暗黒の女神に死の接吻を…。
ヨハン・バウアーは最近、悪夢にうなされていた。
もう何度目だろうか?
今までの人生の中では、想像できないような暗黒の女神に頭から食べられそうになる夢を見るのだ。
そう、まさしく暗黒の女神だった。
口と鼻は人間の物と同じだが、目がまるでレンズに覆われているような顔なのだ。そしてそれは、本来、目があるはずの所を覆い隠し、頭の頭頂部まで覆っている。材質はクラゲのように半透明だが、頭の頭頂部には触手があり触手の先には目がついている。
体は乳房はあるが臍は無く、肩や腕は節くれ立っていて昆虫の外骨格のようだ。下半身は脚はあるが、同じように節くれ立っていて、まるで獣と昆虫を合わせたかのような脚をしている。
そんな、おぞましい者が夜な夜な夢に現れるのだ。
ヨハンは疲れているからだと思った。
田舎から都会に夢を求めてやって来た。
しかし、都会は田舎者には冷たかった。学歴もなく、これといった資格もない人間が都会で得られる仕事はつまらない単純作業のアルバイトくらいだった。一つのアルバイトだけでは食べていけないので、朝から昼過ぎまでは皿洗いのアルバイトをし、夕方からはレストランの厨房で雑用のアルバイトをして何とか生計を立てていた。
そんなヨハンが悪夢にうなされるようになったのは、ここ数ヶ月前からだった。ある日、突然にその悪夢はやって来た。これといって何か変わった訳でもないのに突然に気持ちの悪い悪夢にうなされるようになったのだ。ヨハンは最近、寝てもすぐに悪夢が始まるので、熟睡出来ずにいた。
医者に行こうかとも思ったが、ただ悪夢にうなされてるだけでは病気とは言えないし、何よりお金が無かった。
ヨハンは今日も寝不足のままアルバイトに向かった。
アルバイト先は夫婦が経営しているレストランの厨房で皿を洗うアルバイトだ。最初は女性を探していたらしいが、何とか頼み込んでようやく、このつまらない仕事にありつけた。特別に給料が良い訳ではない。しかし、あの時のヨハンは田舎から持ってきたお金が無くなりそうになっていて、何としてでも仕事に就かなければならなかった。必死に頼み込みようやく採用になった。
今日も僅かな日当の為に、あくせくと必死に皿を洗った。
仕事が終わり、遅い昼食を取っていた。
その時だった。
いつもは何気無く通り過ぎてしまうマンションから、嬉しそうな顔をして分厚い本を手にはしゃいでいる年配の紳士が降りてきた。
何だろうと思っていると、また、マンションから嬉しそうな顔をして分厚い本を手にはしゃいでいる人を見かけた。
ヨハンはこのマンションに何があるのか興味をもった。そこで昼食が終わるとマンションの入り口まで行ってみた。
マンションのドアを開けてみると、そこは階段だった。
恐る恐る階段を上がっていくと、マンションの一室に本屋があった。ドアのガラス越しに、沢山の本が見えた。
ヨハンは好奇心から、ドアを開けて中に入った。
「いらっしゃい。」
店の主人らしき人から声がかかった。
ヨハンは軽く挨拶をすると、本を見た。
それは随分と古びた本が多かった。中には何語かさえわからない本もあった。
ヨハンは何気無く、本に付いている価格を見た。
高い。とにかく高い。
とてもヨハンが買えるような値段の物ではない、
どうやら、ここは骨董的に価値のある古本を取り扱っている本屋のようだ。
そんな中でヨハンは一冊の小さくて薄い本を見付けた。
試しに手に撮ってみた。するとヨハンは最初の一行に驚いた。
そこには、こう書いてあった。
世界は初めに混沌ありき。
ヨハンが今まで、学校等で習ったのはこうだ。
世界は初めに光ありき。
そうだ。世界は光から始まったはずだ。
なのに、この本には最初にあったのは混沌だと書いてある。
ヨハンには信じられない言葉だった。世界は初めに混沌から始まった等と聞いたこともない。
いや、宗教的に光から始まらなければならない。
でなければ神を否定する事になる。
ヨハンは本を閉じると、本棚に本を戻した。
しばらくヨハンはショックから立ち直れなかった。
今まで学んできた、学問や宗教を全て否定されたようだった。
しかし!
