悪役令嬢になったのは、ずっと鍵の内側にいたから
石の床は、夜の冷えをそのまま抱えていた。
頬に触れているのは絨毯ではない。磨かれた黒灰色の床石だった。王立学院の北棟、それも王家の封誓室にだけ使われている、月光を吸うような石。灯りの下では青く、影の中では水底のように沈む。
ユーディア・ヴァン・オルディスは、目を開ける前にそれを理解した。
鼻の奥に、甘い匂いが残っている。
香木ではない。花でもない。礼拝堂で焚かれる浄香の清らかさとも違う。甘さの底に、舌を痺れさせるような苦みがあった。
眠り香。
そう判断した瞬間、彼女は目を開けなかった。
意識が戻ったことを、まだ誰にも知られてはいけない。
体は重かった。指先に力が入りにくい。胸の奥に薄い吐き気が残り、喉の内側が乾いている。眠り香を吸わされた後の症状としては、強すぎない。死なせるためではなく、一定時間、確実に動けなくするための量。
誰かが、自分を殺すのではなく、生かしておいた。
その意味を考えた瞬間、ユーディアの背筋に冷たいものが走った。
生かされたのなら、役目がある。
死体にするためではない。
証人にするためでもない。
犯人にするためだ。
彼女は呼吸を浅く保ったまま、薄く目を開けた。
視界に入ったのは、銀の燭台だった。
炎は小さく揺れている。蝋は半分ほど溶けており、床に落ちた滴が白く固まっていた。壁には月を模した紋章。天井から垂れる薄青の布。窓は高い位置にあり、細い鉄格子がはめ込まれている。外は雪らしく、窓の向こうの夜は淡く白んでいた。
ここは月鎖の間。
王立学院の北棟にある封誓室だった。
一度内側から閉じられれば、室内にいる者の同意なしには開かない。王家の密談、婚約の誓約、政治的な証言保全。そのために作られた部屋だと教わっている。
嘘を許さない部屋。
そう呼ばれている。
けれど、ユーディアは床に倒れたまま、天井の薄青い布を見上げて思った。
嘘を許さないのは、部屋ではない。
部屋の仕組みを正しく読む人間だ。
読み違えれば、どんな鍵でも嘘の道具になる。
視線だけを動かす。
東側の台には香炉が置かれていた。銀製の小さな香炉。蓋がわずかにずれている。そこから流れた煙はもう薄い。だが、あの香を吸ったから自分は倒れたのだろう。
扉は重い黒木で作られている。中央には、青白い石で月と鎖の紋章が嵌め込まれていた。封誓が成立すれば、その紋章が低く鳴る。ユーディアはその音を知っている。
今、記憶の中にその音はない。
彼女は、自分がこの部屋へ入った時のことを探った。
学院長室へ向かっていた。
呼び出し状を受け取ったからだ。
途中で学院付きの侍女に止められた。
学院長は急用で北棟へ移られました。
そう告げられた。
声は低かった。若い女が、わざと喉を潰すように話していた気がする。
月鎖の間へ入った。
その時、室内に誰かがいた記憶はない。
香炉の蓋がずれていた。
侍女が言った。
煙が強すぎるようです、と。
ユーディアは香炉へ近づいた。
蓋に手を伸ばした。
そこで意識が切れた。
ならば、少なくとも彼女が意識を失う瞬間、月鎖の間は正式には閉じられていなかった可能性が高い。閉じられていたなら、あの低い作動音が聞こえたはずだ。
次に、床の上に広がる白が見えた。
白いドレスの裾だった。
学院の聖女候補が式典でまとう、薄絹を重ねた礼装。胸元の金糸は、燭台の火を受けてかすかに光っている。けれど、その光がかえって不自然だった。布は生きているように揺れない。呼吸に合わせて上下するはずの胸元は、静かなままだった。
リュシエル・ファナリア。
いつもなら、少し首を傾げるだけで周囲の男子学生を黙らせる少女だった。困ったように笑い、相手が手を差し伸べるまで待つのが上手い少女だった。
その顔から、表情だけが抜け落ちている。
唇の端に、乾いた赤黒い跡があった。
死んでいる。
ユーディアは、その事実を胸の奥に置いた。
悲鳴は上げなかった。上げれば、それで終わる。叫んだ女として処理され、見たものを言葉にする機会を失う。
怖くないわけではない。
リュシエルと親しかったわけでもない。
むしろ、好きではなかった。
王太子リンカート・ラウゼンハルトに近づきすぎる聖女候補。距離を測らず、言葉を選ばず、誰かの善意を自分の足場にする少女。ユーディアは何度か注意した。公的な場での距離、婚約者がいる男性への態度、聖女候補としての振る舞い。
リュシエルはそのたびに、困ったように笑った。
「悪気はないのです」
「分からなかったのです」
「ユーディア様は、厳しいのですね」
その言葉で、周囲はいつもユーディアを見た。
正しいことを言っているはずなのに、正しいことを言う方が悪く見える瞬間がある。
ユーディアはそれを知っていた。
だからこそ、今この状況がどう見えるかも分かる。
室内にいたのは二人。
片方は聖女候補。
片方は王太子の婚約者。
聖女候補は死んでいる。
王太子の婚約者は生きている。
聖女候補の手には、薄青のリボンが握られていた。
ユーディアの髪飾りに使われていたリボンだった。
彼女は、動かないリュシエルの手を見た。
握っている。
けれど、強くはない。
指は曲がっているが、布を潰していない。爪が食い込んだ跡もない。布地は不自然なほど整っている。死の間際に掴んだものではない。後から握らされたものだ。
ユーディアの視線は、自分の髪飾りへ移った。
床に落ちている。
金具は壊れていない。
リボンだけが抜き取られている。
丁寧に。
争いの中で引きちぎられたのではなく、証拠として使うために外されたのだ。
その時、扉の外から足音が近づいた。
ひとつではない。
重い靴音。軽い靴音。廊下の石に反響して、数が読みにくい。誰かが小さく息を呑み、誰かが布ずれの音を立てた。
そして、よく通る声がした。
「開けろ」
リンカート王太子の声だった。
「中に、ユーディアがいる」
ユーディアは、床に伏せたまま目を細めた。
なぜ、そう言い切れる。
まだ扉は開いていない。
中は見えていない。
月鎖の間の扉には覗き窓もない。
それなのに、なぜ自分が中にいると知っている。
廊下側で、学院警備官らしき男が答えた。
「殿下、月鎖の間は内側の同意なしには開きません」
「非常解錠符を使え」
「しかし、それは王家の許可が必要です」
「私が許可する」
「殿下、それは緊急時に限られます」
「聖女候補が危険に晒されているかもしれない」
廊下がざわめいた。
誰かが小さな悲鳴を上げる。
ユーディアは、まだ動かなかった。
今、動けば、目覚めていることを知られる。
この扉がどのように開くのか。
誰が、何を言うのか。
それを見る必要がある。
外側で短い詠唱が聞こえた。
王家の非常解錠符。
封誓室が本来持つ「内側の同意」を上書きする札。
ただし、使えば記録が残る。
扉の中央に刻まれた月鎖の紋が、低く鳴った。
鍵が外れる音はしない。代わりに、石の奥で水が流れるような音がした。青白い紋章が一瞬だけ光り、扉の縁に細い火花が走る。
重い扉が開いた。
廊下の冷たい空気が流れ込む。
「リュシエル様!」
最初に叫んだのは、侍女だった。
足音が雪崩れ込む。
ユーディアは、そこでようやく薄く目を開けた。
