002 第二話
どちらの世界がいいのか選択を迫られるまでもなく、悠奈の心は決まっていた。
「私は、異世界にいきたいです」
「わかりました」
選択した世界を告げれば、偉丈夫は特に引き留める様子もなくひとつ頷くと、こちらを静かに見下ろしていた人を振り返る。
おそらく日本で最も有名な地獄の裁判官はゆったりとした動きでひとつ頷いて見せると、地の底から響くような重みを感じさせる声を上げる。
「そなたの選択は聞き届けた」
本能的に感じる畏怖に思わず頭を下げる。
重ねてきた長い歴史を感じさせる口調で語り掛けられると、体の奥底が震えるような恐怖を感じる。逆らう気すらおきない凄味があった。
傍らに立つ偉丈夫は静かに口を噤み、軽く頭を下げている。
険しい表情でこちらを見据える彼の人が放つ威圧的な気配を真正面から受けて、悠奈は今にも逃げ出したいと震える身体を抱きしめて抑え込むことしかできなかった。
「判決を申し渡す」
* * *
「あちらの世界にあなたの身柄を渡す前に、あちらの世界について簡単に説明しておきましょう」
「その、前に、止まってほしいんですけど!」
「ほら、もう身体という枷はないのですから頑張りなさい」
先を歩く偉丈夫を追いかけながら、息も絶え絶えになりながら声を上げるが、素気無く却下された。
しかし、足が縺れて転びそうになるとすかさず手を差し伸べてくれる。
生前のほとんどをベッドの上か、そうでなくとも長距離を歩いたり、走り回ったりなどしなかった悠奈にとって、デコボコとした道を歩くのも一苦労である。
「先ほども説明しましたが、あちらの世界は所謂『剣と魔法』の世界です。ただ、こちらの世界の知識が入り込んだため、時間や距離の単位などこちら側の知識を基に解明された発見も少なからず存在しています。文明はさほど進んではいないようですが、これは主に魔物等のこちらの世界には存在しない生命体がいる弊害でしょう。魔法やスキルといった特殊能力や、精霊などといった超越種族も存在しているそうです。エルフやドワーフ、獣人も存在しているそうで、それらは種の進化過程で自然発生したそうなので遺伝子学とかも割とめちゃくちゃな世界みたいですね。観光に行くだけなら、行きたいものですねぇ。楽しそうです」
確かな足取りで道を歩いていく偉丈夫は淡々と話しながら、再び転びかけた悠奈を片腕だけで支える。
わずかに息の上がった悠奈に「もう少しですから、頑張ってください」と軽快に声をかけて、先を進んでいく。
「あちらの世界に『転生』するにあたって、いくつか注意点があります」
「注意点……です、か?」
「ええ、世界を隔てる境界を跨ぐ『異世界転生』ですからね。今回は特例として、あちらも受け入れ態勢が整っているのでこちらの世界を離れるまでは私が、あちらの世界に入るときにはあちらの方があなたを保護してくださるとは思いますが、相応の負担はかかります」
どこか遠くから野太いような断末魔の悲鳴が聞こえてくる。
ここは、死んだ人間が行きつく場所。
生前に罪を犯した人間は、裁判を受けた後に刑を執行されることになっているらしい。
実際に呵責される人間を見たことはないが、刺々しい金棒を担いだ頭に角の生えた絵本に書かれた鬼のような人が歩いているのは何度も見かけた。
「通常の転生と同じように、一度すべてをまっさらな状態に戻した魂であれば失うものなんてないので問題はないんですが、今回は少し特殊ですからね」
「世界の……境界線を跨ぐ、時に……何か起きるかもしれない……ってことですか?」
「ええ。もしかしたら、『記憶の消却』機能が作用する可能性があります。本来であれば、境界線を渡る魂には生前の記憶なんてものは残っていないのが普通なのですが、宗教だったり亡者の扱いが違ったりした場合に生前の記憶を消さないってこともあり得るので、境界線を渡る魂は二重に記憶の消去が行われるのです。自我と知識までは確実に守れても、ただでさえ繊細な記憶はちょっとの衝撃で消えてしまったり、欠損したりするのです」
ため息交じりに返した偉丈夫は、足を止めないまま「それに」と続けた。
「思考力を持つ生物は、基本的に未知なるものを恐れます。『死』とはその最たるものであり、わからないからこそ思考力を持つ生物は死を恐れ、死に想像を膨らませ、死を本能的に避けようとするのです。それに、決して戻れない時間のことを覚えていても不幸なだけでしょう? 生まれ変わった時点で、同じ魂であっても別の存在なんですから」
偉丈夫は無表情のまま、そう静かに告げた。
死んだあと、転生する人間に何か思うところがあるのだろうか。
……あるのだろう。死後の裁判を行うような存在なのだから。
「それから、改めて申し上げておきます。生前の記憶を覚えていたとしても、あちらの世界に『転生』すれば日本に帰ってくることはできません。あちらの世界とこちらの世界では、『理』が異なるので。今回のような特殊な場合を除いて、異なる『理』の世界が交わることはあり得ません。他の世界もそれは同じでしょう」
「二度と帰れない覚悟で行けってことですね」