何故かヨハンは続きが気になってしょうがなくなり、再び本を手に取った。
読み耽っていると店主が声をかけてきた。
「こんにちは。失礼ですがその本は購入されますか?こちらのお客様も興味があるそうなんですが…。」
ヨハンは我に返った。
買うつもりなど毛頭、無かった。しかし、目の前のスキンヘッドの目付きの悪い紳士が店主の後ろに立っていてヨハンが持っている本をじっと見つめていた。
ヨハンはどうぞと本を渡すつもりだった。
しかし!
何故かヨハンは本の値段を見て、今、持っているお金で買えることを知ると、
「もう少しだけ時間を下さい。多分、買うと思います。」
と言ってしまった。
それを聞いた店主と紳士は話ながら、別の場所に移動した。
ヨハンはページをめくった。どんな刺激的な言葉が待っているのか期待しながら。
すると、
三人の神は世界を創りし。
と書いてあった。
信じられない言葉だった。
三人の神が世界を創ったなんて聞いたことがない。ヨハンはまたしても強い衝撃を受けた。
ヨハンはもう既に、この本の虜だった。
まるで、恵まれない自分に新しい神が舞い降りたかのような気持ちになった。ヨハンは小刻みに震えながら、本をレジに持っていった。ポケットからあるだけ全てのお金を出して、本を購入した。
ヨハンが店を出ようとすると、先程の目付きの悪い紳士が声をかけてきた。
「こんにちは。」
ヨハンは慌てて挨拶した。
すると、
「貴方はなかなかお目が高い。太陽神の讃歌を購入されるとは!」
ヨハンは最初は意味が分からなかったが、すぐに自分が購入した本の事だと気がついた。
男は続けて言った。
「貴方は古代の神に興味があるのですか?」
「あっ…。その…。何て言うか…。」
ヨハンは言葉につまった。
男は構わずに続けて言った。
「いいではありませんか?古代の神に興味があっても!よろしければお茶でもいかがですか?私はロマーニ・プレッツィオと言います。よろしく、どうぞ。」
「初めまして。ヨハン・バウアーです。」
二人は握手をした。
ロマーニと名乗る男性の手は冷たかった。
「よろしければ、古代の歴史について語り合いませんか?いかがですか?」
「いや…。それが…。私はこの本屋も古代の歴史についても全くの素人で…。」
「構いませんよ。貴方のような若い方は珍しいのでね。お茶でもいかがですか?」
ヨハンは悩んだ。初対面の紳士と古代の神や歴史について語り合える程の知識はない。しかし、何か面白そうだ。お茶くらいなら、この本について何か興味深い話が聞けるかもしれない。
ヨハンは言った。
「二時間くらいなら、時間がとれますが…。」
「構いませんよ。是非、お話しましょう。」
そう言うとロマーニは店主に軽く挨拶をして店を出た。ヨハンもその後に続いた。
少し歩くとオープンカフェがあった。
ロマーニはそこのテーブルの一つに席を取った。ヨハンも席に座った。
ウェイターにコーヒーを注文するとロマーニが話を始めた。
「太陽神の讃歌を購入するのは初めてですか?」
ヨハンは慌てて本をテーブルの上に出した。たしかに太陽神の讃歌と書いてある。
「あっ…。はい。古代の神話は初めてです。」
「そうですか。なぜ、その本を選びましたか?」
「いや…。それは…。」
ヨハンは言葉につまった。ただ、何となく気になり買ってしまったのだ。
「それが…。最初の一行からびっくりしてしまいまして…。」
「ほう!何と書いてありましたか?」
「それが…。世界は光からではなく、混沌から始まったと…。」
「なるほど。今まで学んできた事とは随分と違った訳ですな?」
「はい。世界は光から始まったと習ってましたから。驚きました。」
「なるほど。よろしければ少し見させて頂きませんか?」
「あっ…。はい。どうぞ。」
「ふむ…。」
「いかがですか?」
「残念ながら、私が知りたい事は書いてませんな。買わなくて良かったですな。」
「はぁ…。」
「私が興味があるのは、混沌、その物なんです。混沌とは何か?なぜそこから何かが産まれたのか?興味はありませんか?」
「混沌ですか?」
「そうです。世界中の古い伝説には、この世界は混沌から始まったと言う記載がされている物がたくさんあります。そして、世界は三人の神が創ったという伝説が色々な国の古代史にあります。しかし、私が興味があるのは混沌の中に何が存在したか?なんですな。なぜ、そこから神が産まれたのかも実に興味深い。」
