駅問答
風鈴の音が聞こえる。涼しげな音色。
お婆ちゃんの家でしか聞いたことがなかったけれど、なぜかそれが風鈴の音だとすぐにわかった。
心地よい眠りから覚め、頭が自動的に覚醒していく。ゆっくりと目を開けると、繭はプラットホームに備え付けの椅子に座っていた。
背もたれのある長椅子は、バス停の待合スペースのように左右と後ろが衝立で囲われていて、日よけに屋根までついている。
クーラーなんてものはないし暑い日は少しきついけど、何にも無いよりは幾分かマシだった。
そっか。部活帰りの途中だったっけ。
それにしても、随分と長く寝ていたらしい。夕方に部活は終えたはずだけれど、辺りはもう真っ暗だ。
これは、何本か電車を逃しているな。あー、勿体無いことしちゃった。
頑張って起きていれば、もっと早く帰れたのに。
ここは田舎の路線だから、電車なんて1時間に2、3本通るくらいだ。逃したばかりだとすれば、またかなり待つことになる。
今何時だろう。
気になってスマートフォンを探す。
いつもはスカートのポケットにしまっているけれど、手を入れて探ってみても何も入っていなかった。
すぐ横の椅子に置いてあるバッグを膝の上に引き寄せ、ジッパーを開ける。
どこにいれたっけ?
今日は部活だけではなく、午前中は補習もあったので荷物が多い。
中を弄るが、なかなかそれらしい物体は見つからない。
これは本格的に荷物をぶちまけてみないと見つからないだろう。
そう考えて、繭は席を立つ。椅子に向き直り、スクールバックをひっくり返していると、
「探し物ですか」
すぐ近くから声がした。
びっくりして左右を見回すと、繭が座っている椅子の、衝立を挟んで向こう側に人影が見える。人影といっても、黒い傘を持った手首だけが衝立から少しはみ出ているくらいだけれど。
ホームには私たちの他に人影はいないので、これは私への問いかけなんだろうな。
知らない人から急に話しかけられて驚いたけれど、そういえばここは田舎だし、こんなこともあるかもね、と呑気に考えていた。
「あ、はい。すみません」
傘を持った手はやけに青白く、また微動だにしない。
夜の闇に真っ黒い傘が紛れ、まるで手首だけがぼうっと浮かんでいるように見える。気付いたら薄っすらと鳥肌が立っていた。
「なぜ謝るのですか」
ひどく淡々とした声だった。ざらつきのない綺麗な声だったが、多分男の人だろう。
「えと、うるさかったかなって思って…」
「そんなことはないですよ。それよりお手伝いしましょうか」
また質問をされた。なんなんだろう、この人。
おしゃべりなタイプには思えないし、何より私が面倒くさい。前に休み時間で友達とやった心理テストで、社交性ゼロという結果が出ていたことを思い出した。
「や、大丈夫です。すみません」
なぜかまた謝ってしまった。大人と喋るのは難しいな。
「そうですか」
それっきり、男の声は止んだ。相変わらず手だけは奥に見えるので、ずっとそこにはいるのだろう。
ベンチに座ればいいのにと思ったけれど、なんとなくこれ以上近くに来て欲しくないとも思った。
それにしても、私のスマートフォンはどこに行ってしまったのだろう。
鞄の中を全て出したというのに見つからない。念の為内ポケットもしっかり調べたか、やはり無い。
学校に置き忘れちゃったかな。どうしよう、取りに行こうか…。でも門が閉まってたら、戻っても入れないよな。
しばらく呆然としていると、
「探し物は見つかりましたか」
再び声がした。
「あ、いえ、多分学校に忘れたっぽくて」
「そうですか。それは大変ですね」
思い切って、聞いてみる。
「あの、この辺に白いスマートフォンって落ちてたりしませんでしたか。アップルのやつなんですけど」
1秒も置かずして、声は返ってきた。とても強い口調だった。
「私は知りません」
即答だった。本当かどうか疑わしかったけれど、こちらをからかっているわけではなさそうな気がする。
「ですよね。すいませんでした」
しょうがない。学校に戻ってみるか。
繭は教科書やポーチを鞄に戻し、肩にかける。