「まあ、コチラに帰ってくる選択肢がまた現れないとも限らないですけどね。可能性は限りなく低いですけど」
足を止めた偉丈夫に反応しきれず、その背中にぶつかりそうになる。
慌てて踏ん張れば、何とかギリギリ踏みとどまることができた。
「さて、見送りするのはここまでです」
振り返った偉丈夫が淡々と告げるのを聞きながら、周囲を見回せばどこか見覚えのある風景が広がっていた。
とはいっても、あの世の裁判所の周辺は岩と炎に囲まれた無機質な風景で、唯一華やいで見えたのは巨大な川がそばを流れる花畑くらいのものだが。
必死に追いかけてきたから気付かなかったが、もう少し先にはその花畑も見えていた。
「あそこに行くまで、結構歩いたような気がしてたんですけど……」
「ええ。それなりに歩きますよ、本来であればね。ショートカットしただけですから」
あの世の裁判所にたどり着くまでの間を歩いてく最中に、不正な手段をとってはいないか、脱走はしていないかを監視する極卒が通るためなのだと簡単に語った偉丈夫に、感嘆の意志を込めて深く息を吐き出す。
一緒に間の抜けた声が出たが、偉丈夫がそれを気にした様子はない。
「あちらの世界でないがしろな扱いをされることはないとは思いますが、謙虚な気持ちを忘れずほどほどに頑張ってください」
別れの言葉を口にする偉丈夫の周りには、特に変わったようなものは見当たらない。
てっきり扉があるとか、迎えがいるとかだろうか思っていたのに、それらしいものも人影も目の届く範囲にはない。
きょろきょろと周囲を見回す悠奈の足元が、突然口を開いた。
「ほえ?」
階段を踏み外して足が空をかいたような浮遊感とともに、それまで見ていた景色が上へと流れていく。
一瞬内臓が浮かび上がったような感覚と共に、身体が自由落下を始める。
「まさかの下ぁぁぁぁぁぁ!?」
叫び声をあげながら、真っ暗な穴の中へ落ちていく悠奈を上から見下ろしながら、偉丈夫は「おや」と呟く。
「彼女、ツッコミを入れられるくらいには余裕があるだなんて、意外に胆力がありますねぇ」
万年人手不足の極卒としてスカウトできなかったのは実に惜しかったですと呟く声は、紛れもない本気であった。
すっかり悠奈の姿が穴の奥に吸い込まれて見えなくなると、穴はゆっくりと塞がっていく。
収束しきった穴が塞がると同時に、その場所に浮かび上がるように円型の紋様が浮かび上がる。
複雑な線とこの世界では目にすることのない文字が描かれた紋様は、不思議な輝きを放ちながらゆっくりと空中に浮かび上がっていく。
そこに、ゆっくりと人影が浮かび上がっていく。
「……は?」
目をまたたかせるのは、精悍な顔立ちの男性だった。
鍛えられた身体は現代人らしからぬ強さを伺わせるが、動揺して周囲を見回す瞳には外見には似合わない幼さが残っていた。
光を放ちながら浮かび上がる円型の紋様は、男性の頭の上で回りながらその円を縮めていき、遂には光の粒子をわずかに散らせながら消えていった。
「確かに、受け取りを確認いたしました」
悠奈と相対していた時と同じ、淡々とした口調で偉丈夫は消えていく光の粒子に話しかけた。
答えは当然なかったが、おそらく通じただろうと確信をもって偉丈夫は男性を見下ろし、しばらくじっと観察してから踵を返した。
現代ではまず見かけないような中世ヨーロッパ風の服に身を包んだ男性が声をかけてくるよりも先に、偉丈夫はその場を後にする。
「やはり、あちらの世界で相当ヤンチャしていたようですねぇ」
失踪当時の人相と比較して、その頃にはなかった剣呑な色をたたえる瞳にため息を吐き出す。女性にモテそうな端正な顔立ちの奥に潜む独特の雰囲気を感じ取り、偉丈夫は溜息を吐き出した。
現世の罪は、はるかな昔から改定を重ねてきた法に則って裁けばいいのだが、あちらの神との取引により悠奈の代わりにコチラに戻された男性はこれまでにほとんど前例のない相手だ。
「さて、異世界での罪はいったいどうやって裁きましょうかねぇ」
手元に届けられた紙の厚さは数百枚はありそうで、その一つ一つに男性が犯した罪とその詳細が書き記されている。
その半数以上が、異世界特有の種族に対する蛮行と異世界そのものの根幹を揺るがす『文明テロ』の記述であった。
「生半可な裁きではあちらさんに面目が立ちませんからねぇ。かといって、こちらでの罪状に当てはめるのにはいささか苦労しそうですし……」
デコボコとした悪路を歩きながら、手元に届けられた男性の所業を書き記した書類を捲りながら偉丈夫が呟く。
「こちらの罪状に当てはめると……おやまぁ、ほぼコンプリートしてますねぇ。久方ぶりにこんな罰当たりな人間を見ましたよ」
溜息を吐き出しながら足早に戻る道すがら、書類に書かれている男性の所業に目を通してから溜息を一つ零した。
「現世の人間は物好きですねぇ。発展し、平和を享受することのできる現代よりも、死と危険が隣り合わせの異世界を望むなんて。それとも……平和に満たされているが故の無いものねだり、何でしょうかね?」
小さく呟かれた疑問の言葉は、応える相手もなく炎の燃え盛る音に消えていった。