「いや…。驚きました。国が変わると世界の成り立ちまで変わってしまうんですね。」
「そうなんです!それが古代史の面白いところですな。例えば私達は神と聞くと光と翼等を想像しませんか?」
「はい。そうですね。」
「しかし、インド等は多神教の国ですから、神だけでも数えきれない程の数がいます。日本もそうです。」
「なんか…。私は唯一絶対の神ですから多神教と聞くと、疑ってしまいます。」
「それ!それですよ!何故?唯一絶対の神でなければならないのか?それは私達が小さい頃から今の宗教に洗脳されているからです。」
「いや。それはちょっと言い過ぎでは?」
「そうでしょうか?例えばギリシャ・ローマ神話でも沢山の神が登場しますよ?」
「それは…そうですが。」
「北欧神話でもそうですな。つまり、国や民俗が変われば神の姿形も数さえもころっと変わってしまう。では?宗教とはなんなのでしょうか?」
「それは…。私達が正しく生きるために必要なのでは?」
「なるほど。それでは今の宗教ができる前は人間は正しくなかったのでしょうか?」
「いや…。それは…。」
ヨハンは言葉につまった。古代史から宗教論争になるとは思わなかった。ロマーニは優しく言った。
「これは、失礼しました。貴方には貴方の信じてる宗教がありますよね?それを否定する気持ちはないのですよ。」
「はぁ…。ですが、私も今までの宗教とは違った内容に興味を持ちましたので。」
「わっはっは!申し訳なかったですな。貴方を困らせる気持ちはなかったのです。しかし、なかなかこういう事を話できる人がいませんでな!」
ロマーニは話すのをやめると、コーヒーを一口飲んだ。
ヨハンもコーヒーを一口飲んだ。渇いた喉にコーヒーの良い薫りが広がった。
「プレッツィオさんは古代史の研究家なのですか?」
「いやいや。趣味ですよ。単なる趣味です。でも、古代史にはロマンがありますからな。」
「それはそうですね!私も最初の一行にヤられました!」
二人は笑いあった。まるで、ようやく仲間を見つけたような二人の会話だった。
ヨハンは時計を見た。そろそろ次の仕事に行かないといけない時刻だ。ロマーニが言った。
「それでは、これで失礼しますかな?貴方も用事があるようですし。」
「はい。すみません。これから仕事がありまして。」
「では、ここでお別れしましょう。また、会ったら気軽に声をかけてくださいね。」
「こちらこそ。失礼します。」
ヨハンは本をポケットにしまうと歩き出した。
とても心は晴れやかだった。
しかし、歩き出して十分した時にいきなり知らない男性に声をかけられた。ヨハンは驚いてその男性を見た。
年齢は二十代後半から三十代前半の男性だ。
その男性が言った。
「突然、呼び止めて申し訳ない。貴方は今の男性とどういったご関係で?」
ヨハンはムッとした。知らない男性にいちいち詮索される覚えはない。ヨハンはぶっきらぼうに答えた。
「貴方には関係ないでしょう!貴方はどなたですか?」
「失礼しました。私はジャック・ワイルダーと言います。あの男性と親しいのですか?」
「貴方には関係ないでしょう!失礼ですよ!」
ヨハンは男を振り切って歩き出した。
するとジャックが言った。
「あの男は危険な人物ですよ!近づかない方が貴方のためですよ!」
ヨハンはムッとした。知らない男性にいちいち詮索される覚えはない。ましてや、さっきまで楽しく語り合っていた人の悪口など聞きたくもない。ヨハンは構わずにジャックを振り切り、次の仕事に向かった。
レストランでは相変わらず、ジャガイモの皮剥きや皿洗い等が山のように待っていた。しかし、何故かヨハンの心は晴れやかだった。さっき、久しぶりに人と楽しく語り合っていたのだから。
その日の仕事が終わり、ヨハンは自宅に帰った。そして、本を開いた。その内容はヨハンが今まで、学校や親や教会で習ったものとはまるでかけ離れていた。信仰心を棄てたわけではないが、古代の歴史に興味を持った。休みになったら、また、あの本屋に行ってみたくなった。ヨハンは嬉しい気持ちで、ベッドに入った。
寝てからしばらく経った。また、あの悪夢が始まった。
暗黒の女神が夢に現れた。しかし、ヨハンが食べられると思った瞬間だった。夢に今日買った太陽神の讃歌が現れた。
すると!
暗黒の女神は叫び声をあげて、闇の中に消えていった。
ヨハンはそこで目が覚めた。
何だろう?何故?暗黒の女神は太陽神の讃歌に逃げ出したのだろう?