リンカート王太子が立っていた。
銀灰色の髪。
整った顔。
夜会服の襟元には王家の青玉。
彼はリュシエルを見た。
その次に、ユーディアを見た。
驚きより先に、結論があった。
「やはり、君だったのか」
ユーディアは体を起こそうとして咳き込んだ。
喉が焼けるように乾いている。指先に力が入らず、床石に爪が滑った。近くの侍女が反射的に手を伸ばしかけたが、リンカートが短く制した。
「触れるな」
侍女の手が止まる。
ユーディアは、ゆっくりと上体を起こした。
「殿下」
声が掠れていた。
眠り香のせいだけではない。
この場が、既に彼女を犯人として扱っているせいでもあった。
「リュシエル様を」
医師見習いらしき青年がリュシエルの脈を取った。
顔が青ざめる。
「お亡くなりに……」
廊下に、声にならないざわめきが広がった。
リンカートはユーディアを見下ろした。
「説明してもらおうか、ユーディア」
「私も今、目を覚ましたところです」
「この部屋にいたのは君とリュシエルだけだ」
「そのようですね」
「リュシエルは死んでいる」
「見れば分かります」
「彼女の手には、君のリボンが握られている」
ユーディアは、リュシエルの手元を見た。
薄青のリボン。
場違いなほど綺麗な形を保っている。
「そのようですね」
リンカートの眉が動いた。
「それだけか」
「他に申し上げることは、現時点ではありません」
「君は、リュシエルを殺したのか」
その問いに、ユーディアはすぐには答えなかった。
王太子は答えを求めていない。
彼は、自分の怒りが正しいことを確認したいだけだ。
「殺しておりません」
「信じられると思うか」
「信じるかどうかは、殿下のお気持ちです」
ユーディアは、しびれる指を握り直した。
「ですが、裁くのであれば、事実が必要です」
「事実なら目の前にある」
「いいえ」
彼女は静かに言った。
「目の前にあるのは、死体と、閉じられた部屋と、私のリボンです」
廊下の奥で、誰かが息を呑んだ。
「それらは事実ですが、私が殺したという結論そのものではありません」
「詭弁だ」
「推論です」
リンカートが一歩近づいた。
その背後に、黒髪の青年がいた。
ノエル・グランヴィク。
王太子側近。
学院の記録官補佐。
いつもリンカートの半歩後ろにいて、必要な書類を出し、必要な言葉を整え、必要な沈黙を作る男。
ノエルは顔色を変えていなかった。
リュシエルの死を悲しんでいるようにも、驚いているようにも見えない。
ただ、場の動きを記録するように見ていた。
ユーディアは、彼と視線を合わせた。
ほんの一瞬だけ、ノエルの目が細くなった。
「殿下」
ノエルが静かに言った。
「この場で詰問を続けるのは危険です」
「なぜだ」
「リュシエル様の御遺体の確認、室内の記録保全、関係者の隔離が先かと」
「君は冷静だな、ノエル」
「冷静でなければ、事実は残せません」
正しい。
そして、正しさを装うには十分すぎる言葉だった。
リンカートは大きく息を吐いた。
「ユーディア・ヴァン・オルディスを拘束しろ」
警備官が動いた。
ユーディアは抵抗しなかった。
今、逃げれば罪は完成する。怒れば悪役になる。泣けば弱さとして処理される。
ならば立っているしかない。
彼女は警備官に腕を取られながら、もう一度、月鎖の間の扉を見た。
紋章の縁に、青黒い焼け跡が残っている。
一筋ではない。
二筋。
非常解錠符は、少なくとも二度使われている。
ユーディアは目を伏せた。
今は言わない。
証拠は、使うべき時まで証拠ではない。
ただの危険物である。
王立学院で聖女候補が死んだという報せは、その日のうちに王宮へ届いた。
学院は封鎖された。
北棟への立ち入りは禁止され、月鎖の間には王宮警備隊が置かれた。学生たちは寮へ戻され、教授陣は講義を中止し、学院長は蒼白な顔で王宮からの使者を迎えた。
ユーディアは学院内の客室に軟禁された。
客室とは名ばかりだった。
寝台の天蓋は古く、白い布は丁寧に洗われているのに、どこか湿った匂いが残っていた。窓の外には冬枯れの中庭が見える。裸の枝に雪が引っかかり、風が吹くたびに細かな氷が落ちる。
扉の向こうには警備兵が二人。
窓の下には庭番が一人。
逃げられない部屋ではない。逃げれば、逃げたという事実だけが残る部屋だった。
薄いスープとパンが運ばれてきたのは、夕刻近くだった。銀の匙はない。木匙だけが添えられている。
ユーディアは、その木匙を見て少しだけ笑った。
毒殺の疑いをかけられている人間に、毒見もなく食事を出す。だが、銀器だけは避ける。
制度はいつも、正しい場所ではなく、慣れた場所にだけ働く。
食欲はなかった。
それでも彼女は、スープを半分飲んだ。
空腹は思考を鈍らせる。思考が鈍れば、次に閉じられるのは口だ。
夜が落ちる頃、彼女はようやく一人になった。
いや、正確には一人ではない。扉の外には警備がいる。窓の下にも人の気配がある。
だが、部屋の中だけは静かだった。
その静けさの中で、リュシエルの顔が浮かんだ。
死んでいた。
誰かに殺された。
自分を犯人にするために、殺された。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
ユーディアは、リュシエルを好きではなかった。
だが、死んでいいとは思っていなかった。
王太子の視線を集める少女。距離を測らない少女。自分の柔らかさが他人を傷つけることを知らなかった少女。
それでも、死んでいい理由にはならない。
まして、自分を罪人にするための小道具として死んでいい理由にはならない。
ユーディアは両手を膝の上で握った。
悲鳴を上げなかった。
泣かなかった。
リュシエルの手に握らされたリボンを見て、最初に繊維の乱れを見た。
それは、正しかった。
正しかったからこそ、胸の奥に苦いものが残る。
人の死を、証拠として見た。
そうしなければ、自分も殺される。
それでも、見た。
ユーディアは深く息を吐いた。
怖がるのは後でいい。
悔やむのも後でいい。
今は、覚えていることを失わないようにする。
呼び出し状。
侍女の低い声。
香炉。
鳴らなかった月鎖。
リボンの状態。
二筋の焼け跡。
王太子の第一声。
中に、ユーディアがいる。
それを誰が王太子へ伝えたのか。
扉が叩かれたのは、その時だった。
「ユーディア嬢」
低い声。
年を取った男の声だった。
「入ってもよろしいかな」
「どうぞ」
入ってきたのは、バルトラム・エイムズ教授だった。
白髪の混じった髪を後ろで束ね、古びた上着を着ている。学院では王国史と契約術式を教えている老教授で、王家の封誓室の仕組みに詳しい数少ない人物でもある。
彼は警備官に目で合図をし、扉を閉じさせた。
「警備の方を外に置いたままでよろしいのですか」
「彼らは聞き耳を立てるほど給金を貰っておらんよ」
「では、教授は?」
「わしは給金の額にかかわらず、必要なら聞く」
ユーディアは椅子を勧めた。
バルトラムは腰を下ろし、しばらく彼女を見た。
まるで証言の前に、証人そのものを読もうとしているようだった。
「具合は」
「眠り香の残りが少し」
「量は」
「私一人を倒すには十分」
「二人を倒すには」
