ミス
あぁ、何だ、もう朝か。俺が目を覚ましたのはいつもの自室だった。リビングで婆ちゃんが俺を呼ぶのが聞こえた。…長い夢を見ていたのだろうか、俺は。
カーテンを開けると、目に入るのは晴れた青空。夢の中で一番最初に見たのも、気持ち悪いくらいに晴れ渡った青空だった。
「おはよう」
ぼそっと呟き、俺は朝食を食べようと窓から回れ右する。
「おはよう、秀」
すかさず俺は頬をつねってみる。痛い。目の前にいるのは、夢に出てきた幸樹とやらだったのだ。
「お…おはよう、幸樹。何のようだ?」
「朝食が出来上がっている。それと、昨日と一昨日のことは夢ではない」
「そうか。……って、お前、今俺の考えてること読まなかったか!?」
「それくらいできて当然」
「いや、当然じゃないから!人間にはそんなの不可能だろ!」
「私は人間じゃない。あくまで風渡り」
そう言って幸樹は1人でリビングへと向かう。俺も少し距離を置いて幸樹を追いかけた。
「秀、遅いぞ」
「いつまで寝てるつもりなの?」
「遅いって…まだ6時じゃないかよ!」
「あら、家族全員が揃った初めての朝よ?もっと早く起きなさいよね」
この日の朝食は随分と賑やかなものだった。今まではずっと婆ちゃんと2人朝食を食べていた。婆ちゃんは耳が遠くて、あまり喋ることは好まない。俺はいつも黙々と食べ物を口に運び、噛み、飲み込んでいるだけだった。それが嘘のように、今はとんでもなくうるさい。まぁ、原因は母さんと父さんのウィンナー争奪戦なわけだが。
その直後、父さんと母さんは食べ終わるなり、家を出ようとした。
「…どこ行くんだよ?」
すると2人はニヤッと笑って答えた。
「山へ芝刈りに」
「川へ洗濯に」
答えに苦労したため、俺は何も言わずに自室へ戻った。それとほぼ同時に、玄関のドアが閉まる音がした。
「秀、何をしているの?」
振り向くと、予想通り幸樹がいた。
「学校の支度だよ。今日は月曜だから、俺は学校があるからな」
すると幸樹は俺の隣に来て、教科書が詰め込まれた鞄を眺めると首を傾げた。その時に目に入った首輪が、妙に痛々しかった。ふと俺は疑問に思う。さっき母さんが家を出たのに、なぜ幸樹がここにいるのかと。
「幸樹、首輪、母さんがいないけど大丈夫なのか?」
「問題ない。首輪の効力は彼女の意図によって、一時的に無効化されている」
「へぇ。…んじゃ、俺もう行くから。大人しくしてろよ」
俺は幸樹の方を振り向かず、部屋を出た。リビングで婆ちゃんに一言だけ声をかけると、すぐに学校へ出発する。
高校は家から徒歩10分のところにある。近いところにあるのは魅力的だが、信号がやたら多いのが困り物だった。今日もいつも通り大通りの信号に捕まり、俺はぼうっと空を眺めて時間を潰していた。
「本当、気持ち悪いくらい晴れてるよな…」
そう呟いた瞬間、空を何かが飛んで行った。鳥にしてはでかすぎる。だからといって、ヘリコプターや飛行機ほど上空を飛んでるわけでもなかった。
「…何だ?」
空を飛んで行った物体を目で追ってはみたものの、それは一瞬で見えなくなってしまった。
欠伸が出るほど暇だった。授業が。それに感づいたのか、先生が俺を指名した。
「桂木、今の問題の答えは?」
「x=3,y=-2,z=10」
「…正解だ」
これは俺の変な得意技の一つ。ぼうっとしていたり、何か他のことをしていても、周りの音を察知して理解することができる。恐らく第六感との関係はない。俺はもう一度欠伸をすると、窓から空を見た。一番窓側の俺の席は、異常なくらい日当たりがいいために眠気を誘う。
その時、朝見たのとよく似た物体が空を通り過ぎて行った。それも、今度はたくさん。目を凝らして見ると、それは人の姿をしていた。俺の耳に、婆ちゃんの言葉が響く。
『風渡り』
幸樹の仲間。それを認識した瞬間、また別の言葉が…。
『間抜けなミスをしなければいいだけ』
あれ?これ、誰が言ってたんだっけ?
「……幸樹!」
気が付いたら俺は叫んでいた。クラスの注目を浴びると同時に先生の罵声が飛ぶ。
「桂木、やる気あるのか!?」
「すみません先生。俺、体調悪いので帰ります!」
「おい、桂木。桂木!」
先生の引き止めるのなんか知らない。親に電話されようが、あの母さんと父さんのことだから笑って終わりだろう。俺はただ、幸樹のことだけが気になっていた。
「幸樹…お前のためじゃない。お前がどうにかしちまったら、母さんの機嫌が当分直らないからだよ!」
道を歩く人々が皆振り返る。数日前、幸樹に追いかけられていたことを思い出すが、今度は1人だった。
「幸樹!幸樹!」
家に着くなり、ドアを開ける。家には婆ちゃんもいるが、知識しか当てにならない。
「幸樹、いるんだろ?」
リビングに入り、彼女の姿を探す。婆ちゃんはいたが、幸樹の姿はない。
「幸樹?どこだ!?」
婆ちゃんの部屋、父さんの部屋、母さんの部屋、洗面所、トイレ、物置…。隅々まで探したけれど、いない。
残ったのはあと一つだけ。…俺の部屋。
「頼む。ここに居てくれよ」
願いを込めるようにして、俺は自室のドアを開ける。
誰も、いない。
以前幸樹を押し込めたクローゼットなんかを開けたりもしたが、彼女が見つかることはなかった。
「幸樹…」
消されてしまった。母さんに捕まったから、間抜けなミスを犯したから、消された。跡形も無く、存在さえもなかったように。そう、さっきだって、母さんの部屋にあったはずの幸樹の鎌がなくなっていた。
「…さっきだって、鎌がなくなっていた」
その言葉に違和感を覚える。
「さっきだって…さっきだって…殺気立って…」
殺気立って、鎌がなくなっていた。
ドスッ
右肩に激痛が走る。右腕を血が滴っていく。
「…幸樹!」
幸樹がいた。鎌もあった。そして、その鎌は俺の血で濡れている。思考停止。
「魂が欲しい。それだけ」
「幸樹?」
「抵抗しないのなら、貰う」
窓の外に人影が見えた。そうか、幸樹はコイツに…。
俺は間一髪のところで幸樹を突き飛ばし、窓に全力で走った。そして、勢い良く窓を開ける。
「幸樹に何をした!」
そこにいたのは、俺と同じくらいの歳だと思われる、美青年だった。
「別に、何もしていない。幸樹が役目を果たせなかったようだから、消しに来ただけだ」
「帰れ!幸樹に構うな!」
「風渡りは人間の魂を集める義務がある。魂がないと、風渡りは存在そのものが消えてしまう」
「意味がわからない!」
「風渡りの集めた魂は、仲間に平等に分配される。魂を集められないクズは、邪魔だから消えてもらう」
「幸樹を消す気なのか!?」
「お前の魂を回収できなければな」
今度は首に痛みを感じた。視界が真っ赤に染まり、意識が遠のいて行った。