ヨハンは不思議に思いながら、本を手に取った。
するとクローゼットの中で何かが音を立てた。
何だろうと、ヨハンがクローゼットを開けると、箱が落ちてきた。
それは、ヨハンが家を出るときに母親が持たせてくれた、家に代々伝わるお守りの石だった。
色は青いが透明ではない。ヨハンは何だと思いながら、その石をしまった。
気がつくと朝だった。ヨハンは今日も僅かな日当の為に働きに行かなければならなかった。
それから、数日してヨハンは仕事が休みになったので、また、あの本屋に行ってみたくなった。
もしかしたら、またあの紳士がいるかもしれない。
ヨハンは簡単な朝食を済ませると、あの本屋に向かった。
ポケットにはロマーニに見せたくて、家に伝わるお守りの石と太陽神の讃歌を入れた。
本屋に着いた。
中を覗くと、ロマーニ・プレッツィオの姿はなかった。
少しがっかりしたが、本を見てみる事にした。
一冊の本を手に取ってみた。中はどうやら魔術か錬金術に関する物のようだった。ヨハンは本を本棚に戻した。
すると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「こんにちは。久しぶりだね。」
「プレッツィオさん!」
ロマーニ・プレッツィオが立っていた。
「ロマーニでいいですよ。今日は何を探しているのかな?」
「いや…。貴方に会いたくて。待ってたんです。」
「おやおや?私を?」
「はい。あれからすっかり古代の歴史にはまりまして。また、良かったら興味深いお話が聞きたいなと…。」
「それでしたら、私の家に来ませんか?ゆっくりと食事でもしながらお話をしましょう。」
「よろしいんですか?是非ともお話を聞かせて下さい!あ!それから、私の事はヨハンと呼んで下さい。」
「わかりました。では、ヨハン。私の車で行きましょうか?」
ヨハンは頷くと、ロマーニの後に着いていった。
道路に高級車が停めてあった。
ロマーニは運転席に乗り込むと、ヨハンに助手席に乗るように促した。ヨハンは急いで助手席に乗った。
車の中でヨハンは自分がインターネットで調べた古代の宗教と今日の宗教との類似性について質問した。
「実はゾロアスター教が今、我々が信じている宗教と似てるなと思いまして。」
「ほほう!良いところに目を付けましたな。その通りです。例えば神が光輝いている姿とか、翼があるとかですかな?」
「はい。似ているなぁと…。」
「それは逆ですな。ゾロアスター教の方が古いですからな。後の宗教が影響を受けたというべきでしょうな。」
「そうなんですか?じゃあ光と闇の戦いもですか?」
「ゾロアスター教なくして、今ある宗教は存在しないと言っても過言ではないですな。まあ…こんな事を言うと敬虔な信者から袋叩きにされますが…。」
「でしょうね…。しかし、古代の宗教と歴史には確かに相似性があるのは間違いないですね。」
「その通りです。しかし悲しいかな、多くの人達はそれを認めようとしませんがね。」
「そうですね。私も、もし、恵まれた生活をしていたら、何も疑わなかったと思います。」
「おや?貴方は不幸なのですか?」
「確かに生きています。でも…恵まれた生活とは言えません。家も酪農をやっているのですが貧しかったですし…。」
「それで、夢を求めて都会へ?」
「はい。でも現実は厳しいです。生きていくのに精一杯で…。」
「なるほど。実は古代の神や歴史に興味を持つ人はなにかしら人生に疑問を持っている人が多いのですよ。」
「そうですね…。祈っていてもお腹は一杯にはなりませんからね。」
「わっはっは!今日は我が家で沢山、食べていってください。」
「ありがとうございます。」
「着きましたよ。」
ヨハンはびっくりした。マンションか何かの一室かと思ったら、立派なお屋敷だったからだ。門を開けると、車は庭先を通り抜けて玄関に着いた。
「どうぞ、先にお上がりください。私は車を車庫に入れてきますから。」
そう言うとロマーニは車を少し走らせてガレージに車を停めた。
玄関を開けると、メイドが出てきた。
「お帰りなさいませ。」
「今日はお客様がいるから、昼食は二人分を用意してくれ。」
「かしこまりました。厨房に伝えてきます。」
「さあ!ヨハン!こちらにどうぞ。」
ヨハンは呼ばれて高級なソファーに座るように促された。
建物は二階建てで、かなり広い。肖像画などが飾ってある。
シャンデリアもある。どうやらロマーニはかなり裕福なようだ。