「不足です」
バルトラムの目が、わずかに光った。
「そう判断した理由は」
「リュシエル様は、香炉から離れた位置で倒れていました。私より香炉に近かったわけではありません。香の量は強かったですが、部屋全体を満たすほどではなかった。私が倒れたのは、おそらく香炉の蓋を戻すよう誘導されたためです」
「誘導?」
「入室直後に、香炉の蓋を確認するよう言われた記憶があります」
「誰に」
ユーディアは、すぐには答えなかった。
確信がない。
曖昧な記憶を断言すれば、それは自分の首を絞める縄になる。
「学院付きの侍女です。ただ、顔ははっきり覚えていません」
「よろしい」
バルトラムは頷いた。
「確信のないものを確信のように語らぬ者は、まだ信用できる」
「信用してくださるのですか」
「まだ、そこまでは言っておらん」
バルトラムは懐から小さな紙片を出した。
月鎖の間の簡略図だった。
扉、窓、暖炉、香炉、テーブル、倒れていた二人の位置。
「君が覚えている範囲でよい。入室時の状況を」
ユーディアは図を見た。
部屋を頭の中に戻す。
床の冷たさ。香の匂い。高い窓。白いドレス。青いリボン。
「私は学院長室へ向かっていました」
「呼び出し状は」
「こちらに」
彼女は袖口から折りたたんだ紙を出した。
拘束された時、警備官は身体検査をしなかった。貴族令嬢への遠慮。その遠慮が、時に事実を残す。
バルトラムは紙を受け取り、目を通した。
「学院長の署名ではないな」
「ええ」
「よく似せているが、筆圧が違う」
「学院長は、末尾の線を上へ跳ねません」
「知っていたか」
「以前、寄付書類の写しを見たことがあります」
バルトラムは口の端を上げた。
「貴族令嬢の嗜みとしては妙だな」
「家を守るには、署名の癖くらい見ます」
「よろしい」
彼は紙を返した。
「続けて」
「北棟へ向かう途中、学院付きの侍女が来ました。学院長が月鎖の間へ移られた、と」
「顔は」
「見覚えはありません」
「声は」
「若い女でした。ただ、喉を潰すように低く話していました」
「変装か」
「その可能性はあります」
「入室時、リュシエル嬢は」
「いませんでした」
バルトラムの指が止まった。
「いなかった」
「少なくとも、私が入った時には見えませんでした」
「月鎖の間は広くない」
「ええ。ですから、彼女は後から運び込まれたか、あるいは隠されていた」
「隠す場所は」
「厚い垂れ布の裏。暖炉脇の衝立。あるいは隣接する小祈祷室」
「小祈祷室は封鎖されている」
「表向きは」
バルトラムは黙った。
月鎖の間には、王族だけが使える小祈祷室が隣接している。現在は使われていないとされているが、古い部屋は、使われていないという理由だけでは消えない。
「君はそれを知っていたのか」
「王家の建築図面を見たことがあります」
「なぜ」
「婚約者だったので」
だった。
まだ婚約は破棄されていない。
だがユーディアの中では、すでに過去形になっている。
バルトラムはそれを聞き流さなかったようだが、今は触れなかった。
「続けて」
「私は香炉の蓋がずれていることに気づきました。侍女が『煙が強すぎるようです』と言った気がします。私が近づき、蓋を戻そうとしたところで、意識が途切れました」
「その時、扉は」
「閉まっていました」
「鍵は」
「月鎖が作動する音は聞いていません」
バルトラムの目が鋭くなる。
「本当にか」
「ええ」
「月鎖の間は、内側から閉じれば必ず紋章が鳴る」
「聞いていません」
「では君が意識を失った時点で、封誓は成立していなかった」
「その可能性があります」
「だが発見時には閉じていた」
「はい」
「つまり、誰かが後で閉じた」
「もしくは、閉じたように見せた」
バルトラムは図面を畳んだ。
「君は、自分が不利なことを理解しているか」
「もちろん」
「密室にいた」
「はい」
「死者の手に君のリボン」
「はい」
「王太子は君を疑っている」
「疑うというより、決めておられます」
「リュシエル嬢は聖女候補で、君はその婚約者に近づく彼女を疎んでいたと思われている」
「事実として、快くは思っておりませんでした」
「それも言うか」
「隠す方が不自然です」
バルトラムは小さく笑った。
「よろしい。ならば、君のためにひとつだけ助言しよう」
「何でしょう」
「明後日の断罪夜会で、殿下は君を正式に告発する」
「明後日ですか」
「早いだろう」
「早すぎます」
「早い裁きは、真相の敵だ」
バルトラムは立ち上がった。
「だが、早い裁きは、仕掛けた者にとっては味方になる」
「教授は、夜会に?」
「呼ばれておる。老いぼれは便利だ。中立の飾りになる」
「では、飾りではなく証人になってください」
「何の証人に」
ユーディアは扉の方を見た。
「月鎖の間が、完全な密室ではなかったことの」
バルトラムはしばらく彼女を見つめた。
「君は、もう答えに近いところにいるな」
「いいえ」
ユーディアは首を横に振った。
「まだ、誰が何のためにそこまでしたのかが見えていません」
「犯人を決めていないのは良いことだ」
「決めてしまえば、殿下と同じになります」
その言葉に、バルトラムは深く頷いた。
「では、明後日まで生きていなさい」
「努力します」
「命を狙われる可能性がある」
「でしょうね」
「怖くはないか」
ユーディアは少し考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
リュシエルの死体は、まだ瞼の裏に残っている。
床石の冷たさも、香の甘さも、リンカートの「やはり」という声も、すべて残っている。
それでも、恐怖に名前を与えると、それは時々、必要以上に大きくなる。
「怖がるのは、順番が来てからにします」
バルトラムは扉へ向かった。
出ていく直前、彼は振り返った。
「ユーディア嬢」
「はい」
「君は悪役令嬢と呼ばれているそうだな」
「最近は特に」
「なぜだと思う」
「正しすぎるからでしょう」
「自分で言うか」
「間違っている時は、間違っていると言います。順序が違う時は、順序が違うと言います。失礼なことをされたら、失礼だと言います」
ユーディアは静かに言った。
「そういう女は、人の噂の中では悪役にしやすい」
バルトラムは、少し悲しそうに笑った。
「では、せめて現実くらいは、証拠で語ろう」
翌日、学院内では証言が集められた。
ただし、それは調査というより、既に置かれた結論の周囲を固める作業だった。
ユーディアのもとにも、数人の役人が来た。
質問は短い。
答えを求めるというより、用意された空白に言葉をはめようとしている。
「リュシエル・ファナリア様に嫉妬していましたか」
「快くは思っていませんでした」
「つまり嫉妬していた」
「違います」
「では憎んでいた」
「違います」
「ではなぜ二人きりで会ったのですか」
「二人きりで会う約束はしていません」
「呼び出し状はあなたの手元にあった」
「学院長からの呼び出しだと思っていました」
「しかし学院長は呼んでいない」
「ならば偽造です」
「誰が」
「それを調べるのが、あなた方のお仕事では」
役人は不快そうに顔を歪めた。
ユーディアはそこで黙った。
