003 第三話
内臓がひっくり返るような強烈な浮遊感に身をすくませながら、固く目を瞑って落ちていく。
本能的な恐怖がないはずの心臓を締め付け、正常に働かない思考回路はいっそ気絶してしまえれば楽になれるのにと悲鳴を上げる。
どれほど落ちていただろうか、何か柔らかく分厚いものを通り抜けた感触を背中に感じたかと思えば、ウォーターベッドのような独特な弾力を持つものに受け止められた感覚が身体を包み込んだ。
ひやりと肌に感じる冷たさに驚いて目を見開けば、目の前を大きな泡がぷかりと浮かび上がっていくのが見えた。
水の中に落ちたのだと理解するのと同時に、悠奈を受け止めた水の塊はまるで支えを失ったかのように周囲に弾けた。
弾けた水は飛び散る先から光の粒になって消えていき、地面に零れ落ちた水もまるで最初から存在していなかったかのように音もなく消えていった。
水に受け止められたはずの身体には水気はなく、悠奈は柔らかな雲の上に座り込んでいた。
周囲に目を向ければ、視界に広がるのは晴れ渡った青い空と一面を覆いつくす白い雲だった。
「はじめまして、異世界のお嬢さん」
床に座り込んで張りつめていた息を深く吐き出した悠奈に声をかけたのは、ふわりと赤い布を靡かせる美しい少女だった。
しゃらりと、簪が揺れて涼しげな音を奏でた。
複雑に結い上げられた髪を飾る金属の板が何枚も繋げられたような簪は、彼女が動くたびに上品な音を奏でている。
その身に纏っているのは、鮮やかな赤色の小袖に真っ白な大袖。金糸の装飾が美しい裙に、腰元で可愛らしく蝶々結びされた紕帯から垂れた4本のリボンが重力を無視してふわりと広がり、五色の飾り紐が揺れる。
領巾と呼ばれる布はないが、帯から垂れた四本のリボンは重力を無視しているかのようにゆらゆらと絶えず揺らめいている。
少女と女性のちょうど中間くらいの年頃だろうか。真っ白な肌のその少女は、可愛らしくて美しい、似ているようで全く方向性の違う二つの要素がぶつかり合うことなく調和した容姿をしている。
彼女が纏う天女のような衣装は、少女の厳かさえ感じさせる雰囲気によく似あっていた。
言葉では表せない美しい少女は、息をのんで自分を見上げる悠奈に首を傾げながら微笑みかける。
「大丈夫?」
「あ、えっと……」
鈴を転がすような耳に心地よい少し高めの落ち着いた声が、優しく悠奈を気遣う。
応えようと何とか声を上げるが、ショックから脱しきっていない思考では満足な言葉を紡ぐことはできなかった。
「焦らなくてもいいんだよ。君がそんなに混乱してるのは、あんな荒っぽい召喚になってしまったことも原因なんだろうし」
眉尻を下げて申し訳なさそうに微笑む少女は、答えられない悠奈に気にしなくていいと一つ頷いた。
「世界を跨ぐような召喚は初めてで、勝手がよくわからなかったんだ。怖がらせてしまったね、申し訳ない」
ぺこりと頭を下げながら謝罪されて、苦く笑うその表情さえ美しい少女に目を奪われていた悠奈は慌てて首を横に振る。
彼女がどんな存在なのかは知らないが、こんな現実味のない空間にいて悠奈を出迎えた少女が普通の相手であるわけがないと想像ができた。
「まずは、君の疑問に答えるとしよう。私はこの世界の管理統括を任されている。この世界における『最高神』と呼ばれるうちのひとり。決まった名前は持ち合わせていないが、我が母たる創造神にサナフィルと名を与えられている」
「私は、高城悠奈と言います」
「ふむ、あまり耳慣れない響きだね。ユーナが名前かな?」
柔らかながら凛々しさを併せ持つ口調でサナフィルと名乗った少女に、自分の名前を告げるだけで精いっぱいだった悠奈は数度首を縦に振ることで応えた。
「さて、まずは謝罪を。この世界の下位神族が行った『干渉』により、君には多大な迷惑をかけてしまったことに関して。そして、感謝を。あなたがこの世界に来てくれることを選んでくれたおかげで、この世界はまた円滑に存在することができるのだもの」
目を伏せながら謝罪を口にしたサナフィルは、胸元に手を当ててまっすぐに悠奈を見詰めると柔らかく微笑みながら感謝を口にした。