「どこへ行かれるんですか」
なんだかしつこいなあ。繭は苛立ちを声に込めて、
「学校に戻るんです」
「なぜですか」
「忘れ物を取りに」
「それはやめたほうが良い。次の電車を逃したら、あなたは帰れないですよ」
「はい?」
聞き返したつもりだったが、それっきり返答はなかった。
もう帰れないって、次が終電って意味だろうか。
そんなに長い時間眠っていたっけ。
なんとなく腑に落ちなかったけれど、無断で家に帰らなかったりしたらお母さんに怒られる。スマホをなくすより、そっちの方が怖い。
いいやもう、明日取りに来よう。
繭はベンチに座りなおした。
しかし、いくら待っても電車はやってこない。
自分の体内時計に全く自信はないけれど、かなりの時間待っている気がする。
ちらりと横目で男の手を確認する。先ほどとぴったり同じ位置で、手は静止している。
こんな時にどうやって時間を潰せばいいかわからず、やめた方がいいと思いつつも、男に声をかけてみた。
「あの、座らないんですか。椅子空いてますけど」
少しだけ間があって、
「ええ。私は大丈夫です」
会話が終わってしまった。やめとけばよかったと、少し後悔する。
けれどあまりにも暇なのだ。暇なJKに怖いものなどあるものか。
「電車、ちょっと遅くないですか。結構待っているのにこないですよね」
また少し間があった。
「…まだ2、3分ほどしか経っていないですよ。そのうち来るでしょう」
2、3分?そんな程度しか経っていなかっただろうか。夜は真っ暗で、どれだけ時間が経とうが、感じ取るすべはない。スマホ弄りたいな、切実にそう思った。
向かい側のホームをなんとなく見つめてみる。いつもと変わらない眺めだけれど、ふと気づいた。
お地蔵さん…?
小さくて目を凝らさないと気づかないけれど、確かに赤い布を纏った石像が、ベンチのすぐ横にひっそりと建っていた。
あんなものあったかな?
普段はスマホを弄っているので、気づかなかったのだろう。
「学校は、楽しいですか」
「え?」
唐突な質問だった。まあ普通に楽しいです、と繭は答えた。
「そうですか。それはいいことですね」
「はあ、ですね」
この人は何が知りたいのだろう。
ベンチから下ろした足をブラブラさせてみる。けれど、それで退屈が紛れるわけではなかった。
「私には地獄でしかなかったのに」
素敵なことですね、と男は続けた。
淡々と聞こえていた声は一瞬だけ、感情的な色を帯びる。
繭はぎょっとして横を向いた。すでに男は、平然としている。
「どんなことが楽しいですか」
もうこの男に関わらない方がいいのではという気がしてきた。けれど、電車は一向にやってこない。
電車に乗らなければ、帰れないのに。
「…えっと、部活とか、友達と喋る時間だったりとか」
心のどこかでアラートが鳴っている。質問には答えるな、と。けれど、無視をするもの危険だと直感が伝えてくる。どうすればいいの。
夜風が吹くと、汗で湿ったシャツが冷えて肌に当たる。冷たさに、肌が粟立つ。
「どんな部活に入られているのですか」
「…美術部、です」
寒いな。とても寒い。真夏なのに。
繭は両手で体を抱きしめた。
「絵がお好きなんですね。どうです、顧問の先生は。教えるのがお上手でしょうか」
「…そうでも。もともと、卓球部の顧問だったらしいですし」
なぜだか、男が笑った気がした。
「…偶然ですね。私も学生の頃は卓球部でした。これでも、なかなか上手かったんですよ」
繭は相槌を打たなかった。それでも男は、構わず話し続ける。
「しかし、貧しくて苦労をしたものです」
電車はまだ来ないのか。何分経ったのだろう。そろそろ来てもいい頃じゃないのか。
もしかして、男は嘘をついているのでないだろうか。
…今日はもう、電車は来ないのではないだろうか。
「貧しさはダメですね。人を簡単に貶める。…ねえ、貴女は友を失ったことはありますか」
声は一層低く、冷ややかに響く。静けさの中に溶けていくようだ。
「ないでしょう。私は友に死なれましたよ。ねえ、私がどんな気持ちだったかわかりますか」
