目覚めと宝石
俺は病院のベッドに横たわっていて、焦点の合わない目で天井を見つめていた。視界に父さんと母さんが入ったが、俺の目はそっちへ動こうとしなかった。
「秀…」
母さんの弱々しい声といったら。今までの自信が何処へ行ったのか、見当もつかない。
「母さ…ん…幸樹…は…?」
顔を横へ向けようとすると、首の骨がギシギシと軋んだ。喉の奥に、何か熱い物が込み上げてくる。
「幸樹ちゃんなら、ちゃんといるわよ」
そう言って母さんは幸樹を連れて来る。前と何ら変わらない表情だ。
なぜか、彼女の顔を見たらほっとした。俺は幸樹の頬に震える手を添えて、微笑みかけた。
「無事だったんだな」
「…」
何の反応も返ってこなかった。でも、別に不満の欠片も感じなかった。心を持たない風渡り。人との間には、「感情」という壁がある。なぜだか自分は、その壁を超えて幸樹に接していた。
「秀…。あなたは、帰宅中に交通事故に遭ったのよ」
「…え…?」
「覚えてなくて、当然かしら。酷い怪我だったからね。ショックも相当なものだったでしょうし」
「違う…!」
首が、背中が、体中がギシギシと痛んだ。幸樹に鎌で刺されたときの傷が、熱を持って神経を痛めつける。
「秀、あなたはきっと夢を見ていたの。あなたは交通事故で重症を負ったのよ」
「この怪我は風渡りにやられたんだ!母さん、このままだと幸樹が…消される!」
「…落ち着いて、あなたが何を言っているのか、全くわからないわ」
「嘘だ!俺はあのままだったら間違いなく死んでた!誰かが助けに来ない限り…」
そのとき、俺は母さんの肩越しに俺を睨み付ける父さんと目が合った。その目はまるで…俺に「それ以上は何も言うな」と訴えるようだった。俺は悟った。全ての事件を、父さんは知っている。ただ、母さんには秘密にしておいたのだ。幸樹を家族として招き入れたことの責任を、感じさせないために。
「…ごめん、母さん。俺、きっと、気が動転してるんだ」
「秀…」
回復は至って順調だった。背中と首の傷は車と衝突して飛ばされたときに、落ちていた石が刺さったことになった。俺をはねた車は逃走した。いわゆる轢き逃げというやつだ。警察の手続きは、一通り父さんがやったということになっている。家の片付けは父さんがしてくれたらしく、相変わらず母さんは事故が怪我の原因だと信じ込んでいた。でも、俺としてはありがたいかもしれない。もし母さんが本当のことを知ったら、今度こそ幸樹を絞め殺すだろう。
「幸樹、元気か…?」
返事のしない女の子を、俺は妹を見るかのような眼差しで見つめた。幸樹は自分が守り抜く。そう、俺はこいつを、家族として認めた。
「あなたは元気じゃなさそうね」
親が医者と話をしていて、幸樹と二人きりになったときだった。
「…え?」
「私は元気かもしれないけれど、あなたは怪我をしている」
「そうさ。誰かさんに鎌で刺されてね」
俺は笑いながら、幸樹にいじわるを言った。
「消えたくない」
「…何だ?聞こえないぞ」
「私はまた、間抜けなミスを犯した。今度こそ消されてしまう」
「幸樹…?」
「だけれど、私にはあなたが殺せない」
「幸…樹…?」
光を反射させるそれは、ビーズか宝石のように、キラキラと俺の目の前ではじけた。初めて見る、風渡りの…幸樹の、涙だった。
「消えてしまう。死なないために風渡りになったのに、消えてしまう」
表情こそなかったものの、彼女の頬を伝い落ちた涙は、明らかに悲しみと恐怖を表していた。
「心配するな。幸樹は俺が守るから」
「無理。風渡りは、人間など遥かに及ばない力を持っている」
「じゃあ教えてやる。人間様はな、『魂』ってのを持っているんだ。こいつは、風渡りとは違う、計り知れない力を発揮するんだぞ」
「…」
もう、幸樹の涙は止まっていた。俺は痛む腕を何とか上げて、幸樹の柔らかい黒髪を撫でているだけだった。ほんの小さな、子供みたいな誓い。
「幸樹は、誰にも渡さない」
自分が幸樹の兄なのだと、いつの間にか信じきっていた。