反射的に頭を下げ返して、ふとサナフィルから告げられた言葉に小首を傾げる。
「あの……世界が円滑に存在することができるってどういう事ですか?」
「ああ、あちらの冥府の神はそこまで説明はしなかったのか。いや、彼らにはそこまでを説明していなかったから、もしかしたら知らなかったのかもしれないな……」
緊張しながらも疑問を口にした悠奈に、目をまたたかせた麗しい姿の少女は考え込むように小さく呟いた。
「簡単に説明するならば、世界というのはいつも隣り合いながら決して交わることはない。稀に世界同士の接触があるが、それは高位種族にすら感知されない程度のわずかな接触でしかない。世界にはそれぞれ理があり、それらが交わることがないよう『創られて』いるからに他ならない。だが、偶然の接触に立ち会ってしまった者がこちら側の世界にいた」
サナフィルが説明しようと口を開けば、晴れ渡った青い空にまるでプロジェクションマッピングで描かれたように虚像が浮かび上がる。
それは、サナフィルの説明に合わせるかのように動き、ふたつの世界が接触した様子を描き出した。
「その者は接触により蜃気楼のように映し出された世界に目を奪われ、己の力の一部をその世界に投げ入れた。その世界では、彼の者が守護する種族が抑圧を受けることなくのびのびと生活していたからかもしれない。その内情までを窺い知ることはできないが、とにかく彼の者はその一瞬の間に見た光景を忘れることができなかった。己が守護する種族……人間が地上の覇者になっているという光景を」
虚像は次々と変化していく。
ふたつの世界が接触した場面に立ち会ったのは、女性のように見えた。
人間を守護している存在というのであれば、その女性は人間たちに信仰されている神のようなものなのかもしれない。
「この世界には、数多の種族が存在している。それらは進化の過程で分化した種族や、神によってそうあるべく造られた種族も多くいる。その中で、人間という種族は決して上位に君臨するような種族ではない。むしろ、この世界では鋭利な爪や牙を持たず、空を自由に飛び回る翼も術も持たず、丈夫な毛皮も鱗も持たない彼らは下位に位置するような存在だ。生殖能力に優れていたため、強い個は存在しなかったが数という面で優位に立つことでなんとか滅びることはなかったが、自然との親和性を得られず進化することもかなわなかった。どちらかといえば、淘汰されゆく種族。だからこそ、彼の者は人間の立場を変えられる強力な一手を欲していた」
サナフィルはことさら人間に対して肩入れしている様子はなく、当時の人間たちの置かれている状況を語るときも特別何かを感じている様子はなかった。
どこか淡々とした調子で語られる内容に、悠奈もファンタジーな世界ならそれもあり得るだろうと簡単に納得することができた。
「そこで、彼の者はあちら側の理の中にいる人間に目を付けた。『人間という種族が上位に立っている』という、あちら側の理を持った存在をこちら側に引き込めば、他を圧倒する力を持つ強力な個が生まれると思ったのだろう。そして、その目論見は成功する。あちら側の理ごとこちらに引き込んだ人間は、他を圧倒する力を持った『人間』としてこの世界に存在することになった。それだけでも、他の種族を守護している存在にとっては面白くなかっただろうけれど、それ以上にまずい爪痕を彼の者は残していた。そのひとつが、知っての通り、君を巻き込んでしまったことだ」
剣を掲げた少年が人々を導くところで虚像はかき消え、再び空は何も映し出さなくなった。
サナフィルの視線が真っ直ぐに悠奈に向けられ、そのことに背筋が自然と伸びる。
「二つに分かたれた魂は、中途半端に異世界同士を繋いでいた。彼の者はあちらに送り込んだ自分の力を使い切ってしまえばふたつの世界は再び隔てられると思っていたみたいだが、君の存在が楔となって二つの世界は長らく接触したままになっていたんだ。そして、そのことは双方の世界に悪影響をもたらす原因となった。君の世界では、世界のバランスが乱れて震災が続いたと聞いているよ」
