01 魔女の涙
「信じてください、ただ今のこの時、貴方様だけを愛しております」
炎が四方を巻く古城、その女は悲しみに押しつぶされるように俯いた姿を見せている
「やばい……またこの夢……」
これは夢、最近見る夢だ。
午後の昼下がり、呪文のような英文を並べる授業の中、ウトウトとし始めた頭の中にいつものようにこの女は映る。
白い肌、長い黒髪、湖水のように透明度の高い澄んだ青い瞳、細いウエストと足元を隠す長いスカート。
時代錯誤も甚だしい古い時代の服、大きく開いた胸元を飾る真紅の宝石。
胸の前で手を合わせ祈りのポーズを見せる彼女は泣いている
「貴方様が……早く……早くおかえりになる事を願っただけなのです……」
緋色を広げて燃える城、彼女との対局に立つ者は漆黒で不気味な姿を震わせ怒鳴る。
雷を浴びせるような声で
「裏切ったな!! 私を裏切ったな!!」
血色に光る目、両手を前に、手の中から消えた宝を探すように
「俺の、俺の、唯一無二の愛を!!」
「おやめください……熱すぎます。その情熱で貴方自身を燃やしてしまう」
まったくだ。
これ以上燃やしたら小麦色を通り越し焼死体になってしまう。
夢だとわかっているから文句も多様に出る、何度も同じシーンを見せられるのは愉快じゃない。
古典も英語も興味がない、早く頭の中から出て行けと振る手。
「貴方様どうか……話を聞いてください」
耳元に迫った声に苛立ちが手を振る、午後のうたた寝を邪魔する輩を頭から消すように
「うるせーな!! 俺の眠りを邪魔すんな!!」
「聞いてください、今は授業中なのですよ」
夢を席巻した炎は消え、城は隠れ、彼女も男もいない。
四角四面のパネルをはめた照明と、黒板と目の前にいるのは新任の英語教師だけ
「……えーっと、福見先生これは……」
夢に怒鳴った体が起き、机に這いつくばった顔に張り付いたプリント。
よだれでデコレートされたその顔を見て、笑いを巻き起こすクラスメイトたちの姿。
真ん前の新任教師、福見静は教科書を胸に抱いた姿で涙目になっている。
春色のカーディガンにスキニーパンツ、いかにも新任ルックで立つ彼女の姿は、クマに遭遇した遭難者のように震えている
「あのね、今年から初めて高校の先生になったから色々と勝手が違うのはわかるのよ。でもね、先生の授業に不満があるのならちゃんと言葉にして理由を言ってよね、いきなり態度で示されると……先生凄く悲しくなっちゃうから」
「ああ……すっすっすいません……あのやる気がないんで放っておいてください」
「やる気がないってどういうことですか!! 私の授業が退屈ってことなんですか!!」
余計なことを言った、説教のテンションがうなぎのぼりだ。
思わず両手を出してドウドウと馬をなだめるスタイル
「いやあ、そうじゃなくって……俺はもうこの先の人生なんてどうだっていいんですよ。惰性で高校に来てるみたいなもので……本当先生のせいじゃないし、ええ俺のせいなんで気にしないで」
のらりくらりと頭を揺らし、まっすぐな視線を向ける先生から目を背ける。
こんな騒ぎだっていやだ。
静かに楽に流されていたいだけなのに、世間には気弱な顔を見せながらも熱心に前向きを進める大人がいる
「天野くん!! 真新しい高校一年生がそんなこと言っちゃダメよ!! 始まったばかりの春なのよ、先生に相談して!! 英語以外でも力になれることあるとおもうから!!」
カカシを揺する教師の手。
揺られるままやる気のない顔が歪む
「おねがいですから放っておいてくださいよ……」
「そんなぁ……先生じゃ役に立たないってことですかぁ……」
ピカピカの一年生は何も生徒ばかりではない、先生だって新品で、はじめての反抗を受ける事に耐性がない。
泣き出す福見の前で言葉のない謝罪あるのみ、ごめんなさいのお辞儀スイングを繰り返す羽目になる
「泣くか普通、俺はただの無力なダメ人間だよ。人畜無害のやる気無し男に怯えないでよ先生……」
どうにも締まらない午後のひととき、天野司16歳、人生というものをいとも簡単に諦めた青二才は、期せずして起こった波風を心底煩わしく思っていた
