起
「…“哲学かぶれ”は往々にして思考が落ち込みやすい。彼らは考えることを生業とするから。“哲学かぶれ”が考える時に生み出すのは“思考の渦”、飲まれたものは終わりのない思考との戦いを強いられる。最初に彼らが確認されたのは一体どれほど昔のことだったかな。人類史の初めから彼らは我々と共存していた。彼らは“真人間”に影響を与え続け、最終的には“哲学かぶれ”にしてしまうか、彼ら自身が生み出す渦によって飲み込んでしまうのだよ。」
哲学の第一人者である吾妻教授は言った。−−“哲学科”というのは“哲学かぶれ”を研究する学科である。“哲学かぶれ”とは日常に潜在し、“真人間”を思考の渦に引き込む存在である。思考の渦に飲まれた人間は著しく生産性が落ちる、何事においても決断に時間を要する、様々なことが手につかなくなる、そして何より真人間だけを取り込む物理的な『渦』を生み出すのだ。『渦』に飲まれた真人間は“哲学かぶれ”となるか、そのまま一生『渦』に飲まれるかの二択である。政府は彼らの危険性を認知し、彼らの対策・研究する目的のもと、大学に“哲学かぶれ対策科”を設立したが、誰も正式名称では呼びはしない。俗に言う“哲学科”だ。僕は今、哲学科の新入生として、初めての講義を受けているのである。
教授は続けた。
「“哲学かぶれ”は法律により隔離される。我々が“アカデメイア”と呼ぶそこは彼らにとっては天国であり地獄である。真人間時代の人間関係、諸々を捨てる点では地獄であるが、アカデメイアに入るような人間は話と思考回路の似通ったもの同士だから、住み分けはつつがなく行われている。『渦』は真人間しか取り込まないから、気に病むこともない。ある意味天国でもあろう。しかし未だそれを差別だと騒ぐ“哲学かぶれ”も少なくはない。真人間の中にも”哲学かぶれ”との共存を謳い、理想論を語るものはいるが、難しいことは言うまでもない。我々は哲学を正しく修め、思考と上手く付き合うことで“哲学者”として、両者の仲介を担う人間となり、共存を可能にしていくことを求められているのだよ。」
初の講義はそう言って締めくくられた。逆説だらけの説明は文字に起こすと馬鹿が書いたようにも思える。美しくはないノートを見て若干気分が下がる。初の講義が終わって浮き立つ講義室。ざわめきはお互いの顔色を伺い、仲間を探すためのものだ。“哲学科”に進学するものには主に二種類の人間がいる。単なる変人と、復讐者だ。知的好奇心に突き動かされているものと、“『渦』に飲まれたきりの親しいもの“がいた人たちだ。とは言っても“哲学科”の性質故の、定員の多さに惹かれて入ってきたような人間もいる。大事なのだ、相手が“どんなもの”なのかを知ることは。
「君はどんなサークルに入るん?」
たまたま横にいた女が話しかけてきた。初日から馴れ馴れしいような、いや、初日だからこそ許されるような馴れ馴れしさを携えた女。人好きのする笑顔、関西人特有の社交性に混ざる胡散臭さ。そんな偏見と第一印象で身構える僕自身をなにより疎ましく思う。
「サークルに入る予定はないよ、時間もないからね。」
「そうなんかあ、うち天文サークル行こうかと思っててなあ、一人で行くのも寂しいから誰かおらへんかと思ったんやけど。」
女は然程がっかりしたわけでもなさそうな表情で心底残念そうに言った。
「それなら俺らと行こうや。」
軽薄そうな男が会話に割り込んでくる。好きにしたらいい。僕には関係のないことだ。
「うーん、でも君らも興味ないのやろ。うち、やっぱ別のサークル探そうかなあ。」
女はこの手のことに慣れてるのか、華麗に話題を転換し、その勢いで去っていった。男は僕を睨んでくるが、変わることはない、依然として僕には関係のないことだ。別の講義が始まる。
「本当にサークル入らへんの?」
二日が経ち、二回目の講義が終わった後、またしてもあの女が話しかけてきた。
「言っただろう、そんな時間も余裕もないよ、って。」
少々、しつこいのではないだろうか。それとも僕がまだ他人との距離を測りかねているだけなのか。
「君がめちゃんこ興味ありそうなサークル見つけたんやけど。」
女はしたり顔でスマートフォンの画面を見せてくる。開かれている画像はどこかのドア、そしてそこに貼り紙。几帳面さの伺える端正な、しかし主張のない文字で「哲学文献研究会」。
「これは?」
「哲学文献研究会、やと。哲学かぶれに関しての文献を研究するんやと。どう?おもろそうやろ?」
僕が興味を持った様子を見て、女は勝ち誇った顔で言った。サークルも何も興味はないはずだった。どうせ僕の願いの役には立たないからと割り切ったはずだった。そう言い聞かせていたが人並みの交友関係を切れるほど僕は人間性を捨てられなかったのだろう。あの子もこれくらいは許してほしい、とただ思う。
「…悪くないね、ところで君の名前は?」
僕も悪い顔をしていたのかもしれない。あるいはやっぱり、一人で探すのは嫌だったのかもしれない。とにかく、覚えているのは久しぶりに浮き立つような感情を覚えたことだけだ。
「笹谷鳴海や、生まれも育ちも東北や!よろしく!陰気な顔の兄ちゃん!」
花咲くような笑みで、エセ関西弁の彼女は言った。
「ところでサトくんは、復讐者よな?」
気づいたら、と言うよりは名前を言った瞬間から、彼女は僕をあだ名で呼び始めた。そこを切り取ってあだ名にすることはなかったんじゃなかろうか。と彼女のセンスを疑うような名付け。とは言ってもその名付けが特段僕に不利益を与えるわけでもないから、やはり僕には関係のないことなのだろう。
「俗に言う、それなのかもね。」
「やっぱりな!最初見た時から仲間じゃないかと思ってたんや!」
少し驚いたがおかしなことではない。『渦』の被害は減ることを知らないし、被害者も多くいるのは当たり前だ。
「そうなのか。」
…お互いに頑張ろう。そう言うのが適当だと思ったがうまく言葉は出なかった。何を、どう頑張ればいいのか、気持ちのやり場を失っただけでここに流れ着いた僕が、かける言葉を持つわけもなかった。
なんとなく投稿しました。