余計なことを言いすぎると、賢ささえ罪にされる。
昼過ぎ、王妃イザベル・ラウゼンハルトが学院に到着した。
ユーディアの部屋には来なかった。
だが、廊下が変わった。
警備の足音が整い、侍女たちの声が低くなり、役人の紙束の扱いが丁寧になった。
王妃という存在は、姿を見せなくても場の温度を変える。
夕刻、ユーディアのもとへ一通の短い書状が届いた。
差出人の名はない。
ただ、王妃の香がした。
紙には一文だけ。
『明日の場で、言葉を惜しみすぎぬように』
ユーディアはその紙を暖炉で燃やした。
王妃は、彼女を信じているのではない。
リンカートを信じ切れていないのだ。
それで十分だった。
事件から二日後、王立学院の大講堂には、舞踏会用の燭台が灯された。
不謹慎なほど明るい火だった。
天井から吊られた硝子飾りが、いつものように光を砕いている。壁には王家の青旗が垂れ、壇上には白い布をかけた長卓が置かれていた。本来なら卒業祝賀の挨拶か、王族を迎える式典に使われる場所だ。
けれど今夜、そこに音楽はない。
楽団席は空で、床の中央にも踊るための空間は残されていない。代わりに、貴族の子息令嬢たちが左右に分けられ、中央だけがまっすぐ空けられていた。
罪人を歩かせるための道。
誰がそう命じたのかは分からない。
だが、誰もそれをおかしいとは言わなかった。
ユーディアが大講堂へ入った瞬間、その道の意味は完成した。
視線が刺さる。
嫌悪。
好奇。
恐怖。
そして、安堵。
彼女を犯人だと思えば、皆は安心できるのだ。
聖女候補が死んだ。
密室だった。
悪役令嬢がいた。
ならば、それでよい。
複雑な真相など、誰も望んでいない。
ユーディアは、薄灰色のドレスで中央の道を進んだ。喪に寄せた色。飾りは少ない。髪にはリボンを使っていない。
壇上にはリンカート王太子が立っていた。
隣にノエル・グランヴィク。
少し離れた席に王妃イザベル。
さらに端に、バルトラム教授。
学院長は顔色を失っていた。
リュシエルの遺族はいない。
ファナリア家は下級貴族で、学院からの使者がまだ領地へ向かっている最中だった。
死者のための裁きと称しながら、その場に死者の家族はいない。
つまりこれは、リュシエルのための場ではない。
リンカートのための場だ。
ユーディアは中央で足を止めた。
リンカートが口を開く。
「ユーディア・ヴァン・オルディス」
「はい」
「君は、聖女候補リュシエル・ファナリアを月鎖の間で殺害した疑いを持たれている」
「疑い、ですか」
会場がざわついた。
リンカートの眉が寄る。
「何か不満があるのか」
「いいえ。まだ疑いであることを確認しただけです」
「状況は明白だ」
「明白ならば、確認はすぐ終わります」
ノエルが一歩前へ出た。
「殿下。進行を」
「ああ」
リンカートは、手元の書面を開いた。
「事件当夜、月鎖の間は閉ざされていた。窓の外には雪が積もり、足跡はなかった。室内にいたのは、死亡したリュシエル・ファナリアと、気を失っていたユーディア・ヴァン・オルディスのみ。リュシエルの手には、ユーディアのリボンが握られていた」
リンカートは会場を見渡した。
「これ以上、何が必要だ」
何人かが頷いた。
頷いた者は、状況に納得したのではない。
納得したことにしたのだ。
ユーディアは静かに答えた。
「死因です」
リンカートが止まった。
「何?」
「リュシエル様の死因です。殿下は今、密室と私のリボンについて述べられましたが、リュシエル様が何によって亡くなったのかを述べておられません」
「毒だ」
「どの毒ですか」
「それは調査中だ」
「では、何によって毒と判断しましたか」
「口元に変色があった」
「それだけですか」
「医師も毒の可能性が高いと」
「可能性ですか」
リンカートは言葉に詰まった。
ノエルが代わる。
「ユーディア嬢。あなたは死因の専門家ではない」
「はい」
「ならば医師の判断を疑うのですか」
「疑っていません。毒の可能性があるという判断を、毒で確定したかのように扱うことを疑っています」
ノエルの顔は動かない。
「では、あなたは毒ではないと」
「いいえ。毒でしょう」
会場に戸惑いが広がる。
ユーディアは続けた。
「ただし、毒がいつ、どこで、どのようにリュシエル様の体内へ入ったのかが問題です」
「月鎖の間の茶器からだ」
リンカートが強く言った。
「室内には茶器があった」
「茶器から毒は検出されましたか」
沈黙。
リンカートがノエルを見る。
ノエルは一瞬だけ目を伏せた。
「茶器は現在、検査中です」
「では、まだ検出されていないのですね」
「検査には時間がかかる」
「砂糖菓子は?」
「同じく」
「銀杯は?」
「同じく」
「つまり、月鎖の間に毒があったという確証は、今のところない」
リンカートが声を荒げた。
「君は詭弁ばかりだ!」
「いいえ」
ユーディアは首を横に振った。
「私は、殿下が省いた箇所を戻しているだけです」
王妃イザベルが扇を閉じた。
小さな音だったが、会場によく響いた。
リンカートは母の方を見たが、王妃は何も言わなかった。
沈黙は、許可にも警告にもなる。
ユーディアは証拠台へ視線を移した。
「次に、リボンについて確認させてください」
侍女が証拠箱を持ってきた。
中には、薄青のリボンが入っている。
ユーディアは触れずに見た。
薄青の布は、場違いなほど整っていた。ねじれも、裂けもない。端の刺繍糸も乱れていない。
「これは私のものです」
会場がざわつく。
「認めるのか」
リンカートが言う。
「認めます。ですが、このリボンはリュシエル様が死の間際に掴んだものではありません」
「なぜ分かる」
「殿下。死に際に人が掴んだ布は、こんなに綺麗な形で残るでしょうか」
リンカートは答えなかった。
答えられないのではない。
考えたことがなかったのだ。
ユーディアは続けた。
「人が苦痛や恐怖の中で何かを掴む時、指には力が入ります。布は歪み、繊維が伸び、場合によっては爪が食い込みます。ですが、このリボンは形が整いすぎている」
バルトラムが証拠箱を覗き込み、頷いた。
「確かに、握られたというより置かれたものに見える」
「また、私の髪飾りの金具は壊れていませんでした。リボンだけが丁寧に抜かれていた。リュシエル様が争いの中で掴んだのなら、金具ごと引きちぎられるはずです」
リンカートは、苦々しく言った。
「君が自分で外して握らせたのではないか」
「それなら私は、なぜわざわざ自分に不利な証拠を残すのですか」
「罪を逃れるために混乱させようと」
「殿下」
ユーディアは少しだけ声を低くした。
「混乱させるための証拠は、単純すぎてはいけません。これは単純すぎる」
会場のどこかで、小さく笑いが漏れかけ、すぐに消えた。
リンカートの顔が赤くなる。
王妃イザベルは扇で口元を隠した。
その目だけが、わずかに細くなっていた。
ユーディアは、ここで攻めすぎないように息を整えた。
王太子を追い詰めることが目的ではない。
場の結論を緩めることが目的だ。
密室。
リボン。
嫉妬。
その三つで固められた結論に、まず小さな穴を開ける。
穴が開けば、空気は入る。
空気が入れば、人は初めて考え始める。
「次に、月鎖の間について確認します」
