ねくすとすてっぷ
昼休み、教室でいつものように机に座り、ゲーデルの不完全性定理についての本を読んでいると七月が教室に遅れて登校してきた。
「おはー、詠士」
「おお、おはよう。て、もう朝じゃない。既に昼だよ」
「ああ、そうだね。ぼうっとしてた」
「いったい、なにがあったんだ、七月。珍しいな、お前が遅刻するなんて珍しいな」
「なあに、ちょっと考えことをしてたの。なかなか難しい問題でね、解決方法が全然思いつかなくて昨日から寝てないの」
そう話す七月は、普段よりやつれて見えた。肩を落とし、体を支えるのも辛そうだ。足下もふらついていた。相当疲れがたまっている様子が見て取れる。目の下には、くまができていた。
「とりあえず、椅子に座ったらどう」
「ああ、助かるにゃ」
「なぜ猫語!!」
「理由聞きたい?」
「教えてくるなら聞きたい」
「教えにゃーい」
疲れているときに起きる七月のこのモードとの会話は、これはこれで楽しいのだが他者には理解してもらえない。ひたすらじゃれてくる七月の相手をするのはこの上なくすばらしいものなのに、どうして分からないのだろうか。友人にその理由を聞くと、こう答えた。「テンションが高すぎてただひたすらにつかれる。始めのうちは、いいんだが抜け出すタイミングを喪失し、七月のペースに引き込まれる。まるでブラックホールのようにな」とか言っていた。
言われてみればなるほどと頷ける理由だ。そんな事情もあって、まれに起きるこのモードの時の七月の相手をするるのは僕だけだ。なぜ僕は大丈夫なのかというと、長年の付き合いにより克服しているからである。単純なことだ。耐性がついたのだ。人の体とは不思議なもの。ある日のこと突然平気になった。
まあ、そんなことはどうでもいい。今話すべきは別のことだ。
椅子に座り、ようやく通常モードに変化した七月に向かって尋ねる。
「どうして遅刻したんだ?」
「さっきも言ったでしょう。考え事していつの間にか昼になっていたって」
「そうか。何について考えていたんだ?」
「知りたい?」
「教えてくれるなら、知りたい」
椅子から立ち上がり、なにやらもったいつけるように僕の周囲をくるくると回っている。どうしよっかな、どうしよっかな、なんてつぶやいている。そうして3回ほど回転した後、話す気になったらしく椅子に再び座り僕に向きあった。
「世界がどうやったら平和になるかをだよ」
なるほどね。正直言ってこれくらいでは僕は驚かないのだ。かつて第二次世界大戦をどうしていれば日本の勝利で終えることができたのかというシミュレーションに二人で取り組み、一週間学校をさぼったこともあったからだ。その時は1万通りの可能性について考え、結果として百の方法を見つけた。さすがに高校になってからは学校をブッチすると、単位がもらえなくなるのでやめているが、よくそうやって学校をさぼったものだ。
今になって思うと、駄目人間だったな。
「それで、その方法は見つかったのか?」
「いや、私の頭のスペックでは無理だった。家にあったスパコンで計算してみたけど、おそらく結果が出るまで1000年はかかる見通し。一つの紛争を回避してもまた別のところで戦いが始まる。さらにいがみ合いにより常にどこかで争い合う社会が存在する。それが表向き直接的な戦闘に発展しなくても裏では多くの血が流れる。平和な世界を戦争のない世界と絞って定義してみても不可能だった。しょうがないから、中断して学校に来たってわけ」
「それで断念したのか」
「断念じゃないよ、中断しただけ。第二フェイズに突入する必要があると判断したの」
「あれをやる気か」
「だから、学校に来たんじゃない」
選択肢は他にないようだ。頼られれば力を貸すのは当然のこと。それが七月というならば異存はもちろんない。
「分かった。けど、体力は持つのか。だいぶ疲弊しているようだが」
「大丈夫。発動に耐えうるだけの体力は残ってる」
そう答える七月は、自らの体調の把握に自信があるようだった。
だが、本当は自分のことなんて他人以上に分かりはしない。他の人はあくまでも外部から人ごとという視点で見ることができる。冷静に。
感情が入らないその分析はたいてい当たっている。
人が現実を見誤るのは思い込みからだ。自分だけは大丈夫という思い込みが全てを狂わす。かつて僕の父がそうであったように。そしてその積み重ねが最終的に手遅れを呼ぶ。人の死という物にいやというほど触れてきた僕には分かる、七月は明らかに無理をしているのだと。
