは読み取ったらしい。なぜかじろりと睨まれてしまった。
「お前、放っておけば未練が1年そこらで消えるもんだと思ってるだろ」
「……正直、半年くらいかと」
「バカ、人間の妄執を甘く見積もりすぎだ。俺の知る範囲じゃ千年はかかるぞ」
思わず言葉を失った。桁数が全く想像と違う。生きている人ですら、記憶喪失を起こすことがあるというのに、死んだ後にまで、そこまでの長い時間意識や記憶が残るものなのか。
「死を妨げるほどの未練がそんな簡単に消えるわけないだろ。生きてるやつの記憶喪失は、脳の安全装置が働いた結果の一時的な防衛行動だ。良いか、未練っていうのは体や意識でどうにかできる簡単な代物じゃないんだ。そんな強敵が現世に執着することに疲れきって消えてくれるまで、その幽霊みたいな存在のまま誰にも知られず彷徨い続けなきゃならないんだぞ。ただ生きるよりも、そして死ぬことよりも遥かに虚無感を味わうようなそんな境遇、自殺したお前みたいなやつに耐えられると思うか?」
知覚できる肉体がない以上、誰にも認識してもらえない。存在を許されないまま、しかも今度は死ぬこともできないまま、ひとりきりでいつ来るかもわからない"未練を忘れられる日"を待たなければならない。
────なるほど確かにそれは、あまり歓迎できる待遇ではない。
「でも私……未練なんて知らないです……」
状況はひとまず、理論上のものとして理解した。要するに私は、未練を残したまま自殺したせいで、ベルトコンベアから落ちてしまったというだけのことだ。
ただ、実感としては未だ納得できない。私は未練などという泥臭いものを、何も現世に残してきたつもりはなかった。未練も後悔もとっくになくなり、「死にたい」という気持ちしか残らなくなってしまったからこそ、私は死を選んだのだ。今更何か生にしがみつくようなことがあるはずだから解消してこい、と言われたところで、全く見当がつかない。
未練など知らない、と言ったきり黙り込んでしまった私を見た彼は、溜息をつき、不機嫌そうに唇を尖らせた。 その表情を見て「厄介な死者ですみません」と思わず言いかけたが、別にそれは私のせいではないと思い直す。確かに私が原因ではあるが、私だって好んでこんなところに来たわけではない。一日だって早く死にたいと思い、だからこそ勇気を出して行動したのに、それすら阻まれてしまった。
悲しくなる。情けなくなる。生きていくこともうまくできないくせに、死ぬことまでできないのか、私は。そうしてまたひとりで辛い現世に放り出されて、全く要領を得ないタスクをこなさないといけないのか。
とても心細かった。絶望することにはとっくに飽きていたと思っていたが、私は今、どうしようもない不安と恐れで押し潰されそうになっていた。夢も、一向に覚める気配がない。
そんな中で唯一のヒントといえるのは、目の前にいる彼の存在だけだった。私は少しの間迷った結果、勇気を出して目の前のふてぶてしいこの男に声をかけてみることにした。
「……ええと、あなたの名前は?」
「キョウヤだけど」
……思いきり日本人の名前だ。
「キョウヤさん。……私の未練探し、協力してくれませんか」
藁にも縋る思いだった。こんな心境のまま、こんな状態で7日間放り出されるなんて耐えられない。無理なことだとはわかっている、それでも私は、身勝手な望みを口にせずにはいられなかった。
言った瞬間、彼の表情が明らかに険しくなったので、慌てて付け加える。
「その、キョウヤさんが仕事を早く終わらせるという意味でも」
「ええ……俺、あんまりお前に関わりたくないんだけど……」
慈悲の欠片もない言い方で拒絶されてしまった。
「お前だけじゃない、最近の若いやつはすぐ死ぬから嫌なんだよ。しかもその理由もなんとなく生きるのが嫌になったからって……ふざけてるのか。だから未練を残すやつも多くて本当に面倒くさいんだ。ただでさえ俺は仕事が嫌いなのに……なんだってお前は勝手に死んだんだ。どうせ出くわすなら、こんな半端なところじゃなくもっとまともなところが良かった」
「お気持ちはわかるんですけど……」
暴れ馬をなだめるような気持ちで薄い共感を示すが、キョウヤさんの文句は止まらない。