ヨハンは何となく、落ち着かなかった。まさか、こんな高級な家に住んでるとは思ってもみなかったからだ。
「すぐに食事の支度をさせますからな。少し、ソファーでくつろいでいて下さい。」
「ロマーニは裕福な方なんですね。」
「いやいや。この歳ですからな。それなりにでしょうな。」
「いや…。実はロマーニに聞いてほしい話がありまして。」
「ほう!どんな話ですか?」
「実は…。」
ヨハンは夢の中の話を始めた。
夢の中に見た事も想像することも出来ない暗黒の女神が現れて、頭から食べられそうになる夢の話をした。
「なるほど。その夢に毎日、うなされてると?」
「はい。まさしく悪魔です。私が想像できるような姿形ではないんです。普通、悪魔なら、なにかしら人間が想像できるような姿形をしているはずですが…。私の想像を遥かに越えた姿形でして…。ロマーニはなにか思い当たる事はありませんか?古代の神とか、悪魔とか?」
「ふうむ、そうですな。すぐに思い当たるのは夢魔ですかな。しかし、もしかしたら悪魔ではなく、暗黒の女神かもしれませんな?」
「暗黒の女神ですか?」
「ええ。古代の神話にも暗黒の女神が登場する物語がありましてな。ヨハンが言うように、今、悪魔と伝えられている姿形は例えば、頭が山羊で体が人間、下半身が山羊のような姿形ですな?」
「はい。」
「しかし、それはそれが悪魔だと教えられているから、そう思うだけです。いわゆる想像の産物です。しかし、ヨハンが見た夢は自分が想像も出来ない姿形をしているとなると、記憶が組合わさった夢の中の産物とは言い難い。もしかしたら、暗黒の女神に見初められたのかもしれませんな。」
「冗談でしょう?なぜ私が?他にも男性はたくさんいますよ!もっと筋肉が隆々でかっこいい男性はたくさんいますよ!」
「それは暗黒の女神の好みですからな。私には分かりませんが。」
「そうですよね。分かりませんよね?」
ヨハンが少し、がっかりしているとメイドが食事が出来たと伝えてきた。
「食事が出来たようです。食堂に行きますか?」
「あっはい。」
ヨハンはロマーニの後について食堂に入った。
中には蝋燭の燭台や豪華なシャンデリアもあった。
何より、とても良い料理の香りがヨハンの食欲を誘った。
「それでは、そちらにどうぞ。私はここで。」
ロマーニとヨハンは席に座った。
食事が始まった。ヨハンはその料理の美味しさに驚いた。
普段、ヨハンが食べている厨房の賄いとは比べ物にならない。
ヨハンはがっついて食べた。
するとロマーニが言った。
「ワインはいかがですかな?」
「あっはい!頂きます。」
ヨハンはロマーニの注いだワインを飲んだ。かなり良いものであることはヨハンでも分かった。
「ところでヨハン。何故?暗黒の女神が食べようとするかわかりますかな?」
「獰猛だからではないのですか?」
「違いますな。食べると言うことは一心同体になるという愛情表現の一種ですな。」
「食べるのが愛情表現なのですか?」
「ヨハンは今までに恋人がいた事は?」
「いやぁ…。その…。恥ずかしながら…。」
「そうですか。仮に恋人がいたとして、例えば少しでも長く一緒にいたい。或いはずっと一緒にいたいと思いませんかな?」
「はぁ。確かにそうですね。だから結婚するわけで。」
「そうですな。食べるというのはつまり、一心同体になるという事ですな。永遠に一緒にいられる。」
「やめてください!怖いですよ!そんな愛情表現は!」
「確かにそうですね。人間の感覚ではそうです。しかし!暗黒の女神にとってはそれが普通の事なのかもしれませんな。私達、人間がなにかしらかの生き物を殺して食べなければ死んでしまうのと同じように。」
「確かに、人間は生き物を殺して食べなければ死んでしまいます。しかし、それが暗黒の女神にとって愛情表現だとなぜ思うのですか?」
ヨハンは少し、目眩のような感覚に襲われた。何だろうと?
眠いのはワインを飲みすぎたからなのだろうか?
「どうかされましたか?」
「すいません。少し、酔ったようです。食べ過ぎたかな?」
「それはいけませんな。少し休むといいですよ。」
「はい。ちょっと失礼します。」
ヨハンはリビングに行くと、ソファーに横になった。
どうやら、料理がおいしかったからか、それともワインがおいしかったからか酔ったようだ。
ヨハンはロマーニに申し訳ないと思いながらも、眠りに落ちていった。
どれ位の時間が経ったのだろうか?