だが、僕は七月を止めない。自分の道は自身で決めるべきだ。七月が僕に意見を求めるようであれば助言するだろう。けど自ら彼女の行動を強制する気はない。僕にとって人の世界に過度に干渉するのはやってはいけないことだからだ。それが七月であってもこの世界に属している以上その対象となる。
まあ、やつは父とは違い当分は死なないだろうが。
「分かった。やろう」
僕の言葉を待っていたのか、おもむろに立ち上がると近づいてきて僕の右手を左手で取る。そのまま、指を三度鳴らした。
三度の音が反響し合い交わり、教室の中を駆け巡る。その音に気づけたものは僕たち以外いない。教室中にしみ込み、教室の空間がゆっくりとずれていく。この世界ではない方向に。
君と僕の世界が生まれた。
「この感じも久しぶりか」
そこは暗闇の世界。僕と七月の合体技、隔離世界を作り出す技の賜物である。そこには初め光がなく、僕と七月以外の人は存在しない。まさに現実から隔離された世界なのだ。その世界は、無限に広がっているわけではない。広さは発動した時の部屋の広さと同規模である。空間の端は、滑らかな素材による垂直の壁に囲まれている。
この空間は、時間というものが現実世界から解き放たれている。僕もそして七月もこの中ではいかようにも変化しない。いや変化しないというよりも、常に元の状態に戻ろうとするという方が近いだろう。ある一定の期間を体が経験すると再び元の体に回帰する。終わりがないといったところか。ただ唯一の例外があるとしたら知識に関するものだ。この空間のルールに従うならば、僕たちの脳も元の状態へと復元される。そうすれば刻み込まれたはずの記憶もまた消滅するはずなのだ。だがなぜかそれは起きない。おそらくその部分だけは回帰しないか、超自然的な力が働いているのかのどちらであろうが、こんな空間が作れる事自体が現実を逸脱していることなのでいまさら気にはしていない。それはそういうものだと受け止めるのが今の僕にできることなのだから。これもまた慣れというものなのだ。
「やたらと楽しそうだな、七月」
「この密閉空間なら詠士を押し倒しても誰にもばれないし。秘密の時めき空間だよ。私が受け身でもいいよ。さあ私の胸に飛び込んできて」
「ええ……なんでそうなるんだ。でも僕としたら願ったり、願わなかったりしちゃったりして。でも心の準備ってものが欲しかったりして、だけど……」
「冗談に決まってるでしょう。なにをそんなに慌ててるの。詠士らしくもない」
「なんだ、冗談か。ははは……それならいいんだ。それならね」
「期待しちゃってたんじゃない?、えいじ」
「そんなことはどうでもいいだろう。本題に取りかからなくていいのか?」
そう、この空間はただ世界から切り離されているだけのものではない。別の機能がある。
それは、模擬実験。通称シミュレーションである。現実世界をこの空間内に何億分の一のスケールで召還することができる。僕たちは、呼び出した模擬的な現実世界に対して無条件の介入権限を保持する。なんでも自由がままに。いわば神と同義の存在になるということだ。
だが、自分の能力を超えての介入行動は所詮はこのまやかしの空間でのことでしかない。いずれは戻る現実世界でその行動は出来ないからだ。自分が関わる人たちに対して影響力を行使することは可能だ。けれども、彼ら以外の例えばテレビだけで見たような人に対して影響力を行使することは、不可能に近い。
実際は無理というわけじゃないのだが、それには多くの偶然が必要だ。だから、七月が考えていることはあくまでも可能性の論議。
人間の極限と未来を知るための自己満足。
それぐらいは僕たちにも許されている。
「ごまかしたね。まあいいや、その辺で座っててよ。さてとはじめちゃいますか」
七月が指を再び鳴らすと、光が生まれた。空間全体が真昼のように明るくなる。何処に光源があるわけでもない。例えるなら、壁が発光しているようだった。
何度か指を鳴らした後、七月の前には半径一メートルほどの巨大な地球があった。何物にも固定されず宙を浮いている姿は、まるで磁石によって浮いているようだった。
「今回はその方式で行くのか」
「うん、まあね。この方が、観測がしやすいからね。時間の経過を現実世界の1兆倍にして、少しずつ条件を変えてやってみることにした、長丁場になることは確かだけど」
さてどうなるか。僕には関心のないことだけど。
この空間内には時間の概念がない。だからいつまでたっても僕たちはここでは成長はしない。それは非常に生産性のない出来事だ。よく永遠の命から暇を持て余した神様が人間世界に来てしまうというお話があるけど、概念としてはそれと同じなのだ。
もちろん、ある程度の時間だったら暇を潰すことが出来る。