「そう言われれば……」
確かに、悠奈が生まれた年には大きな震災があったと聞いているし、それでなくても何かしらの災害はニュースになっていた。
テレビに出演する知識人たちは災害の周期がたまたま集中しているだけだと論じていたが、目には見えないバランスが崩れていたことが引き金となっていたのであればあれだけ多くの災害に見舞われたのも無理はないような気がする。
「こちらの世界でも、世界のバランスが崩れたことでいろんな『歪み』が生じたんだ。説明すると長くなるから、君たちの世界でいうところの『災害』がいくつも起こったと思ってくれればいい。それに加えて、召喚された人間はバランスの崩壊に拍車をかけるような発明をしたんだ」
苦々しい様子で口にしたサナフィルは、最後の一文を忌々しそうに告げた。
ぐっと握りこまれた手のひらが痛々しいほど力が込められているのがわかって、いったい何をしたんだと正確な顔すら知らない同胞をほんの少しだけ恨めしく思う。
「その発明により、彼の者が守護する種族は念願通りに世界の覇者にまで上り詰めた。だけれど、異世界から来た人間の発明を放置していられるほど世界に猶予は残されていなかった。だから、最高神と呼ばれる私たちは協議の末、その知識を地上から消し去ることにした」
どんな発明をしたのか、それを問うことはできなかった。
外に出られない代わりにたくさんの本を読んでいた悠奈には、どんな発明をしたのかなんとなくわかるような気がしたからだ。
おそらく、現代日本ではありふれた『科学』に近しい何かを発明したのだろう。そんな小説を読んだことがあった。
「最初、私たちは世界のバランスが崩れた原因は、異世界から人間を召喚したことだと思っていた。だが、それにしては収まる気配がなかったことで、召喚された人間の発明が原因ではないかとあたりをつけていた。けれど、それ以外に原因があるかもしれないと調査して、君の存在に気が付いた。発見が遅くなってしまったがゆえに、対処も遅れたことは申し訳ないと思っているんだよ。これでもね」
「それは、あなたの所為ではないのですよね? 召喚したのは、別のひとなんでしょう?」
「私はこの世界の最高位に在るものとして、この世界の存在に対しては責任がある。この世界の存在が迷惑をかけてしまった以上、私が謝罪するのは当然のことだよ」
肩をすくめて苦く笑うサナフィルが告げた言葉に、乾く喉から何とか声を絞り出して応えれば胸元に手を添えて目を伏せながら、当然のことのようにサナフィルは応えた。
悠奈は深く息を吸い込むと、気づかれないように細く長く息を吐き出す。
もう動かないはずの心臓を上から撫でつけて、強張っていた方から力を抜く。
「私がこちらを選ばなければ、どうしていたんですか?」
「その時は、謝罪することもできないまま、君という被害者の魂を切り離すしかないと思っていたよ。君には申し訳ないが、人間一人のために世界を危険な状態のまま放置しているわけにもいかないからね」
そうすることにならなくて、本当に良かったと思うよと小さく呟いたサナフィルの瞳に宿っているのは、どこまでも誠実な意志の光だった。
「さっき、円滑に存在できないと言っていたのは……?」
「君の魂が二つの世界をつなぐ楔になってしまったと、先ほど話したと思う」
悠奈の疑問に答えるように、サナフィルが口を開く。
確かにそれは先ほど告げられた内容で、悠奈は確かにそれは聞いたなと思いながら頷き返す。
「実は、君のほかにもうひとつ楔となっていた魂がある。彼の者が私のもとから盗み出し、召喚の媒介として使用したものだ。もっとも、彼の者はそれを自分の力では足りない分を補うための純然たる力の塊であるとしか思っていなかったようだけれども」
「それは、誰の……いえ、どんな魂だったんですか?」
ほんの少し沈んだような声で続けたサナフィルは、疑問を口にした悠奈をまっすぐに見詰める。
いや、悠奈の中にある何かを見つけ出そうとするかのようにまっすぐに見据えながら、口を開いた。
「私の眷属である『神竜』の魂だ」