二十話:クロ
「……」
一瞬の沈黙。実検体は真顔で俯いてしまう。
それでも怪物なりに、もしも自分が捕食衝動に苛まれてしまっても檻に閉じ込められている現状ならば、クロリアに危害が及ばないと思ってくれたのだろうか。
やがて、その口が重々しく動く。
そこに、魔王たる詠唱が発せられる。
「……我が血を喰らえ、我が血を喰らえ。我、命を喰らい蒐める者。我、泉に沈み込み、力の価値を問い続ける者。造りしは数多の像、示すは数多の意味。今、その魔泉の蔵をここに――」
「あ、違う違う。そうじゃなくて」
クロリアは、咄嗟に鉄格子へと右手を突っ込んで詠唱中だったシラの両頬を押えていた。
「フヴェ……ふぶぅ?」
彼女は、わりと美少女がしてはいけない不細工なたらこ唇顔になってしまう。勿論、詠唱だって止まってしまう。
そしてクロリアは容赦なく、半開きになったままだったシラの口の中へ、持っていた綿棒を突っ込んだ。
「ふゃふ……ぷぶ……!?」
「はいはい、大人しくしていてね。というか、シラのほっぺすごく柔らかいわ。ずっと触っていたいくらい……」
綿棒で彼女の頬の裏側をかりかりと優しく掻く。シラは口を抑え込まれたまま、困惑と謎の心地よさでも感じているかのような声を上げるがクロリアはお構いなしだ。
やがて綿棒をその口から離すと、彼女は嬉しそうに宣うのだった。
「よし、シラの『細胞』をゲットよ! これをまずはDNA抽出ね! そこからどうしてくれようかしら!? とりあえずまずは適当に、手持ちの人間遺伝子のプライマーで増幅させて電気泳動でもしてみる? いや、なんならリアルタイムPCRの方がいいかしらね? いっそのこともうすぐにでもゲノム解析しちゃう!? くう……やることが、いっぱいだわ……! とにかく、ありがとねシラ! あっそれとごめんね、ご飯もう少し待ってて! 抽出だけでも今日やらないと」
「……へ、終わり? これだけ?」
試験管に入れた試薬の中に綿棒を突っ込み、ピペッターや他の試薬を棚からばたばたと取り出しながら忙しなく動くクロリアを、シラは呆然と見ながらそう質問する。
「うん、今日はこれだけ」
「……私は、魔法を使わなくていいの……? 私は、自傷しなくてもいいの……?」
本当に不思議そうな声を出す彼女に、クロリアは「逆に今までそんな酷いことしかされてこなかった」ということを悟りつつ微かな憤りを感じ、作業の手を進めながら答えてあげた。
「私の研究は、私やあなたの身体を作っているDNAという物質を調べて、その仕組みを解き明かすことなの。そうして、この世界にあなたみたいな生まれながらの魔人という存在を増やす方法を確立して、一つの種として存在させる。確かに私は、あなたという生き物を隅々まで調べなくちゃならない。今後はこれだけじゃない、場合によっては注射器で採血もするし、あなたの臓器の肉片を少しだけ摘出したり、ちょっと危ない薬品を投入させてもらったりもするかもしれない。充分にあなたという実験体に酷いことをするわ」
それでもと強調するように、こればかりは手を止めてシラを真剣な眼差しで見つめ、こう告げる。
「……それでも、『魔法』だなんて不確かな要素を使うことは無い。あなたにはもう決して、その魔法によって無駄な血だけは流させないわ」
「……」
シラはそのまま、黙り込んでしまった。
だがその空気をぶち壊すかのように、ぐううぅ〜とお腹の音が鳴る。クロリアから発せられたものだ。
「って、やだ! 今日ずっと動いていたからね……早く終わらせるから、美味しい物を一緒に食べましょうシラ!」
「……うん、分かった。――クロ」
初めてこちらの名前を呼ばれたことに内心驚いてそちらを横目で見、クロリアは更に驚く。
彼女は、初めて可笑しそうに微笑んでいた。
「……そ。私は、クロよ」
なんだ、そんな顔も出来るんじゃないと内心で思いながらクロリアも微笑み返し、また作業に戻るのだった。
□■□
『――血を喰らえ、血を喰らえ』
生まれた時から、私の存在の全ては私の持つ魔法だった。
フヴェルゲルミル。
血の魔泉へと沈み、この身体を差し出す代償に莫大な力を得る魔法。
私は、これを使いこなせなければならなかった。
でも、私はそうは出来なかった。
使えばたちまちこの身体は崩れて血が溢れるばかりで、精々限定的に泉にある武器達の力を借りるくらいのことしか出来ない。
――使えない。意味がない。失敗作。
そんな言葉をずっと聞かされてきた。
落胆と共に、それでも魔法を使うよう強制され、結局は使いこなせずに血を吹き出し続ける毎日だった。
だからやっぱり、私は失敗作だ。
私だって、そう思っている。ずっと、私は罵倒され虐げられ、そして廃棄される日を待つのみだと思っている。
でもそんな時に、私はその不思議な女性と出会ってしまったんだ。
その人は綺麗で繊細そうな見た目とは裏腹に、結構行動が大胆で、見ていて危なっかしいところもあって。
人でありながら、魔人よりも遥かに弱い存在でありながら、「魔人にもこの世界で一つの命として生きて欲しい」だなんて叶うはずもない願いをずっと夢見ていて。
こんな血まみれの罪だらけの私を、綺麗だなんて言ってくれる人だった。
知らなかった。
私は、何も知らなかったんだ。
彼女達は魔物や魔人に比べて遥かに弱い身でありながら。
力を振るわれれば、私以上にすぐに壊れてしまうような存在でありながら。
それでも、確固たる信念をもって、懸命にその生きる在り方を何よりも示し続けている生き物だったんだ。
……私は、何なのだろう。
崩れ行く身でありながら、終わりの袋小路しか知らない心でありながら。
どうして、もっとその先を見たいだなんて思ってしまったのだろう。




