三十二話:それでも、救われたんだ
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【04:30】
「……」
時間すらも忘れてその「記録」を読み終えた信乃は、無言で本を閉じた。
もう、長椅子に横たわるシラの涙もおさまっている。彼女の過去の夢も、終わったのだろうか。
かつての自分の罪を、知ってしまったのだろうか。
スルトも、彼が本を読んでいる間ずっと黙っていた。壁に寄りかかり、腕を組んで天井見つめたまま、微動だにしなかったのだ。
やはり、沈黙。何も言えない中で、それを破ったのはスルトだった。
「……終わったのか?」
「……ああ」
信乃は、ただそうとだけ答える。すると彼女もこちらを見ることなく俯き、聞いてくる。
「どうだった? 嫌な話だっただろう?」
「……」
信乃には、言葉が咄嗟には思い浮かばなかった。
だから、スルトがまた語る。
「そいつはな、大馬鹿な女の物語だ。何が生きる意味だ、何が幸せだ。そいつは目を逸らしてでも、愛していた怪物を置いて外に逃げりゃ良かったんだ。なのに傲慢にも『夢』なんてものを叶えようとして、その結果分かり切っていたはずの結末を迎えて殺された」
彼女の横顔は、やはりいつもの苛烈な笑みは無くただ静かな無表情だ。
だがその金色の目には、どこか怒りと悲しみの感情を含んでいるように見えた。
「――なあ、有麻信乃。そんな地獄しか知らなったそいつは、生き物としてこうまで破綻したそいつは……それでも幸せだったと思うか? ……救われたと、思うか?」
やはり少しの沈黙の後に、信乃は眉根を寄せたままやっと答える。
「……救われない、物語だった」
本当に、救われない。
クロリアという少女は、確かに意味を見つけた。
シラと名付けた一人の少女を、確かに愛した。
だが、彼女は死んでしまった。もう、「シラ」とは二度と出会えないのだ。
だから、この物語は――
「――それでも、救われた物語だと俺は言いたい。どんな人生が幸せかだなんて、結局自分自身にしか分からないが、きっと思うように生きた奴が幸せなんだと俺は思っている。残されたシラにとっては残酷だったのかもしれない。だが人生に何も見いだせなかったクロリアは、最期にはやっとシラの姉であろうとする生き方を見つけて、それを全うした。だから死に絶えていきながらも、悔やみながらも……それでも、きっと彼女は幸せだったんじゃないだろうか」
「……そうか」
クロリアを批判していたはずのスルトはそうとだけ答え、あっさりと黙ってしまう。その真顔のままの横顔は、やはり何を考えているのかよく分からない。
だから今度は、信乃が聞いていた。
「お前はどうして、こんなものを俺に見せてくれた? この記録にも、勿論お前は出てきていない。クロリアとも、シラともお前には接点はないはずだ。なのに、何故この記録を見ようと思った? ……何故、俺に見せてくれようと思った?」
「……さて、なんでだろうね。そこまで答えてやる義理はねえ。アンタが考えてみろよ、有麻信乃」
「……なあ、スルト。お前は、一体……」
信乃がそこまで言った時。突如、周囲から地響きが起こる。
それに伴い、この部屋のあちこちに亀裂が走り始める。
「ちっ……ここももう限界か。よくぞアタシ達が来るまでもってくれたもんだ」
「……っ!? おい、何だこれは!?」
「見ての通り、倒壊だ! この『創造樹』は、五年前にニーズヘッグにめちゃくちゃにされてからそのまま放置されてたんだよ! いつ潰れてもおかしくは無かったが……まさか今とはな!」
スルトは切羽詰まった様子で、シラを抱き上げる。そのまま彼女ごと、リンドヴルムに飛び乗る。
「おい、早くこの施設から脱出するぞ! 外の地下通路までは巻き込まれてねえはずだ! このまましばらくかっ飛ぶ! 死にたくなければアンタも早く乗れ!!」
「……ッ!」
一瞬だけ、乱雑に書類の置かれた机を見る。もっと良く探せば何か決定的な手がかりが見つかるかもしれなかったが、そう悠長にもしていられないようだった。
信乃はこの部屋からただ一つ、クロリアの残した「記録」だけを抱え、リンドヴルムに乗る。
そして一瞬、最後に二人の思い出の部屋を見つめた後に、スルトへ声をかける。
「行ってくれ、スルト」
「……おし。振り落とされて死にたくもなければ、そのまましっかり掴まっておけよ! ぶち破れ、リンドヴルム!! 『ハイメテオ・フレイムインパクト』!!」
「ジェギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ!!!!」
信乃達を焦がさないように、魔器竜リンドヴルムはその外側に膜上の炎をまとい発進。扉を破り、通路に落ち始めていた瓦礫を粉砕し、あっという間に研究機関の出口まで近づく。
――ゴシャアアァァァァァァ。
この五年間、ずっと彼らが来るのを待ってくれていたのだろうか。
記録にもあった「崩壊」からずっとその姿と思い出を留めていた「創造樹」は、ついにその時を容赦なく進め、あるべき姿へと戻っていく。
そうして施設が全壊して潰れたのと、信乃達がその出口から脱出したタイミングはほぼ同時だった。そのままリンドヴルムは、迷路のような地下通路を突き進んでいく。
『ありがとう』
どこからともなくそんな声が聞こえたような気がして、信乃は思わず振り向く。
そこには誰もいない。ただ遠ざかっていく瓦礫の山が見えただけだった。
「……」
信乃は、姿すらも知らないその少女に向けて、ただ小さく頷くのだった。