ヨハンは目を覚ました。すると見慣れない薄暗い部屋で目を覚ました。ヨハンは起き上がろうとした。その時だ。
ガシャリという音がして、冷たい物が体を包んでいるのに気がついた。頭を上げて見てみると自分は寝かされて、鎖でぐるぐる巻きにされていた。
ヨハンは何が起こったのか全く、分からなかった。
すると声がした。
「お目覚めかな?ヨハン?」
それはロマーニの声だった。
「何ですか?これは?」
ヨハンは必死でもがいた。しかし、鎖は体にくい込むほど厳重に巻かれていた。
「あぁ!ヨハン!私の前で暗黒の女神の話をしたのは間違いだったな!」
「何を言ってるんですか?これは何ですか?離して下さい!」
「いいや。駄目だな。ただの田舎者だと思っていたが、暗黒の女神に見初められたとあっては帰す訳にはいかん。」
ヨハンはロマーニの顔を見た。それは、いつもの紳士的な人物とは思えない別人のように残酷な顔をしていた。
「貴方は何を言ってるんですか?夢ですよ!夢の話ですよ!暗黒の女神なんているわけがないでしょう?離して下さい!」
「いるか、いないかお前の目で確かめてみるといい!今からお前を見初めた暗黒の女神を呼び出してやる!嬉しいか?嬉しいだろう?本物が見られるんだからな!」
「貴方は何を言ってるんですか?離して下さい!離して下さい!」
ロマーニはヨハンから離れると、床に描いてある幾つかの魔方陣の中に入った。
ヨハンの寝かされている所には禍々しい飾りの付いた大きな鏡が置いてあった。
「畜生!離せ!離せよ!」
ヨハンは叫んだが、ロマーニは無視して呪文の詠唱を始めた。
「ラー・ルルイエ・ザー・ノイエ・アギト・ブルクシュナフ・ヴォルクフォルク!この者を見初めし暗黒の女神よ!居るなら鏡に姿を現せ!クトゥルプトゥルフ・フタグン!」
するとヨハンの前に置いてある鏡から青黒い霧が出始めた。
魚か肉の腐ったような臭いがし始めた。
そして、鏡から赤い光のようなものが出始めた。
「ピキューガー・ガルルル!」
何かが、鏡の向こうからずるずると音を立てながら這ってくるのがヨハンの耳に聞こえ始めた。それはどんどんと音が大きくなり、鏡の向こう側で止まった。
「ガー・ガルルル!ピキューガー・ガルルル!」
およそこの世界の獣とも思えない異様な鳴き声が聞こえ始めた。
ヨハンは恐る恐る鏡を見た。
すると、それはヨハンの夢に出てくる怪物だった、
ロマーニは冷静な声で言った。
「ほほう!これは美しい!なるほど。暗黒の女神の一人に間違いない。」
ロマーニは鏡の前でしげしげと、その怪物を見ていた。
「良かったな!ヨハン!お前を気に入っているようだ。早くお前と一心同体に成りたくてうずうずしているぞ!わっはっは!」
「くそっ!まさか、あんたが魔導師だったとはな!畜生!離せ!離せよ!」
ロマーニはヨハンに近づくと、ヨハンの髪の毛を掴んで言った。
「お前のような者が見初められるとはな!良かったな、ヨハン!これでお前は永遠に生きられるぞ!暗黒の女神の体の中でな!わっはっは!」
ヨハンはロマーニの言っている意味がよく分からなかった。
暗黒の女神の中で永遠に生きられる?
どういう意味なのか?
