秀の受難
あれから数日、俺は元気に退院することになった。
傷跡は残るが、男なら何ら気にすることはない。
深い傷でも肩なら見ることだって少ないだろう。
病院に背を向ける俺。
幸樹と父さんが迎えに来てくれた。
ばあちゃんと母さんは家で待っている。
滅多に乗られることのない自宅の自動車。
父さんの運転は荒々しくて、車に弱い人が乗ったらすぐに酔うだろう。
乗り物に強いと自負している自分ですら良い気分はしない。
それでも幸樹は表情一つ変えず、静かにシートに座っていた。
「幸樹、車平気なのか?」
「…初めて乗る」
車がガタンと揺れる。
シートベルトをしていても体が浮く。
幸樹だけが車と全く同じように動いている。
「初めてだったのか…?」
「乗る機会なんてなかった」
「そっか…」
小学生くらいで自動車に乗らないとはどいういう状態だったのだろうか。
前に家族が皆死んだようなことを言っていたが、酷く病弱だったのだろうか。
家に着くと、幸樹はふらふらしてリビングへ向かった。
「どうした、幸樹?」
「…何だか…頭がガンガンする」
「…プッ…なんだ!幸樹も車酔いするのかよ!」
思い切り吹き出すと、幸樹は俺のことを睨んだ。
「どうせ秀だって幼い頃は酔っただろう!」
「なぁに、俺がガキだった頃はな…」
強かった昔の自分のことを話してやろうと思ったが、思い出せない。
「…どうしたの、秀。やっぱり弱い男の子だったのか?」
「いや…別にそんなわけじゃ…」
今まで幼かった頃のことなんて考えたこともなかった。
学校の友達とも、話すのは大体ゲームや漫画の話。
「父さん…俺…ちっちゃい頃どんなだった…?」
「…え?」
「全然覚えてないんだよな…」
「…はっはっは、それでいいんだよ」
幸樹が俺を見て首をかしげた。
「な、なぁに、俺のことだからどうせ大人を困らすいたずらっ子だったろ」
「怪しい…」
「え…。か、母さん!俺がガキの頃どんなんだったか教えてくれよ!写真でもいいから!」
「…どうしてそんなこと気にするの?秀ちゃんは秀ちゃんよ~」
母さんは笑顔でそう答えたっきり、何も言おうとしなかった。
何だっていうんだ、一体。
こうなったら最後に頼れるのはばあちゃんだけだ。
ばあちゃんの部屋に駆け込み、編み物をしているのを止めるように話しかけた。
「ばあちゃん、俺って小さい頃どんな子供だったの?」
「おや、秀ちゃんかい?」
後ろから幸樹がついてくる。
「…何か、いけないものがいるねぇ」
ばあちゃんは俺の後ろにいる幸樹を見つめていた。
「その女の子、部屋から出してくれないかい?」
「どうして?」
「おっかないよ。私の部屋には、入れないでほしいねぇ」
普段、ばあちゃんは幸樹が食事の席にいても全く気に留めなかった。
「私なら構わない。外で、秀が泣き虫だった話をきかせてもらうのを待ってる」
「おいおい…」
幸樹はおとなしく部屋から出て行った。
ばあちゃんはゆっくりと口を開くと、こう言った。
「秀ちゃん、本当に何も覚えてないのかい?」
「何も覚えていないって…でも、俺だって普通の子供だったんだろ?」
「秀ちゃんは小さい頃、ばあちゃんが怖いって泣いたもんだよ」
「ばあちゃんそんなに厳しかったっけ?」
「いや、秀ちゃんは厳しいから怖がっていたんじゃないよ」
「じゃあどうして?」
その時、父さんが部屋に入ってきた。
「昼ごはんできたぞー…秀?」
「父さん…」
「ばあちゃんと何を話していたんだ?」
「いや、俺が昔どんな子供だったか…」
「…やめておきなさい」
「どうして?」
「…今は思い出さない方がいい」
「そんなぁ…」
「秀ちゃん、ごめんね。ばあちゃんもこれ以上は話せないよ」
そして父さんもばあちゃんも、部屋から出て行ってしまった。
「秀?」
ふすまの向こうから幸樹がひょっこりと顔を出す。
「話、聞けなかったの?」
「うん…。皆話したくないみたいでさ。昔、事故にでも遭ったのかな…」
「気にすることはない。それよりも今日の昼食は秀の好きなハンバーグらしい」
「お、やった!」
「秀、話があるの」
ドアに隠れるようにして、幸樹が部屋へ入ってきた。
「どうした?堂々と入ってきていいんだぜ?」
「…秀が、喜ぶとは限らないから」
「気にするなよ。俺はお前の兄ちゃんなんだからさ」
そう言って髪をくしゃくしゃ撫でてやると、幸樹は目を瞑った。
「この手も、優しさも、全てが『秀』だ。それに変わりはない」
「そりゃそうだ。俺は秀。それはどこに行こうと変わらない」
「…秀、昔のことを覚えていないの?」
「あぁ、そうだけど…」
「少したりとも思い出せない?」
「…うん。気にしたこともなかったから、気づかなかった…」
「一番古い記憶はいつのものだ?」
頭の中にフィルムが渦巻く。
病院の天井、鎌を持った幸樹、夏休み、学校の入学式…。
「…中学生の…頃…?」
「詳しく思い出せる?」
夕方の公園。ブランコで遊んでいる。傍で小さな女の子が泣いている。
顔に霧がかかったようになって、誰だかわからない。
女の子は何か喚くと、涙をぼろぼろ零した。
「パパはどこなの?」
「知らない」
「お兄ちゃん知ってるでしょ?昨日パパと一緒にお話してたじゃん!」
「知らないって言ってるだろ!」
ブランコを飛び降りて、女の子の顔を殴る。
女の子がさらに激しく泣き出す。
泣いて、泣いて、泣いて、涙が地面を塗らす。
「黙れよ!」
何度も、何度も、殴った。
悲鳴なのか泣き声なのかわからない声がする。
「パパああぁぁぁ…!!!」
「…秀、大丈夫?」
「え?」
周りを見回す。
幸樹が俺の顔を覗き込んでいた。
「思い出せないのか?」
「…俺、幸樹と出会うまで妹なんていなかったはずだ…」
「どういうことだ?」
俺は幸樹にさっき思い出した光景のことを説明した。
「俺、一人っ子だったからさ…」
少し考えて、幸樹は言った。
「その子がどうなったのか思い出せない?」
「え?…わかんない」
「なら、その次に古い記憶は?」
「…高校の入学式」
おかしい。
俺は高校一年生だ。
それなのに、高校の入学式までの記憶しかない。
「幸樹…これって…」
「中学ともなれば、記憶があるのが当然。それなのにない」
「最近までは、中学のことも覚えていたはずなのに…」
幸樹の姿を見て、嫌なことを思い出す。
―――魂を食われた人間は、自分が誰かもわからなくなってしまう。
「心配するな、秀。あなたの魂はしっかりとここにある」
俺の心を読み取った幸樹が、俺の胸に手をやった。
「魂がなければ、私が秀の意思を読み取ることはできない」
「そ…そうか…。だとしたら、どうして…?」
俺は全く今後のことなど考えていなかった。
これはまだ俺の中で、「昔のことが思い出せない」程度でしかなかったのだ。