「面倒くさい、もっと静かに生きたいだけなんだよ」と。
天野司の家は、自宅プラス雑貨屋という寂れた商店街の一角にあった。
雨風しのぐ天井であるアーケードが出来てから人波はいくらか戻った駅前につながるタイル道の中ほどに正面間口6メートルのを持つ商店、その建物の最上階が使の部屋だった。
正面の窓からは商店街が見え、裏窓はアーケードの屋根を点検する階段へとつながる。
夏の夜長を過ごすにはちょうど良い、星や花火を見る特等席だ。
今日はそこに悪友がいる。
中学の頃は野球小僧で坊主頭だったそれを軽い茶色に染めた伊達眼鏡の友達、村井塔矢はかき集めたお菓子とラムネを片手に馬鹿笑いを続けていた
「何がおかしいんだよ、もう踏んだり蹴ったりだよ……」
午後の授業あと、職員室に呼び出され熱心な説教を受けた司は右から左に聞き流すにしては長かった話を悪友に知らせていた
「しかし、やるなー。先生泣かせるとはなかなかの武勇伝」
「やってねーから、何もしてねーすから……」
屋根に敷いたゴザの上、ポテトチップスを散らかし膝を叩く軽い男塔矢を前に、司の落ち込んだ顔は重い溜息を長く深く落としていた。
新任の先生を泣かせたという話はあっという間に広まっていた。
午後最後の授業のさらに最後、残り10分で作った伝説は、平坦な日常を過ごす平凡な学校では刺激的な出来事だった。
今日のうちは単純に先生の方から泣いたという形に噂は止まるだろうが
「カンフーファイター顔負けのファイティングポーズで死ね!! ブス!! って言って泣かせたらしいじゃん」
「とってねーし、言ってねーよ……」
すでに言ってもいない言葉のヒレがついている。
明日になれば、手を挙げただの蹴飛ばしただの、挙句は先生の車を投げたと言われる勢いである。
考えただけでも頭の痛い話だ
「俺……明日学校休むわ」
「休むと余計に噂を広められるぞ、渦中の人物がいなきゃ言いたい放題だぜ」
「……まじかよ、行くも地獄帰るも地獄だな……」
大の字に寝転び星空に手を伸ばす、その手には小型のウイスキーボトルが。
小瓶のなかには七色の光を持つ砂つぶが見える
「なにそれ、また新しい魔除け?」
「魔除けというか……悪夢製造機だ。きっとこいつのせいで酷い目に遭っているんだ」
美しいボトルに似つかわしくない印象
「また親父さんからのプレゼント」
「ああ、くそ親父からのオカルト雑貨だよ。イギリス土産で魔除けの砂が入ってるっていうから」
そこから先は母親の独自解釈で司の手に渡されここに来ている。
魔除けといわれたこれを母は「交通安全」のおまもりとして渡していた。
現代社会において魔的イメージにより、ぶつかれば大ダメージをくれる車を「魔」と見立て
「まったく、なんでこれが交通安全のお守りになるって考えるかねー」
「斬新だなー、さすが司の母ちゃん。でもそういうところが客にウケてるんじゃねーの」
オカルト雑貨、それを表看板に出したことはないが天野雑貨店はその手の客を惹き付ける小物であふれていた。
品物の仕入れは海外出張先物取引の帝王と呼ばれるエリート社畜の父だ。
一年のうち2日も家にいれば長期休暇と言い切るクソ親父は、居付かぬ家を心配して世界中から珍しい雑貨に小物を送りつけてくる。
当初から常軌を逸する物量のプレゼントで、置き場の確保ができなかったそれを、店じまいした実家のあるアーケード街の店頭に並べたところ、評判が良かった。
日雇い掃除婦の仕事をしていた母は心機一転、雑貨屋へと商売の道に乗り込んだ。
物珍しい商品はサブカルに目ざとい若者の目に止まり拡大し、アンティークに目つけた婦人層を取り込み、コアなオカルトファンの行きつけと化し、商品案内の語りも愉快な天野雑貨店は寂れた商店街の活性化因子となった。
おかげで生活に困ったことはないが、息子である司は怪しい魔除けのたぐに悩まされ続けている。
この小瓶は最新の魔除けとして日本にやってきた
「魔女の涙って言うんだけどさ……こいつのせいで浅い眠りの時に必ず決まった夢を見るんだ」
