008 第八話
自分たちに向かって差し伸べられた手を見て、ユーナレアは片割れの後ろに隠れたまま唇に指を添えて思考を巡らせる。
クラルスの申し出を断って、子供二人だけで生きていけるほど甘い世界ではないだろう。
転生する前に聞いた情報だと魔物が出る世界と言っていたし、それでなくとも子供だけで生きていけるほど世の中は甘くはないと前世で嫌というほど思い知らされていた。
少なくとも自分たちだけで生きていけるようになるまでは、誰かの庇護下にいた方が生きていくのに苦労はしない。
最低でも、独り立ちできるまでの間は誰かの庇護下にいなければならないならばクラルスの申し出を断る意味はない。
……それに、差し出された好意を無下に断るのが申し訳ないという気持ちも、ないわけでもない。
そこまで考えて、リヒャルトはどう思っているのだろうと隣を伺い見てみれば、角度によっては灰色にも見える赤紫色の瞳が同じくこちらを伺うように見ていた。
互いに顔を見合わせて、鏡に映したように同時に同じ方向に首を傾げたふたりに、クラルスはほんの少し顔をそらして小さく噴き出した。
笑われたことに反応したリヒャルトが憮然とした表情でクラルスを一瞥し、ユーナレアは驚いたようにそちらを見るが肩を震わせるクラルスに特に問題は起きてなさそうだと判断してリヒャルトに視線を戻す。
【さて、どうしようか?】
リヒャルトは訝しげな視線をクラルスに向けながら、渋い顔でユーナレアに問い掛ける。
「(私はこのまま子供だけで生きていくのは大変だと思うし、保護してくれるって言うなら、してもらった方が良いんじゃないかなって思うけどなぁ)」
渋る様子を見せるリヒャルトにそう応えれば、リヒャルトは悩むようにもう一度クラルスの方へと視線を向ける。
小さく咳ばらいをしながら自身を落ち着かせようとしているクラルスに、渋るように前後に首を傾げ、リヒャルトはしばし考え込むように黙り込む。
「(それに、なんとなくだけどあの人は信じてもいいと思う。根拠は特にないけど)」
【……確かに、この世界で生きていくために必要な経験をまるで持ち合わせていない状態で放り出されるよりはマシかもしれないな】
やがて、ユーナレアの意見にも一理あると思ったのか、渋々といった様子でひとつ首を縦に振りながらそう告げる。
意見が一致したことに安堵して、ユーナレアは花がほころぶような笑顔を浮かべる。
ユーナレアが浮かべた笑みに呼応するように、リヒャルトの赤紫色の瞳が和らいで口元が笑みを形作る。
【それに、俺は何とかなってもユーナはこの世界のことを教えられた範囲でしか知らないからな】
「(逆にどうしてリヒトは知ってるのか、聞きたいくらいなんだけど)」
やれやれと内心でため息を吐き出したユーナレアは、後ろから手を伸ばすと自分を庇う手に重ねてリヒャルトの横に並び立つ。
リヒャルトはきょとりと目を瞬かせると、ユーナレアの意図するところを察して苦笑を浮かべた。
しっかりと手を繋いでクラルスの方へ視線を向ければ、ようやく笑いの発作が収まってきたらしいクラルスが視線に気付いたかのようなタイミングで顔を上げる。
微笑みを浮かべてふたりの動向を見守るクラルスに、ユーナレアは一つ深呼吸をしてクラルスとの間を詰めるように足を踏み出した。
リヒャルトは手を引かれるままに、その横に並んで歩みを進める。
手を伸ばせば触れられる位置で立ち止まったユーナレアに、軽く咳払いをしてクラルスが再び手を差し出す。
目線を合わせるように差し伸べられたその手に、ユーナレアはそっと自分のそれを重ねる。
握るように手を重ねたユーナレアの動きを見守っていたリヒャルトは、少し遅れて同じようにユーナレアの上から手を重ねる。
「お世話になります」
ユーナレアがぺこりと頭を下げれば、リヒャルトもそれに倣うように頭を下げる。
自分の手に重ねられたちいさなふたつの手のひらに、クラルスは目元を和ませて柔らかく微笑んだ。
『君たちがこの手を取ってくれたことを歓迎しよう。そして、これからよろしく。ユーナレア、リヒャルト』
クラルスはふたりの名前を呼びながら、手の上に乗せられた二つの小さな手を優しく握りこむ。
自分の手を柔らかく握る手のぬくもりにユーナレアが頬を薄紅色に染めて照れくさそうに笑みを浮かべ、クラルスの動きをじっと観察するように見つめていたリヒャルトも満足げな笑みを浮かべる。
