005 第五話
岩肌が露出した薄暗い洞窟の奥に、眩いばかりの光を放つ水面が揺らめく。天井部にはぽっかりと穴が広がり、そこから差し込んだ日差しが洞窟内に光の柱を創り出している。
光を反射して洞窟の中を明るく照らし出す洞窟湖の中ほどに、ぽつんと小島が浮かんでいた。
真ん中に樹が一本生えているだけのその小島に、青みがかった白色の卵と黒みがかった灰色の卵が二つ並んで陽の光を反射して不思議な輝きを放つ藁の上に置かれていた。
不意に、黒みがかった灰色の卵が揺れる。
コツリコツリと硬質な何かで叩くような音を内側から鳴らして、黒みがかった灰色の卵は外に出ようとしきりに動く。
揺れる卵はしばらく内側から打音が聞こえていたかと思うと、始まった時と同じように唐突に音が途切れる。
音が途切れると、今度は青みがかった白色の卵からコツコツと打音が鳴り始める。
それは、黒みがかった灰色の卵から聞こえてきた音よりも弱弱しい音だったが、聞こえなくなったもう一方の打音を探るように頻りに規則的な音が響く。
青みがかった白の卵から聞こえる打音が10回を超えるところで、呼び掛けに応えるように黒みがかった灰色の卵からはっきりとした打音が再び鳴り出す。
それに安心したように、青みがかった白色の卵から聞こえていた音がやんだ。
それからしばらく、黒みがかった灰色の卵が外に出ようと奮闘する音が周囲に響き、その音が聞こえなくなると青みがかった白色の卵から心配するような打音が聞こえてくるというのが繰り返された。
やがて硬質な殻を叩く音の中に、硬いものが割れる音が混ざり始める。
一度何かが割れるような音がすれば、あとは簡単で少しずつ殻が割れる音は大きくなっていった。
幾度となく繰り返された打音は何度か途切れながらも、その欠片を不思議な光沢を放つ藁の上に落としはじめる。
ひときわ大きな音が聞こえて、卵の中身がとうとう姿を現す。
それは、艶やかな蜜色の髪をした赤みの強い青紫色の鮮やかな瞳をした少年だった。
容姿は幼いながらも整っていて、将来性を感じさせる端正な顔立ちをしていた。
その手足はほっそりとしていたが、子供らしい柔らかさは失っていない。
人間によく似た姿をしている少年だったが、腰元から生えた黒い鱗に覆われた尻尾が人間とは違う生き物であることを示していた。
少年は割れた場所からよろよろとふらつく足取りで殻の外へと出てくると、髪についた殻を振り落とすように数度頭を振ってからぐっと背中を伸ばした。
それに合わせて、肩甲骨のあたりから生えていた皮膜の張った翼が広がる。
翼を数度羽ばたくように動かした少年は、ふらりと立ち上がると光を反射する水面に吸い寄せられるように拙い足取りで近づいていく。
立ち上がるとはっきりと人間との違いが露わになった。
少年の細やかな肢体は、全体的に夜を彷彿させる濃紺色の鱗に覆われている。鱗は特に生物としての急所に集中していて、関節のあたりは白く透き通るような肌色が露出していた。
小島の端で足を止めた少年は、風で小さな波紋を創り出す水面を少しの間眺めていたかと思うと、そこに手を差し入れると水をすくい上げて勢いよく飲み始めた。
口元を水で濡らしながら満足するまで喉の渇きを潤した少年は、天井部に開いた穴から降り注ぐ日差しに目を細めた。
蝶のように翼を広げて、全身で日の光を浴びる少年の姿は一枚の絵画のようだった。
身体いっぱいに日光を浴びた少年は、自分が入っていた黒みがかった灰色の卵の横に転がる青みがかった白色の卵を振り返る。
広げていた翼を折りたたんで、立ち上がった少年はしっかりと地面を踏みしめて青みがかった白色の卵の傍に歩いていく。
少年が殻を割って外に出てしばらくは音がしていなかったが、何が起こっているのか伺うようにしきりにコツコツと軽い打音が聞こえてくる。
外に出てくるつもりはないのか、そのくらいの力では硬い外殻を割ることはいつまでたってもできないだろう。
少年はしばらく何かを考え込むようなそぶりを見せた後、こぶしを固く握って振り上げた。
* * *
気が付くと、少し窮屈に感じる場所で眠っていた。
狭いそこは不思議と安心できる場所で、心地よい微睡みに少しの間目を伏せると手足を体の中心に寄せる。