ねえ、と呼びかけてくるのに、男は繭の答えなんか待っていないみたいだった。
「…あいつが死んだと知った時ね、ずるいなあって思ったんですよ。人を裏切って貶めたくせして、って。
もうね、悔しくて、それはそれはもう悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて憎くて憎くて本当に恨めしかったですよ。
そうでしょう? ねえ、貴女はこんな気持ちになったことがありますか」
問いかけられるたび、全身全霊の怒りの矛先が自分に向けられているようで、恐怖でうまく声が出せなかった。
話をまともに聞く余裕などなかった。
激しい憎悪の口調とは裏腹に、衝立から見える男の手首はずっと静かに傘を掴んでいる。
…微動だにしていない。
まるでそこに別の二人が存在しているようだった。
二人分の体があるのに、声が聞こえるのは一人分だけ。ありえない妄想に、身を震わせる。
男の声から感情が抜け落ち、再び淡々とした口調に戻った。
「ああ、いきなりこんな話をされてもご迷惑でしたね。どうです、まだ時間もありますし、私の話を聞いていただけませんか」
「…電車は、いつ来るのでしょうか」
声を震わせながら、かろうじてそれだけ言った。
「すぐに来ますよ。それまでの間だけでも、ねえ。付き合ってはいただけませんか」
やめてほしい、と言おうとしたが、声が掠れてうまく話せなかった。喉が異様に乾く。唾を飲み込む音が、静寂の中で響いた。
「ありがとうございます。お優しい方ですね」
背筋が凍りつく。聞くなんて言っていないのに。
「あれは、私が高校に入学した年でした。もともと勉強は好きでしたが、本当に貧しくてね。というのも、父親が病気で働けなかったのです。代わりに母がパートをして、なんとかやりくりをしている状態でした。本当なら高校なんて行かずに就職するべきでしたが、両親に頼み込んで、学費免除の枠で合格することを条件に勉強することを許してくれました」
男は淡々と、淡々と身の上話を打ち明け始めた。
「私が合格した高校には、もう一人、奨学生として入学した男がいました。名前を早汰と言いました」
早汰という男子生徒は、両親が離婚し母親に引き取られた。早汰の母親は夜に体を売って生活費を稼いでいたらしい。
「境遇が似ていたこともあって、私たちはすぐに意気投合しました。お互い貧しい家庭で育ったものですから、流行りの遊びにはついていけません。同級生が新作のゲームに興じる中、私たちはお互いの家で勉強ばかりしていました。私は文系の科目が、早汰は理系の科目が得意だったので、お互いに教えあいながら奨学生の枠を落とさないように必死でした。そんな日々の中で、転機が訪れました」
男は言葉を切った。昔を懐かしむような響きはないけれど、さっきまでの殺気立った空気は無くなっていた。
「私の父親が無事退院することになりました。私の家計は幾分か楽になりました。父親が順調に回復して、元の職場に復帰できるようになったからです」
繭はただ黙って聞いている。
「そんな時ね、両親から言われたんです。『苦労をかけたね。これからは何も我慢しなくていいよ』ってね。と言っても、やりたいことなど勉強以外ありませんでしたし、早汰をほったらかして遊び歩くなんてことも考えられませんでした。悩んだ挙句、部活に入ることにしたんです」
贅沢ではないけれど、勉強の息抜きになればと思いまして。男は言った。
「案外、楽しかったんですよ。センスがあったのか、県大会の予選で優勝もしましたね。そんな私の様子を近くで見ていて、早汰も『自分も卓球部に入る』と言い出しました。そりゃあ、心配でしたよ。早汰の家は、どんどん苦しくなっているように見えましたし。昼飯すら持ってこれない日もあって、しょっちゅう弁当を分けてあげたりしたものですから。一緒に卓球ができるのは嬉しいけれど、道具やユニフォームだって揃えなければいけないし、部費だってかかります。これは遠征試合のための積立費なんで、毎月3千円ほどでしたが、早汰の家にはかなりの負担だと思いました。けれど早汰は『親が再婚するんだ。新しい父親が払ってくれるって言っている』と、聞かなくてね。まあでも、そういうことならと、引き止めるのはやめました。相手が誰だか知りませんが、稼ぎ柱ができるなら安心だと思いました」