ユーディアは会場の端を見た。
「バルトラム教授」
老教授がゆっくり立ち上がる。
「何かな」
「月鎖の間は、一度内側から閉じられれば、室内の者の同意なしには開かない。これは正しいですか」
「大筋では正しい」
「大筋では」
「例外がある」
会場がざわめいた。
リンカートが顔をしかめる。
「教授、その話は」
「殿下」
バルトラムは穏やかに言った。
「封誓室の性質について問われた以上、嘘は申せません」
リンカートは黙った。
バルトラムは続けた。
「月鎖の間は、内部の生者の同意を鍵とする。室内に複数の者がいる場合、原則として全員の同意が必要だ。ただし、意識のない者、判断能力を失った者、死亡した者については、術式が同意の扱いを保留する」
「保留されると、どうなりますか」
「王家の非常解錠符による介入が可能になる」
バルトラムはそこで、一度会場を見渡した。
「非常解錠符は鍵を壊す札ではない。一呼吸ぶんだけ、術式に通行権を作る札だ。扉が閉じれば、封誓は再び保たれる。だから使用した者が出入りしても、外からは閉ざされた部屋に見える」
ユーディアは頷いた。
「つまり、完全な密室ではない」
「少なくとも、王家の非常解錠符を持つ者にとっては」
会場の空気が変わった。
密室という言葉は、人を安心させる。
不可能だと思える状況は、逆に結論を単純にする。
中にいた者が犯人だ、と。
だが不可能が可能になった瞬間、結論は崩れる。
ユーディアはリンカートを見た。
「殿下。事件発見時、非常解錠符を使いましたね」
「使った」
「その前にも使われています」
リンカートの顔が強張った。
ノエルの目だけがわずかに動いた。
「何を根拠に」
「月鎖の紋章に、二重の焼け跡が残っていました」
ユーディアは会場の役人へ視線を向けた。
「記録係の方。月鎖の間の扉を確認した者は?」
一人の中年役人が戸惑いながら進み出た。
「確認しました」
「非常解錠符の痕跡は」
「二つ、ございました」
ざわめきが大きくなる。
リンカートが叫んだ。
「なぜ報告しなかった!」
役人は青ざめた。
「ノエル様へは、書面で」
視線がノエルに集まる。
ノエルは、わずかに息を吐いた。
「混乱を避けるため、精査中でした」
「精査」
ユーディアは静かに繰り返した。
「その精査の結果を、今お聞かせいただけますか」
「今は断罪の場です」
「いいえ」
ユーディアは一歩進んだ。
「今から、ここを断罪の場ではなく、確認の場にします」
リンカートが怒りをこらえるように拳を握った。
だが、王妃が言った。
「続けなさい」
短い一言だった。
それだけで、場の主導権が移った。
ユーディアは深く礼をした。
「ありがとうございます」
彼女は香炉へ視線を移した。
「次に、香炉です」
銀製の香炉が証拠台に置かれる。
蓋の内側には、黒く焦げた香の残滓がある。外側の縁には、針で引いたような青黒い筋が残っていた。煤ではない。火傷に似ているが、普通の火の色ではない。
契約官が香炉の蓋を傾けた。
バルトラム教授の目が細くなる。
「これは……月鎖の青火だ」
ノエルの指が、ほんの一瞬だけ動いた。
ユーディアは、それを見逃さなかった。
「私が意識を失ったのは、この香のためです」
「ならばリュシエルも同じく」
「いいえ」
ユーディアは首を横に振った。
「香の量は、一人を確実に眠らせるには十分ですが、部屋全体にいる二人を同時に倒すには足りません。特にリュシエル様が倒れていた位置は、香炉から離れていました」
「では、なぜ彼女は倒れた」
「毒です」
「結局毒ではないか」
「はい。ですが、月鎖の間で毒を摂ったのではありません」
会場が静まった。
ユーディアはノエルを見た。
「事件の前、リュシエル様は何をしていましたか」
ノエルが答える。
「聖女候補としての祈りを」
「どこで」
「学院礼拝堂です」
「その際、祝福の聖水を飲みましたね」
ノエルはわずかに沈黙した。
「聖女候補の儀礼です」
「その瓶はどなたが管理していましたか」
「聖女庁から預かったものを、学院記録室で保管していました」
「記録室」
ユーディアは静かに言った。
「記録官補佐であるノエル・グランヴィク様の管理下ですね」
会場の空気が冷えた。
ノエルは表情を変えない。
「記録室の管理者は学院長です。私は補佐にすぎません」
「鍵は」
「学院長と私が」
「聖水瓶に触れることは可能でしたね」
「職務上は」
「では、私には?」
「不可能ではありません」
「どのように」
「忍び込めば」
「記録室の鍵は二重管理、出入りは帳簿に記載される。聖女庁の封印もあります。私が忍び込んだ記録は?」
「ない」
「封印を破った痕跡は?」
「ない」
「では、私が聖水に毒を入れるには、封印を破らず、鍵を使わず、記録にも残さず、聖女庁の瓶に触れる必要があります」
ユーディアは首を傾げた。
「それは、月鎖の間より難しい密室では?」
ざわめきが広がる。
ノエルは静かに言った。
「毒が聖水に入っていたという証拠はありません」
「あります」
ユーディアは王妃の方を見た。
王妃が侍女に合図する。
侍女が小さな箱を持ってきた。
箱の中には、白い手袋が入っている。
「リュシエル様の右手袋です」
ユーディアは言った。
「右手だけ、内側に薄い染みがありました。そして、礼拝堂から回収された聖水瓶の口縁にも、同じ匂いが残っていたそうです」
「それが何だ」
リンカートが言う。
「染みの匂いを確認してください」
バルトラムが手袋に近づき、鼻を寄せた。
顔をしかめる。
「月苦杏の毒に似た匂いがする」
会場の一部がざわついた。
毒を知る者なら、それが何を示すか分かる。
月苦杏。
ごく少量ならば眠気と吐き気を起こし、量を誤れば命を奪う。甘い杏に似た匂いを持ち、聖水や果実酒に混ぜれば初めは気づきにくい。発現までは半刻ほど。
礼拝の直後ではなく、少し時間を置いて倒れさせるには都合がよすぎる毒だった。
ユーディアは続けた。
「毒は聖水に混ぜられていた。リュシエル様は礼拝堂でそれを飲み、しばらく後に月鎖の間で倒れた。毒の発現まで半刻前後。事件時刻と合います」
「なぜ、彼女は月鎖の間へ行った」
王妃が初めて問いを投げた。
ユーディアは答えた。
「私と同じように呼び出されたのでしょう。あるいは、呼び出される前に既に運び込まれていた」
「誰が呼び出した」
リンカートがノエルを見る。
ノエルは淡々と言った。
「偽の呼び出し状が使われた可能性はあります」
「その呼び出し状は、誰が作れる」
ユーディアが問う。
「学院の書式を知る者。学院長の署名を見たことがある者。北棟の鍵の運用を知る者。聖女候補の儀礼予定を知る者。月鎖の間の非常解錠符を扱える者」
彼女は一つずつ言葉を置いた。
「そして、リュシエル様を殺し、私に罪を着せ、殿下の婚約破棄を正当化したい者」
リンカートが震える声で言った。
「ノエルを疑っているのか」
「私は、条件を並べています」
「ノエルは私の側近だ!」
「だからこそです」
会場が静まり返った。
ユーディアはリンカートを見た。
「殿下ご自身が犯人である可能性も、条件だけなら考えられます。ですが殿下が犯人であれば、最初の言葉があまりにも粗すぎます」
