十八話:研究員と実験体
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私の人生には、決して人並みの幸せなどありませんでした。
幼少期から親と呼べる存在は無く、牢獄のような小さな部屋で一人過ごしていました。
10歳で研究員となってからも、ずっと一人で死と隣り合わせの研究をしてきました。
クロリア・アルスという存在は、激動していく帝国の運命の渦の中で、すぐにでもかき消されてしまうだけのものだったのです。
でも、そんな時に私は彼女に――「シラ」に会いました。
魔王の力を持って生まれてきてしまった少女。
私とは比べ物にならない力と運命を持ってしまった少女。
でも彼女は、やはり私と同じように空虚な目をしていたのです。
私には、何もありません。そして命を冒涜してきた私になど、どうせろくな死が待っていないのでしょう。
でも、だからこそ、彼女だけは「違う」と言ってみたかったのです。
出会った日に見せた、その美麗で深い悲しみを湛えた顔を、私は生涯忘れないでしょう。
いつかその顔に、本当の笑顔が点ってくれることを願わずにはいられないのでしょう。
だから私は、私の意思で彼女を研究することを決意しました。
――それは初めて持った、私の「意味」だったのです。
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クロリアがシラと出会って、数日が経った。
その日から、毎日の勉強会の度にグループのミーニャ達から質問攻めに遭ったものだ。「ニーズヘッグはどんな化け物だった?」とか、「大丈夫!? このクロリアさん幽霊じゃないよね!? 生きているにしても、どっか齧られていない!?」とかだ。結構心配されているらしい。
クロリアはそれに、「みんなが思っているほど怖い怪物でもなかったから。大丈夫だと思うわ、きっと」と苦笑で返すしかない。
実際にその怪物は――シラは、この数日でクロリアを食べるような素振りを見せなかったのだ。
今日もまた、朝会を終えるなり彼女の元へと向かう。
お土産もあるので、魔人や魔物の呻き声が聞こえてくる怖い通路を歩いているにも関わらず、少し気分が高揚している。
やがて奥の扉に行き着くと、扉を開けて明るい声を発した。
「おはよう、シラ!」
「……」
返事は、ない。
その部屋の主は、奥にある牢屋の隅にじっと縮こまり、こちらを赤い目で少し怯えた様子で見るのみだ。
(……まあ。さすがにそうすぐには懐いてくれないわよね……)
だが、今日はすぐに彼女をこちらまで誘き寄せてみせる。
クロリアはかばんより、ビニールに包まれたほかほかの「肉まん」なるものを取り出してみせた。
「じゃん! これ、食堂自販機で人気だからすぐになくなっちゃうんだけれど、今日はたまたま今朝寄った食堂でゲットできたの! 美味しいわよ!」
「……!」
特殊な自販機で買える(と言ってもお金は払っていないが)、中にお肉がぎっしり詰まった白くて上が少し尖っている柔らかいパンだ。どのような魔法が働いているのかは知らないが、購入時にはまるで出来たてのようにほかほかになって出てくる。少し時間もかかるし、あの魔器の中で作っているのだろうか?
いつも持ってきてあげるパンと少し違うことが、シラにも分かったのだろう。警戒しつつも興味津々な様子で、まるで猫のようにゆっくりと這って鉄格子にまで近づいてきた。
「はい、熱いから気をつけてね。私の分も買っちゃった。一緒に食べましょう?」
「……」
ビニールを破いて中身を鉄格子越しにシラへ渡してあげると、彼女はおずおずとそれを受け取る。
クロリアももう一つ買えていた自分の肉まんをかばんより取り出して、最近の日課となった二人での朝食を牢獄の中で取り始める。
シラはしばらく感情の読み取れない目で肉まんを見つめていたが、やがて美味しそうに食べるクロリアを横目で見た後、それへおもむろにはむっとかぶりつく。
途端に、彼女の目が分かりやすく輝いた。
「……美味。ふかふかのパンと中のお肉の食感も良く、大変美味」
「でしょ!? また買えそうな時は買ってくるから、楽しみにしていてね」
「うん。……はっ」
思わず素の反応で頷いてしまっていたシラは、しかし次の瞬間には我に返ってすぐに黙り込んでしまう。
肉まんはちゃんと完食して。
噂とは恐ろしいもので、どうにも彼女は生きた人肉でなくてもこうして人間の摂取する食物を食べてくれるのだ。
(些細な変化ではあるけれど……少しずつ、心は開いてくれているのかしら? まあ、不思議な話よね。出会う前はあれだけ怖がっていたニーズヘッグに、まさか私の方から歩み寄ろうとしているだなんて)
初日はパンそのものをはねのけてしまった反応から比べれば、大きな進展だ。これからも根気強く彼女に寄り添っていければと考えている。
そもそも、魔王が人を怖がっているという方がおかしいのだから。
「……さて、いよいよ今日があなたの研究を始める日となるわ」
元の研究室で行っていた研究もある程度一段落がついた(失敗した)。初日はあくまでもシラという実験体との顔合わせだけだった。その後はこうして時間がある時に牢獄へ顔を出すのみだったのだが、今日からいよいよやることがなくなったクロリアは、シラという実験体を用いた研究を始めることとなる。
「……」
シラは、今度こそ下を向いて暗い顔で黙ってしまった。
いよいよその身体をいじくられると言われて、良い顔をする者がいるはずもない。だがそんな彼女に向けて、クロリアは容赦なくこう命じるのだった。
「さあ……まずはこの部屋を綺麗に掃除しましょう、シラ!」
「……へ?」