『さて、と。それじゃあ、さっそくここを出ようか』
小さな手をふたつ掴んだままで立ち上がったクラルスが中腰でふたりにそう声をかけると、ユーナレアはきょとりと目を瞬かせる。
リヒャルトは少しの間をあけて、天井部に開いた大穴を見上げる。
【まさかとは思うが、俺たちを連れてあそこから出ようというつもりではないよな?】
「はははっ、確かに君たちを抱えてあそこから出ることもできるけれどね。この場所はあそこ以外からも入れるんだよ」
リヒャルトの声が聞こえていないはずのクラルスが軽やかに笑い声をあげて朗らかに告げると、手を繋いでいない方の手を軽く動かす。
曲を指揮する奏者のようなその動きを目で追いかければ、上を向けて止めた手のひらのわずか上空に光が灯った。
ぼんやりとしたその光の球は、目を焼くほどの強さはなかったが周囲を照らすには十分な光量を持っていた。
「(……魔法?)」
【否。近いが、違うものだぞ。此れは魔術だ】
『……フフッ、そんなにびっくりしなくても、これは君たちも使えるよ。ちょっとコツはいるけどね』
大きく目を見開いて驚いた様子で口を開けたまま空中に浮かぶ光を凝視するユーナレアに、クラルスは光を浮かせていた方の手で灰青色の髪を優しく撫でる。
その横に静止していた光の珠は、悪戯っぽく微笑んだクラルスが指を振るたびにふたつみっつと増えていく。
ふわふわと浮かぶイルミネーションのような光の球は、それぞれがまるで意思を持つかのように湖の外側に向かって飛んでいった。
光の珠を目で追いかければ、どうやら湖の外側には洞窟につながる穴があったらしい。
天井部に開いた穴から差し込む光が生み出した影で見えにくくなっていたようで、光に照らされて初めて湖の外側の様子に気が付いた。
光の珠がふたつ、洞窟の入り口を示すかのようにその左右で止まり、ほかの珠は洞窟の道を照らすかのようにどんどんと洞窟の中に吸い込まれていく。
「外までは少し歩くから、ちょっと失礼するよ」
軽く声をかけるとクラルスは繋いでいた手を解いて、おもむろに二人の膝裏に腕を回してリヒャルトとユーナレアを両の腕に抱え上げた。
突然高くなった視界に、ユーナレアは驚きの声を上げながらクラルスにしがみつき、リヒャルトは一瞬固まったかと思うときらきらと瞳を輝かせた。
クラルスはふたりを両腕に抱え上げているとは感じさせない足取りで小島の端に歩み寄り、助走も無しに地面を蹴った。
水に向かって飛び込んだようにしか見えないクラウスの動きに身を強張らせたユーナレアは、次いで身体を包む不思議な浮遊感に目を瞬かせた。
それは、まるで重力の楔から解き放たれたような浮遊感だった。
クラルスの背中に見えるほのかに光る大樹はどんどん遠ざかり、気が付いた時にはクラルスが対岸に軽やかに着地していた。
飛び越えた距離は到底人間の筋力で飛び越せるような距離ではなく、ユーナレアは不思議そうにクラルスと湖の水面を交互に見詰めることしかできなかった。
「(あんなに距離があったのにどうやって……?)」
【周囲の風を操って飛んでいるんだぞ】
ユーナレアが声にならない疑問を浮かべていると、答えはやはりリヒャルトから返ってきた。
湖に浮かぶ小島に向けていた視線を疑問に答えてくれる片割れに向け直して数度まばたきして見つめると、リヒャルトは不敵に笑いながら続ける。
【言ってただろう? この世界は『地球』で言うところの『剣と魔法の世界』だと。今のも、さっきの光と同じ魔術だぞ】
「(さっきも『魔法』じゃなくて『魔術』だって言ってたよね。どうちがうの?)」
迷いなく足場の悪い道を進んでいくクラルスの腕にしっかりと抱えられながら、ユーナレアは小首を傾げてリヒャルトに疑問を投げかける。
無言で顔を見合わせながら、視線だけはせわしなく動き回るふたりの様子をそっと観察していたクラルスは、おそらくふたりで会話らしきものをしているのだろうなと予想を立てる。
警戒している様子は見せるが言葉を発しないリヒャルトは、もしかしたら声帯に異常があって声を出せないのかもしれないと様子を伺っていたが、片割れであるユーナレアは声を出さない片割れの言葉をしっかりと読み取っている様子が見て取れる。
ヒト族には稀に生まれる双生児には、独自の言語でもって通じ合っていることがある。