「それが私を疑う理由か」
「いいえ。逆です」
リンカートが止まる。
「殿下ご自身が犯人なら、あの第一声はあまりにも不用意です」
どこかで息を呑む音がした。
リンカートの顔が、怒りと屈辱で歪む。
王妃イザベルは、閉じた扇を膝の上に置いたまま、何も言わなかった。
「殿下は、リュシエル様が危険に晒されているかもしれないと仰って非常解錠符を使いました。しかし扉を開ける前に、なぜ中に私がいると知っていたのですか」
リンカートが言葉を失う。
「それは」
ノエルが前へ出た。
「私が報告しました」
ユーディアは、ノエルを見た。
「何を」
「ユーディア嬢が北棟へ向かったと」
「誰から聞いて」
「侍女から」
「その侍女はどこに」
「現在、行方を確認中です」
「便利ですね」
ノエルの目が細くなる。
「何がですか」
「必要な情報だけを残し、本人は消える。証言としては弱く、誘導としては十分」
「侮辱ですか」
「いいえ。確認です」
ユーディアは少し歩いた。
会場の視線が彼女を追う。
「事件発見時、殿下は『開けろ。中に、ユーディアがいる』と仰った。これは中を見る前の言葉です。殿下はノエル様から、私が中にいると聞いていた」
彼女はリンカートを見る。
「では、ノエル様はどうして知っていたのか」
リンカートはノエルを見た。
初めて、疑いの色が混じった。
ノエルはまだ崩れない。
「侍女の報告です」
「その侍女の名は」
「混乱の中で確認が」
「学院の侍女は名簿管理されています。制服も貸与されています。北棟へ人を案内するなら、担当記録があるはずです」
「現在確認中です」
「確認中が多いですね」
ユーディアは静かに言った。
「では、確認済みのものへ移りましょう」
彼女はバルトラムへ視線を向けた。
「教授。月鎖の間の非常解錠符は、使用すれば主記録に残りますか」
「残る」
「副記録にも?」
「残る」
「副記録は誰が見られますか」
「学院長、王家契約官、記録官」
「記録官補佐は?」
「閲覧は可能。ただし改変はできない」
「本当に改変できませんか」
バルトラムは少し笑った。
「本来は、できない」
「本来は」
「術式の隙を知っていれば、表面上は薄くできる。ただし完全には消せん」
ユーディアはノエルを見た。
「副記録を提出してください」
ノエルは動かない。
「今すぐに」
リンカートが命じた。
ノエルは、初めて表情を変えた。
ほんのわずかに、唇の端が固くなる。
「殿下、現在それは」
「提出しろ」
ノエルは沈黙した。
王妃が言った。
「グランヴィク卿」
それだけだった。
だが、逆らえる声ではなかった。
ノエルは懐から小さな記録板を出した。
薄い黒曜石の板。
月鎖の間の副記録を写したものだ。
バルトラムが受け取り、光にかざす。
術式文字が浮かび上がった。
彼の顔が険しくなる。
「二度、非常解錠符が使われている」
会場が騒然となる。
リンカートが一歩近づいた。
「一度目はいつだ」
「殿下が到着される、およそ四半刻前」
「誰が」
バルトラムは記録板を睨んだ。
「署名が薄められている」
「読めないのか」
「完全には」
ノエルが静かに言った。
「ならば証拠にはなりません」
その声には、先ほどより少しだけ硬さがあった。
ユーディアは頷いた。
「ええ。署名が読めなければ、それだけでは証拠になりません」
ノエルの表情がわずかに緩む。
「ですから、別の証拠を重ねます」
ユーディアは、証拠台に置かれた香炉を示した。
「香炉の蓋です」
ノエルの目が止まった。
「蓋の縁に、月鎖の青火の痕があります」
バルトラムが香炉を手に取り、確認する。
「確かに、青黒い筋がある」
「これは、通常の火ではつきません。非常解錠符を用いた際、月鎖の術式が弾いた火です。扉の近くにいた者、あるいはその時に手にしていた物にしか残りません」
ノエルの顔から、色が少し引いた。
「香炉の蓋は銀製の術具です。触れた者の魔力残滓が残りやすい。調べれば、誰が蓋に触れたのか分かるはずです」
王妃が静かに命じた。
「調べなさい」
王宮契約官が進み出て、香炉の蓋に手をかざした。
薄い光が浮かぶ。
一つはユーディアの魔力。
彼女が蓋に触れたから当然だ。
もう一つ。
細く、整った、灰色の魔力痕。
契約官は顔を上げた。
「ノエル・グランヴィク卿の魔力痕です」
会場が揺れた。
リンカートがノエルを見た。
「ノエル」
ノエルはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「私は事件後、記録保全のために香炉へ触れました」
「嘘です」
ユーディアは即座に言った。
「事件後、香炉は証拠箱へ入れられ、王宮契約官の封印を受けました。記録保全前に触れた者は、発見時に室内へ入った者のみ。ですが発見時、ノエル様は香炉に近づいていません。私は見ていました」
「あなたは意識が朦朧としていた」
「ええ。ですから、私の証言だけなら弱い」
ユーディアは会場の警備官へ目を向けた。
「発見時に入室した警備官の方。ノエル様は香炉に触れましたか」
警備官は青ざめながら首を振った。
「いえ。ノエル様は殿下の後方におられました」
「リュシエル様に近づきましたか」
「いえ」
「証拠保全前に香炉へ近づきましたか」
「ありません」
ユーディアはノエルへ向き直る。
「ならば、あなたの魔力痕が蓋に残る機会は、一度目の非常解錠時しかありません」
ノエルは黙った。
沈黙は、時に最も雄弁な証言になる。
リンカートが、かすれた声で言った。
「なぜだ」
ノエルは王太子を見た。
その表情には、初めて感情らしいものがあった。
失望。
怒り。
そして、どこか冷めた哀れみ。
「殿下を守るためです」
「私を?」
「はい」
「リュシエルを殺してか!」
「彼女は危険でした」
会場が凍りつく。
ノエルは、もう隠す気を失ったようだった。
「聖女候補という立場を利用して、殿下へ近づきすぎていた。婚約者であるユーディア嬢を公然と刺激し、殿下の同情を引き、王宮内の均衡を壊しかけていた」
ユーディアは静かに聞いていた。
リンカートは呆然としている。
「ならば、リュシエルを遠ざければよかった」
「殿下は、それをお望みではなかった」
「だから殺したのか」
「殿下が選べないなら、私が処理するしかありません」
その言葉に、王妃の目が冷えた。
ノエルは続ける。
「ユーディア嬢も問題でした。正しすぎる。殿下の誤りを許さない。王太子妃としては有能でしょう。ですが、殿下の隣に置けば、殿下は一生、裁かれ続ける」
リンカートが息を呑む。
「私は……」
「殿下はユーディア嬢を疎んでおられた」
ノエルは容赦なく言った。
「けれど婚約破棄を言い出せば、王家の失策になる。オルディス公爵家との関係も崩れる。ならば、彼女が罪を犯せばいい」
「それで二人を」
「一人は殺し、一人は犯人にする。それで済むはずでした」
会場の誰もが言葉を失っていた。
済むはず。
人の死と人生の破壊を、事務処理のように言う。
ユーディアは、そこでようやく口を開いた。
「なぜ、私を殺さなかったのですか」
ノエルは彼女を見た。
「二人とも死んでいれば、第三者の存在を疑われる」