「良いか、天使はなにも一度に一人だけを来世に送ってるわけじゃない。国や年齢に合わせて最適なスペックを持ってる天使が、何人もの死者を担当するようになってるんだ。お前に俺がついたのは、単に俺達の見た目が同世代かつ同国籍の人間だったから。そしてそんな死者は他にもたくさんいる。わかるか、俺の担当はお前だけじゃない。お前だけに肩入れして、特別扱いするわけにはいかないってこと。7日もお前にずっと付き添うなんてことをしてたら、こっちの身も保たないんだ」
正論なのはわかるが、こっちだって必死なのだ。ここでわかりました、と彼の手を離してしまったら、それこそ私はもう一度自殺を試みようとするに決まっている。無意味だとわかっていても。
今にも泣き出しそうな私の気持ちを口調から察してくれたのか、キョウヤさんは一度溜息をついてから不満げに口を開いた。
「お前、死ぬ前に両親や友達に別れのあいさつはしたか。恋人とかはいたか」
「遺書を残しました。恋人は欲しいと思ったこともありませんでした」
「黒歴史は抹消してるか」
「燃えるゴミに出してます」
「行きたかった場所や買いたかったものはあるか」
「ありません」
一通りの問答を済ませたところで、キョウヤさんは完全に黙ってしまった。明るい場に似合わない重い空気が降りる。とにかくこの場で未練を解消する手立てを講じ、私から早々に解放されようとでもしたのだろう。残念ながら、それは失敗に終わってしまったが。
「お前……そもそもなんで死のうと思ったんだよ」
「生きている意味がなくなったからです」
キョウヤさんの眉がぴくりと動く。あまりに簡潔な私の返答に、その"意味"を見出しかねていたのかもしれない。
確かにさっきキョウヤさんが言った通り、私は"なんとなく死んだ"部類に入るのかもしれない。そこに特別な理由はなかった。自分がこの世にいる価値のない人間だと自覚し、ちょうどその頃に仕事もうまくいかなくなり、人ともうまく喋れなくなり、いよいよこの世にいる意味がない……どころか、この世にいては迷惑しかかけない存在なのだ、と思い知らされただけのこと。誰か特定の人に苦しめられたわけでもないし、金銭的に首が回らなくなったわけでもない。
気づけば、私にとってはただ、"生きていること"というそれ自体が苦しみとなってしまった。ただそれだけのことだった。
一般的には、"在るだけで尊いもの"とされるはずの生命だが、私に定義させるならそれは、あくまで"この世の役に立ち、誰かにとって何らかの価値を示せるもの"だけを指している。
そして私は、私に何の価値を感じられなくなってしまった。だから死んだ。
しかし、この感情をどう伝えよう。生きていることがどうしようもなく辛いと思う人間がいることを、今しがた「なんとなく死ぬなんてふざけているのか」と苛立っていたばかりの彼に、どう説明したら良いのだろう。
言葉が切れたまま黙り込んでしまった私を見るキョウヤさんの様子は、再び私が自分語りを始めることを待っているわけではなさそうだった。どこか冷めたような目でこちらを見ながら、何かを考えている。
「……わかった、7日間、お前の未練探しを手伝う」
そして出た答えは、至極簡単な承諾の言葉だった。何か今の言葉で伝わるものでもあったのだろうか。こんな曖昧な理由で死んだことを軽蔑されるとばかり思っていたが、彼の言葉に負の感情はこもっていないように思える。
「自分の未練に全く思い当たる節がないケースは確かに珍しい……し、それを放置するのはあまりに不親切だ。普通特定の人間に特定の天使がつくことはあんまりないんだけど、今回は特に厄介な案件として俺の監視下に置く、ってことで上にも報告しておく。一週間の同行も承諾しよう。だからお前も、基本的には俺の言うことをちゃんと聞けよ」
「わ、わかりました…」
何度も拒否されることを覚悟で提案していたので、些か調子良く会話が進んでいることに拍子抜けする。間抜けな面を晒す私に向かってキョウヤさんは嘲るような笑みを浮かべた。
「なんだ、そんな理由で死んだことを今更後悔したか」
「い、いえ……。その、改めてよろしくお願いします……。あ、私の名前は……」
「知ってるよ、水瀬渚」
知らない人から自分の名前がすらすらと出てくるのは、なんだか不思議な感覚だ。あまりに馴染んだ言い方をされてしまったことと、どこかで会ったことがあるのではないかと錯覚するような見た目をしているために、一瞬この人は本当に私の知り合いだったのではないか、と考えてしまった。もちろん初対面であることに違いはないが、こんな出会いでも一応担当者、死んだ対象者の名前くらいは知らされているのだろう。