「何をする気だ!ロマーニ、離せ!離せよ!」
ヨハンは暴れたが鎖ががっちりと食い込んでいて身動きが取れない。するとロマーニが言った。
「この暗黒の女神を呼び出してやろう!そして喰われるがいい!そうすればお前は永遠に暗黒の女神の中で血や肉となり生きられるのだ!こんな幸運はあるまい。良かったな、ヨハン!」
「ふざけるな!止めろ!離せ!離せよ!」
ロマーニはヨハンに背を向けると、床に描いてある魔方陣の一つに入った。そして、呪文を詠唱しようとしたその時だ。
地下室のドアが蹴破られ、一人の男性が入ってきた。
ヨハンはその男に見覚えがあった。
以前にロマーニは危険な人物ですよと忠告した男性だった。
「そこまでだ!ロマーニ!その人を離せ!」
ロマーニは初めは驚いた顔をしていたが、すぐに不機嫌な顔になった。
「えーい!うるさい蝿め!また、邪魔しにきたのか!ジャック・ワイルダー!」
「その人を離せ!ロマーニ!」
するとロマーニが手を組み合わせ呪文を詠唱し始めた。
「カイザード・アルザード・アルハザード・メフィラザード・キース・ストゥルク・ハンセ!ここに集え!冥界の賢者!来たりて我に力を貸したまえ!」
すると銅鑼のような低い音が地下室の中に響き、四人の冥界の賢者が姿を現した。
全員、ローブを着ているが顔の部分は真っ暗で、影のようだ。
足はなく、部屋の四隅で空中に浮いている。
「負けるか!」
そう言うとジャックはポケットから丸い魔方陣のような物を取り出した。大きさは直径十センチ位だ。そして叫んだ。
「テトラグラマトン!」
するとジャックの体がベールの様なものに包まれた。
ロマーニが言った。
「ふん!馬鹿の一つ覚えの天使のタリズマンか?そんな物では自分を守るのが精一杯だろう。そこで、黙ってこの男が暗黒の女神に喰われるのを見ておけ。」
ロマーニは何やら、また、呪文を詠唱し始めた。
すると、鏡の向こう側で暗黒の女神の目が赤く光始め、鏡が波打ち始めた。そして、その波は次第に激しくなり、鏡の表面が盛り上がり始めた。どうやら、暗黒の女神が異世界からこちらの世界に出ようとしているようだ。やがて、鏡が盛り上がり暗黒の女神の姿が半分、つまり上半身が鏡から出始めた。
「ピキューガー!ガルルル!」
暗黒の女神は苦しそうに悲鳴のような物をあげながら、こちらの世界に来ようとしていた。
「いいぞ!暗黒の女神よ!そうだ。こちらの世界に出てくるがいい!そして、生け贄を喰らうといい!わっはっは!最高の見世物だ!」
「やめろ!ロマーニ!」
ジャックが叫ぶ。するとロマーニがジャックに手を向けて言った。
「うるさい蝿め!これでもくらえ!バラッシュ!」
するとロマーニの手のひらから、青黒い炎が出てジャックに命中した。
「くそっ!負けるか!アグラ・アドナイ・アグラ・エヒエ・テトラグラマトン!」
ジャックに命中した青黒い炎はジャックの天使のタリズマンによって消えた。しかし、ジャックは吹き飛ばされた。
「くそっ!防ぐのが精一杯だ!」
そうしている間にも、暗黒の女神は徐々にこちらの世界に、出始めていた。そして、ヨハンを喰らおうとしていた。
「助けてくれー!誰かー!助けてくれー!」
「無駄だ!ヨハン!我、結界の中では何も出来ん。大人しく生け贄になれ!」
もうすぐ暗黒の女神が、ヨハンに届きそうだ。このままヨハンは喰われてしまう。誰もがそう思った時だった。
ヨハンはポケットが熱くなるのを感じた。まるで炎をポケットに入れたようだ。
「熱い!なんだ?ポケットが!」
次の瞬間だった。ヨハンを縛っていた鎖が音を立ててほどけて、床に落ちた。まるで誰かが鎖をほどいたようだった。
「何?馬鹿な!呪文で縛ってある鎖がほどけるとは、どういう訳だ?」
ロマーニはひどく狼狽していた。呪文で縛ってある鎖が自然にほどけるなどあり得ない。慌ててジャックの方を見たが、ジャックはまだ、床で唸っていた。
ヨハンは慌てて起き上がった。しかし、暗黒の女神はもうすぐヨハンに届くところまで来ていた。ヨハンは怖くて動けなかった。この世ならざる者が近づいて来ていた。ヨハンは頭では逃げなければと思いながらも、体が動かなかった。
すると、今度はヨハンのズボンのポケットから光が漏れ始めた。
ヨハンは、頭の中では逃げなければと思いながらも、それをポケットから出した。
光っていたのはヨハンが家を出るときにポケットに入れた、太陽神の讃歌と母親が持たせてくれた家に代々、伝わるというお守りの青い石だった。ヨハンはその光に吸い寄せられるように、その二つを顔の前まで持ってきた。すると光はますます輝きを増した。
「ピキューガーガルルル!ガーガルルル!ピキュー!」
暗黒の女神が苦しみ出した。
「何?なんだそれは!ヨハン!貴様は何を持ってるんだ!」
ロマーニが慌て始めた。どうやら暗黒の女神はその二つから出ている光が嫌いらしかった。するとその様子を見ていたジャックが言った。
「いいぞ!その調子だ!その二つを体の前に突き出せ!」
ヨハンはジャックに言われた通りに暗黒の女神に太陽神の讃歌と石を突き出した。
「ピキュー!ピキュー!ガルルルガルルル!ピキュー!」
体が鏡から半分出ていた暗黒の女神はその光から目を背けて、鏡の中に戻った。
ジャックが叫ぶ!