「私は生きている方が犯人にしやすい」
「ええ」
「だから眠らせた」
「ええ」
「私が目を覚まさない可能性は」
「香の量は計算しました」
「リュシエル様の毒は」
「聖水に」
「毒の種類は」
「半刻ほどで症状が出るものを選びました」
「月鎖の間へ運んだのは」
「小祈祷室から」
会場がどよめく。
バルトラムが顔をしかめた。
「やはり使ったか」
「古い通路です。記録には残らない」
ノエルは淡々と言った。
「リュシエル嬢を小祈祷室で待たせ、毒が回り始めた頃に月鎖の間へ運んだ。ユーディア嬢は香で眠らせ、リボンを外し、リュシエル嬢の手に握らせた。扉を内側から閉じ、非常解錠符で月鎖を一瞬だけ緩めて外へ出た。扉が戻れば、術式は再び封誓を保つ。外から見れば、初めから閉ざされていた部屋に見える」
リンカートが叫んだ。
「それでは、密室など」
バルトラムが答えた。
「密室ではあった。だが、誰にとっての密室かを見誤ったのです」
ノエルは頷いた。
「その後、殿下へ報告した。ユーディア嬢が月鎖の間にいると。リュシエル嬢も危険かもしれないと」
「私は、君の言葉で」
「ええ」
ノエルは静かに言った。
「殿下は、私の用意した扉を開けただけです」
リンカートの顔が白くなった。
それは、自分が操られていたことへの恐怖か。
それとも、自分が操られるほど浅かったことへの屈辱か。
ユーディアには分からなかった。
分かりたいとも思わなかった。
王妃が立ち上がった。
「ノエル・グランヴィクを拘束しなさい」
警備官が動いた。
ノエルは抵抗しなかった。
彼は最後にリンカートを見た。
「殿下」
リンカートは何も言わない。
「私は、あなたを守りたかった」
リンカートは震える声で言った。
「私は、そんな守られ方を望んでいない」
ノエルは少しだけ笑った。
「望まぬものから目を逸らし続けた方が、今さら何を」
その言葉は、刃のようにまっすぐだった。
リンカートは殴られたように黙った。
ノエルは連れて行かれた。
大講堂の扉が閉まる。
残されたのは、死者の名と、濡れ衣を着せられかけた令嬢と、間違えた者たちだった。
王妃はゆっくりと壇上から降りた。
ユーディアの前に立つ。
「ユーディア・ヴァン・オルディス」
「はい」
「あなたへの殺害容疑は、現時点をもって取り下げます」
「ありがとうございます」
「ただし、正式な裁定は王宮で行います」
「承知しました」
王妃は少しだけ目を伏せた。
「このような場に立たせたこと、王家として詫びます」
会場が息を呑んだ。
王妃が公の場で頭を下げることはない。
だが彼女は、深くはないが、確かに頭を下げた。
ユーディアも礼を返した。
「お言葉、受け取りました」
リンカートが一歩前へ出た。
「ユーディア」
その声には、先ほどまでの強さがなかった。
「私は」
「殿下」
ユーディアは遮った。
リンカートが止まる。
「今は、謝罪の順番ではありません」
「順番?」
「まず、リュシエル様の死について正式に調査し、ファナリア家へ報告すること。次に、学院の封誓室管理と聖水管理の責任を明らかにすること。次に、ノエル様の供述と証拠を照合すること。その後に、私への謝罪と婚約の扱いです」
リンカートは、苦しげに顔を歪めた。
「君は、こんな時まで正しいのだな」
「正しくしなければ、また誰かが便利な結論に閉じ込められます」
ユーディアは静かに言った。
「リュシエル様は、もう自分で順番を取り戻せません」
会場が沈黙した。
その沈黙は、先ほどまでの好奇や嫌悪とは違っていた。
ようやく、死者のための沈黙になった。
リンカートは、何も言えなかった。
ユーディアは彼を見た。
整った顔。
高い身分。
優しい言葉を持つ王太子。
だが、彼は見たいものだけを見た。
聞きたいことだけを聞いた。
リュシエルの甘えを可憐さだと思い、ユーディアの忠告を冷たさだと思い、ノエルの誘導を忠誠だと思った。
そして、密室の中に倒れていた女を見て、必要な確認より先に「やはり」と言った。
ノエルだけが犯人ではない。
だが、ノエルだけが裁かれる。
それが制度の限界であり、同時に制度の役割でもある。
すべての愚かさに刑罰を与えることはできない。
ただ、愚かさが誰かを殺した時、その継ぎ目を見逃してはいけない。
ユーディアは、リンカートに向き直った。
「殿下」
「何だ」
「婚約については、私から返上を願い出ます」
ざわめきが起きた。
リンカートが目を見開く。
「なぜ」
「理由が必要ですか」
「私は、君を疑った。だが、それは」
「それは、証拠より先に結論を信じたからです」
リンカートは黙る。
「殿下が犯人ではないことは分かりました。ですが、私を信じなかったことと、私を裁く準備ができていたことは残ります」
「私は」
「リュシエル様も、私も、殿下の迷いの中で処理されかけました」
ユーディアは、声を荒げなかった。
荒げる必要がない。
静かな事実ほど、逃げ場を塞ぐ。
「私は、王太子妃として殿下を支えるために育てられました。けれど、支えることと、殿下の判断の甘さまで背負うことは違います」
王妃イザベルは何も言わない。
だが、その沈黙は許可だった。
リンカートは、長い時間をかけて頷いた。
「分かった」
声は小さかった。
「婚約の扱いは、王宮で正式に」
「はい」
ユーディアは礼をした。
その時、会場の端で誰かが小さく呟いた。
「悪役令嬢では、なかったのね」
ユーディアは、その声の方を見なかった。
違う。
そうではない。
悪役令嬢ではなかったのではない。
誰かが彼女を悪役にしたのでもない。
もっと単純で、もっと救いがない。
皆が少しずつ、彼女を悪役として扱う方を選んだのだ。
正しい女を、冷たい女に。
順序を守る女を、面倒な女に。
証拠を求める女を、情のない女に。
そう呼んでおけば、自分たちは考えずに済む。
密室は、月鎖の間だけではなかった。
人の中にもある。
一度閉じた結論は、内側からの同意なしには開かない。
だが、その内側にいる本人が意識を失っていたら。
外側から誰かが非常解錠符を使わなければならない。
今回、その役をしたのは自分自身だった。
数日後、王宮で正式な裁定が下された。
ノエル・グランヴィクは、リュシエル・ファナリア殺害、証拠偽造、王家封誓室の不正使用、王太子への虚偽報告により拘禁された。
学院長は管理責任を問われ、辞職。
聖女庁と学院の保管制度は改められ、聖水管理は二重記録から三重記録へ変更された。
月鎖の間は一時封鎖。
小祈祷室の古い通路も正式に記録へ戻された。
リュシエル・ファナリアの葬儀は、王家の費用で行われた。
冬の終わりの空は低く、墓地の石畳にはまだ薄い雪が残っていた。白い花が棺の上に置かれ、聖女庁の歌が風に流されて途切れた。
ユーディアは、葬儀の列から少し離れた場所に立っていた。
リュシエルがどんな少女だったのか、ユーディアは多くを知らない。
距離の近すぎる聖女候補。
王太子の視線を集める少女。
それが、ユーディアの知るリュシエルだった。
だが、それは彼女の全部ではない。
誰かに利用されて死んだ後で、ようやくそう思うのは遅すぎた。
ユーディアは、白い小さな花束を捧げた。