七月が疑似地球を出したように、無機物であったら一定の条件をクリアすることで呼び出すことができるからである。なぜそんなことが出来るのかと言えば、時間回帰は物質には発動しないからだ。
例えば、本やMP3プレーヤー、そんなものなら何でも出すことが出来る。空間を壊すような大きさのものは自主的に出さないが。もしそんなものを呼び出したら何が起こるのだろう。それは未経験なので分からない。
テレビなんかは出してもつながらない。電波はここまで届いてないしましてや電源もないからだ。バッテリーを出せば電源の問題は解決できるが、電波に関しては不可能だ。
ちなみに出したものは消せない。それもまた、欠点と言えば欠点と言える。
いくら娯楽を出したとしても、閉鎖空間である以上気が詰まってくる。いちどどれだけ長くいられるかを実験してみたことがある。その時は半年が限度だった。その時点に置いての上限だ。おそらくいまもそうはかわってないだろう。
所詮は僕たちは人と同じレベルでの身体しか持っていない。
一週間が経った。相変わらず七月は疑似地球の前で立ち続けている。僕は『失われた時を求めて』全十巻を読了した。続けて、ハリーポッター原著を読み始める。まだまだこれから。
二週間が経った。ハリーポッター原著全巻読破。一冊十八時間ほどかかった。頭に起きるはずのない痛みが出始める。MacBookAirを呼び出した。いぜんとして七月は作業中。あいつは取り合ってくれない。
三週間が経った。自作プログラムを作っていたが飽きた。布団を呼び出す。七月はかわらず。甘えても反応してくれない。
4週間が経とうとしていた。僕は布団を床いっぱいに敷いてごろごろ転がっていた。端から端まで。
「限界だ」
独り言が漏れる。
「七月。もう……終わったあ?」
今日だけでこの言葉はちょうど百回目だった。でもまあ、実のところ回数なんてどうでもいいのだ。なぜだって、と聞かれれば七月が一心不乱に作業している時は誰の声も届かないからだ。ただの僕の気休め。言わないより言った方がストレス解消になるからという理由である。
「うん、完了」
半ば諦めかけている七月からの返事だったが、信じられないことに返してくれた。歓喜のあまり、諸手を挙げる。力が抜けて布団に再びダイブ。ああ、思いが通じたか。
数分後、ようやく落ち着いてきたので布団から立ち上がって七月に結果を尋ねる。つい、興奮しすぎてしまった。
「それで、世界を平和にする方法は見つかったのか、七月」
「今はとりあえず現実世界に戻ろう。その方が詠士もいいでしょう?」
それには異存はないが。七月の顔が冴えないような気がする。単純な精神の疲れか、それとも別の要因があるのか。始めはくまがあり明らかに疲れた顔をしていたがそれとはまた違った表情に見える。あの時は光を持っていた目の輝きが曇っている。
嫌な予感がする。
「わかった。帰ろう。手を握って、七月」
来たときと手順は真反対、七月が僕の手を握ったのを感触で確認してから、目をつぶって今度は僕が三度指を鳴らす。
目を開けると、教室に戻っていた。左を見ると、七月が行く前と同じ姿で立っていた。
「大丈夫か。さっきは何だったんだ、急に帰ろうなんて言い出して」
「家に帰る」
突然、七月は手を離すと床に置いた鞄を持って教室を出て行く。予想外の行動にたじろいだが、鞄に教科書を詰めて追いかける。まだ昼休みだというのに、帰るのは気が引けるのだが仕方がない。無断欠席ということにでもしてもらおう。精神的な疲労がたまっているし、この状態で授業を受けても頭には入ってこないだろう。
「待てよ、七月」
止まらない。僕の声が聞こえないかのように、完全に無視している。本当に耳に入っていないのかもしれない。
校門を出たところで、前を歩く七月の肩をつかんで止める。
「いい加減話してくれても、いいんじゃないか。何が分かったんだ」
やっと止まってくれた七月は、僕の方に振り返った。
七月の顔を見ると、その目には涙が浮かんでいた。少女の涙を見るのは久しぶりの出来事だった。
七月の涙は自分のために流されるのではない。それは世界の悲しみを知ったときに生まれる。
人が傷ついたときには悲しみを感じ、人が喜んだときには幸せを感じる。それが七月という存在の本質だ。
今泣いているということは、何か人にとって良くないものを知ってしまったということにほかならない。いったい七月は何を知ったのだろうか。
「詠士にも話したくない。これは私の心の中だけに……しまっておく……。誰も幸せにしないことなんて知るだけ無駄だよ……」
少女は、泣きながらそういった。
普段は、元気な七月の姿をいつも見ている僕は、その悲しげな姿を直視できなかった。つい、七月の言葉を受け入れそうになる。ああ、知らなくていいよと。