「いいぞ!そのままこっちにこい!」
「駄目だー!」
「何でだよ!」
「怖くて動けない!」
「バカ野郎!死にたいのか!早くしろ!」
ヨハンは必死に体を動かそうとしたが、恐怖で体が動かない。
するとロマーニが言った。
「おい!ヨハン!貴様が太陽神の讃歌を持っているのは知っていたが、まさかその石は月の女神のしずくか?どうなんだ!言え!ヨハン!」
「知らないよー!誰かー!助けてくれー!」
ロマーニが月の女神のしずくと言葉を発したところ、ますます光は輝きを増した。そして、ロマーニが呼び出した冥界の四賢者も苦しみ出した。
「馬鹿な!太陽神の讃歌はただの印刷物のはずだ!それに、こんな田舎者が月の女神のしずくを持ってる筈が無い!」
ロマーニが月の女神のしずくと呼んだ石はますます輝きを増し、ロマーニの作り出した暗黒の結界を壊しつつあった。そして、ロマーニが呼び出した冥界の四賢者も苦しみだし、やがて姿を消した。
「馬鹿な!冥界の四賢者がやられるなどあり得ない!ヨハン!言え!それは月の女神のしずくか?」
ロマーニは壊れ行く自らの結界の中で、慌てふためいていた。
そんな中でヨハンはようやく起き上がる事が出来た。
どうやらロマーニの結界の中の力が弱まっているらしい。
ヨハンは両手で太陽神の讃歌と母親が持たせてくれた石を体の前に突き出しながら、出口の付近にいるジャックにすこしづつ近づいて行った。
「いいぞ!そのままこっちに来い!逃げるんだ!」
「待ってくれ!そんなに早く動けないんだ!何か体が重くて。」
「ロマーニの結界の中だからだ!頑張れ!あと少しだ。」
ヨハンはようやく出口の付近にいるジャックの所に着いた。
ヨハンはジャックを起こすと、出口のドアを大きく開けた。
「待て!ヨハン!逃がさんぞ!」
するとヨハンの体が急にロマーニの方を向いた。そして叫んだ!
「ラー・ルルイエ!この者を動けなくしたまえ!この者の結界を取り除きたまえ!」
すると、ここは地下室だというのに、天井から太陽の光が差し込み始めた。しかも、中のよどんだ空気を払うかのように、爽やかな風が吹き始めた。
「ぐぉぉぉぉぉ!何故だ?馬鹿な!何故やつに太陽神が味方するんだ!何故だー!」
ロマーニは崩れ行く自らの結界の中で叫んだ。
ヨハンとジャックは慌てて地下室から上に繋がる階段を駆け上がった。そして、リビングを抜けて外に出ると、そのまま走り続けロマーニの家の敷地から出た。
「はぁ!はぁ!助かった!」
「驚いたよ!君にそんな力があるとはね!」
ジャックが嬉しそうな顔をして握手を求めてきた。
ヨハンはジャックと握手をした。
「力?何の?」
「え?君が神の力でロマーニの結界を破ったんだろう?」
「神の力で?何だい?それは?」
「じゃあ!さっきの呪文と光る石は何なんだよ!」
「あぁ。これは…。」
ヨハンは手に持っている本と石を見た。しかし、今は光は出ていない。
「さっきのは何だったんだろうね?」
「おいおい!それはこっちが聞きたいよ!」
ジャックは呆れた顔でヨハンを見つめた。
「まぁいいさ!それよりも無事で良かったな!ヨハン!君を守ってる神に感謝するんだな!じゃあな!」
ジャックはヨハンの肩を軽く叩くと去っていった。
ヨハンも自宅に向かった。
ヨハンが自宅に着き、太陽神の讃歌を読んでいると、こんな話が載っていた。
昔、地上にまだ神がおらず、世界が混沌としていた時に、光る船に乗って太陽神が現れた。
太陽神は雷で暗黒神を倒し、地上に光と風と雨をもたらし、汚れていた地上に光と平和と秩序をもたらしたという。