ファナリア家の老いた母親が、泣き疲れた顔で礼を言った。
「娘は、ご迷惑を」
ユーディアは首を横に振った。
「迷惑ではありません」
それ以上の言葉は、どれも薄くなる気がした。
だから彼女は、ただ頭を下げた。
リュシエルを許したわけではない。
憎んでいたわけでもない。
ただ、死者を誰かの筋書きの道具にしたまま終わらせたくなかった。
それだけだった。
婚約は、正式に白紙となった。
王家はオルディス公爵家へ謝罪し、補償を申し出た。
公爵家はそれを受けた。
父は怒っていたが、怒り方を間違えない人だった。
帰邸した夜、父は書斎でユーディアを待っていた。
暖炉の火が赤く揺れている。机の上には王宮からの書状が積まれていた。どれも丁寧な言葉で書かれている。丁寧な言葉ほど、時に責任の所在をぼかす。
「王家を潰すか?」
父がそう聞いた。
ユーディアは少しだけ考えた。
「潰す必要はありません」
「では殿下を潰すか」
「それも不要です」
「甘いな」
「いいえ」
ユーディアは窓の外を見た。
庭の雪は、事件の日より少し溶けていた。枝先から落ちる水滴が、夜の中で細く光っている。
「潰せば終わった気になります。けれど、殿下には終わらずに残っていただいた方がいい」
父は眉を上げた。
「罰としてか」
「責任として」
父はしばらく黙り、それから低く笑った。
「お前は本当に、王太子妃に向いていたな」
「そうでしょうか」
「ああ」
父は、少しだけ寂しそうに言った。
「向いていた。だから、ならなくてよかった」
ユーディアは返事をしなかった。
数日後、バルトラム教授から手紙が届いた。
封筒の中には、月鎖の間の副記録写しと、短い文が入っていた。
『密室は閉じるためではなく、何が閉じ込められているかを見るためにある。君はよく見た』
ユーディアは、その手紙を机の引き出しにしまった。
そして、自分の髪飾りを取り出した。
リボンのない金具。
事件の証拠として一度押収され、返却されたもの。
壊れていない。
ただ、リボンだけがない。
彼女は新しいリボンを結ぶこともできた。
だが、しばらくそのままにしておくことにした。
失われたものがあったことを、形として残すために。
王宮では、リンカート王太子が王妃の監督下で政務補佐からやり直していると聞いた。
ノエルの言葉は、彼の中に深く刺さったらしい。
望まぬものから目を逸らし続けた方が、今さら何を。
ひどい言葉だ。
だが、間違ってはいない。
間違っていない言葉は、時にひどい。
それをユーディアは知っている。
だからこそ、彼女は自分の言葉にも気をつけなければならないと思った。
正しさは刃になる。
けれど、刃を捨てれば、次に誰かが閉じ込められる。
ならば、持ち方を覚えるしかない。
春が近づく頃、ユーディアは王立学院へ戻った。
事件のあった北棟はまだ閉鎖されている。
月鎖の間の扉には、新しい封印布がかかっていた。青い布に王家の印が押され、左右には学院警備の槍が立てかけられている。廊下の窓から差し込む光は弱く、石床の上で細く伸びていた。
学生たちは彼女を見ると少し道を空ける。
以前より、距離がある。
以前より、視線に恐れがある。
悪役令嬢という呼び名は消えた。
代わりに、別の呼び名が生まれた。
鍵の令嬢。
密室を開いた令嬢。
王太子を退けた令嬢。
人は、相手に呼び名をつける。
そうすれば、理解した気になれるからだ。
ユーディアは、北棟の扉の前で立ち止まった。
月鎖の間の中には入れない。
それでいい。
今はまだ。
背後から声がした。
「ユーディア嬢」
振り返ると、バルトラム教授が立っていた。
「教授」
「北棟に用かね」
「通りかかっただけです」
「嘘が下手だな」
「では、確認に来ました」
「何を」
ユーディアは、封印された扉を見た。
「自分が、まだ鍵の内側にいるのかどうかを」
バルトラムは何も言わなかった。
ユーディアは、しばらく扉を見つめた。
事件は終わった。
犯人は捕まった。
婚約は解消された。
彼女は無実になった。
だが、人の中に作られた結論は、そう簡単には開かない。
悪役令嬢だった。
怖い女だった。
正しすぎる女だった。
その残響は、きっとこれからもついて回る。
それでも、扉は一度開いた。
ならば、次も開けられる。
ユーディアは、ゆっくりと息を吐いた。
「教授」
「何かな」
「推理というのは、犯人を当てるためのものだと思っていました」
「違ったかね」
「少し違いました」
彼女は言った。
「閉じ込められていたものを、外へ出すためのものでもあるのですね」
バルトラムは、満足そうに頷いた。
「それに気づいたなら、君はもう十分だ」
「何が十分なのですか」
「悪役令嬢を卒業するには」
ユーディアは少しだけ笑った。
「では、次は何になればよろしいのでしょう」
「それは自分で決めなさい」
教授は、ゆっくりと廊下を歩き出した。
ユーディアもその隣を歩いた。
窓の外では、雪解けの水が細く流れている。
冬の名残が、石畳の隙間を抜けていく。
月鎖の間は、まだ閉ざされている。
だが、それはもう彼女を閉じ込める部屋ではない。
ユーディア・ヴァン・オルディスは、鍵の内側にいた。
死者と、香炉と、偽りの証拠と、誰かの結論に囲まれて。
けれど、鍵の内側にいたからこそ、見えたものがある。
外から見ていた者たちは、密室という言葉に満足した。
中にいた彼女だけが、密室の継ぎ目を見た。
だから彼女は、もう恐れない。
扉が閉じる音を。
鍵がかかる音を。
誰かが、自分の名に別の意味を押しつける声を。
必要なら、また確認すればいい。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
何を見て、何を見なかったのか。
どの証拠が事実で、どの結論が願望なのか。
そして、どの扉が本当に閉じていて、どの扉が閉じていると思い込まされていただけなのか。
ユーディアは廊下の先へ進んだ。
春の光が、窓から差していた。
それはまだ弱く、冷たい光だった。
けれど、閉じた部屋の中には届かなかった光だった。
今回は、悪役令嬢ものを本格ミステリ寄りにしてみました。
断罪夜会という場は、もともと「証拠らしいものを並べて誰かを裁く」形をしています。ならば、その証拠を本当に一つずつ見直したらどうなるのか。そう考えて書いた話です。
密室、毒、リボン、証言、第一発見者の言葉。
それらは一見すると犯人を示しているようで、実際には「そう見えるように置かれたもの」でもありました。
怖いのは密室そのものよりも、先に結論を決めてしまうことかもしれません。
「あの人ならやりそう」
「そういう性格だから」
「前から厳しかったから」
そんな空気が先にできると、証拠は事実ではなく、結論を飾る道具になってしまう。
ユーディアは完璧な善人ではありません。リュシエルのことも、決して好きではなかったと思います。けれど、好きではないことと、殺していいことはまったく別です。
その線引きを見失った時、人は案外簡単に誰かを悪役にしてしまうのだと思います。
悪役令嬢、密室、断罪、推理。
書いていてかなり楽しかったです。
お読みいただき、ありがとうございました。