「どんな?」
見せられた獲物に塔矢は興味なさそうだった。
何せこの手の話は何百回目くらい聞かされている。
「変な女が出てきて……ずっと謝ってる」
「それが魔女なの?」
「さあ……でも魔女のって名前ついてるんだからそうかも、あーもう、うんざりだよ」
ラムネで酔えるわけもないが、眠りが近づく時間で目はトロンとしていた。
深夜の深い時間、明日もまだ平日だ
「明日学校こいよ、来ないと福ちゃん(福見先生)がまた泣いて、あれやこれやと噂を立てられるぞ」
「だるいな……高校なんか行かなきゃ良かった」
「そう言うなよ、俺はお前がいてくれて楽しいよ」
「俺は……別に楽しくないよ、楽しいことなんてないよ……」
塔矢の悲しそうな顔を見ないふりする、そういう感情はとっくに失っている。
いや失いたいのだ、そういうテンションを得て今に至ったのだから。
「なあ司、きっとまたいい出会いがあるって。今だけが人生じゃねーよ」
帰る背中で肩をたたく
司は1年前恋愛に一生懸命だった。
一生分の努力を使ったと言っても過言でないほどに燃えていた。
わざわざ励ましてくれる塔矢には悪いが、そもそも彼と同じ学校に通う予定もなかった。
もっと上の学校へ、彼女のいる高校へ行きたかった
「鍵山雛美……好きだったのにな……」
若気の至り、青い青春の入り口、純真さを拗らせるような目の覚めるような初恋だった。
「あーあ、本当マジで学校行きたくねーな。辞めちまおうか……」
塔矢の帰った屋根の上、広がった星の天井を見ながら本気で退学を考えていた。
何せ自分の家で商売をやっているんだ、学力なんて必要ないし、場合によっては毎日店を開ける必要もない。
クソ親父が買い付けてくるプレゼントは店に入りきらず、港に借りた倉庫に山積みだ。
自分が生きる分ぐらいの在庫はある、細く平らに生きるのなら十分だ
「そうだ、この砂抜いちまおう」
低空飛行の気分を持ち直す、それでもときは止まらないのだからと諦めて思い出す。
魔除けと渡された小瓶を。
護法の札のように渡された小瓶は、平穏で怠惰な日々を願う司には不必要だった
「瓶だけは何かに使えそうだけど……なんだ硬いな……」
小さなボトルの口は赤色の封密ラベルがかけられ何かしらの文字が刻印されている
「……1855……なんだそれ? あああっ開けよ!! って痛ったぁ!!」
ねじり回し無理やり引っ張ったラベルは粘土のように剥がれ落ち、内側をくくっていた金具に指を引っかけたまま引き抜いてしまった。
力任せの行為に、金物に引っかけた指はえぐれ大量の血が噴き出していた。
人差し指の付け根、ざっくりと切った傷跡を抑えてもあふれ出る真っ赤な血に、嫌気が立ち上る
「ああもうなんだよ、信じられない、こんなことで怪我するとかありえねーだろ」
開いた瓶からこぼれ出る砂、それに司の血は遠慮なくかかっていた
「これもう入れ直すとかできないよな……参ったなー、呪われたりするのかな……」
信仰心なんか実は欠片もない、だからお守りの中身なんて棒切れ程度に考えていた。
この砂もそうだ、何をありがたがってこんなものを大事にしてきたのか、冷めた目線が自分の血で泥のように固まった御神体を見たとき、鉄拳が炸裂していた
「うごぁああぁあぁああぁ!!!」
小さな拳は砂の中から飛び出し、物の見事に司の顔面を張っ倒していた
「……マド○ンド」
「Bag it!!!」
たじろぐ司に、鋭利な刃物のように尖った甲高い声、声に続く影。
小瓶に詰まっていた分とは思えない山なりの影に腰を抜かした
「待って待って待って!! 呪わないで!!! すぐに戻すから!!」
アホの言い分、勝手に開けたし中身にたいする信仰も畏れもなかったくせに人一倍驚き屋根から落ちそうになっている
「No curse!! No spell!! No charm!!」
雷のような声、世界を揺らす波形が普段見える景色を水紋のように歪ませていく
「マジもの……本当に?」
「Undo a chain of love.」