長い夢を見ていたような気がする。
否、あれは夢ではなく、確かに自分が経験したことのはずだとかつて悠奈と呼ばれていた少女が心の中で呟いた。
記憶は明確に残ってはおらず、深い眠りについたときに見る夢のように朧げなものでしかない。
しっかりと覚えているのは自分のかつての名前と生前に得た知識ぐらいのもので、家族の顔も名前もうまく思い出すことができないが、不安はなかった。
転生する前に、あらかじめ説明されていたのが大きいのかもしれない。
どうしてか、そういうものなのだと納得している自分が存在していることに気が付いて小さな驚きを持った。
よく自分の記憶を探ってみれば、どうやら『地球』での記憶が曖昧になっているらしい。
家族の優しさや思い出は残っているのに、靄がかかったように顔や名前を思い出すことができない。とても大事にしてもらったことは覚えているのに、慕情や郷愁は感じなくてどこか画面の向こう側の世界のように感じてしまう。
それでも、優しい家族と共に過ごした短いながらも幸福な日々の記憶はすべてを忘れてしまったわけではないようで、家族と過ごした思い出は朧げではあるが確かに残っている。
確かに、彼らと過ごした日々が自分のルーツなのだとつながりを感じる。
名前も顔も思い出せないが、確かに与えられていた愛情は憶えていた。
他にも、かつて暮らしていた『地球』で最後に交わした鬼神との会話はほとんど覚えていないのに、不思議と自分を転生させた少女の姿をした神との会話ははっきりと思い出すことができた。
あれは、夢ではなく自分の前世であったのだと再確認して、自分がいる場所を確認しようと身体を起こせばすぐにこつりと頭に固い何かが当たった。
あまり重厚感のあるものではないらしく、ベニヤ板のような薄さを感じたが何事かと目を凝らす。
だが、薄暗い空間ではそれが何かを確認することができず、そっと手を伸ばして頭にぶつかった何かに触れてみる。
それの表面は少しざらりとしていた。
感触的には、鳥の卵に似ているだろうか。
(これは『いったいなんだろう』?)
声を出さず、心の中で呟いた疑問に返る言葉はないはずだった。
―――種族名<神竜>、個体名<ユーナレア>の世界記録概念へのアクセス権限を確認。
―――種族名<神竜>、個体名<ユーナレア>の世界記録概念へのアクセスを承認。
男のものとも女のものとも判断のつかない無機質な、感情らしいものがまるで感じられない声がどこからともなく応えた。
(……え?)
疑問の声を上げるのと、視界が一瞬歪むのはほとんど同時だった。
視界が一瞬揺らいだかと思うと、一瞬の間を開けて眼前に現れた奇妙な画面にユーナレアは思わず目を疑った。
それはケームなどでよく見かける対象物に対して『調べる』のコマンドを使った時に現れる、対象物の説明が書かれた文章枠のようだった。
半透明の板のようなそれは、ユーナレアの疑問に答えるようにそこにあった。
そっと手を伸ばしてみるが、どうやら触れることはできないようで通り抜けてざらりとした鳥の卵に似た感触が手のひらに伝わる。
それ自体が光を帯びているわけでもないのに、空中に浮かぶ文章は薄暗いなかでもはっきりと読むことができた。
―――<神竜の卵(外殻)>
最高神『天空神』により創り出した神性生物の卵。ランク:判別不能
外側からの攻撃を完全無効化する。しかるべき時になれば、中にいる幼体は孵化をする。
長々と説明文や数字など様々な情報が表示されたが、ユーナレアは読み流して必要な情報だけを拾い上げる。
かつて悠奈だった頃には、それなりにゲームや漫画を嗜んでいた彼女にはそれがどういう原理で表示されたのかわからなくても、どういうものなのかは理解できた。
(これって、所謂『鑑定』っていうのだよね)
心が浮き立つのを抑えきれない様子で、触れられないとわかっていて半透明の板にも似た画面に表示された説明文に手を伸ばす。
意識を向ければ、下に続く説明が上にスクロールされてくるらしい。
必要なさそうな説明文が長々と続いているのを見て、はてと首を傾げる。
(これって、ずっと表示されたままなのかな?)