電車は、いまだに来る気配がない。あたりは静寂のままだ。繭は半分、諦めていた。どうせこの男に騙されている。
危なそうな男だが、話を聞いていれば良いのなら、大したことはない。
このまま、やり過ごせれば。
「早汰が入部してから、部活はさらに楽しくなりました。もともと気の合う友人でしたし、話題が増えてずっと二人で話していましたよ。一緒にいすぎて、『お前ら、カップルか?』と噂をされるくらい」
ふふ、と柔らかな笑い声が聞こえた。しかしすぐさま、氷点下の声で男は続ける。
「けれどね、問題は発生しました。…諸行無常と兼好法師は言ったそうですが、本当にその通りですね」
あまりにも長い時間、男が黙ってしまったので、繭は急に心配になった。そんな恐ろしげな雰囲気で黙りこまないでほしい。心臓が壊れるくらいに強く鼓動していた。
「無理して、話さなくてもいいですよ…」
恐る恐る言ったが、男は、
「ああ、またこれだ。…すみませんね。思いだそうとすると、怒りで頭が真っ白になるのです」
そんなに感情が高ぶるなら、もう話すなよ。そう怒鳴りたい気持ちになる。
「…早汰が入部して、四ヶ月くらい経った頃ですかね。部室の鍵開けの当番表をもらいに、三年生のクラスを訪ねた時のことでした。部長と副部長が話しているところを偶然聞いてしまったのです」
”ーいやあ、あの一年には本当に困るよ。また今月も部費払わなかったしさ”
”まじかよ。もう顧問から言ってもらえば?”
部長は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
”ムダだよ。あいつ、奨学生だろ?苦労してるんだから大目に見てやれって言われたし”
”うっそ、黙認かよ。ずりい”
「私はすぐに教室から立ち去りました。しばらく心臓は早鐘を打ったままおさまりませんでした。部長たちはその話の最中、私の名前を出していたからです。私が部費を払わずに困る、と。でも私は、部費は欠かさず納めていたのですよ」
あの時、立ち去らずにきちんと問いただしていればよかったのですがね、と、男は力なく言った。
「時間が経って少し気持ちが落ち着いてくると、私はどうやって自分の潔白を証明するかを考えました。ええ、犯人は一人しかいませんでしたから。御察しの通り、早汰ですよ。私が学校に部費を入れた紙袋を持ってくると、早汰は『自分のぶんと一緒に提出しておくよ』と言って毎回私の紙袋を回収していたからです。誰かが私の集金袋を中抜きしたとするなら、早汰以外ありえないと思いました。部活を始めてから、昼飯を持ってこなくなる頻度も増え、しわくちゃのシャツで登校するようになっていました。親が再婚しても、家庭は裕福にはなっていないのだと容易に想像できました」
男は自分の気持ちを落ち着けるように、ひとつ深呼吸をした。
「私はその日の部活帰り、早汰を呼び出して問いただしました。本当のことを言ってくれと。しかし早汰は顔を真っ赤にして怒り出しました。自分はそんなことをしていない、というのです」
その言葉があまりにも真に迫っていたものですから、私はひどく悲しい気持ちになったのを覚えています、男はつぶやくように言う。
「私は、先ほど耳にしたことを早汰に伝えました。私が集金袋を早汰に渡し、早汰がそのまま顧問の先生に提出
しているとするなら、ネコババできるのはお前しかいないのだと、思っていることをはっきりとね。するとどうでしょう、思い当たる節があったのか、早汰はみるみる青ざめていきました。『先生と話をしてくるから待っていろ』と言ってその場を立ち去りました。ええ、悲しかったですよ。私は早汰の反応をみて、彼がやったことを確信しました」
男は、ちっとも悲しくなさそうだった。