いよいよ大きくなる影に真っ赤な目と思しき二つの光が灯ったとき、司に見えたのは走馬灯だった。
簡素で短い走馬灯、人生16年というショートフィルムは幾重にも思い出を重ね深いものとなっていた。
短い間だったのに、思いを込めた記憶がいっぱいにあった。
その中でもひときわ濃かった「恋」の記憶が洪水のように溢れ出せば、言わなかったという事実に心は震え上がるばかりだ
「待ってくれよ……まだ告白してないんだ!! まだ死ねないんだ!!」
濃度の濃かった去年、初恋に燃えて彼女に近づきたくて、今までやらなかったことをたくさんした。
勉強を中心に、ファッション、流行、遊び、色々と覚えた。
全部が無になってしまう、焦燥感が叫び声を上げ、尻を引きずって距離を取ろうとする
「殺さないでくれ!! 新しい瓶を買うから!! 弁償するから!!」
「No.I’ll never let you go」(ダメ。離さない)
血を流した手を掴まれる、それは拍子抜けするような柔らかい感触だった。
幻影的に長い爪を持った魔物の腕を予想していたのに、砂のカーテンがこぼれ落ち飛び出してきたのは真っ白な細い指先を持つ手。
それが司の腕を掴んでいる。
剥がれ落ちる砂の向こうに現れたのは灰色の髪、真っ赤な瞳、白い肌、吸血鬼的三種の神器を揃えたような少女、その口に輝く牙をにこやかに見せている
「吸血鬼か……誰? ……君は?」
まともな会話は望めない、自分は恐ろしい怪異を復活させてしまった。
相手は素っ裸というサービス満点の姿ではあるがそれに興奮することなど不可能だ。
赤い瞳に魅入られて。命乞いをするなら、吸血鬼の奴隷となるしかない。
オカルトは母親が喜んで話す分野だった、それが妄想で超不自然な作り話だと断定してきた側である自分に、実態を現し迫るなど考えたこともなかった
身動き取れない動揺の中にいる使と違い相手はにこやかだった。
笑顔が不気味ま程に
「oh…… moon」
月明かりの下にいる彼女はビスクドールのようで、無機質すぎる肌を見れば人間ではないと改めて確信するばかり。
だが、完成したシルエットは可憐だった。
緊張でドライアイスをつけたように固まった司の顔を彼女の指がゆっくりと舐めるようになぞってゆく
「I’ll stand by you all the time.」(あなたの支えになりたい)
「日本語で頼むよ!! 何でもいうこと聞くから!!」
「a-ha」
会話ができるということは、逃げるチャンスもあるのでは。
甘ったるい妄想を加速させたのは彼女の笑みだった。
素振りもまた理解をもっているように見えていた、ゆっくりと近ずく顔に無理やり引きつった笑みで返礼する。
ピンクの唇が右から顔を伺う位置、冷たい吐息が耳をくすぐり小声で聞こえたとき、司の唇は奪われていた。
女から積極的な濃度高い絡めのキッスに目が回り手が踊る。
何もかもが初体験で目が点だ、ゆっくりと唾液のブリッジをつなげたまま離れる唇に目の前の顔
「えっ……なんで、俺の初キッス……」
そこが問題か?
塔矢がいたのならば素早く突っ込まれそうなほどに惚けた顔に、彼女は人差し指を立てて口を押さえる
「やあ、良い夜だね。こんばんわ」
「こんばんわって……あんた誰?」
星空を指差す月光の使徒は言う
「私はルールゥ、200年ぶりにこの世界に顕現した愛と恋の化身!!」
答えようがない。
初めて聞く言葉ばかりだし、砂から現れた人成らざる者、200年ぶりの世界など今時のセリフでもない
「どうしろと……」
この魔物の要求に従うことが生き延びる道
「まず何からすればいいの? できることはするけど、殺人とかは勘弁してくださいよ。あと突然失踪とかもやばいし、学校もあるんで」
泡を吹くように次々に飛び出す言い訳を前に、彼女は憮然と頬を膨らませると立ち上がる
「細かいことはどーだっていい、さあ恋に会いに行くのよ!!」
裸の仁王立、月に照らされたルールゥと名乗る少女。
絶対安静人畜無害な生き方を望む天野司にとって真逆の力を引き連れ、時代を超えてきた彼女に振り回される日々が始まったのだ