侵食
見上げれば、透明感のあるブルーと、スプレー塗料を吹き付けたような白い雲を散りばめた空が広がっている。いつもと同じように、肌寒い朝だった。
私は、自家用車が停めてある駐車場に向かう途中だった。駐車料金を少しでも浮かそうとした代償が、離れた駐車場との道のりにあった。
埃っぽい電機工場の前を通る。赤茶けたコンクリート塀が歩道の左側を覆い、金属片を鎚で打つ音や、バーナーの燃える音、フォークリフトのエンジン音などが、小汚い工場の中から外に漏れてくる。様々な機械装置を駆使し、コンクリート塀を錆色に染める元を生産している。
脂の焦げる匂いが鼻を突く。私は息を止めて、錆色の歩道を急いで通り抜けようとする。
不意に、何かを蹴飛ばしたのに気付く。工事現場の男達がかぶっているような黄色いヘルメットが、カラカラと軽快な音を立てながら、路面を向こう側へ5、6メートルほど転がって止まる。球面部を底にし、まるでひっくり返された亀のように、ジタバタと揺れている。黄色い地に茶色で書かれた『安全第一』の文字と緑十字のマークが見え隠れしている。揺れは規則的で、力を与えられない振り子のように、動きが少しずつ消耗されていくかのように見えたが、そこへ肌で感じ取れるほどの緩い風が吹き、ヘルメットは風の力を吸収し、揺れを取り戻しつつある。
路地との接点を軸にして、徐々にヘルメットが反時計回りに回転を始める。視界の縁にあった『安全第一』の文字が、私の正面にまでずれてくる。まるで、文字に睨み付けられているような気がする。スレート波板の外壁から突出しているダクトから、白い蒸気が勢いよく噴き出す。脂の焦げる厭な匂いが強まる。蒸気の風圧でヘルメットがクルリと一回転して、再び『安全第一』の文字が私の正面に来たところで、タイミングよく止まる。
私は、逃げるようにその場を去る。後方でカランカランと軽快な音を立てながら、ヘルメットの転がる音が付きまとってくる。後ろを振り向かず、足早に歩くが、ヘルメットの転がる音は、一向に遠離っていかない。
私は、いつの間にか走っていた。まるで見初められた野良犬のように、ヘルメットが私の後を付いてくる。
交差点に差し掛かった。信号は赤だった。
私は、足を止めざるをえない。後ろを振り向いてみる。ヘルメットは、私の後方5メートルほどの位置に、伏せたお椀のようにピタリと止まる。
やはり、『安全第一』の文字が、私を睨んでいる。
信号が青に変わる。私は、急いで交差点を渡ろうとする。ヘルメットが付いてきているのかどうかはわからない。後ろを振り向くのが恐ろしかった。
駐車場にたどり着くと、車の中に飛び込み、急いでエンジンを始動させる。ヘルメットの姿はどこにも見当たらない。
車を発進させる。何かがタイヤに当たった。プラスチックをコンクリートの上で引きずるような音がする。構わずアクセルを踏む。タイヤの隙間に入った何かは、タイヤの回転によって弾き出され、どこかへ転がっていった。その何かがヘルメットだったのか、それとも他の物だったのか、確認はできなかった。
運転中、私はなぜあれほどまでに恐怖心を感じたのかを考える。
ヘルメットの何が私を恐れさせたのか。
ただのヘルメットじゃないか。
何が恐いというのか。
お笑いぐさだ。
まるで、あのヘルメットを生き物みたいに考えてる。
あんなもの蹴飛ばしてやればいいじゃないか。
よく考えてみろ。
相手はヘルメットだぞ。
たかがヘルメットだ。
恐れるものなど何も無い。
私は、どうかしてたんだ。
会社に着いた。
タイムカードを押して、私の事務所に向かう途中、同僚がすれ違いざまに声を掛けてきた。
「すごい汗かいてますね。走ったんですか?」
そう言われて、初めて首の周りがグッショリと濡れているのに気が付く。汗が肌着を通り越して、ワイシャツの外にまで染み出ている。
私は、洗面所に駆け込み、ネクタイを外して、ハンカチで汗を拭き取った。細く開いた窓から隙間風が吹き込み、首周りをヒヤリとさせる。体が震えていた。窓を閉め切ったが、震えは止まらなかった。
おいおい、どうしたってんだ。