「しばらく待っていたのですが、一向に早汰が戻ってきませんでした。しびれを切らした私は、迎えに行くことにしたのです。そうしましたら、教室の中から早汰と顧問の先生の怒鳴り声が聞こえてきました。普段は穏やかな彼でしたので、怒っている声を初めて聞きました。驚きましたね。私はおそるおそる扉をノックしました。言い合っている声はピタリと止み、『誰だ』と先生の声がしましたので、私は名乗って扉を開けました。早汰と目が合い、彼の瞳が真っ赤なことに、一層驚きを強くしましたよ。ねえ、その後早汰はなんと言ったと思いますか」
それまで語り口調だったのが、急に質問を投げられ、繭は狼狽える。
「…わかりません。早汰という人は何て言ったのですか」
”先生が盗ったんだ”
「早汰が言い終わらないうちに、先生は早汰を殴りました。『嘘をつくな!』といってね。早汰は翌日から部活に来なくなりました。部長から聞きましたが、退部届けが出されたそうです。先生は変わらず、何事もなかったかのようでした。まあもともと、顧問といっても名ばかりで、毎日練習を見に来る方ではありませんでしたが」
生徒を殴っておいてよく問題にならないな、と繭は気になった。
「その日以来、早汰と部活の話はしなくなりました。部費の件も、深く追求できる空気ではありません。それ以外、私たちは不自然なくらいいつも通りでしたよ。しかしね、彼は遠くをぼうっと見つめることが多くなりました。瞳は恐ろしいくらい真っ暗で、何も映っていないような心持がしました。空恐ろしかったですよ」
瞳に何も映らないほど、暗く澱んだ目。うまく想像できないけれど、きっとそんな目で見つめられたら竦んでしまう気がする。
「けれどね、私はやっぱり部費の件が気になっていました。そりゃあそうですよ。ちゃんと払っていたのに、払っていないことになっていたのですから。部活終わりの放課後、私は部長を呼び出して事の次第を話しました。彼はまず、迂闊にも私に愚痴を聞かれてしまったことを謝りました。真面目な方ですね。しかし、部費は早汰か先生が中抜きをしているかもしれないと私が話しますと、『少なくとも先生ではありえない』と言うのです」
男が部長から聞いたと言う話は、次の通りだった。
早汰が入部した頃から、回収された集金袋は、先生と部長で一緒に中身を確認するようになったらしい。顧問の先生は早汰から二人分の集金袋を受け取った後、毎回糊付けされた袋の上部分をハサミで切って、上部が開いた紙袋を中身ごと部長に渡しているらしい。部長は中を確認し、名簿にチェックをつけていくのだそうだ。
「部長は言いました。『君の名前が書かれた集金袋はいつも、中身が空だった』と。しかしそんなことはありませんよ。私は母がちゃんとお金を入れて封を閉じるところを見ていましたから」
私は思ったことを口にする。
「それって、早汰って人が袋を運んでいる途中に空の袋とすり替えたのでは」
しかし男はすぐに否定した。
「それも考えましたがね。集金袋は毎回手書きで自分の名前を書くのです。それに袋自体は、学校名が印字された少し大きめの封筒で、表に先生が手書きで何月分の集金と書くのです。生徒が自分で代えを準備するなんてできませんよ」
「じゃあやっぱり、すり替えるなら先生しかできない、ってことですか。でも目の前で袋を開けて渡しているなら、そんなことはムリか」
「部長は、早汰から袋を手渡された瞬間も見ているそうです。見た上で、不自然なところはなかったと」
私は黙るしかなかった。それはつまり…
「貴女も、私が嘘をついていると思いますか」
ひやり、と氷を背中に押し当てられた心地がした。
「いや、その」
水滴が顎を伝う。汗は乾いたと思ったのに。
「貴女は誰が怪しいと思いますか」
迂闊な発言などできない張り詰めた空気が漂う。正直に言えば、繭は男の母親が怪しいと思っていた。
お金を入れたふりをして何も入れずに封をしたのでは、と。
けれど、なぜか口にするのは躊躇われた。
繭がずっと黙っていると、
「…早汰はね、私が部長と話をした一週間後にこの駅のホームから飛び降りて死にました」