「さて……それじゃあお前に一旦仮の肉体を与えて現世に落とすから、しばらく目を閉じてろ。場所は死んだところにできるだけ近い、"誰もいない所"だ。良いな」
「え、待っ」
言い終わるより先に抗えない力で、私の瞼は閉ざされた。瞬きしたきり目が開かなくなってしまったのだ。
何秒経っただろう、瞼を開くことを試み続け、何度目かにようやく成功したと思った時、私の視界に広がったものは見慣れた自分の部屋だった。それこそ、死ぬ直前に見た光景そのものだ。その時との違いといえば、電気を点けなくとも明るかった部屋が、今は暗くなっていることだけ。時計を見ると、18時過ぎだった。気を失っている時間を含め、私は2時間以上あの何もない空間にいたらしい。
「……私の、部屋」
見たままを口にすると、すぐ隣からキョウヤさんの溜息が聞こえてくる。
「お前の死体、まだ見つかってなかったのか……」
まるでそれがまずいかのような言い方だ。当の私は安心したような、同時にどこか物寂しいような、言葉にし難い感情に襲われていた。なんとなく、気配でわかる。今私が振り返れば、そこには死んでいる"本来の私"がいる。目や舌は飛び出ているだろうか。床は汚れていないので、少なくとも大人用の紙下着だけは、きちんと自分の役割を果たしてくれたようだ。
この部屋の状態が誰にも見つかっていないのは、単なる偶然だろう。見つかるのも時間の問題のはずだ。この時間まで出社もせず、連絡もつかないとなれば、会社から私や親の携帯に連絡が入り、私のいそうな場所に捜索が入る。誰かが自宅への訪問を提案すればそれで終わりだ。もしかしたら心臓の弱い誰かに多少のトラウマを与えてしまうかもしれないが、その時私はようやく満を持して発見される。
まさか死んだ後にまたここに戻ってくるとは思っていなかったので、自分が死んだ後にも変わらず回っている世界を見ているというのは、なんだか不思議な感覚だった。思わずぼーっと、自分のものだった家具や小物を眺めてしまう。まるで自分が死んだことを改めて認知したような気持ちだ。自分の死体を見たわけではないが、どこかで私は"誰か"が自分を見つけてくれるまで、まだ自分が"生きている"と思っていたのかもしれない。その"誰か"が、たとえ"自分"であったとしても。
そうか。私は────やっぱり、死んでいたのか。
「……自分が死んだ場所に長く留まるのは得策じゃない。ここはあくまでただの着陸地点だ。移動するぞ」
キョウヤさんの声で、はっと我に返った。そうだ。誰も来ないかもしれないが、それと同じくらいの確率で誰か来ることもありえる。もしそれが今だったら、同じ人間が二人もいる場面を見られることになってしまう。いくらなんでもそれが良くないということくらいは、今の私にでもわかった。
「何か必要なものがあればとっておけ。ひとまず今日は、近場のホテルでも取るぞ」
必要なもの。現金なら使わずにいた分が多少あるので、それくらいは持っていた方が良いだろうか。銀行へ行かずとも十日くらいなら生きていけるくらい、いつも家の本棚に挟んで置いていた分を。
「スマホは持つなよ。電話が来た時に反射で出ちまって混乱させる奴が多いんだ」
キョウヤさんの警告を受けて、ちょうど今手に取ったばかりのスマホをベッドの上に投げ出す。
「とりあえずお金は持って行こうと思うんですけど、それ以外にあった方がいいものってあります? あ、服とか……」
「ああ、その体はあくまで現実の肉体とは違う器だから汚れたりしないぞ。気分で替えたいっていならもちろん止めないけど、一応伝えとくと、面倒だって言って服はそのまま七日同じもので過ごす奴の方が多い」
驚いた。今ここに立っている感覚に縋る限り、私の体は生前のそれと全く同じだ。風呂はともかく、どうやら着替えは持っているだけ荷物になりそうなので、そういうことならば、と前例に倣い、私も身一つで過ごすことを決める。
「……意外と金持ってるな。まあ金の心配は要らないんだけど、何をすればいいのかわからない以上あるに越したことはない。全部持ったか、じゃ行くぞ」
キョウヤさんに従い、家の玄関を出る。死の直前、もうこの床を踏むのは最後だと何度も心の中で繰り返していただけに、少しまたあの不思議な感覚に陥る。
後ろは、最後まで振り返らなかった。
はじめまして、風夜です。
まずは1日目(前編)、ご覧いただきありがとうございました。
7日間の物語となりますので、最後まで見届けていただけると嬉しいです。