ゲームならキャンセルボタンを押せば説明文を閉じることもできたが、それらしいボタンも見当たらないしそもそもコントローラーで表示させたわけでもないのにどうやって消すのだろうと疑問に思っていれば、まるで役目を終えたことを悟ったかのように説明文が視界から消える。
突然のことに驚き、もう一度表示されないだろうかと周囲を覆う壁に目を向ければユーナレアの意志に従って説明文が表示される。
どうやら、任意で表示したり消したりできるらしいとわかって、ほっと安堵の息を吐き出す。
(よかったぁ。これで消せなかったら、そのうち視界いっぱいに説明文だらけになって前も見れなくなっちゃうのかと思った)
少しだけずれたことを考えながら、ユーナレアは説明文に再度目を通す。
どうやら安全な卵の中にいるらしいと把握して、喉の奥で小さな唸り声を上げながら思案する。
(この壁に覆われている限りは安全みたいだけど、この『然るべき時』っていつのことなんだろう? それに、外ってどうなってるのかなぁ?)
自分がどんな場所にいるのかをどうにかして知る手立てはないだろうかと考えていれば、壁の外側から硬質なもの同士がぶつかり合う音が鈍く響き渡った。
一瞬びくりっと肩を震わせたユーナレアは何かに襲われたのかと身を強張らせるが、触れている壁が揺れた感触は伝わってこなかった。おそらく、外で誰かが音を鳴らしたらしいと予想を立てる。
続けて鳴り響く鈍い音に、もしかしたら自分の兄弟が殻を破ろうと叩いているのかもしれないと思い至る。
音はしばらくなっていたが、ふと気付けばまた何も聞こえない状態に戻っていた。
少しだけ迷って、周囲を覆う頑丈な壁を音が鳴るくらいの力で叩く。
(ひえぇ、ナニコレ。めっちゃくちゃ硬い……)
壁を叩いた手を撫でながら、心の中で悲鳴を上げつつ正面の壁からそっと離れる。
すぐに背中が壁にぶつかったが、卵はわずかに揺れただけだった。
どうやら動かないように固定はされていないようだが、すぐに転がってしまうような場所に置かれているわけでもないようだった。
ユーナレアが叩いてから少しの間が開いて、再び外からコツコツと硬質なものを叩いた音が聞こえた。
やはり外に誰かいるらしいと確信して、声を上げようと口を開くが声が出なかった。
寝起きで最初に声を出そうとした時のように、声が喉の奥で引っかかっているような感覚とかすかに痛みを憶えて眉を寄せる。
数回咳き込んで、声を出そうとするが掠れた音しか出てこなかった。
そうしている間に外の誰かは硬質なもの同士を打ち合わせる作業に戻ったらしく、またしばらく固いものを叩く音が聞こえていたが稀にその音は途切れる。
外にいる誰かは大丈夫だろうかと心配になり、先ほどよりも強い力で壁を叩いてみれば少しの間を開けて返事が返ってくる。
ユーナレアと同じように硬質な卵に守られているのだろうが、外に生まれ出ようとしているらしい相手は時折休憩をはさみながらも勢いよく殻を叩いているらしい。
自分も試しに強めに叩いてみようと思いついて、外から響いてくる音が聞こえなくなったタイミングで強めに壁を叩いてみる。
さっきとは叩き方を変えて、手を横ではなく縦にして叩いてみたが、手に伝わる衝撃はほとんど変わらなかった。
(やっぱり硬いってぇ……)
打ち付けた衝撃で痛む手を撫でながら、恨めしげ壁を睨みつける。
自力では壁を破るのは難しそうだと肩を落とせば、外から聞こえてくる打音が一層強く聞こえた。
ひと際鈍い音が聞こえ、少しして硬い何かが割れる音が聞こえる。
(あれ? もしかして、割れた? 割れたの?)
もしかして外殻を割ることに成功したのかと問いかけるために壁を叩くが、返事は帰ってこない。
近づいてくるような音もなく、しきりに首を傾げながら何度も壁を叩く。
休憩を挟みながら壁を叩き続けるが、手が痛くなっただけで特に反応が返ってくることはなかった。
(どこか行っちゃったのかなぁ)
叩き続けて痛みを訴える手を撫でながら、壁にそっと寄りかかる。
寂しさが胸に去来し、なんだか無性に泣きたいような気分に陥りかけた、その時だった。
強烈な衝撃が、壁を強く揺さぶった。