体が強張る。今、一番聞きたくない話だった。
不穏な気配がする。これ以上、聞いてはいけない。
「早汰が死んだ後、私は周りから責められました。早汰を泥棒扱いしたことは、部長の口から広まってしまっていました。みんな、仲の良かった私が早汰を犯罪者扱いしたことを苦にして死んだんだと信じて疑わなかったのです。その日から私はいじめの標的でした。常に学年主席だった私を、面白くないと思う人間が多いことは気づいていましたが、彼らに私をいじめる正当な理由ができたと思ったことでしょう。水を得た魚というのは、まさにああいった感じでしょうか。私は精神的にひどく疲れてしまいました。
そう、あれは雨上がりのジメジメとした暑い日のことです。私はいつものようにホームに立って電車を待っていると、突然背中を誰かに押された気がしました。あっと気づいた時にはもう、線路に落ちていました。遠くで遮断機の降りる音が警告のように響きます。私は焦りました。私は背が高い方ではありませんでしたが、ホームは思った以上に高くてうまくよじ登れなかったのです。持っていた傘と鞄をひとまずホームに上げて、そして足から這いつくばるようにしてなんとか自力で上に上がりました。使ったことのない筋肉を使うとひどく手足が痙攣するのですね。どれほど恐ろしい目にあった時よりも私はパニックを起こし腰が抜けてしまいました。
なんとか傘を杖にして立ち上がろうとした時、傘の柄に引っかかった鞄の重みで私は線路側に大きくバランスを崩しました。すでに電車はホームに到着しようとしていました。
どん、と言う鈍い衝撃音がして、私は右腕に火で炙られたような強い痛みを感じました。咄嗟に視線を走らせると、私の腕はありえない方向にぐにゃりと曲がっていたのです。一瞬のことでしたが、私は鮮明に覚えていますよ。
私はその手で傘を握っていましたが、手が握られたまま動かず、傘を離すことができませんでした。私の手が曲がる方向に大きく回転した黒い傘は、車両に付けられたミラーに引っ掛かり、私はホームを引きずられました。
痛みを痛みと感じられないほど、私は意識が朦朧としておりました。ざらついたコンクリートの地面に叩きつけられ、ヤスリに押し当てられたように顔や腕、腹の皮膚が削られていく音をぼうっと聞いておりました。きっと点字ブロックは私の血でひどく汚れてしまったことでしょうね。
そのまま私は意識を取り戻すことなく、死んだのですよ」
沈黙が辺りを支配した。
繭は、緊張と恐怖で吐きそうになるのを堪えた。この場から逃げてしまいたかった。
足がガタガタと震える。貧乏揺すりのように小刻みに揺れる両膝を両手で必死に抑えこむ。
口が上手く閉じられない。叫び出さないよう、肩に口を押さえつけた。吐息さえ、男に聞かせてはならない気がした。
「ああ、とても長い話になってしまいましたね。おや、ご気分が優れないのですか。顔色がよろしくないですよ」
すぐ目の前から声が聞こえた。俯く視界の端に人影が写り、繭はひっと小さく悲鳴を漏らした。
「そうそう。最後に貴女に聞きたいのです。部費は、なぜ私の紙袋から消えたのでしょうね」
人影は移動し、繭の隣に腰を下ろした。姿を見ないように必死だった。気をぬくと、なぜか男の方を向いてしまいそうだった。
「あ…わ、しには、わかりませんっ…うっく」
恐怖はもう限界に達していた。涙がとめどなく溢れてくる。けれど、拭うことすら恐ろしくてできなかった。
「本当に不思議なんですよ。私の母はきっちりした人でしてね。特に金銭に関しては。必要最低限の食費や生活費以外は、全部貯金箱に入れて管理をするくらい、無駄遣いを嫌っていました。私の部費も、その貯金箱をほじくって出していたみたいでしてね」
カンカンカンカン…
遠くで、踏切が閉じる音が聞こえた。安堵で、思わず力が緩む。
やっと帰れる…。
「一方で、早汰の母親は浪費家でした。そのせいで、せっかくのブランド物の長財布にはお金はほとんど入っていなかったみたいですね」
早く。早く。早く!!!電車、きて!!!