まだ、ヘルメットの恐怖が抜けきっていないというのか。
再び、ヘルメットに対する恐怖心など認めないと、私は私との戦いを始める。気を紛らそうと、他事を考えようと試みる。思考を巡らせてみるが、何も浮かんでこない。油断すると、またもやヘルメットの奴が割り込もうとする。何か面白いことを、いろいろ思い出してみよう。
夕べテレビで観たコメディアンのアホ面。
知ったかぶりのニュースキャスター。
瞳だけやたら大きなアニメの美少女。
紀行番組の古びた民宿。
放送終了後の砂嵐。
通販のカタログ。
家電ショップの派手なチラシ。
建材屋にもらった日本庭園のカレンダー。
子供に読んであげた絵本に出てきた斑猫。
有精卵に貼られた丸いシール。
チョコレートの包み紙に描かれたアーモンドの絵。
隣の家の表札。
電柱の貼り紙。
選挙ポスター。
道路標識。
コンクリート塀。
錆色の歩道。
……
危機感を感じた私は、想像物の生産に歯止めを掛けようとしたが、急停止は利かず、惰性で二つの物を産み出した。
黄色いヘルメット。
『安全第一』の文字。
ここでピタリと止まった。まるで、球の収まったルーレットがゆっくりと回転し、私に『安全第一』の文字を印象づけている。
「マヌケ」という言葉が、私の心中を氾濫する。
仕事だ。
仕事に専念しよう。
私は、もがくように仕事に就く。この判断に間違いはなかった。私は、いつしか仕事に没頭し、しきりに私を浸食しようとしていたものの存在など、忘れてしまっていた。
正午を知らせるチャイムが鳴る。私は背伸びと欠伸をこなした後、食堂へ向かおうと立ち上がる。そこへ、私が最も嫌っている人物と遭遇する。彼は嘲笑の色を浮かべながら、ゆっくりと私に近付いてくる。彼は常務の息子で、若くして人事部長に収まった、なかなかのやり手ではあるが、私は彼の全ての決定権を掌握したような、包み隠さず露骨に行動や言動に出る高慢さに、どうにも神経に障るものを感じていた。
「顔色が悪いですね」
彼の一言目は、こうだった。
「体が資本ですからね。健康管理には気遣っていただかないと」
「何の用ですか?」
私は、彼の言葉を遮る。
彼は、事も無げに縁無し眼鏡のずれを人差し指で修正する。
「例の件ですよ。考えてくれましたか?」
彼の言う例の件とは、私に対する退職勧奨の返答だった。彼は、露骨にも私に退社して欲しいと言ってきていた。
「納得できませんね」
「納得のいく説明なら、すでにしたはずですよ。これは私だけの判断ではありません。役員会議で決定したことなんです。同じ事を何度も説明させないで下さい」
彼は言うと、またもや眼鏡のずれを直す。レンズの縁は、彼の人差し指の指紋と、頬からこそぎ落とした脂で曇っていた。
「何度言われても、私には納得できません。役員会議では、なぜ私の削減を決定したのか、その明確な理由を私は求めているのです。私のどこに落ち度があったのか。事務職に就いている私は、確かに営業職のように具体的な数値となって社への貢献度を示せるわけではありません。ですが、その点は……」
「平行線ですね」
彼は私の言葉を遮り、きびすを返した。2、3歩み、立ち止まると、背を向けたまま、私にこう言った。
「あなたに落ち度があったかどうか、などという単純な基準で退職者を決めておるわけではないのです。方針ですよ、我が社のね。役員会議で、様々な基準で検討した結果、あなたに退社してもらうのが会社のために最も適切であると判断したわけです。もちろん、退職金は支払いますし、ご希望ならば転職先も斡旋しますよ。すこぶる良心的な配慮と、私は思っておりますけどね」
言い終えると、そのまま直進して、私の前から去っていった。
入れ違うように、ディーゼルエンジンの爆音と共に、建設会社の白色のトラックが事務所の前の道路を通過するのかと思えば、急停車した。
私は、トラックの方を見た。トラックはノロノロと前進し、荷台の一部が見えた辺りで再び停車した。荷台には道路工事用のパーテーションが縦に積まれてあった。
