十九話:二人の研究室
□■□
「はいシラ、これモップね。牢獄側はあなたに任せたわ。血の汚れ、全部ぴっかぴかにしちゃって」
「う……うん」
研究員と実験体が二人、必死にその薄暗く広い牢獄の部屋を掃除していた。
クロリアは入口のある空間側、シラは鉄格子によって隔てられ、彼女を閉じ込めている空間側だ。
あちこちにこびりついている血痕を、クロリアが元々自分がいた個人研究室から持ってきた掃除用具によって、ごしごしとこすってどんどん綺麗にしていく。
魔王の生まれ変わり様にも申し訳ないが、クロリアが入ることが出来ない部分の掃除を手伝って貰っている。彼女も度肝を抜かれたような顔をしながらも、素直に従ってくれていた。
「あ、モップもう汚くなった? もう、本当に汚い部屋ね。不衛生よ不衛生。閉じ込めるにしても、こんな所に女の子を住まわせるだなんてあり得ないわ。ここの前任者は何をしていたのかしら? じゃあそれ貰うわシラ。バケツに汲んである水だけじゃ洗い切れなそうだから、直接トイレの水道で洗ってくる。その間にこれ、雑巾ね。そのにっくき鉄格子でも磨いておいて頂戴」
「へ、あ……はい」
てきぱきと指示を出すクロリアに成すすべもなく従うシラだったが、やがておずおずと言ってきた。
「……別に、いいのに。私はこれでも、構わない」
「だーめ! そもそも研究というものはね、衛生が前提なの! 余計なカビ、細菌なんて論外だわ! あなたという実験体を、清潔にそして健康に取り扱わなくちゃいけないの! それにここは、私の新しい個人研究室になるんだから!」
「別に私はずっと魔法を使わされるばかりで、私自身の健康なんて気にされたことも……って、え? あなたの、個人研究室?」
聞き流しそうになった引っかかった言葉をシラは反芻する。
そう言えばまだ言ってなかったっけと自分の中で密かに反省しながらも、クロリアは言い放った。
「ここの掃除終わったら、私の元個人研究室にある机とか機材設備全部ここに持ってくるわ。悪いけれど、これから日中あなたには私と付きっ切りになってもらうからね」
□■□
「うんしょ……うんしょ」
もう何回目になるのかも分からない、お世辞にも近いとは言えないクロリアの個人研究室とシラの監獄部屋の行き来。クロリアはその距離を、借りてきた台車に荷物を載せながら移動していた。
「……無理、しないで。そんな重労働、人間女性のあなた一人にはきついんじゃ……?」
「平気……平気よ。それとシラ、私は『あなた』じゃなくて、クロリアよ。呼びにくいなら……うん、『クロ』でいいから」
「……」
その様子を、監獄部屋に来る度にシラが心配そうな目で見つめ、声をかけてきてくれる。朝は警戒されていたことが嘘のように優しい。なんならそれだけでも頑張れたが、やはりしんどいものはしんどい。
正直シラにも手伝ってもらいたかったが、鉄格子の中からは絶対に出すなというのがロイジャーとの約束だ。仕方が無いので彼女には、真っ赤な顔でぷるぷると震えながら机や棚をこの部屋に置いていく滑稽なクロリアを見ていてもらうしか無かった。
「ふう……でもまあ、これであらかた運びこめたかしら? ……もう夜になるわよね。本格的な研究は明日からか」
途中昼飯(シラにうどんとそばを持ってきて好きな方を選ばせたら、彼女はそばを取った。うどん好きのクロリアとしては、ここだけは彼女と分かり合えないようだ)と勉強会も挟んでいた。それらに加えてこうして大掛かりな掃除と引越し作業まで終えてしまうと、持ち込んだ時計の時刻はもうすっかりと夜を示していた。
だが、殺風景で汚かった部屋はすっかり綺麗になった。むき出しの寒々しい鉄の壁は気になるものの、研究する分には問題は無い。
クロリアのいる入口側の空間も、机や書類、研究用機材や薬品棚で埋まりいい感じに研究室としての様相を成してくれた。これで、日中はここで研究して過ごすことが出来る。
(まあ我ながら自分勝手よね。シラには、迷惑と思われていなければいいけれど……)
一息付いてから改めてシラの方を見ると、彼女はクロリアをじっと見ていた。
「ん、どうしたの? お腹空いた? ごめんなさいね、結構いい時間になっちゃった。今、食堂から夜ご飯取ってきてあげる。何が食べたい?」
「……どうして」
彼女は、小さくそう漏らす。
「綺麗にしなくても、良かったのに。物なんて、持ち込まなくて良かったのに。……どうせ全部、血で汚してしまうのに」
「どういうこと?」
言葉自体は酷く物騒だ。だがそう言う彼女自身は、いつもは無表情なその顔に明確な悲しみの色を滲ませて、こう言うのだった。
「私の研究、今までずっと私の魔法を使わされてきた。その代償に、私の身体は破裂して血を吹き出す。……そして、目の前の生き物を無差別に食べる。あなたも、私にそうして欲しいのでしょう? 私の血は、汚いよ? あなたに飛び掛かろうとする私は、醜くて恐ろしいよ? だから、いいのに。私に気なんて、使わないで。私と仲良くなんてなろうと、しないで」
「……」
とうとう俯いてしまったシラが掴む鉄格子の前に、クロリアは近づく。そして彼女に、容赦なく言ってやる。
「……そうね。研究設備も整ったし丁度いいわ。早速今からでも、あなたには私の研究の協力をしてもらおうかしら」