ブレーキ音を軋ませて、車両はホームに停車した。運転席が暗くて見えないが、客席には乗客は一人もいないようだ。
繭はぱっと立ち上がり、ドアが開かれるのを待った。しかし、ドアは開かれない。
「まだだめ、ですよ」
すぐ耳元で声がした。繭は叫んだ。背後に全神経が集中する。心臓は隠しきれないくらい大きく鼓動している。
「もうやめて!!!!帰らせて!!!!」
「これが最後の問いですよ。大丈夫。答えれば帰れます」
”ずっと気になってしまって極楽に行けないのです。これが未練なのでしょうね。縛り付けられているみたいに、ここから離れられない”
囁かれているのに、息遣いが全く感じられない。吐息も当たらない。
そんなことが、この男がもうこの世の存在ではないということを繭に実感させた。
「ねえ、何が真相なのでしょう。貴女にはわかりますか」
繭はなんとか意識を保ちながら、必死で考えた。けれど、何が真相かなんて、そんなのわかりっこない。
「ねえ、貴女も、私が盗んだと思いますか」
繭は首を横にぶんぶんと振った。それだけは頷いてはいけない気がした。
「ああよかった。そう言っていただけて嬉しいです。では、誰が盗んだのでしょうか。私はこの答えが知りたいのです。あれは早汰の仕業だったのか、先生の仕業だったのか。それとも別の誰かだったのか」
パニックでまとまらない頭で、繭は男の話をなんとか思い返していた。この男はなんて言っていたっけ…
正解じゃなくてもいい。男が納得するような答えを言えばいいのだ。それで私は、家に帰れる。
男は早汰に部費の入った袋を渡し、早汰はそれを先生のところに持っていった。先生はその袋をハサミで切って開けて、そのまま部長に手渡す。部長は中身を取り出し、名簿にチェックを入れていく…
だめだ。どうやったってわからない。やっぱり、最初からお金なんて入っていなかったんじゃないの。でもそんなことを言っても、男を怒らせるだけな気がする。どうしよう。どうしたら。
涙目で考え込んでいた繭の頭にふと、ある考えがよぎる。
もしかして…
少しためらったが、男に問うてみることにした。
「私が答える前に、教えて欲しいことがあるの」
「…どうぞ」
男の声は、相変わらず冷ややかで、感情が読み取れない。
心が折れそうになる。
いやいや、しっかりしろ私!!