けれど、僕には知る義務がある。それが僕に対してマイナスの感情を生むのだとしてもそれを受け入れるのが共犯者たる運命なのだから。
「七月、僕は前に言ったよね。君の側に立ち続けるからには痛みも君と共有すると。何もかもを自分で抱えこむな。それが僕たちの取り決めだったじゃないか」
「詠士……」
そのまま少女は黙ってしまった。道路上に立ったまま。
刻一刻と時間が刻まれる。決して止まることのない流れが僕たちを通過していく。誰にも見えない、不可視の流れが。
一体、どれだけの時が過ぎたのだろうか。実際は、時間の単位で考えればほんの少しだったのかもしれない。それでも、僕にとってはとてつもなく長く感じられた。
「分かった」
僕は七月の隣に移動して並んで歩き出した。そして、七月が知ったことを話し始めた。それはとんでもない内容だった。
「私たちは今まで世界のこれからを考えるために何度かシミュレーションをしてきたよね?」
「ああ、人口問題やテロの発生件数のこれからの推移とかな」
「だけど、さっきのように本質的な問題について長期的に考えたことはなかったでしょう」
「確かにそれはそうだった。あくまでも数十年単位でしか未来を見通そうとしてはこなかった。狭い範囲の事柄で。そんなことをする必要がなかったからな。でもそれがどう関係してくるんだ?」
「今回、今までにない試みをやろうとしたわけだったけど実際には全てを計算することは当然のことながら無理だったの。だから、世界のこれからを10万通りほどに簡略化したシミュレーションしたんだけど。1万通りまで計算したとこで気づいてしまった」
「何に気づいたんだ?」
「人間たちの未来が絶望だっていうことに。シミュレートを始めた最初は、ただの数字の偏りだと思っていたんだけど……1万通りをすぎても状況は変わらず結局最後まで同じだった。どんな未来もたった一つの字出来事にたどり着く」
「その出来事とは?」
「絶えることのない戦争と2100年台に起きる人という種族の滅亡」
それなら、七月が涙を流す理由も理解できる。七月は人間が大好きだからだ。人というものが持っている無限の可能性にいつだって感動を覚えている、僕だってそうだ。突飛な発想で文化、科学、文明全てを進化させてきた彼らを本当にすごいと認めている。だから七月も恒久な平和な世界が作られる可能性もあるのだと思っていたのだろう。
それが裏切られた結果となったのだから受けた衝撃も大きかったに違いない。
だが……。
「でも、それは簡略化した10万通りでしかなかっただろう。まだ恒久の平和が成立し、人類が滅びないストーリーもあるかもしれない」
「そんなの一パーセントよりも少ない。ほとんど不可能だよ」
「零じゃないだろう。ならば、まだ希望があるってもんだ」
「そんなの詭弁だよ。可能性っていうのは状況を判断し最善の判断を下すための尺度となるものなんだよ。だれがこんな低い可能性に期待を持てるというの」
「どちらにしろ、僕らはその限りなく0に近い可能性を信じるしかないだろう。信じることしかできないのだから」
「それはそうだけど……」
そこで一度言葉を切って再び話し始める。
「今まで僕たちが見てきた人間たちは零に近い可能性をひっくりかえしてきた。それが事実。幾度とない挫折から復活した芸術家、死の淵から帰還した冒険家、後一歩で負けそうなところから優勝したスポーツマン。さらにさかのぼるなら、人間という種だって絶滅しかかったことも何度だってあった。それでもそうはならなかった。これからだってきっと大丈夫。それが人間の強さなのだから」
僕の言葉を聞いた七月の顔には少し前と違って力が戻ってきているように見えた。いくらか元気がでたようだ。良かった。
「じゃあ、学校に戻ろう。悩んだって始まらない。たくさんの人たちとの学校生活を楽しまないとね」
「ああ、そうだな」
来た道を走って引き返す。七月に腕を引っ張られながら、春の風を感じる。この生暖かい風が心地よい。
まだこの後人間たちが本当にどうなるのかは僕たちを含めて誰にもわからない、なぜなら未来でも、過去でもなく現在に生きているのだから。
僕と七月は、人ではない。
人にとけ込み、人間たちをただ同時間上から見守ること、それが僕たち天使に与えられた神様からの使命。
悠久の時を生きる僕たちはこれからも長い職務が待っている。悲しいことも辛いこともあるだろう。だが、それでも放棄はしない。
なぜなら人間が大好きなのだから。
読んでいただきありがとうございます。
未熟なところが多々ある初期作ですが、楽しんでいただければ
この上ない幸福です。