おそらく、この子供たちも同じように何かしらの能力で会話しているのだろうとふたりの様子を見ていたクラルスは判断していた。
【そうだな……基本的なことから説明すると、この世界には空気中に『魔素』と呼ばれる成分が漂っている。濃度の差はあるが、必ず空気中に存在しているんだぞ】
「(それって、酸素みたいなもの?)」
【あちらの知識に当てはめて考えると、近いものかもしれないな。ただし、酸素よりももう少しだけいろいろな事象を引き起こすことができる。あちらの世界での物理法則を無視して、事象を引き起こす力を持っているんだぞ。ある特定の種族以外は、この魔素を使う術を持っている。これらを総括して『魔術』と呼ぶ】
「(空気中に存在している『魔素』を使うのが『魔術』……ん? 魔術が使えない種族もいるの?)」
【そうだ。この世界のヒュマニ族やマギニ族は『魔力』を持つが故に魔術を使えない代表的な種族だな。……あちらの言葉に当てはめると『人間』と『魔法族』が近いぞ】
聞きなれない種族名に目を瞬かせながら首を傾げたユーナレアは、わかりやすいように言い換えたリヒャルトの言葉になるほどと数度頷く。
「(つまり、魔法と魔術は違う術ってことなんだね。魔法を扱う種族……ひゅ、ひゅまに族? って言うのは魔素を必要としない種族ってことなのかな?)」
【いや、あちらの世界では酸素を必要としない生物がほとんど存在していなかったように、魔素を必要としない種族はこの世界にはいない。ヒュマニ族やマギニ族なんかの魔力を持つ種族は、体内に魔素を取り込んで魔力に変換する器官を持っている……らしいぞ】
恐ろしく説得力のある口調で説明していたリヒャルトが最後に付け足した伝聞系の言葉に、ユーナレアは「あれ?」と思わず声を漏らす。
『どうかしたかい? ユーナレア?』
「あ、いえ。何でもないですぅ……」
何か気になることでもあったかと伺うようにユーナレアに視線を向けたクラルスに、何でもないと首を横に振ってユーナレアは消え入りそうな声を上げながら顔を伏せる。
不思議そうに首を傾げたクラルスだったが、何でもないと言っているのだからと気を取り直して進行方向へと視線を戻した。
それを視線だけで確認したユーナレアは、やってしまったとほんのり熱を持つ頬を両手でそっと抑える。
「(つい声に出しちゃった……。恥ずかし……)」
【恥ずかしがるようなことではないだろう?】
「(リヒトの声は聞こえてないんだから、一人でしゃべってる変な子だと思われちゃうでしょ。って言うか、あんなにすらすら説明してたのに『らしい』って)」
【ああ。俺は『知識』は持ち合わせているが実際に世界に生れ落ち、自我を持つのはこれが初めてだからな。ユーナが知らないことも知ってはいるが、本当に『知っているだけ』だ。本で見たことのある知識を披露しているのに近い感覚だぞ】
「(そんな感じなの?)」
【そんな感じだぞ】
頬にあてた手がじんわりと熱を持つのを感じながら首を傾げたユーナレアに、リヒャルトは力強く頷きながら同じ言葉を繰り返す。
【実際に自分で確かめた情報ではないからな。情報としては不確定だと感じる要素があっても仕方がないだろう?】
「(あ~……わかるかも。やっぱり自分で確かめるのが一番確実な情報だよねぇ)」
頬からぱっと手を離して両手で軽く握った拳を作り、同意を伝えようと何度も頷いて見せる。
同意を得られたことで、リヒャルトは喜色が滲む不敵な笑みを浮かべた。
その心のうちが、互いの共通点を見つけて喜んでいるのだと感じ取ったユーナレアも、リヒャルトが浮かべたのと同じような喜びに表情を綻ばせる。
光を灯しながら進むクラルスは、抱え上げたふたりが笑いあっていることに気付いてつられたように笑みを浮かべる。
ふわりと頬を掠めた涼やかな空気に、クラルスは二人に声をかける。
『おふたりさん、もう少しで出口だよ』
突然声をかけられたことで揃ってクラルスを見上げたふたりが、同じような動きで道の先に視線を向ける。
視線の先には、ぽっかりと口を広げた出口らしき穴が見えていた。
穴の向こう側は、差し込んでくる光のせいで白く染まっていて全く様子が分からない。
だが、頬を撫でる風がそれまでどこか閉鎖的に土の香りを纏っていたのに対して、爽やかなそれに代わったのを感じる。
クラルスは風の入り込んでくる穴に向かって足を止めることなく、歩みを進めていった。