「集金袋って、どれくらいの大きさだったの」
「そうですね、普通の封筒より少し大きいくらいですので、縦が25センチ、横が15センチくらいだった気がします」
お札より、1、2回り大きいくらいか。
「顧問の先生は、ハサミで封をあけてって言ったよね」
「はい」
「どこらへんの位置で切っていたの」
「部長が実物を見せてくださったことがありましたが、封をした側の、上から3センチくらいだったかと思います」
繭は確信を強めた。
「そうなの。ありがとう。私わかった気がする」
背後の空気が少し和らいだ気がした。
「そうですか。聞かせてください」
「あなたのお母さん、貯金箱に全てのお金を入れていたって言ったよね。お札も貯金箱の中に入れていたんでしょ」
「はい、確かに入れていましたね」
「ねえ、じゃあそのお札は貯金箱の穴から入るように折り畳まれていたんじゃない?」
「その通りですよ」
その答えに安心し、繭はかすかに笑んだ。
「じゃあやっぱり、犯人は先生だよね」
「なぜでしょう」
きっとこの男は答えをわかっている。
「あなたのお母さんは、取り出した札を広げず折りたたんだまま集金袋に入れていたんだね。先生は、あなたが入部してからずっと集金袋を回収してたから、そのことはもちろん知っていたと思う。ただ、後から集金を手伝うようになった部長は知らなかったんだよね、たぶん。
先生は、あなたの集金袋をこっそり横に振って、中のお札が封側の端に来るように調整した。大きい封筒なら中の札は簡単に動かせたと思う。そのまま札を切らないように端を切り落として、部長には空の方の袋を手渡したんだ」
「なるほど。そういうことだったのですね」
「長財布を使う早汰…さんのお母さんは、札を小さく折るなんてしないと思うし」
「ええ、しないでしょうね」
プシュッという空気音の後に、目の前で電車の扉が開いた。
あれ?おかしいな。
中に誰も乗っていないと思ったけれど、まばらだが乗客はいたらしい。
誰もいないように見えたんだけれど。
「貴女のおかげで、すっきりしましたよ。私以外、この事に気付く者がいなかったので、自信がなかったんです」
”これでようやく、安心してーーー”
「え?」
男はボソッと何かを呟いたが、繭は上手く聞き取れなかった。
「お乗りにならないのですか?もう貴女は帰れますよ」
気付くと、先ほどまで真っ暗だった運転席には車掌さんがいて、迷惑そうな顔をしてこちらを見ていた。
先程までの不穏な空気は跡形もなく、繭はようやく肩の力を抜いた。
「乗る、乗ります!」
慌てて車内に足を掛けようとしたところで、繭はずっと気になっていたことを口にする。
「最後に聞きたいんだけど、早汰…さんの苗字ってなんていうの」
男が一瞬口ごもった気がした。
「宮本、です。宮本早汰」
繭はゆっくり目を伏せた。
「そう。宮本早汰さん。成仏しているといいね」
男は何も答えなかった。
繭は恐る恐る振り向くと、そこには人影はなく、一本の黒い傘だけが落ちていた。
「お客さん!乗るの?乗らないの?」
「あ、乗りますって!」
車掌に急かされ、繭は黒い傘を拾って電車に乗り込んだ。
電車に揺られながら、繭は鞄を開け、中からくしゃくしゃになったプリントを引っ張り出す。
それは部活動のスケジュール表だった。繭の所属する美術部は文化部の中で最も影が薄く、そのため顧問もおざなりだ。
夏休みも、来たい時に学校に来て絵がかける訳ではなく、顧問が学校に来ている日しか美術室を使わせてもらえない。
スケジュール表には、八月分のカレンダーが印字されている。顧問が学校にいる日は、日付の下に宮本と名前が書かれていた。
”昔は卓球部で顧問をしていたんだよ”
かつて顧問と交わした話を思い出す。
”卓球も卓球で、楽しかったなあ”
そういって豪快に笑う宮本先生は、いつもどこか虚ろな目をしていた。
先生。先生はもう、電車に乗らない方がいいかもしれないね。
男の小さく呟いた言葉を思い出しながら、繭はそんなことを思った。
”これでようやく、安心してーーー”
繭は黒い傘を握りしめる。先生の身を案じつつも、なぜだかこの傘を渡さなければならない気がしていた。
まるで体が乗っ取られたように、気持ちとは裏腹の行動をとる。
”これでようやく、安心してーーー殺せる。”
ぶるっと身震いし、繭は周囲を見渡す。
窓ガラスに映った自分と目があった。
ガラスに映る自分を見てゾッとする。口元が笑みで歪んでいたからだ。
私、いつの間に笑っていたっけ…?
なんだか自分が自分じゃないような気がして、繭は如何しようも無い不安に襲われた。