更に、トラックが前進し、パーテーションに描かれた『安全第一』と緑十字のマークが、ちょうど窓枠を額縁に見立てたとき、中心にぴったり収まるように制止した。
「何だよ、またお前か!」
私は、怒りを込めて叫んでいた。同僚達が3、4人、何だ何だと私の側に駆けてきた。
白いトラックは通り過ぎ、窓の外に『あれ』はもう無かった。私は、叫び声を上げてしまった恥ずかしさに見舞われた。
同僚達が去った後、私には憤りが残されたが、昼休み終了のチャイムをきっかけに、にわかに滲み出てくる損失感で満たされた。つまらない愚痴の循環によって、時間をふいにしてしまった損失感だった。更には、己の精神構造の脆さを呪う屈辱感が入り混じり、所狭しと私の心中を掻き回していた。
終業後、私は襲い来る夜から逃げるようにアクセルを踏み込んだ。西日のオレンジ色のぼやけた光の中に、突如として白いトラックが脇道から私の前に割り込んできた。
薄グリーンの発動機の側面に書かれた『安全第一』が、否応なしに私の視界を阻んだ。
私は、憤りを強引に抑え付けると同時に減速し、トラックと距離を置いて走行した。
トラックのブレーキランプが点灯し、左折のウインカーが点滅した。トラックとの間合いが詰まり、『安全第一』が迫ってくる。トラックは、左の道へ逸れていく。
入れ替わるように、大型の道路工事車輌が前に割り込んでくる。懸命に排気ガスを排出し、私の視界を曇らせる。灰色の煙が徐々に薄れ、冒険映画の開幕のように、フロントガラスの中央に『安全第一』が浮かび上がってくる。
いいかげんにしろ!
私は、掌でハンドルを叩く。
『安全第一』の文字の両端がグニャリとうねって釣り上がり、まるで私のこと笑っているように見える。私は、ほんの一瞬だけ目を閉じてみる。再び目を開け、ぼやけた焦点が戻ってきたときには、工事車輌はすでに左折した後だった。
駐車場に着いた。安堵感が私の心を包み込んだ。その安堵感の上に、例の自虐的な躁鬱感が覆い被さってきた。私は頭を振って、心中に溜まっていこうとする様々な感情を根こそぎ外部に追い払おうと試みた。
《無駄だよ。何をしたって》
私に話しかける声が聞こえたような気がした。
犬を連れた中年の婦人が、私のそばを通り過ぎていく。
違う。女の声ではなかった。婦人は、私の存在などまるで気にも掛けず、犬と共に遠離っていった。
《その調子だ》
またもや、どこからか声が聞こえたような気がした。聞き覚えのある声だったが、果たしてどこで聞いた声なのか思い出せなかった。
《あの婦人に気を奪われただろう。一瞬だが、私のことを忘れることが出来たわけだ。無駄なんだよ。いつだって私は忽然と現れ、お前の感情を揺さぶることが出来るのだ》
「誰だ?」
私は叫んだ。
先ほどの婦人が怪訝そうに、こちらを振り返っている。飼い犬も、首に繋がれている紐がリモコンケーブルででもあったかのように、婦人の行動をなぞり、私の方を見つめている。
私は、咄嗟に他人事を装おうと、婦人の視線と同じ方角を見る。
ブレザー姿の学生が自転車に乗って、こちらへ向かってくる。彼もまた、私のことを怪訝そうに見つめている。
私は、更に目を逸らし、婦人にも学生にも背を向けるように、明後日の方角を見る。
広々とした駐車場の向こう側には、ビルの建設現場が在り、緑色の蚊帳のような網に覆われている。そこへ、不意を付くように私の視界に飛び込んでくる『安全第一』と、緑十字の描かれた白いタペストリー状のシート。
《わはははははははははは》
笑い声が、こだました。周囲を見回した。婦人も学生も、すでに姿は無かった。
私は、左足の踵を軸にして、右回りに240度、体を回転させ、家路の方角を向いた。
その時、浮かしていた右足の爪先にコツンと当たるものを感じた。恐る恐る足元を見た。私に蹴飛ばされ、逆さになって揺れ動く黄色いヘルメットだった。
私は言葉を失い、ただじっと黄色いヘルメットの動きを目で追っていた。『安全第一』の文字が、嘲笑うように上下に揺れていた。
私は、ヘルメットに駆け寄り、思い切り力を込めて蹴飛ばそうとした。
爪先は、ヘルメットの底面をすくい上げ、更にすねに当たって、真上に高く跳ね上がってしまった。
私は落下位置から逃れようと、その場を逃げ出した。ところが、ヘルメットは私を追いかけるように放物線を描いて落下してくる。当たらないように逃げたつもりが、私の体は落下位置を目指していた。
私は、両手で頭を抱え、しゃがみ込んだ。ヘルメットは、私の手の甲の上に当たり、一度地面の上でバウンドすると、今度は腰の辺りに当たって、更にバウンドして、踝に二度当たった。ヘルメットは、カラカラと笑い声を立てるように周囲を転がり、1メートルほど離れた私の正面に来て、ピタリと止まった。『安全第一』が、私を挑発的に睨みつけてくる。
私は悟った。
先ほど、頻りに私に話しかけてきた声は、実は私自身の声であったことを。
聞き覚えがあったという感覚は、正確にいえば曖昧な感覚である。私の発する声を聞き、覚えることができるのは、私以外の他人でしかできないからだ。私自身が、私の声を記憶しているのは、実際に私の声から発せられた声を記憶しているのではなく、感覚器を介さず直接大脳を刺激する声を記憶しているのだ。故に、私自身が自分の声を聞かされ、すぐにそれが自分のものだと気付けなかった理由がそこにある。
私の心は、奇妙にも渇いていた。何かが抜けきったような、吹っ切れたような、言い知れぬ充足感のようなものに満たされ、そこには恐怖も焦燥もない、ただ安らかな、波紋のない静寂な心が鎮座していた。
私は、ヘルメットに背を向け、家路を目指す。ヘルメットが付きまとってくる様子はない。今や路傍の石と変わらぬ、私にとって何の意味も為さない存在となったヘルメットは、淋しげのようでありながら、また或る側面では、役割を終え、達成感に満ちたような表情を残している。
家に帰り着くと、余程、私の顔が疲れ切って見えたのか、妻の睦美が哀れみに満ちた顔をして、私を出迎えてくれた。私は、偽造的な笑いを見せる。睦美は、幾分か安心した顔に変わる。
「また、人事部長に釘を打たれたよ」
「そう」
睦美は、私の脱いだ上着を丁寧にブラシを掛けながら頷く。
「いつもの言葉だよ。役員会で決定したとか。会社の方針だとか。私の会社に対する貢献度だとか、落ち度があったとかはまったく無関係で、ただ単に私自身がいらないのだそうだ」
私は、滲み出てこようとした憤りごと吐き捨てるように話す。睦美の顔が歪む。その歪みが哀れみから来たものではなく、労いから来たものであることを私は感じ、目が潤んだ。
「いいじゃないの。いらないって言うんだったら、あなたを必要としている所へ行けば」
睦美は笑顔で、興奮気味に上擦った声を出した。
「キミのお兄さんの話かい?」
睦美の故郷の町に住む義兄は、大手通信会社の下請会社を経営している。技術畑で鍛え上げられた社員だけで構成されている義兄の会社には、事務職に長けた人材に乏しく、睦美はしきりに、この私が義兄の職場に就いてくれることを望んでいる。私は、生まれ育ったこの町を離れて、遠くの町へ移り住むということに、これまで躊躇していた。異郷の土地に対する不安と、住み慣れた土地に対する愛着心が産み出す迷いだった。
だが、今はどういう訳か、愛着心の濃度が薄れきって、むしろ一刻も早くこの町を出ていきたい衝動の方が、私の中で強く働いていた。
「キミは、この町から出ていくことになっても平気なのかい?」
「それは、私の心配ではなく、あなたの踏ん切りの問題でしょ」
睦美はそう言うと、軽やかな笑い声を立てる。
睦美の笑い声を聞いている内に、私の躊躇はどこかへ吹き飛んでしまったように感じた。
もともと私の躊躇など、寄り掛かる柱の無い紙切れのようなものだったのかもしれない。
翌日、私は人事部長に退職願を提出した。
人事部長は、誰もいなくなった部長室で一人揉手しながらほくそ笑んでいた。彼の机の上には、小さな手帳が開かれ、そこには4人の氏名が明記されていた。
人事部長は、徐に万年筆で一番上の氏名の上に棒線を引っ張って消すと、下唇を突き出して上唇を覆い、うーんと唸り声を上げて、こう呟く。
「あと3人か。次はどんな手を使うかな」
(了)